1章―1
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求人募集
住み込みで働いてくれる奉公人を募集
業務内容は屋敷内の清掃、客人応対、家人の補佐、等々。勤務日数は要相談。
依頼元:エリウス男爵家当主
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簡素な宣伝文句。本当に人を募集しているのか疑いたくもなる。
隣の奉公人募集を見れば、『長期休暇取得可能!』や『昇進すれば給金増!!!』などと謳っている。普通ならばこちらの仕事に惹かれるが、同業仲間から聞くに、この家の侍女長が厳しいらしく給金アップする前に辞めるメイドが多いんだとか。
読んでいた求人募集の冊子を持ち受付窓口に向かう。そして同僚だった者たちが興味を引かなそうな奉公先を希望する。そこからとんとん拍子で面接、採用、引っ越しとなり、私はめでたく再就職を果たしたのだった。
使用人の朝は早い。それはどの職場でも同じだ。私も例に漏れず、日の出とともに自然に目を覚まし身支度を整える。母親譲りの淡い栗色の髪を、邪魔にならないように一つに結わえる。実家の男爵家は貧乏だったが、売らずに済んだ髪は私の数少ない自慢で、毎日の手入れを欠かさずに行っている。
さて、今日も仕事が始まる。この屋敷は侯爵家の別荘だったこともあり、それなりの規模だ。しかし、使用人が少ないので掃除が大変である。再就職して、最初の買い物が筋肉痛に効く薬だったのは、将来の笑い話になるだろう。
「アンジェリーナさん、申し訳ありませんが旦那様を起こすのをお願いできますか。書類整理から手が離せないもので」
「畏まりました」
「旦那様は寝起きが悪いので、ちゃんとベッドから下りるまで確認してください。しかも本日は登城しなければなりませんので、二度寝はさせないように」
「分かりました。必ず起こします」
新たに就職して1週間の私に、廊下で指示を飛ばしたのはこの屋敷の数少ない使用人の1人、執事のレイスさんだ。私はその指示を遂行するために、この屋敷の主人の寝室に向かう。
扉をノックするが予想通り反応がないので、断りを入れて入室する。カーテンが締め切られている室内は、ナイトテーブル上の頼りない灯りだけで、春の朝なのに薄暗い。私は全てのカーテンを開け放った後、ベッドの中にいるであろう主人に声をかけ続ける。肩でも叩くべきか、と思案した頃に布団の塊がもぞもぞと動く。
「……ノア……まだ、ねむい、から……も、ちょっと、、、」
起きたかと思えば、抗議の声がする。しかし何がなんでも起こさなければならない。あの執事は常に笑顔を張り付けているが、怒らせたらきっと怖い人だと私の勘が告げている。
「起きてください、旦那様。本日は大事な予定がありますので、早めに起きて準備をしていただきたいのです」
「やっ、……も、ちょっと」
そこから、また何回か声をかけ、そのたびに舌足らずに睡眠時間の猶予を強請られる。少し、どころかあまりの可愛さに――成人男性に対して失礼な表現だと分かっている――寝かせてあげたいと思ってしまい、心折れかけている私だったが、声を大きくしながら起こそうと努力する。
「……ノア……あと、10分、だけ……」
「いいえ、レイスさんに二度寝もさせないように言いつけられているので、起きていただきます」
「……レイス……レイス?、、、君は?」
「メイドのアンジェリーナです。旦那様、布団を取っても構いませんか?」
「……メイド。……、……待って、おきるから」
その言葉を信じて待っていると、掛け布団に隠れていた顔が現れ、まだ眠そうな瞳が何かを探すように揺れ動く。菫色の瞳と青みがかった白髪に美しい御尊顔は、寝起きということもあり色気に溢れている。惚けてる暇はなく、目があったことを確認してから声をかける。
「おはようございます、旦那様」
「……う、ん。おは、よう……」
ダメだ、目が閉じそう。少しだけ顔を近づけ、大きく、はっきりと発声する。
「おはようございます、旦那様。本日のご予定は、覚えておいでですか」
「……あぁ。……城に呼ばれていたな。分かったよ、起きるよ」
ようやく覚醒したらしく、気怠そうにベッドから下りる。準備していた室内用の上着を旦那様の肩にかける。
「朝食をお召し上がりになった後、レイスさんが御支度のお手伝いをされるようです。昼餐を城でお取りになりますので、御出発は準備が整い次第すぐにとのことです」
「……分かった。起こしてくれてありがとう。変な寝言とか言ってなかった?」
「お気遣いなく。変な寝言はおっしゃっておりません」
「はは、後は付き添わなかくていいから、君の業務に戻りなさい」
「畏まりました」
確かに変な寝言は言っていない。しかし、たびたび呼んでいた“ノア”とはどちら様だろう。使用人やご家族にもそのような名前の方はいない。それにしても、今までにない疲労感がどっと押し寄せた。
その後、旦那様とレイスさんは登城し、夕方頃に屋敷に帰って来た。昼餐だけにしては遅い帰宅だったが、朝にはなかった荷物を見て買い物をして来たんだと察した。
「運ぶのをお手伝いしましょうか」
「では、こちらにまとめた本を包装していただけますか。後日、とある方にお渡しいたしますので」
まるで首都に行ったのはこれの為というように、美しい装丁の本たちが整列している。しかし数が多すぎるのではないか?馬車の荷台に入るかも怪しいが、転送魔法を使えば運べるのか?
「どなた様にお送りするのですか?」
「おば様、と言っても分からないか。魔導師のミリュエシア様だ。幼い頃から世話になっていて、もう1人の母のようだな。何故か本は自分で選ばない主義らしく、時々贈らせてもらっている」
旦那様はなんてことのないように答えたが、大物の名前に私は内心驚いた。ただの魔導師ではない。七つの試練を突破した“神の愛し仔”であり、現在は軍の魔法指導や魔法研究も行なっている、女王が信頼する者の1人だ。もしかしなくても気軽に就職すべき家ではなかったのでは。
「出不精のおば様が、珍しくこの屋敷に出向いてくれることになって、その時にお渡ししようと思ってる」
「……3日後の来客と茶会のご予定は、大魔導師様だったのですね。今から準備は間に合うでしょうか」
メイドとしてお客様の情報を把握していなかったのはまずい。最低限の時間で最高の準備をしなくてはと思う私の心配に、レイスさんは苦笑気味に言う。
「数週間も準備のかかる王宮主催の茶会と違って、家族ぐるみの茶会ですから気負わなくて結構ですよ。普段より掃除を念入りにしていただく程度で」
「……分かりました。精一杯努めさせて頂きます」
そして約束の茶会の日。来客があるのは昼過ぎだが、私は朝から落ち着きがなかった。王宮に公爵家を招いた茶会の準備をした時も、緊張せずに給仕できたことを先輩に褒められたのに。その時以上に興奮しているのかもしれない。
この屋敷で育ったというメイドのリリさんは、老齢ながらもキビキビと動き回り、私と一緒に客室で茶会の最終セッティングをしている。私の緊張を察してか、いつもより話を振ってくれて、いくらか気が楽になった。
天頂にあった太陽が傾く頃、屋敷周辺の結界の僅かな揺らぎに気づいた後、正面玄関の呼び鈴が鳴り響く。キッチンでその音を聞いた私は、今日のためにリリさんが焼いたシフォンケーキを切り分け、甘さ控えめのクリームを添える。そしてブレンドティーも用意する。ワゴンに全て乗せて、客室に運び込む。
客室には、屋敷内の全ての人が集まっていた。メイドのリリさんとその孫娘のマーニャさん、料理長のゲイルさん、執事のレイスさん、旦那様、そして本日のお客様である大魔導師様。皆、座ることも忘れ語らう姿は、長年の友人、いや、家族の団欒のようだった。
無言で立ち尽くす私に声をかけたのは、意外な方だった。
「おや、行儀の悪いことをしてしまったね。そこの可愛いメイドさん、お茶を下さる?」
「……っ、はいっ、ただいま」
弾んだ声で私を呼んだのは、大魔導師様。その美しい白銀の髪に目が行きがちだが、深い光を湛えた夕陽色の瞳に見つめられると、同性であっても頬を染めてしまう。でも見惚れてる場合ではない。給仕に徹しなければならない。
そこにレイスさんの声がゆっくり響く。
「では、私たちは仕事に戻ります。ミリュエシア様、ごゆっくりお過ごし下さい」
「えぇ、久しぶりにお喋りできて嬉しかったわ。ありがとう」
そうして、レイスさん、リリさん、マーニャさん、ゲイルさんは退室した。
部屋に残ったのは2人と、部屋の壁になる予定の私。使用人は空気と同じなのだ。しかし、それを破ったのは美しい大魔導師様。
「変わらぬ美味しさでホッとするわ。このケーキも、ブレンドティーも。改めて、私はミリュエシア・モイゼルフ。魔導師を名乗っているわ。お茶を淹れて下さった方、お名前を伺っても?」
「……アンジェリーナ・フィントと申します。今月からこのお屋敷に勤めております」
「では、アンジェリーナさん。客人の我儘として、私たちのお喋りに付き合ってくれないかしら。この屋敷のみんなと仲良くなりたいの」
「僕は構わないよ。おば様と顔を合わせるのは1年振りだけど、話すネタは尽きて世間話しかできないし」
「では、不肖ながらお相手を努めさせていただきます」
会話は盛り上がったと思う。ほぼ私への質問攻めになっていたが、大魔導師様と対等な会話ができただけでも一生の自慢話だ。ちなみに今、お2人は3日前に旦那様が登城した件について話しているのだが。
「あら、アリア様の御令孫の“名付け”に行ったのね。良い星は見られたかしら」
「王室待望のお子ですから星々も喜んでおいででした。これ程まで名を告げるのに緊張したことはありませんよ。それに、あの子達も誰かにとっての親になるなんて、感慨深いな」
「ふふ、そう、良かったわね。本当に。近頃は時の流れを感じやすくなってしまったわ」
30代前半、いや20代にも見える美しいこのお2人が、長い年月を生きたかのように話すのはなんともチグハグで、長命の妖精族を見ているような気分だ。伝え聞いたことだが現女王――話に出たアリア様とはその現女王の愛称だ――と古い知り合いとのことなので、強ちお2人の感じ方はこの会話の通りかもしれない。
「ところで、おば様。本を何冊かお贈りしたいのですが、いつものように書庫で大丈夫ですか?」
「まあ、ありがとう。ええ、今日か明日にでも、送ってくださいな。楽しみにしています」
「久しぶりに選んだので、あれもこれもと何十冊にもなってしまって。そちらの書庫に入るか心配です」
「一応、5万冊は入るはずだから300年は大丈夫……あら、全然足りないわね」
「あの丘が図書館になるのも、時間の問題ですね。それとも異次元に本を収納しますか」
「異次元は、本棚もなくて本を探すのも、繋げるのも大変じゃない。増築の一択ね」
「屋敷に伺う際は、本邸と書庫を間違えないように気を付けないと」
「ふふ。たまには貴方も私の屋敷に来て、妹や姪に顔を見せたら?忙しいのは分かるけど、唯一の家族じゃない」
「……と言いましても、この見た目で驚かせてしまいますし」
「私を毎日見てるのに、今更よ。それに、仕事以外で屋敷から出ないのは勿体ないわ。日向で生きる、と決めたのは貴方なんだから、もっと堂々としていいのよ」
「……はい」
旦那様はとても若く見えるが、今年で63歳なんだそう。同い年のメイドのリリさんが自慢げに話してくれた。実年齢よりも若く見えるのは美容に気を遣っているとか、妖精族の血が流れている、という訳ではなく旦那様が“魔女”であるからだ。
この世界における“魔女”とは、高位魔族と契約した人間のことを言う。契約の代償はさまざまだが、決まって人間たちは不老長寿を願い望み“魔女”になる。多くの魔族はこことは違う世界で暮らしているが、こちらに召喚することができる。しかし人間よりもはるかに長命で戦闘能力の高い魔族を呼ぶこと、彼らと契約することは、法で縛られていないとしても大多数の人々には忌み嫌われている行為だ。妖精族や獣人族との混血者を嫌う人も少なからずいる中、魔族の血を受け長寿を得た者のほとんどは日陰で生きるしかない。
だから、自ら“魔女”だと名乗り、しかも貴族、男爵家当主として生活していくのが難儀なことなど想像に容易い。それでも、その在り方で生きると決めたのは相当の覚悟だったのだろう。
「招待状を置いておくわ。気が向いたら来てね。それじゃ、お暇させていただくわ」
「本日はありがとうございます。玄関まで見送ります」
「ええ。アンジェリーナさん、お茶とお喋りありがとう。また会えたらよろしくね」
「はい、こちらこそお話しできて嬉しかったです。機会がございましたら」
置き土産と言わんばかりの美しい微笑みを残し、お2人は客室を退室した。しばらく大魔導師様の微笑みに惚けていても、指摘する人は誰もおらず無音の時間が過ぎた。ようやく片付けを始めたのは、何刻ほど経っているか分からなかった。
私にとっては夢のようだったお茶会から3日経って、幾分か落ち着きを取り戻した昼過ぎ。私は屋敷の3階を掃除していた。この階には男爵家のご家族の私室や書斎などがあるが、使われていない或いは主のいない部屋も多い。それでもいつでもお使いできるように綺麗にしておく必要がある。
奥の空き部屋に向かおうと、旦那様の書斎の前を通り過ぎる時、僅かに開いた扉から声が漏れ聞こえた。
「ダニエル。その日は予定がないのに、なぜ渋るんですか。喧嘩でもなさったんですか?」
「喧嘩は断じてしていない。ただ……」
「はあ、隣街の噂ですか。あなたとは関係ないんですから、言わせておけばいいでしょう」
「だから、僕が出歩かなければ、みんな不安に駆られることもないだろう。君みたいに考えてる人のほうが少ないんだから」
ダニエルとは旦那様の名前だ。会話の相手は執事のレイスさん。2人は昔馴染みで、レイスさんがこの屋敷で最年長らしいが実年齢は不明だ。瑞々しい黒髪に綺麗な顔は20代後半にしか見えない。この屋敷に就職してから、実年齢と見た目が合っていない人ばかり見かける。
そして、隣街の噂とは“魔女”である旦那様が人々から精気を抜き取り、自分の街――エリウス男爵家が治めるザジルサ地区――の発展に利用している、というものだ。この街が活気に溢れているのは旦那様の経営手腕で、そんな噂は“魔女”を恐れた人々の根も葉もないものだと、この屋敷に就職2週間の私は思う。
噂以上に根拠のない信頼だと思われるが、たった2週間で私はこの男爵家が好きになった。“魔女”の住まう屋敷にわざわざ訪ねる元同僚などいないと考えこの就職先を選んだが、我ながら失礼な志望理由だったと思い改まる。
「ダニエル。無理にとは言いませんが、いつまでも外出しないなんてできないでしょう。心配なら、変装も、外装を変えた馬車だって用意します。だから」
「僕が出席しなくても誰も困らない。おば様には欠席すると返事を出す」
扉が開いていたとは言え、屋敷の主人の会話を立ち聞きとは褒められたものではない。それに単なる使用人が仕える主人に口出しすることもよろしくない。しかし、私は部屋に踏み入り声を上げていた。
「失礼いたします、旦那様。申し訳ありません。話し声が耳に入りまして、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「……レイス、扉を閉め忘れるなんて、わざ」
「申し訳ありません、旦那様。以後、気を付けます」
「……分かった。それで、僕への質問って?」
「はい。欠席されるとは、大魔導師様からご招待された誕生日会のことでしょうか?」
「……そうだ」
主人が招待される会合全てを知っているわけではないが、つい3日前に大魔導師様が渡した招待状の内容は聞いている。なんでも、旦那様の妹君のお孫さんの10歳の誕生日会が開かれるそう。
この国――ユリーナ王国では、国民に入学が義務付けられている学園高等部の卒業をもって成人と見做される。しかし入学する年齢や在学年数は自由であることから、成人したと言えるのが18歳前後という曖昧なものだ。その代わり10歳と25歳――この年齢にはこの国の深い歴史が関わっている――の誕生日は盛大に祝う、という慣わしが存在する。特に10歳の誕生日には、元気に成長できた過去への喜びと、未来の健やかな成長を願う大事な節目だ。そこに親族を招待するのは勿論のこと、主役の学友、両親の友人まで呼び、幸せのお裾分けをする。
「無礼を承知で発言させていただきます。私を、その誕生日会に側仕えとして参加させていただけないでしょうか?もう一度、大魔導師様にお会いしたいのです」
大魔導師様に会いたいというのは、建前であり本音である。しかしそれ以上に、この懇願は旦那様に誕生日会に参加してほしいという、私の身勝手で押し付けに近い思いだ。そもそも一使用人が、屋敷の主人の意向に意を唱えるなどあってはならない。それでも、自ら孤独を選んでるような旦那様と、それを心配そうに見る大魔導師様のお顔が頭から離れなかった。お2人のお顔が晴れればいい、という私の自己満足以外のなにものでもない申し出だ。
「それは、どうしてもその日でなければいけないのか?」
「はい。どうしても、お誕生日会当日に、その場で、お祝いの言葉を直接伝えたいのです」
「旦那様、仕事のことは私にお任せください。久しぶりの休暇だと思って、家族の団欒を楽しんでくださいませ。アンジェリーナさん、旦那様のことは任せましたよ」
「レイス。……分かった。誕生日会に行こう」
「っ、はいっ、ありがとうございます。当日を楽しみにしております。では、失礼いたします」
私は辞儀をし、扉をしっかり閉めて退室した。
だから、その後、室内での2人の会話は私の耳には届かなかった。
「彼女に説得するよう、頼んでいたのか?」
「いいえ、私が扉の確認を怠っただけです。彼女は正義感が強かったのでしょう。そして、優しいダニエルは、自分の我儘より彼女の願いを優先した。本当にお人好しですね」
「僕は優しくない。気まぐれで、利己主義な、立派な“魔女”さ」
「今回は“魔女”の気まぐれであると。ではご気分がいいうちに、プレゼントも選んでしまいましょう。いくつか候補を挙げてきました」
「……。……ザジルサ地区特産の香水とインクと、レターセットで。まだ発売前の香りと色があったろ?」
「はい。どちらも誕生日会の数日後に発売を予定しております。マーマリウスの花の香りと、その花弁の色を模したインク、で間違いございませんか?」
「うん、それ」
「畏まりました。お嬢様の瞳の色、お名前の由来の花ですから、きっと喜ばれますよ」
「だといいね。……ごめん、不甲斐ない主人で」
「……貴方の憂いを晴らすために、隣街に行きましょうか」
「やめて。僕は望んでない。変わるまで、僕の心が強くなるまで待って。ノア」
「……御心のままに。しかし、その名で呼ばれると、甘やかしたくなります」
「仕事に戻るよ、レイス。準備は任せた」
「御意」
立ち聞きをしてしまった日から10日経った日、私と旦那様は馬車に向かい合って乗っていた。
私は自分の手持ちの中でも一番華やかな外行きの淡緑色のワンピース――と言っても母のお古で流行りのものではないが――を身に纏い、座席には桃色や黄色を中心とした花束と綺麗に包装された箱を置いている。
一方斜め向かいに座っている旦那様は、灰色のスーツコートに青紫色のタイを身に付け、普段は下ろしている髪を分けている。タイ留めにしか宝石がないのに、凄く輝いて見える。
正直、直視できないが眺めたいという思いで、我が主人をチラ見しては俯いてしまう私は使用人失格だと確信する。菫色の瞳は車窓を眺めているのが、私の奇行には気付いているだろう。とうとう私の視線に耐えかねたのか、苦笑混じりの声で問いかけられる。
「僕、どこかおかしい所があるかい?」
「いいえ、完璧です。申し訳ありません。不躾な行動でした」
「王城勤務だと、僕くらいの顔なんて見慣れていると思ったけど?」
「……ここだけの話です。他の方も整っておられますが、旦那様は、その、一線を画して、う、美しい、と思います」
私はなぜ、告白紛いのことをしているのだろう。それでも、そんなことは言われ慣れているのか、旦那様は表情を変えずに会話を続ける。
「父の血筋のせいかな。北大陸のエーノス民族だから、ここ西大陸とは違う顔かもしれない」
「そ、それは、納得です」
エーノス民族とは北大陸に古い歴史を持つ狩猟民族である。閉鎖的だった北大陸が近年開国され始めると、そんな歴史よりもエーノス民族の人外めいた美しさが取り沙汰された。“白人の宝石”と後に呼ばれ、白い肌、青みがかった白髪と同じ色の瞳は外交や商談に来た人々を魅了した。
最初そんな話を聞いた時、人を宝石に例えるなど誇張されたものだと、我が国の貴族の方々と同等ではと元同僚と鼻で笑ったが、すぐさま否定しよう。本当に宝石の如く輝いて見える美しい方だと、目の前の御仁が証明してくださった。
「着いたようだね。ここから少し上り坂を歩くから、足元に気を付けて」
「ご忠告ありがとうございます」
その言葉と同時に馬車が止まり、扉が開かれる。大切なプレゼントを落とさぬように注意を払い、馬車から降りる。
静かな場所だった。国木であるサーリファの垣根、いや林の始まりで、降り立ったすぐそばには小道が緩やかな坂を作っている。事前情報で今回の誕生日会が開かれる大魔導師様の邸宅は、街外れの林に囲まれた丘の上にあると知った。整備と言っても草木を取り除いただけの目の前の小道だけが、邸宅に続く道と言えるものだそう。
御者に挨拶をしてその道を歩き始める。他に人が見当たらない上、ましてや声も木々に吸収されたのか聞こえず、本当にパーティーが開催されているのか不安になる。その静けさに気圧されたように私は無言で坂を登り続けた。
疲れを感じる前に登り切り、林の終わりが見えたところで、開けた場所に入る。すると不思議な体験をした。
まるで、扉一枚を部屋を跨いだかのように周囲が一変した。今まで歩みを進めていた音だけだったが人々の楽しげな話し声に囲まれ、木漏れ日は青空と華やかなガーデニングパーティーに変わり、緑の香りが人や食べ物の匂いに塗り替えられた。世界が変わったような錯覚になった。
「ようやく到着ね。貴方たちが最後よ」
聞き覚えのある声に、現実に引き戻された。旦那様を招待した大魔導師様が、小道の終わり、つまり私たちのすぐそばにいらっしゃったのだ。今日の空よりも濃い青色の上品なドレスに身を包み、待ちくたびれたと言わんばかりにこちらを見つめている。
「遅れてしまい申し訳ありません」
「いいえ時間通りよ、アンジェリーナさん。他のお客様が早すぎるの。みんな飲み始めているから、仕切り直しね」
着いてきて、という目線を送られその背を旦那様と追いかける。パーティーの中心まで進むと愛らしい少女が楽しそうに笑っていた。こちら――大魔導師様に気付いた少女はさらに頬を赤く染め、大おばあさま、と呼びかける。
「マリア、お客様が全員揃ったから、みんなに練習した挨拶をしようね」
「わかりました!」
優しげにその少女に声をかけた後、大魔導師様は周囲に声を響き渡らせた。それは決して大きくはないのに、パーティー参加者全員の耳に届いた。
「皆さま、静粛に。マリア」
「はい。今日は私、ノーゼ=マリア・モイゼルフの10歳の誕生日会に来ていただきありがとうございます。思う存分、楽しんでください。では、乾杯!」
「「「乾杯!」」」
私も先程渡されたグラスを掲げる。喉に通したそれは爽やかな林檎のジュースだった。旦那様の一歩後ろに私は立っているので、同じくグラスを掲げた旦那様の表情は窺えないが、笑っていれば嬉しいと思った。
乾杯の挨拶が終われば、今日の主役へ挨拶とプレゼントの贈呈を行う。親族から順番が来るので旦那様はすぐにそちらに赴いた。
そして、なぜか私に旦那様の親戚を紹介する大魔導師様、という場面が出来上がってしまった。原因は仕えている主人の親族の方々の顔を知らなかった、私にあるのだが。
「この子がダニエルの妹、ノーゼ=ルテリア。で、その旦那で私の息子のシューレンヴァリウス」
「はじめまして。エリウス男爵家に仕えていますアンジェリーナです。本日はおめでとうございます」
「ありがとう。それに、今日はお兄様を連れてきてくれて、感謝してるわ。なんだかんだ理由を付けて、来ないかと思っていたの」
「それは気を揉ませたな」
「あら、怒っておりませんよ?私は、ただ嬉しいの。2年ぶりに見たお顔が変わりなくて」
「俺も4年ぶりか、義兄上を見たのは。元気そうで良かった」
「僕も2人の姿を見ることができて嬉しいよ。……これからは、時間を見つけて会いに行く」
「あらあら、それなら暇な隠居生活をしている私たちが伺いますよ」
旦那様の妹であるルテリア様は、明るい茶髪以外は兄妹そっくりで、旦那様が歳を重ねれば性別の差はあれどこんな姿になるんだと思わせてくれる。大魔導師様の息子であるシューレンヴァリウス様は母子で目鼻立ちが似ており、瞳の色が違くとも親子だと分かる。と言っても、息子が父親のように見えるのだからややこしい表現である。
談笑している3人を眺めていると、大魔導師様に手を引かれ、今日の主役の元に連れられる。
「この子がルテリアたちの娘で、リリアナ。その従兄で旦那のオーフェン。今日の主役の両親よ。そして、この子が」
「ノーゼ=マリアよ!」
「はじめまして。お誕生日おめでとうございます。私、エリウス男爵家に仕えています、アンジェリーナと申します。旦那様は、」
「ここだ。久しぶり、マリア。お誕生日おめでとう」
「ありがとう!おじさまが来てくれて嬉しい。来なかったら、屋敷に押しかけようと思ってたの」
「こらっ、マリア。それは内緒の計画だって、母様と約束したでしょう?」
「来てくれたんだから、バレても大丈夫よ。おじさま、怒らない?」
「どちらかと言うと、怒られるのは僕のほうだよ。大事なティアリア・パーティーに出ないなんて、ダメな大人だって」
「でも来てくれたから、怒られないわ。ねえ、プレゼントを見せて!今日、全員分のプレゼントを開けていたら、夜中になっちゃうって言われたけど、おじさまのだけはここで見たいの!お願い」
リリアナ様と歳は同じくらいだろうか、母のルテリア様の美しさより可愛らしさを閉じ込めたような方だ。オーフェン様は吊り目がちな目元を優しげに細め、妻子を見守っている。そしてマリア様は、憧れの方を眩しく見上げるように旦那様に話しかけている。私は手元にあるプレゼント、まずは花束を旦那様に渡す。旦那様は目線を合わせるように地面に片膝を付け、男性の最高の礼を取る。
「そんなに期待が大きいと緊張しちゃうな。はい、まずはこれを。貴女に、龍の加護が在らんことを、ティアリア・フローラロイン」
可愛らしい花束は、マリア様の着ている桃色のドレスのミニチュアのよう。それを手渡す旦那様は、まるで騎士のようでその所作に見惚れてしまう。大きな歓声を上げるのを我慢しているかのように、マリア様がそれに返答する。
「あなたにも、りゅうの加護があらんことを」
「ありがたきお言葉。……はい、こっちが誕生日プレゼントだ」
「っ、ありがとう!早速あけるね!」
近くの椅子に座ったマリア様は箱を隠す桃色の包装を、待ち遠しそうにワクワクしながら、丁寧に解いていく。父親譲りの青みの強い黒髪を揺らしながら、瞳を輝かせながら、ようやっと箱を開ける。
中にはレターセットと異なる瓶が二つ収められている。しかし瓶の装丁に描かれている赤紫色の花――マーマリウスは同じだった。その花と同じ色の可愛らしく丸い瞳が、箱から旦那様へ向く。
「初めての香水!すごくうれしい、おじさま!香りを嗅いでもいい?」
「ああ、気に入るといいけど」
返答を聞くや否や、香水を取り出し空中に香りを閉じ込めた霧を振りかける。風に乗り、私の鼻腔にも届いたそれは甘く少女のようでいて、上品な女性のように凛とした、何よりも優しい香りだった。
「すごく、すごく気に入ったわ!大好きな香り」
「良かった。パーティーに行く時とか、書いた手紙に付けるといい。使い方は、お母様に聞くんだよ?」
「いいえ、毎日つけるわ!それに、お手紙もたくさん書く。なくなったら、またプレゼントして!」
「ふふ、分かったよ。可愛い、お嬢様?また、プレゼントさせてください」
「ありがとう!おじさま、大好き!」
マリア様は旦那様に抱き付き、全身で喜びを表している。旦那様はくすぐったそうに少女の抱擁を受けている。ご両親と大魔導師様と私は、おそらく同じような顔――微笑ましいものを見ている顔になっているだろう。
いつまでもいては、今日のお姫様のために用意した大勢の方からのプレゼントが届かない。そう危惧し、私たちはパーティーの中心から離れ軽食を頂いていた。旦那様はご年配の方から時々挨拶を受けていた。
そうして時間を過ごしていると、到着した時は昼前の位置だった太陽が峰にくっつこうとしていた。幼い子を連れた家族らはすでに帰っており、私たちを迎えに来る馬車の時間も迫っていた。
「旦那様、そろそろお迎えが来る頃かと」
「そんな時間か。暇の挨拶をしよう」
「畏まりました」
マリア様たち家族一家に挨拶をひと通り済ませたところで、大魔導師様が旦那様に耳打ちをする。お2人の顔は、幸せの中にいるマリア様たちには見えないけど、真剣な表情だった。ここに待機するように旦那様に言われた私は、邸宅の中に消えていく背を見送った。
幾分か時間が経った頃、入った時と変わりない表情をした旦那様が戻ってきた。しかしよく見ると何かに耐えてるような、悲しさを含んだ顔をしていた。もう一度家族に挨拶する時は笑顔を浮かべていたが、なんだかぎこちないように見えた。
行きと同じ道を、無音の林の中、無言で緩やかな下り坂を歩く。遠目に何台か馬車が止まっているのが見えるが、我が屋敷の物は影に隠れているのだろうか。
木々に囲まれた小道を抜け、私は左手に見慣れた馬車と御者を見つけた。旦那様と御者に声をかけて、馬車に乗り込むと程なくして馬の嗎が聞こえた。
「旦那様、お疲れではございませんか?」
「ああ、大丈夫。今日はありがとう」
「勿体ないお言葉です。旦那様が楽しめたのなら、私は満足でございます」
「マリアが喜んでくれたし、楽しかったよ」
その言葉を最後に、馬車が屋敷に着くまで旦那様と顔は合わせられなかった。その菫の瞳は車窓の夕陽を映し、マリア様と同じ赤紫色に悲しく燃えていた。それを、ただただ絵画のようだと、美しい光景だと思うしかなかった。
無事に屋敷に到着し、旦那様は出迎えに来ていたレイスさんに連れられ、私は自室に向かった。普段は夜になれば晩餐の準備や給仕を行なっているが、リリさんとマーニャさんに休めと言われてしまった。王宮ではもっと忙しかったので大丈夫だと言ったが、うちはうちよそはよそと反論され、私はそのお言葉に甘えて今日の仕事を終了した。
私の中では今日の出来事は素敵な思い出となった。しかし帰りの旦那様の顔が浮かび、旦那様にとってはどんな思い出になったか分からなくなった。グルグル思考が回るが、久しぶりの体の疲れに瞼が落ちてゆき、幾分か経たず夢の世界に入った。
☾
屋敷のある寝室にて、寝間着姿の主人はベッドに腰掛け、その傍らには黒髪の男が立っている。もう寝る間際なのか、明かりはナイトテーブル上の赤い照明と月の青白い輝きだけである。2つの視線は合わないが、居心地の悪さからではないのは2人だけが知っている。
「喪服が必要になるかも」
「……カルア殿に、会ったのですか?」
「ああ。母上や父上よりも、死など無縁のような方だったのに。おば様とお揃いの髪色を自慢して、でも自分には似合わないと、笑っていた。昔のように笑っているのに、なんだか弱々しくて、シーツの白が現実的ではなくて」
「人の生など100年程度。“黒の軍神”も歳には勝てない。戦場で死ぬよりも、愛する者に囲まれて逝けるのです。温かいものでしょう」
「そうだけど。そうしたら、人としての理を曲げた僕はどうなんだろう、って思って」
「45年前の自分を、後悔していると?」
「後悔は決してない。ただ自分の覚悟は甘ったれたものだったと、成長しない自分が、嫌になる」
「では、今からでも」
「それはしない。甘やかさないで、ノア。僕は成長したいんだ。君にとっては些細な変化でも、僕にとっては重要なことなんだ。だから逃げない」
「……いつまでも側にいる。私も同じ気持ちです。さて、今日はお疲れでしょう。お早めにお眠りください」
「えっ、いや、今日は」
「ダメです。普段引きこもりの方が、半日外で立ちっぱなしだったのです。貴方に倒られては、屋敷の者に迷惑をかけます」
「いや、引きこもりは言い過ぎじゃ。ちゃんと運動は毎日しているし」
「庭や近くの森の散歩のことですか?とにかく、私は貴方よりは丈夫なので、今日は寝てください」
「いや、でも。……、……じゃあ、キスだけ欲しい。ノア?」
黄色の双眸を瞬かせた黒髪の男が白髪の男の顔に、己の顔を近づける。二つが重なり、僅かな甘やかな音が聞こえる。音が数度、静かな部屋に鳴り響くと、名残惜しいように離れる。
「おやすみなさいませ。いい夢を」
「おやすみ」
本作の舞台であるユリーナ王国は龍神を信仰している国で、魔法使いが他国よりも多くいます。また女性の多くに花の名前を付ける風習があります。マーマリウスは作者の想像の花でダリアをイメージしました。「ノーゼ=マリア」でマーマリウスの妖精という意味があります。
喪服が必要になるのくだりで登場したカルア殿は、大魔導師ミリュエシアの夫です。63歳の旦那様の親世代なので年齢は察してください。ちなみに“魔女”にならなくとも、長命な人間も稀にいます。