【挿話】 泡沫夢幻
時間軸としては本編2章―8と9の間です。
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「――――はははっ! リューのお人好しは治らないな! ほら、走れ! 乗船に遅れるのはマズイ」
私たちの旅の途中。
とある国のとある港町、貨物車も人もたくさん往来する砂色の石畳を、手を引かれながら走る。
剣を握る手を持つ彼には、お人好し、なんて呼ばれるが、目の前で怪我をした少女がいれば助けるだろう?
そのせいで無償の治癒師と思われ、時間を拘束され、月に一度の出航を逃せば笑い事ではないが。
漆黒の短髪を潮風に靡かせる彼と走る。
出航時間ギリギリに着いた私たちは、旅の同行者に叱られ、無事次の大陸を目指したのだった。
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「――――ミリュエシア、貴女を愛しております。俺と結婚し、家庭を一緒に守ってくれませんか?」
旅をしていた頃より伸びた黒髪、熱を帯びた翡翠の眼差し、新品の軍服を着こなした彼がそこにいる。
その手には私の瞳と同じ色の花束が――。
「はい、私も貴方をお慕いしております。不束者ですが、これからもよろしくお願いいたします、カルア様」
「こちらこそ、末長くよろしくお願いいたします。――っぷは! やっぱり、柄じゃないな。リュー、愛してる。でも様は小っ恥ずかしいから、さん付けに戻してくれねえか?」
「これは譲りませんわ、カルア様。私の憧れで、夢ですから」
「ははっ! そんな膨れっ面するな。分かったよ、頑固者、俺の愛しいひと――」
私の愛しいひと――。
分かっている。
これは、泡沫の夢なのだ――。
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「――――ミリュエシア! 昼、まだだろ?」
とある日の王国軍の訓練場にて、私は夫に昼食に誘われた。彼の手にはもう、2人分のランチボックスが用意されている。
当時の私は、訓練監察官の特別顧問という肩書きを持っていた。正規の隊員から訓練生まで、魔法の指導をする役だ。
対する夫は、国外を飛び回る派遣部隊に所属し部下もいる。今日は珍しく王都にいたようだ。
天気もいいので、訓練場から離れたベンチに一緒に座る。
人通りの少ない木陰かと思いきや、周囲には複数の気配がある。既婚者であっても大層おモテになる夫を、観察する人たちだ。
野外なので人の目があるのは仕方ないが、人の夫に対して不躾ではないか? ほとほと迷惑している。
「今日も熱心な方が大勢いますわね」
「……既婚者だって言ってるんだけどな。美人のお前を見に来た野郎もいるかもよ」
「顔の認識をあやふやにする魔法を使っているから、貴方目当てだけよ。それとも口説かれる私を見たかったかしら?」
「んなわけ。……俺にはお前しかいないのに。どっか行かれちゃ、国に災禍を振り撒く妖魔にでもなっちまうよ」
一騎当千なんて、彼の実力じゃ軽く凌駕できるのだから、冗談には聞こえない。
結局、国に災禍を振り撒くどころか、たくさんの領地を救ったから良かったものだ。
夫は私たちの子が産まれてもモテた。その頃には“黒の軍神”なんて呼ばれていたから、ただの羨望だと思うことにした。
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「――――1年、は離れすぎたか……? 父さんの顔、忘れちまったか?」
戦場から帰ってきた夫――私の両脇にいる双子の父親は、情けない顔をしている。
幼児にとって1年は長いものだが、今子どもたちが驚いているのは父親の登場じゃない。その格好のせいだ。
「……貴方、まっすぐ帰ってきたの?」
「そうだよ。早く会いたかったから」
「エリーとシューが驚いているのは、貴方の野戦服よ。血塗れで夜道を歩いて、よく捕まらなかったわね」
「やっと転移の魔法が使えるようになってさ、試してみたんだよ。エリー、シュー、驚かしてごめんな」
「とうさま、レディーの前にでるときは、きれいにしなくちゃ。かあさまが呆れてるわ」
「とうさま、俺はとうさまの顔をわすれてないよ。きおくりょくには、自信があるから」
「……そ、そうか」
子どもの言葉は時に辛辣だ。また情けない顔を取り戻した夫を、可愛いと思った。
その後、幾許かもしない内に夫は軍の本部に戻った。今度は書類との戦いだ。
その5日後、3週間の休暇をもぎ取った夫は、私たち家族を惜しみなく愛した。
子どもを親友に預けて、夫婦2人だけの旅行も久しぶりだった。
こんなに甘やかすとは思わなかったが。
いや、これは、彼が甘えているのか?
「――リュー、あーん」
「ふふ、はい。……、……こっちも美味しいですね」
「ここは絶対連れてくるって決めてたんだ。お気に召しましたか、お姫様?」
「カルア様ってそんなキャラでしたか? はい、あーん」
「ん……、……お前の前だと、カッコつかないな。でもこのケーキはうまいだろ?」
「そうね、持ち帰れないのが残念なくらい。この後の予定は、騎士様?」
「王都で期間限定公開してる植物園に行って、ディナーの後に観劇。で、明日は一日書籍店巡り」
「私の行きたい所ばかりじゃない。貴方はどこかないの?」
「俺はお前の隣、っていう贅沢な場所があるから問題ない。エスコートさせていただけますか? “俺の可愛いひと”」
――また白い泡沫が現れる。
次の幸せな夢に飛ぶのだろう。
もう少し、もう少しだけ、夢に溺れさせて――。
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「――――なあ、リュー。機嫌直してくれ、俺が悪かった。なんでもするから……」
「じゃあ、2人っきりの決闘をしましょう」
「結果は分かりきっているが……。カルア・モイゼルフ、受けて立とう」
「“黒の軍神”様は、いつも勝つ戦いしかないから、たまに負けるのも一興でしょう?」
彼は私には勝てない。
これは惚れた弱みとか関係なく、私の魔力や加護が封じられない限り、私はこの国で一番強い。体術だけの勝負なら、彼に勝ち目はあるが。
私のその強さを、私が一番必要とされるだろう戦場では発揮されない。
彼が許さなかった。国相手に譲らなかったのだ――。
この夫婦喧嘩の末の決闘は、3日3晩続いた。
彼は勝てない相手に目を爛々とさせていた。私も久しく大規模な魔法を使っていなかったから、ハイテンションになっていた。
私が作った厳重な結界の中でのバトルだったので、周囲に被害はなかった。しかし夫は休暇の日程を過ぎても私と居たため、無断欠勤扱いになりお咎めを喰らった。
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「――――そろそろ、止まっちゃったか?」
「……そう見える?」
「お前、美人だし肌綺麗だから分かりづれえけど、同年代より若く見えるよ。魔力も増えなくなってるだろ?」
「……貴方は、さらっとそういうことを。でも魔力は、去年、くらいから変化は小さくなっているわ」
「お前と一緒に歳取りたかったけど、ここまでかー。そのうち孫とお爺ちゃんですか、とか言われるんだろうな」
「……愛しているわ」
「俺もだよ、リュー。……そんな不安そうな顔すんなって、愛してる――」
自宅の現在より広い庭の奥――東屋でのひととき。
後ろの一房だけ伸ばした黒髪を、白銀と黄金の組紐で結わえた夫は、変わらぬ翡翠の眼差しをくれる。
私は自分自身の発言をすっかり忘れていたが、観劇の終わりにその髪型の役者を褒めていたらしい。髪を伸ばし始めた夫に願掛けか、と訊いたら見事に拗ねられた。
その役者は誰だったか、しかし夫のほうが格好いいのでそう素直に伝えれば、苦笑された。
――泡沫に呼ばれ、また夢に浸る。
次は、どんな思い出だろうか――。
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「――――俺、前線引退するわ」
「……いつ?」
「上と話し合って先週のが最後。最近、傷が増えてきてさ。殉職するより指南役のほうがいいだろう?」
「……貴方がそう決めたなら、何も言わないけど。私に相談もなかったから驚いたわ」
「思い立ったのが半年前の戦線だからな。この休暇が明けたら引き継ぎして、お前と同じ訓練監察官になる」
「……そう」
「……それより! シューが俺と同じ部隊に配属されるって聞いてさ。全く、物好きな息子だよ」
「……憧れの、格好いい父親と同じ道を追いかけちゃ、ダメかしら?」
「大学院に行ったから学者になると思ってた息子を、入団式で見つけた時の衝撃! 制服と場所間違えてないかって何回も訊いた俺を、部下が慰めんの。……リュー、俺、……カッコ悪いか?」
「いいえ、貴方はいつでも素敵な方よ。ごめんなさい、貴方も老いるのよね。すっかり忘れていたわ」
「――っぷ、はははっ! シワも出てきて、渋い顔になったと思ってたのは、俺だけか?」
「っ! そんなに近づかなくても、見えるわよ! ちょっ――」
「――ん。……愛してるよ、ミリュエシア」
「……私も、愛しているわ、カルア様」
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「――――なあ、リュー。この前まで、孫が前掛け付けてたのに、もう曽孫ができるかもって、時間の流れ可笑しくないか?」
「貴方はシワが増えても、白髪が目立ってきても、毎日剣を振り回して元気ね」
「お前は変わらず綺麗だよなー。……なんで睨むんだよ」
「私、貴方と逆の立場だったら、そんなふうに褒められないわ。絶対、僻んで嫉妬して八つ当たりして、……なんで笑うの」
「いや、俺は想われてるなー、って。……言ったろ? 俺にはお前しかいないって、必死に口説いてるの。――なあ、愛してるよ、“俺の可愛いひと”」
「〜〜! ……んもうっ! 目移りする暇もないわよ! “私の憧れのひと”」
恥ずかしくて、温かい、愛しいひととの大事な過去。
次で最後かしら――。
夢幻の泡沫よ、私を連れていって――。
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「――――はあ、ただの風邪で、情けないな」
「ちゃんとベッドで寝ててくださいね。体を動かしたくても、剣は握らないでください」
「……午後、時間はあるか?」
「今日は天気もいいですし、お散歩でもしましょうか」
「悪いな。準備に、忙しいのに」
「夫婦なんですから、遠慮なさらないで。それに、私は庭の手入れしかやっていないわ」
その日の午後、少し痩せたが未だ真っ直ぐ伸びた背、私とお揃いの白銀の髪を夏風に靡かせる夫と庭を散歩する。今日は症状が落ち着いており、しっかりとした足取りだ。
長年の習慣から足を運んだ東屋で、お茶を淹れ一息つく。
「マリアも、もう10歳か。パーティーは、ひと月後だったか?」
「ええ。その日は騒がしくなるけど、釣られて飛び出さないでくださいね」
「ははっ、子ども扱いか。残念だが、室内から見ているとしよう」
「……ごめんなさい、こんな風邪も治せないなんて。大魔導師なんて、無意味な称号だわ」
「リュー、お前は、すごい魔法使いだよ。俺の風邪が治らないのは、歳だって、分かってるだろ?」
「……ごめんなさい。でも、……どうしても、受け入れ、られなくて」
「……お前に泣かれると、本当に参る。……ほら、俺の胸を使えって。――愛してるよ、“俺の可愛いひと”」
――ああ、幸せの泡沫が弾けていく。
真白のシーツは、私のトラウマになった――。
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「――――ミリュエシア、傲慢な願い事を、していいか?」
「なあに?」
「これからの、お前が生きる意味、糧に、俺を加えてほしい。――待っていてくれ。魂の浄化が終わったら、必ず、お前に逢いに行くから」
「……貴方くらいだと、千年もあとに転生しそうね」
「だからこそ、だ。千年後の再会を、待ちながら、お前は戦い、挑み、続けろ」
「貴方は私に期待させるのが上手なのね。記憶が消されるのに、どうやって逢瀬が成功するの?」
「記憶は消えても、思い出は無くならない。必ず、逢いに行く。これは、お前の希望や失望じゃない、俺の確定事項だ」
「……待つ側は、寂しいの、虚しいの、不安なの、挫けそうなの、……苦しいの。27年、戦場からの帰りを待つのと、千年は違うのよ」
「じゃあ、待っては、くれないのか?」
「聞き方が、狡いわよ……」
「愛している。ミリュエシア、これからも、君だけを想う」
「ええ、私も愛しているわ。大好きよ、カルア様――」
――現実に、醒めろと云うのね。
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重く、意識が浮上する。
瞼を開けようとするが、眩しい日差しから暗闇に逆戻りする。
「――お目覚めでしょうか?」
聞き馴染んだ声に、今度こそ目を開ける。
眼前には見慣れた東屋のテーブル。そして、その向こうには執事服を着た男。
「貴方の接近で起きないなんて、私も気が緩んだようね。約束は今日だったかしら」
「夢をご覧になっている貴方に配慮をいたしましたが、予定時刻より早く訪ねた私に非礼がございます」
男は、そう恭しくお辞儀をする。
「そう。貴方も仕事熱心ね、レヴィアタン」
「いえ、それほどでも。……先日の伝言、承りました」
「それは真に受けないでちょうだい。ただ年上の相談者がいなくなるだけよ」
先日の伝言――見損なった、もっとしぶとく足掻くと思っていた――は、親友の息子ダニエルに託したものだ。
平静を装ったが、夢から目覚めて間もないせいか、返答に感情が込もってしまった。
それを、200ほど年上の男は、聞き逃さなかった。
「寿命の違いというものは、お辛いことです。ご学遊と称して、魔族の世界に一時滞在するのはいかがでしょうか?」
「……貴方が《地下魔界》を勧めるとは思わなかったわ。そんなに良いところかしら?」
「伯爵家以上の庇護を受ければ、快適に過ごせると思いますよ。貴方には、それを実現してくださるご友人もいらっしゃいますし」
ここ《地上世界》とは異なる、魔王と神聖な双月と夜闇に支配された《地下魔界》は、魔族のための世界だ。
魔族の寿命は300から1500までとバラバラで、中には創世の頃より生きる者もいる。
《地上世界》と《地下魔界》、小さい交流はあり、私にも気高き悪魔族の友人たちがいる。
少しでも一考の余地あり、と思った私はこの男に負けているだろう。
「ふふ、これが悪魔の誘い、というものかしら。……今日はお墓参りに付き合ってくれる?」
「承知いたしました。献花はいかがしましょうか?」
「庭のものを持っていくわ。手伝ってちょうだい」
レヴィアタン――親友の息子の恋人、というツッコミどころ満載な関係の男と、何百年も手入れしている庭を歩く。
彼には庭で摘んだ花を入れるためのバケツを持たせる。私は園芸鋏で、満開に咲いた茎だけを選ぶ。
花を持って、屋敷や庭を離れ、林を通って個人的な墓地に辿り着く。
この墓地も私が所有する土地の一部だ。この周辺一帯の丘と林は、どこの領地にも属していない――つまり王族直轄地だ。
家族と過ごすための邸宅、弟子たちの共用住宅、実験や研究のための施設、客人を迎える見栄えのいい建物、図書館、などなど。これでも林を切り拓いて建物を増やしたほうなのだ。
墓地は私有地の中の小高い丘に広がっている。白灰色の墓碑はまばらに並び、統一感はなさそうに見える。しかし、その数は少ない。
夏の青々とした葉が風に流れる様を、ただただ時間を忘れて眺める。
「……どちらから回りましょうか?」
「――息子、からにしましょう」
さらさらと足に触れる青草を感じながら、歩を進める。
立ち止まったそこには、同じ形の墓石が2つ寄り添っている。腰の高さほどのそれに彫ってあるのは、名前と生年月日、没年月日、教典の詩の一文。
――シューレンヴァリウス・モイゼルフ
――ノーゼ=ルテリア・モイゼルフ
その前に膝をつき、死者を悼む詩と花束を贈る。
「……シュー様とルテリア様は、その白百合がお好きでしたね」
「ええ、2人のために、年中咲くように改良したら、泣いて喜んでいたわ」
「こちらの庭でしか咲かないので、幻の星百合、と市井や貴族の間で噂されています」
「売るつもりはないし、ここ以外で咲かせられないから、幻であることに間違いはないわね」
立ち上がり、右手側に進む。
左隣の墓石よりやや丸みを帯びたものが2つ。
そこには、先程の息子夫婦の孫娘――私にとっては曽孫――とその夫の名が刻まれている。
――エリクヨルガ・モイゼルフ
――ノーゼ=マリア・モイゼルフ
その前に膝をつき、死者を悼む詩と花束を贈る。
「……マリア様は、晩年まで騎士に憧れていましたね」
「なのに結婚したのは、ひょろひょろで研究馬鹿な私の弟子。書類にサインするまで、冗談かと思っていたわ」
「エリクヨルガ様は、確か黒妖精でいらしゃいましたか?」
「正確には、人間との半々妖よ。無口で、一番長い台詞は結婚式の誓いの言葉じゃなく、魔術の詠唱だったわ」
今度は右斜め前に移動する。
その墓石には異なる年月日が3つと、短い人生を全うしたマリアたちの息子の名前がある。
――カリス・ゼノウス・モイゼルフ
その前に膝をつき、死者を悼む詩と花束を贈る。
「……カリス様とお会いしたのは数回だけでしたが、いつも目を輝かせていたのを覚えております」
「ええ、宝石のようだった。マリアは7年も生きてくれて嬉しかったと言っていたけど、何度考えても私は悔しいと思うの」
「……魔法や精霊術で救えぬ生命は、幾万とございます。貴方は、自分の命を差し出してまでも、神に、カリス様の延命を乞うたでしょうか」
「――私は、薄情なバケモノね。そんな希望には縋らないわ」
後ろめたく少し早足で、左手に見える2つの墓碑を目指す。
他のものより黒みがかった石で作られたそれらは、片方だけ様子が違った。表面には名前と生年月日だけ刻まれている――まだ墓の主は生きていると示す。
――オーフェン=エンツォ・モイゼルフ
――リリアナ・モイゼルフ
その前に膝をつき、死者を悼む詩と花束を贈る。――もちろん、片方だけ。
「……お二人は、本当に仲がよろしかったですね」
「従兄妹としての仲の良さだと思っていたら、出来ちゃった婚よ。当時、いろんなところで謝ったわ」
「オーフェン様は当時公爵家の次男でしたから、娘婿にと望んでいた貴族たちの怒りは凄まじかったと」
「しかも14歳と16歳、学生の身分。2人とも人嫌いで、中退でもいいって言った時は流石に怒ったわ。ちゃんと卒業して、子どもが大きくなったら今度はリリアナが騎士になって。……全く、人騒がせな孫たち」
「“黒の軍神”、その息子が“銀炎の騎士”、その娘が“戦場の死神”。リリアナ様だけ物騒な二つ名で呼ばれていましたね。まあ、お力を知れば納得しましたが」
苦笑を浮かべるレヴィアタンに、私は誰に似たんだかと思いながら首肯する。
私の夫――“黒の軍神”と、その背を追いかけた息子――“銀炎の騎士”は戦い方は同じで、剣術や魔法の技量も互角だった。
しかしリリアナは違う。あの子が呼ばれる戦場で、“戦場の死神”は血で汚れたことも、膝をついたこともない。
訓練以外で人と戦わないリリアナは、対人戦である武闘大会の成績は芳しくなかった。本人は義務感からの参加だったから、これっぽっちも気にしていなかったけど。
リリアナの墓を回り込み5歩ほど正面に進んだ先、そこに立てられた胸の高さほどの石碑を見る。
今までよりも細かい字で、同じように名前と年月日が続いている。裏表、上から下までびっしり埋められた石碑は4つに及ぶ。
その前――中央に膝をつき、死者を悼む詩と花束を贈る。
「……これ以上追うのは、大変ではありませんか?」
「本当に大変よ、気が遠くなるわ。どうして始めてしまったのでしょうね」
「世代を重ねるごとに、あの方の子孫も途方もなく増えていきます。それに、転生先が子孫とは限りませんよ」
「……こうでもしないと、気が紛れないのよ」
石碑を回り込み数歩進めると、青灰色の同じものが1つ現れる。
そこには、この丘に埋葬できなかった娘夫婦とその子ども4人の名前が連なっている。
――エルレディオン・ラ=サリファイン
――ジールバウンズ・ラ=サリファイン
――ルーズフィオット=エンツォ・ラ=サリファイン
――フリストファー=エンツォ・フィザナート=ラ=ユリーナ
――ユリア=イェレナ・ラ=サリファイン
――エンシオフォル=イェレナ・ラ=ボッドリンクス
その前に膝をつき、死者を悼む詩と花束を贈る。
「……エリー様のご家族は、公爵家としてはご兄妹がたくさんいらっしゃって、大変賑やかでしたね」
「長男のフィオは公爵家を継いで、三男のフリスは王家に、次女のエンシーは社交界を引っ掻き回した挙句、初恋相手の侯爵にプロポーズ。ユリアだけ、独身を謳歌したわ」
「次男のオーフェン様も含め、皆様大変優秀で数々の功績も残っております。ご自慢のお孫様ではございませんか」
「フィオとフリスは王国の発展に、オーフェンは魔法研究、エンシーは社交界の華。ユリアは外交官と言ったけど、世界を旅行しているだけだったわ。可愛い孫たちよ」
そう――可愛い子供たち、可愛い孫たち。
いつから、あの人の面影が消えていったのか――。
もう、分からない。
丘の終わり――崖の始まりを目指す。
佇む2つの墓碑には、それまでにはなかった装飾の彫刻が縁を飾っている。どちらも自国で親しまれている美しい花だ。
左側には青白い優美な大輪を咲かせる水草――レンボリーが、右側の墓碑には黄橙色の小ぶりで八重咲きの花を披露する国樹――サーリファが、永遠に花開いている。
レンボリーは親友夫婦が愛した花、サーリファは夫が好んで私に贈った花である。
――レイギルム・エウタッカー
――アンネリーゼ・エウタッカー
――カルア・モイゼルフ
まずは親友の前に膝をつき、死者を悼む詩と花束を贈る。
レンボリーがちょうど時期だったので、それを供える。
「……大旦那様と大奥様は、本当に、無念でございました」
「……事故、それも飛行船の。……国際問題にまでなったけど、真相を知ったら吐き気がしたわ。私は、まだ足りない、と思っているのよ」
「あまり私怨を振り撒くのは、よろしくありませんよ。貴方も、この王国も、イメージが悪くなります。なまじ周辺国より力を持っているだけに」
「分かっているわ。貴方も、あの時期は大変だったでしょう? ダニエルが抜け殻のようになって、一時期、私のことも恨んでいた」
「その節は大変ご迷惑をおかけしました」
「いいのよ。……アンネ、レイさん、墓前でする話ではなかったわね。どうか安らかに……」
もう一度、手を組み、祈る。
少し右にずれ夫の前に膝をついて、名前をなぞる。
秋に咲くサーリファは枝葉だけで、梔子の花も供える。
手を組み、死者を悼む詩を殊更丁寧に紡ぐ。
隣の男は口を開かず、風の音だけが耳を掠める。
「……ようやく、三分の一」
「……魔族でも千年の寿命を持つのは、高位の方くらいです。長命の竜種は、数十年単位でお眠りになりますし。妖精族もだんだん短命になっています。悠久の刻を生きることに、私は憧憬と畏怖の念を抱きますが、ご本人はどう思っておいででしょう?」
「まだ貴方のほうが長く生きているじゃない」
「これは失敬」
「……――カルア様、また来ます」
そろそろ夕焼けに塗られるであろう丘を一瞥し、私たちは帰路についた。
自宅に戻るその道中、親友の息子の様子を聞きながら話を続ける。
「……もう少し、ダニエルと貴方がいる時間の中で安心したかったわ。オーフェンも、先にいってしまうし」
「……相談相手になるか分かりかねますが、友人を1人ご紹介しましょうか?」
「あら、まだ隠していた方がいらっしゃったのね」
「話題には挙げておりましたが、……なにぶん自宅から一歩も出たことがない方で、少々会いにくい場所でもありますし。……“怠惰の大罪人”、ベルフェゴール様です」
「……確かに、世間体を考えるなら、私は彼女がいる場所へ大々的に訪問できないわ。彼女がこちらに来ていただけるなら、お会いできるのに」
「彼女も一度は会ってみたいとおっしゃっていたので、気分が乗れば……。希望的観測ですが」
「怠惰の名前は伊達ではないようね。会えたら幸運、くらいに思っておくわ」
そうこうしているうちに、夕陽に照らされた屋敷に到着する。
「……ここでいいわ。ダニエルによろしく伝えて」
「畏まりました。御前失礼いたします、“神の愛し仔”殿」
「……本当に、律儀な悪魔」
私のその呟きは、一瞬で姿を消した黒髪の男には届かなかった。
――千年後の再会を、待ちながら、お前は戦い、挑み、続けろ――
ええ、貴方との約束は忘れないわ。
平和のぬるま湯に浸かっていても、私は戦の準備をしていることを――――。
【挿話】いかがだったでしょうか?
前半の過去回想は糖度高め(当社比)ですが、後半は暗くになってしまいました。
“怠惰の大罪人”ベルフェゴールは、吸血鬼三強の1人です。いろいろ規格外で、同じ三強のレヴィアタン(本編ではレイス)より圧倒的に強いです。おそらく今後、本編には登場しないと思います。
【挿話】と【閑話】は不穏なので、本編はなるべく明るく書けるように励みます。