第七話
コロナのワクチン接種二回目……いやはや辛かったです。昨日打ったんですが、今日はほぼ丸一日ダウンしてましたね。倦怠感が酷かったです。皆さんもお気をつけてください。
まぁそれはさておき、今話も拙作を読んで楽しんで頂けたら幸いです。
ここではない何処か。見慣れない、しかし懐かしさを覚える景色の中で、アイクは一人佇んでいる。床に敷き詰められた柔らかな絨毯に、窓辺に備え付けられたシックな書斎机。壁一面には本がぎっしりと詰まった棚が鎮座し、部屋の隅に入り切らなかった分厚いハードカバーの本がこれでもかと積み上げられている。窓からは木漏れ日が差し込み、小鳥の囀りが耳を打つ。誰かの書斎だろうか。思考だけが回り、身体は自由に動かせない。ただ、目の前の情報だけが流れ込んでくる。あぁ、これは夢か、と。アイクは一人納得する。
その部屋の中央。アイクの目の前に、一人の子供が蹲っていた。漆器を思わせる黒い髪に、夕陽を思わせるオレンジの瞳。幼いながらも端麗な顔立ちは、どこかの誰かを連想させる。その子供は眼前に広げている本を一心不乱に読み進めているようで、小鳥の囀りと共に、本を捲る音が部屋の中にこだまする。遊び盛りの年だろうに、しかしその子供は嬉々として知識の吸収に励み、目を輝かせながら本にのめり込んでいた。
一体何の本を読んでいるのか、そんな疑問が思い浮かんだ次の瞬間、目の前の景色は一瞬にして炎に包まれていた。窓の木漏れ日は煤の灰色によって覆い隠され、木の香り漂う書斎は途端に噎せ返るような熱に塗りつぶされた。炎は蛇を思わせる動きで地を這い、壁を登り、うねりを上げ、アイクの前で踊り狂う。生存本能に従い咄嗟にその場から逃れようとするも、夢の中のアイクの身体は動いてくれない。その子供も何とかその場から逃げようと藻掻いているが、倒れてきた本棚の下敷きにされて思うように動けなかった。やがて炎が子供を押し潰している本棚まで及び、子供の口から苦渋の声が叫び声となって漏れ始める。
——つい! ——つい! ——れか、——けて!
ノイズ混じりの声であっても、何を叫びたいのかが伝わってくる。端正な顔が熱気と恐怖で歪み、目尻には涙すら浮かんでいる。だが、その声は崩れ落ちる家屋の音に紛れて途切れ、誰の耳にも届かなかった。もはやここまでか。そう思った矢先、どこかから床を蹴る音が聞こえてきた。足音は複数。それも急いでいるものだった。そして部屋と廊下を繋ぐドアの向こうに、その足音はやってくる。揺らめく炎の向こうに見えたのは、子供とよく似た顔立ちの、年若い青年だった。ふと、その青年と目が合った。
今しかない。そう思い、子供は精一杯の声を上げた。
——けて!! ——さんっ!!
渾身の叫びだった。目があっている時点で、絶対に助けてくれると思った。だが、その予想に反して、青年は子供から目を逸らした。
——————!
その時、子供は何を思ったのだろうか。助けてくれると信じた人は、大事そうに後ろ手に引く女性と共に、子供を置いて炎の向こうに消えて行ってしまった。助けてくれる人はもういない。最後の最後に縋った人は、自分を置いて先に行ってしまった。苦渋に歪んでいた顔は、次第に憎悪を伴い影を落としていく。信頼は憎悪に。好意は殺意に。裏切りは正負の感情を真逆に裏返す。藻掻いていた腕は動きを止め、その拳はきつく握り締められていく。ギシギシと。暗い感情を乗せた拳は、子供が持つにはありうべからざる力が込められていた。
——やる……。
不意に、子供の口から言葉が漏れる。ただ、その声には。夢や希望にあふれた正の感情ではなく、仄暗い、穢された純白のような、純粋な悪意が籠っていた。
——たいに、……してやるッ!!
それを、アイクは子供のすぐ傍から見下ろしていた。
他人として見ているのに、どうしても他人と思えなくて。
心の奥底に渦巻く、この名撫しがたい感情に身を任せて。
その手を——。
「………………夢、か」
異様に倦怠感が募る身体と、何かの物音で目が覚めたアイクは、毛怠そうに言葉を零した。目の前に広がるのはいつものボロい家の天井で、高窓から僅かに朝陽が差し込んでいる。
ふと右手に違和感を覚えて見てやれば、何故かナイフを握りしめて床に突き立てていた。自衛用に近くに置いてはあるが、寝る前にナイフを握る危険な癖はない。大方、夢にうなされていた時に握り締めてしまったのだろう。
夢の内容は、具体的には思い出せない。ただ、悪い夢だったのだろうなというのは、何となくわかった。
「悪い夢なんて何時ぶりだったっけかな」
気怠い身体を起こしながら、アイクは一つ伸びをして立ち上がる。シャツの裾から覗くその背中には、古い、とても大きな火傷の痕があった。
エルが目を醒ましたと連絡を受けたのは、その日の朝の事だった。陽も大分高くなった頃。連絡を受けてアイクがコレットの店を訪れれば、そこにはベッドから上体を起こしているエルの姿があった。昨夜見た血の気の引いた病的な色はない。血色を取り戻した肌には瑞々しさがあり、アイクを見るエルの表情はとても穏やかだった。
「やぁ、アイク。昨日振りだね」
「起きたか。気分はどうだ?」
「まずまず、かな。まだ頭がぼぉっとするから全快とまではいかないけど、おかげ様で大分調子は戻せたよ」
「そりゃよかった」
一先ずの朗報に、アイクは安堵する。失血量が多く、長引けばその分だけ身体の細胞に酸素が回らず、徐々に細胞は死滅していく。後遺症が残る例も少なくなく、義体化ができない人間はそれが原因で死ぬこともあるというのは、よく聞く話だ。今もチューブを通じてエルの腕に繋がれている輸血剤が、エルの命を繋ぎ止めたのだろう。
「この場で改めてお礼を言わせてほしい。……ありがとう。アイク。君がいなかったら、僕はあの場所でモンスターの餌になっていた」
「それはこっちの台詞だ。エル。あの場にお前がいなかったら、俺はあのデカブツに殺されていた。……だから、これでお相子だ」
「はは。お相子か。君がそう望むなら、そういうことにしておこうかな」
エルの状態は安定し、快方に向かっている。それはとても喜ばしいことだ。喜ばしいことなのだが、切っても切れない現実問題が目の前には存在する。アイクの視線が、壁に背を預けているコレットに向かう。
「そんで婆さん……輸血剤っていくらしたっけ?」
「今回の分だと、ざっとこんなもんさね」
「…………げっ。やっぱり結構するんだな」
手渡された請求書を見て、アイクは苦い顔をする。国内の生産プラントや工場をフル稼働していると言っても、やはり物資は貴重だ。一昔前のように他国から資源を輸入することも、発展途上国で人件費を抑えて安価な製品を大量に輸入することもできず、国内で全てを賄わなければならないのだから、物価はそれなりに高くなる。廉価版を仕入れるとしてもそれなりに値が張るのだから、価格にも文句は言わない。言わないのだが……愚痴の一つも零したくなる。
「一応言っとくけど、相場通りの価格だよ。廉価版を使っただけでもありがたく思いな」
「そこは信頼してるから気にしてない、が。……はぁ。ま、払える範囲だからいいか」
「支払いは三日以内だよ。一日でも遅れたら家の扉ブチ空けてでも取り立てに行くから気を付けるんだね」
「そりゃ怖い。婆さんなら本当にやりかねないからな」
でなければ、店の周りが穴だらけにはなりはしない。老いてなお有言実行を地で行く女傑の前では、未納はとても許されそうになかった。
「……それで、エル。お前はこの後どうするんだ?」
「宿の一室を借りてるから、そこに一言連絡をするつもりだよ。……ただ昨日はチェックインしてなかったから、継続契約が切られてないといいんだけど」
「あぁ、ハンター用の賃貸物件か。そういう所は結構ピンキリだから、一概に大丈夫とは言えないな」
モンスターにより都市間の移動が極端に制限されている現在、宿というものはほとんど収入が見込めない。そのため、存在する宿のほとんどが酒場が副業として営んでいるところだった。酒場で大量に飲ませて、そのまま泥酔させて宿泊させれば酒場としては万々歳。そうした目論見もあって宿が営まれていたのだが、ハンターズギルドの介入があったのか、いつしか資金繰りが厳しい駆け出しハンターに一部の部屋を格安で貸し出すようになっていた。ハンター達からすれば願ってもないことだが、酒場側が協力的か否かはかなりバラバラである。長期遠征の連絡を忘れ、丸一日戻って来なかったら契約を破棄して別の客に部屋を明け渡していたなんてこともあったとか。そんな事例もあるために、エルの契約が継続しているかは不明なのである。
「大丈夫だといいんだけどね。………さてと、僕から君を見込んでお願いがあるんだけど、聞いて貰えないかな」
「あぁ、いいぞ」
エルはベッドの上で姿勢を正して、アイクと正面から向き合った。エルの澄んだスカイブルーの瞳と、アイクの夕陽を思わせるオレンジの瞳が交錯する。
「仮ではなく……正式に、僕とパーティーを組んでくれないかい?」
毅然とした言葉が、揺れることのない瞳と共にアイクに向かう。
ハンター業界において、固定パーティーを組むことは利点が得られると共に、それなりに制約が課せられる。所定の手続きや決して安くない登録料の支払い、罰則対象の個人からパーティーへの変更、更にギルドから毎月斡旋される指定依頼の遂行などがそれに該当する。ただその代わりに、個人で契約できなかったハンターズギルドの銀行制度を利用する権利が得られたり、パーティーとして信用が上がれば実入りの良い依頼を斡旋してもらえたりと、当然ながらメリットも存在する。そして何より重要なのが、自分と波長の合う相手と組むことで、依頼の達成率と生存率がぐんと上がることだ。息の合った連携は文字通りパーティーの生存率に直結する。ほんの僅か、瞬きにも等しい一瞬を生き延びる力が、この世界では値千金なのだ。
しかし実際問題、この“波長の合う相手”を見つけるのが存外に難しい。大丈夫と思い組んでみれば後々齟齬が生じてパーティーが崩壊したり、性的嗜好を知らずにパーティーを組んだら即日寝込みを襲われたなんて話もチラホラとある。そのため正式パーティーを組むというのは、それなりに勇気の要ることなのだ。
「一応聞くが、リスクは承知だろうな?」
「勿論。そうやって事前にちゃんと聞いてくれる君だから、僕は申し込んだんだよ。それに、アイクの戦闘スタイルはライフル主体の遠距離型の僕とも相性は良さそうだしね」
鷹揚に、しかしブレない芯を携えて届く声。恩を感じて、というだけではないらしい。いや、恩もあるのだろうが、それ以外の理由も絡めてエルは理詰めで交渉を持ち掛けて来ていた。穏やかな顔に関わらず、打つ手はとても的確だった。
「ククク。なんだい、病み上がりの癖して存外に強かじゃないかい。……アンタはどうするんだい? 交渉事に強そうなこの坊やを仲間にするのは、悪くない手だと思うけど」
コレットが面白いものを見たと言わんばかりの笑みで、アイクに問いかける。その意見は肯定的なもので、エルとのパーティー結成に賛成のようだった。
ニコニコした微笑みと、ニヤニヤした笑みがアイクに向けられる。何にせよ逃げ場などないじゃないか。そんなことを思い浮かべながら、アイクは一つ溜息をつく。
「どうするも何も初めから決めてある。……こちらこそ、よろしく頼むよ。エル。本当はこっちから正式パーティー結成の打診をするつもりだったんだがな」
「ふふ。結果は同じでも、言った者勝ちだからね。先に言えてよかったよ」
言って、苦笑しながらアイクはエルの手を取った。言いたいことを先に言われてしまったというちょっとした悔しさと、無事パーティーを組めたという嬉しさが綯交ぜになった笑み。それでもその笑みは、嬉しさが勝ったからこそ出た笑みだった。
「呆れた。……男ってのはどうしていつも勝負事にこだわるんだか。アタシにはさっぱりだよ」
「そりゃ婆さん。男にとっちゃ、勝利は飾りだからさ」
「女性が化粧をするように、男の子は勝利の勲章で自分を着飾るんだよ」
「そういう時に限って結託するんだねアンタらは……ま、だから気が合うんだろうね。さぁ、用が済んだならとっとと行くんだよ。アタシも店を空ける訳にはいかないんだからね」
怠惰にシッシ、と手を振るコレットは、そのまま店先へと向かっていった。二対一では分が悪いと悟ったらしい。二人はその後ろ姿を見送って、また二人してクスリと笑った。
「そうだな、俺らも一度別れるか。……それじゃ、連絡先は渡しておく。そっちの用事が終わったら連絡くれ」
「わかったよ。遅くても夕方には連絡するかな」
「りょーかい」
そう言って、二人はそこで別れた。各々の期待するハンター生活を夢見て、意気揚々としてその足取りは軽かった。明日からどうなるだろうか、際限なく膨らむ期待を胸に抱きながら、アイクはまた会う時を楽しみにしていた。
と、そんなやり取りがあったのが今朝のこと。
同日。夕刻。アイクの自宅前。
「……で、結局ダメだったと」
「……うん」
「そんで預けていた荷物一式も綺麗に全部売り払われていたと」
「……うん」
「そんで今は一文無しの宿無しと」
「……うん」
「……狭いけど、ウチで一緒に住むか?」
「よろしくお願いします……!」
そういう訳で、二人の新たなハンター生活は始まるのだった。