1-10 緑の炎
「バシャルさん……」
「やられちまった、のか?」
嘘だろ、と掠れた声が、網の上でひしめき合う。その下では、己の勝利を確信したベルナルデッタが、血塗れの左手を握りしめる。
縦方向に、過剰に膨れ上がった繭玉が倒れるのを、住民達は絶望の面持ちで眺めていた。
「さあ、新たなる罪人、男の姿をしたナムゥよ。その鞭を離し……え?」
ベルナルデッタが見つめる中、繭からパチン! と音がする。何事かと警戒するより早く、白い塊は目に見えて分かる変化を起こし始めた。
もごもごと動く繭から、二つの膨らみ――それもかなり大きなものが、ぐんっと飛び出す。四方八方へ伸び縮みをするそれは、明らかに人の形をしてはいなかった。
――まさか、先程閉じ込めた彼は、悪魔そのものだったとでも言うのか。身構えるベルナルデッタの前で、静かに、繭玉と化した糸が解かれる。その中に居たものは、糸にまみれたバシャルでも、悪魔でもなかった。
「ぶもっ、ふごふごっ」
「……ラク、ダ?」
「ばふぁっ!」
返事をするかのように、勢いよく鼻息を吐き、体をべろべろと舐め回すラクダに怪我は無い。やがてベルナルデッタの視線に気付いたラクダは、舐めきれなかった所々に糸を残しながらも、遥か彼方にいる群れの方へと、国道を走り去っていった。
「あの中にいたのがラクダって事は……バシャルさんは!?」
「このとおり無事だ」
ラクダの進行方向には、余裕綽々といった様子で青年が佇んでいる。未だに取り上げたままの鞭を、親指の腹で擦りながら。ベルナルデッタをせせら笑うバシャルは、徐に彼女からラクダへと、光の弾ける瞳を動かした。
「無理な体勢で押し込んじまったが、まあ無事そうだな……おっ、と」
「何故、何故です。どうやってあそこから……!?」
「おいおい! しっかりしてくれよ。愛育の師ともあろうものが、悪魔の力に興味があるってのか?」
鞭を取り返そうと、飛びかかってきたベルナルデッタをひらりと避けつつ、バシャルは彼女の肩を握りこんだ。
「お前も歳が歳なら、ナムゥになっちまうぞ?」
「はっ……!」
違うと言うよりも早く、ベルナルデッタはバシャルを突き飛ばし、奪い損ねた鞭へと命令を下す。またしても彼を包むように出現した白い糸に、今度こそはとベルナルデッタは意気込む。痛む左手を握りしめ、彼女は繭の出来上がりを脳裏に描いて、にんまりと笑った。
しかし、その達成感はバシャルのため息で、脆くも吹き飛ぶことになる。
「つまんねえな。またそれかよ」
呆れ半分といった様子のバシャルが、鞭に向かって、ふうっとわざとらしく息を吹きかける。形のいい唇から吐き出されたそれには、エメラルドグリーンの火の粉がチリリ……と混じっていた。
それは熱と光を衰えさせることはなく、瞬く流星のように零れ――
ゴォオオオオッ!
糸へと零れた複数の火の粉が、瞬く間にバシャルの手元で豪炎を上げた。
手に持つ鞭は、当然銅製ではない。科学的に考えて、そんな炎色反応など起きるわけも……ましてや、手元でこんな豪炎など起きるはずもない。それだというのに、青緑色の炎は高々と立ち上る。その勢いに、糸は空中を漂う間も無く溶け落ちた。
「所詮は糸。こうもすれば溶けるだろ」
「あ、ああ。そんな、そんな事って!」
吐き出されていた糸どころか、バシャルの放つ火は、鞭のグリップ以外のところを全て燃やしてしまっていた。こうなってしまえば、ベルナルデッタの鞭など、ただ糸を吐く棒でしかない。
「肝心の糸は、この身には全く効きませんでしたとさ。で、他には何かないのか? それとも、もう手詰まりか?」
焦げ臭い棒を己の手に叩き付けながら、バシャルはベルナルデッタに迫る。わざとらしくゆっくりと歩を進め、パシッ、パシッ! と音を立てながら。そんな青年の姿に恐怖したベルナルデッタは、貧血と恐怖で、ただでさえ悪い顔色をすこぶる青くした。
「やめて、来ないで。殺さないで……」
「は。よりによって命乞いか? この身に懇願するより、お前らのだぁい好きな神に祈ればいいだろうに……ざまぁねぇな」
無慈悲にも、パチン、と音を立てて、バシャルが熱を持った指を弾く。その瞬間、ベチャッ! と遠くの地面で、濡れた何かが爆ぜたような音がした。
何か水っぽいものが落ちた、とミシュアルが首を動かすよりも早く、動きを見せたのはベルナルデッタである。彼女は驚愕の面持ちで目を見開き、ローブ越しに胸を掻き毟るような、苦しげな挙動を見せ始めたのだ。
「あが、ごぶっ」
やがて彼女の口からは、鮮やかな赤色の血が、滝のようにこぼれ落ちる。血を吐き出しながら、ベルナルデッタはいよいよその場に倒れ伏し、気力の褪せた瞳でバシャルを見上げた。
「そんな顔するなよ。あと少ししたら、お前の神のもとへ逝かせてやるから。存分に感謝してくれていいぜ」
「ァ……ァ」
白目を剥き、呻くことしか出来なくなったベルナルデッタへと、バシャルは冷たい視線を浴びせる。
これだけ血を流しているならば、あと二十分もしないうちに、彼女は失血死するだろう。彼女の最期が来るよりも早く、バシャルは自らの民族衣装の袖を捲くった。
「さて、やるか」
何をするのやら、と地面へ視線を向けるミシュアルの視界の中で、バシャルはベルナルデッタへと手を伸ばす。なんと彼は、血溜まりの中に顔を浸す彼女の襟を、むんずと掴み上げたのだ。死に行く彼女を仰向けに寝かせたかと思えば、彼女のローブを剥ぎ取って己の背にかけ、装飾品と金品を手早く奪い取る。
さながら手練の追剥のような手つきで、バシャルは衣服と装飾品――トゥラーゾ教に関する品々を、彼女の体から剥ぎ始めた。
(よ、容赦ねえ!)
いよいよ死したベルナルデッタの格好が、ブラウスとワイドパンツ姿の軽装になった頃。装飾品やら何やらを、ローブで包んで一纏めにした後、またもバシャルは指を弾く。すると目の前の包みは消え、彼の足元には小石が複数個現れた。
満足そうに頷いたバシャルが、やっとベルナルデッタに背を向けた……その時である。
轟々と猛り立つ火柱が、ベルナルデッタの死体を包んだ。辺りにとてつもない悪臭が立ちこめる中、ミシュアルはバシャルの動きを見ようと、痛む体を捩る。拘束される住民達の下で、バシャルの声が穏やかに響いた。
「今から糸を解いてやる。足から着地できるように、各々十分に身構えておけ」
またしても彼の手には火が――先程よりも小規模なそれが起こった。地面に近い住民達から順番に、網を焼き切り、解放していく。
そこから先の、住民達の行動は早い。先に地に足をつけた住民達は、高い所から落とされる仲間を受け止める。そうしてものの数分で、全員が網から逃れた。
「ありがとうございます、助かりました!」
「礼なら後にしろ。それより、怪我人はいるか?」
「いえ、あたし達は全員無事です。ただミシュアルくんが……」
「ああ、そいつの手当なら向こうでする。とっととついて来い、お前らで最後なんだからな」
バシャルを先頭に、一行はジグリスの聳え立つ壁へと向かい始める。
――ベルナルデッタだった炭の塊と、潰れた心臓を、砂海の中に残して。




