プロローグ
会社へ向かうサラリーマン。登校中の学生たち。朝から熱心な客引き。ティッシュを配る人。
選挙カーが走り、通勤途中か、遊びに向かうのだろう他の車両やバイクが横行する。
駅に向かえば新幹線や電車が通勤ラッシュを生み出しているだろうし、それはいつもとまったく変わらない現代日本の朝の一コマだった。
高坂真宵は高校二年生。特に突出した外見の特徴もなく、成績は平均より少し下。特技はゲームという今どきの男子高生だった。
喧騒にあくびを噛み殺し、ガムで眠気を覚まそうとしながら駅へと向かう。
その時、不意にキィン、と耳鳴りがした。
「……?」
思わず立ち止まると通行人が迷惑そうに真宵を避けて歩きはじめる。
路地裏から陽炎のような光が揺らめいていることに気づき、真宵はふらふらとそちらに向かって歩きはじめる。
人工的な照明ではなく、太陽の光でもない。他の自然光とも違う。
「もしかしてもしかして、物心ついてからの夢だった未知との遭遇、しちゃったり?異世界召喚とかされちゃったりする?俺の人生変わっちゃう?やだ楽しみ」
わくわくしながら路地裏に踏み込む。満月の夜の森の湖のような幻想的な蒼い光は鮮やかなのにおぼろで、不思議と目にいたくはない。
「あるのはやっぱり扉か?扉をくぐると勇者に……燃えるぜ」
だがその期待は裏切られた。いたのは、一人の少女だった。
長い銀髪が水中にいる時のように空中を揺蕩っている。閉じられた瞳は何色をしているのだろう?
きめの細かそうな白い肌はシミどころかほくろ一つなく、真宵と同い年程度に見えるが高貴な雰囲気を醸し出している。
びっくりするほど華奢な体は空中に浮いていて、蒼い光は彼女の内側から発せられていた。
すわ、異世界への道先案内人か、こんな美少女に世界を救ってほしいと頼まれたりするのかと真宵の胸は期待で高まる。
「――んぅ?」
寝ぼけた人が寝起きに出すような声。だがそんな声すら愛らしいというのはどういうことだろう。
鈴を振るような、とはこういう声なのだと十七年の人生で初めて経験した真宵はそっと少女に手を伸ばす。
ほっそりした手首は低めの体温で、滑らかな手触りで。
真宵の腕の感触に柳眉がより、瞼が震えて。ゆっくりと開かれた瞳は光と同じ蒼。
光は少女の目覚めとともに霧散し、空中にいる間は体重を感じさせなかった少女に重力を取り戻される。
「ぶびゃ!?」
同じ年ごろの少女と比べるとかなり体重は軽かったがさすがにいきなり人一人を支えられるはずもなく。
黒いドレスの少女の敷物になった真宵はだがしかし怒らなかった。
(美少女が、俺の上に乗っかってる、うわ柔らかい、いい匂いっ)
「んーっ……と……?」
硝子でできたベルのような声はまだ夢見心地で、涼やかさの中に甘さを感じさせる。
「ここは、どこ、です?」
「迷子おちー!?いや異世界から来てるっぽいしわかんなくて当たり前か!」
「……うるさいめざまし、です」
「初対面の相手を目覚まし扱いとかひどくねぇ!?」
「……?あ」
そこで少女はようやく真宵を下敷きにしていたことに気づいたらしい。変な踏み方をしないように慎重にどいて、立ち上がるとのぞき込む。
「どちらさま、ですか?」
「それこっちの台詞な!?」
「うぅん?私、名前ないのです。だから名乗れません、ごめんなさい」
「記憶喪失?」
「呼んでくれる人が、いなかったので」
ふわり、笑う少女の手首をつかみなおす。つかんでおかないと、どこかへ行ってしまいそうで。消えてしまいそうで。放っておきたくなかったから。
少年の掌の熱に少女は戸惑ったように首をかしげて、印象的な深艶蒼の目で真宵を見つめた。
「なんです?」
「君の力になりたい」
「…ほえ?」
出会いは突然に。名を持たない少女と平凡な男子高生の物語は、ここから始まる。