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遠吠えは響かない  作者: 基 創
4/4

第四話

 



 1



 夢を見ていた。

 微睡(まどろみ)の中でゆったりと時は流れる。

 思い出は星屑(ほしくず)のように(きら)めき、俺をいつまでもそこに留まらせようとする。

 遥かかなた、遠い遠い世界の端で、俺は彼女に抱きしめられている。

 世界は優しく残酷にいつまでも俺を夢の中にいさせようとする。

 ふと空を見た。夢の中では少し色が薄い水色だった。

 彼女が俺を見ている。俺も彼女を見ている。

 幸せだった。

 それだけは確かだった。


 目が覚めた。周りの芝草が揺れる。

 隣には、草に覆われた墓が見晴らしのいいこの場所に作られ、静かに佇む。

 寝てしまっていたらしい。

 ふと昔を思い出す。

 俺が呼人になる決意をした日の事を。

 俺が何かを手に入れ、そして永久に失った日の事を。

 特に意味の無い独り言。

 誰にも聞かれることの無い、独り言である。



 2



 俺は急いでいた。

 こうやって追いかけ回されるのには慣れていたが、流石にこの状況はまずい。

 ただパンを一つ盗んだだけだというのに、信じられないくらいの奴らが俺を追ってくる。

 いい加減うんざりして来て、俺は薄汚い路地に入った。

 パンを食べながら呼吸もしていたのでどうしても息が苦しくなってくる。ったく、どうしようも無く哀れな奴らだ。こんなガキ一匹放っておくくらい度量をみせればいいものを。

 急いで走り抜けながら、俺は唯一『呼人』としてのこの頑丈で強靭な身体に感謝していた。足が速く、疲れず、目が良く見え、匂いに敏感で、音をよく聴き分ける。喧嘩では殆ど負けた事がない。それに、頭の回転も悪くないと思っている。学は無いが、その分〝裏道〟では機転が利く方だと自負している。

 ただし、それ以外の力では俺は全くこの『呼人』なる力、特徴を好いていなかった。むしろ今のような状況を作り出している〝コレ〟を忌み憎んでいると言った方がいい。

 荒く呼吸し、汚い裏路地を走り抜け、とうとう目の前にある壁に一端躊躇したものの、少し後ろに下がり、俺は両脇の壁を跳躍して駆け上りながら頂上に手をつき、急いで身体を乗り上がらせながらすぐに向こう側へと降り立つ。壁の向こうで五、六人が何か喚き叫んでいるが、その壁に向かって舌を突きだすと、笑ってそこから離れた。

 いい気味だ。

 そう思うこと自体が既に俺という人間がどんなに落ちぶれているかが解るが、そんな事で自己嫌悪に陥る地点はとっくに過ぎ去ってしまっていた。

 盗まれる方が悪い。

 未だ残っている口の中のパンを咀嚼していると、何故だか知らないが涙が出そうになる。何してんだ、俺。泣く所じゃねえだろ。喜べよ。

 そう思いつつも、俺は少しゆっくりと走りながら、きつく唇を噛み締めた。

 何で、俺はこんな事をしてなくちゃならないんだ。

 毒づく相手すらいなくなって、どれくらい経つだろう。

 噛み締める程に口の中で甘くなっていくパンを飲み込みながら、俺は歩く。

 空を見た。

 憎たらしいほどそれは蒼く、透き通っていた。



 3



 どこでどう間違えば、俺はこんな所でこんなことをする羽目になるんだろう、と考えていた。

 今、俺は煤けた道を通りながら、小さな金属のゴミを拾い集めていた。

 これらを集めて業者に渡せば二束三文だが金になる。それでも物が買えなかったら、昨日のように売り屋で何かをくすねてくるしかない。

「しけてやがる……」

 思わず独り言が出る。何が? と自分で自分の言った事に驚いていた。俺は、一体何にしけている、と思ったのだろう。

 周りを見渡せば、俺と同じような格好で同じように虚ろな目で金属片を集めている奴らがいた。やってられねえ。あ、そうか。俺は、これにしけていると感じたのだ。

 ()()()()()()()()()

 自分は、気付いたらここでこうして盗んだり、物を拾って売ったり、何か危ない物を運んだりして生きていた。

 自分がなぜこんなにも嫌われて生きて行かねばならないかは、周りが勝手に教えてくれた。

『お前は汚らわしい〝呼人〟だからだ』、と。

 俺が最初に〝声〟を記録したのは十の時だった。

 いきなり罵声を浴びせかけ、あまつさえ俺に悪戯しようとした中年の男の声が、勝手に頭の中に入ってきたのだ。無意識にその『録音』した声でその男に全く同じ言葉を叩きつけており、気持ち悪がった男はそそくさと逃げて行った。それが、俺の〝呼人〟の能力を知った最初だった。

 それから、俺はその能力を使って、危ない奴からもっと危ない奴らへの伝言役を頼まれる仕事をするようになり、十四になった今ではそこそこ名の通った人間になっていた。しかし今では逆にそいつらでさえも俺の能力を恐れ次第に使わなくなってしまい、また昔と同じくゴミ拾いで何とか生きている状態に戻った。少しは贅沢できていた時期が懐かしい。

 その行動の反動として、俺には酷い悪評が(あながち間違ってもいない)広まっており、俺に宿を貸してくれる所も無くなり、物を買う時も常に冷たい視線と舌打ちがセットになり、今では歩くだけで犯罪者呼ばわりされる事もあるくらいだ。

 なんのために生きているのか、何て言葉は飯がちゃんと食え寝る所にも不自由しない暇人が時たま考えるのが許される豪華な悩みであり、そんな奴らに唾を吐きかけるように物を盗んでは売っていた。

 なんのために生きる? そんなもん、腹が一杯になったら考えるわクソ野郎。

 そうやって服も汚れ、身体だけじゃなく気持ちも何もかも汚されていくかのような毎日。

 生きている、そんな事を考える暇もなく、俺は物を拾い、物を盗み、時々人を傷つけた。

 俺は、生きながら死んでいた。

 変わらない、と思い続けていた。

 ずっと、このまま生きて行って、道端で死んで犬にでも食われて最後は骨も粉々になり風に吹かれて消えるのだ。

 そんな、毎日だった。



 4



 ある朝、俺はドジった。それはもうドジとかどういう次元で無く死に繋がる失敗だった。

 その日、俺はある店で大きなドーナッツが店先に重なって置かれているのを見た。

 ろくなものを食べていない俺は、その甘い匂いが漂ってきた事から理性を失った。急いでそこまで行き、他には目もくれず、デカいドーナッツ三つを袖口に隠し走り出した。

 俺に足で追いつける人間なんていなかったから完全に油断した。その店では番犬を飼っており、それを見つけた主人らしき男は大声で俺に罵声をかけると犬の紐を外し、一気にトップスピードに乗った足の速い大型犬が追ってきた。

 途中までは良かったものの、やはり走る事にかけては獣に敵わない。店から大分離れた所まで逃げたが、これまたミスで行き止まりにぶつかってしまい、犬たちに何十か所と噛まれ、血が溢れた身体からはどんどんと赤い液体が流れていった。

 人よりも頑丈な事も取り柄だったが、流石に鋭い牙に襲われて平気なヤツはいない。

 気付けば痛みで気を失っており、血は流れ続け、暗い世界に一人彷徨っていた。

 何を思ったか。苦しいでも、痛いでも、死にたくないでも、不思議と無かった。

 ようやく死ねるんだ、と思った。

 ようやくこのクソみたいな世界からサヨナラできるんだ、と思った。視界はもうぼやけ、痛みすらも感じなくなってきた。

 でも、少しだけ、少しだけ願いが叶うのならば。

 誰かと、笑って一緒に飯が食ってみたかった。

 何の敵意も恐れもへりくだりも無く、ただ、一緒に、笑って、怒って飯が食ってみたかった。

 何を考えてんだ俺は。

 自分で自分を笑った。おそらく血の池に染まって、馬鹿みたいに死ぬ前だというのに話笑った。何故だが涙が出た。出て、出て、出て、笑いながら泣いた。

 馬鹿だな、俺は。

 馬鹿だな、世界ってのは。

 死にたく、ねえな。

 滲む景色の中、誰かの足音がした。

「ふむ。これは呼人か。興味深いな」

 何言ってんだろうコイツ。

 そこで世界が消えた。暗黒の中、俺は夢を見る。

 暗闇の中で、誰かに引きずられて行く、変な夢だった。



 5



 生きてる。

 まず、それが目を覚ました瞬間に俺が思った事だった。

 何でだ? と思ったのが次で、よく見れば体中に下手くそな包帯が巻かれまくっていた。

 素人でももう少しましに巻くだろうと思うくらいの、それは下手さだった。

 しかし見た目とは裏腹にそれはきちんと止血された上での包帯であって、見てくれが悪い以外は満点をつけてもいいくらいの出来だった。

 しかし、なんというか見た目にはこれっぽちもこだわっていない事がありありと解る巻き方である。料理も食えればいいだろうとか言って結局食う気を起こさせなくするタイプに思える。勝手な想像だが。

 寝かされているのは汚く洗ったのはいつだと言いたくなるほどのシーツの、黄ばみが目立つベットだった。あちこちにツギの跡がある。面倒臭くて買い替えてない、むしろそんなモノに金をかけない、と堂々と主張しているかのようだ。

 周りを見渡せば、床にはタイプライターで出したと思われる紙の束が散乱しており、その他に煙草の吸殻が灰皿に積み重なっていたり(火事になるぞ)、脱ぎ捨てられた服が無造作に放っておかれたり、女性ものと一目で解る下着が何故か帽子立てにかかっていたり、何よりも凄まじいのが本である。何処を見渡しても本しかない。至る所に本で出来た塔がその存在を主張しており、むしろ、本が住人でそれを管理する人間が貸してもらっている、と言わんばかりだ。

 そんな初めて見る本の山(本は貴重品である)に驚きながら、俺はその本来広いはずの部屋を改めて見渡してみた。女の独特の匂いがした。甘ったるいような、少し鼓動を速めるような匂い。久しく嗅いでいなかった匂いだった。

「何処だよここ……何でこんなとこにいんだ俺……?」

 自問してみても答えなど出る訳がなく、俺はぼうっとその部屋の匂いを嗅いでいた。何だかほっとする匂いだった。そんな事を考える自分が滑稽でもあった。

「馬鹿か俺は……」

 真っ先に思うべき所は俺が何処にも繋がれていない、という事だったはずが(俺は周りからこれでもか、と忌避されているのだから、縛られていなかったり繋がれていなかったりする事がまず確認すべき所だ)、そんなことを完璧に失念して呆けた頭で考えていた。

 そんな風にぼけっとしている所に、部屋の奥、左隅にある扉が、静かに開いた。

 思わず構えを取って気を張る。どんな人間が来ても一発で打ちのめせる。そんな事を考えながら視線をその扉に向かって放っていると、扉が開いていく。

 その人物は、両手に持った湯気の立つ飲み物を危なっかしく握ったまま、よろよろと足でゆっくり開け入ってくる。

「おお、目が覚めたかな? 気分はどうだい?」

 そんな事をぼんやりとした顔で見つめられて言われたものだから、俺は何も言い返すことが出来なかった。

 その女は、

「何だい。私の顔に何かついているかい?」

 とぼんやりとしてたままで言ってきた。いや、お前。

「……何でズボンはいてねえんだ? お前」

 空間が凍った。事実、冷たいと思った。

 女は医者が着る様な白衣を着て、大きな丸眼鏡をかけている。こぼれるような大きな胸をして、服を下から圧迫していた。胸には古そうな懐中時計がぶらさがっている。

 スリッパとかいう履物の兎の形をした靴をつっかけ、ここに存在していないかのようにぼんやりとした顔を俺に向ける。整った目鼻立ちであることが大きな眼鏡越しで解る。

 それはともかく、恰好は本人の自由だから別にいいが、何でこいつはズボンを履かず、薄ピンクの下着を俺に露出しているんだ。そういう趣味でもあるのか。ならどう視線を外しても無意味だ、だったら困るな、と真剣に考えた。

 全体的に退廃的な色気と言うのか、無自覚な性的魅力とでもいうのか、俺には解らないが既に身体は男として成長している身だ。異性として見るには充分すぎる女だった。だが、そんな事の前に、ズボンを履け、と言いたい。せっかくの魅力をたった一枚の衣服で台無しにしている、そんな感じだった。

「ん、ああ、これか。これはな……」

 何か重要な意味でもあるのだろうか。そうならば、少し真剣に聴いた方がよさそうだ。

「履くのを忘れたんだ」

「馬鹿じゃねえのか、お前」

「いや、決して履かない事に快感を覚える訳ではないよ? ただ忘れただけなんだ」

「いや訊いてねぇし。その理由だけでもアウトだし」

「大きな違いだろう」

「訊いてる側として履いてない時点で駄目なんだよ」

「そんなものか」

「そんなもんだ」

「難しいな」

「難しい事は一つも言ってねぇけどな」

 何だこの馬鹿な会話は。俺は痛くなってきた身体を擦った。

 視点があまり定まらないのか、俺の方を見ているんだか見ていないんだか解らないその女は、俺にこう言ってきた。

「良い身体をしているな……。包帯で巻くとき不覚にもどきどきしたぞ……」

「やっぱりお前履いてないの趣味なんじゃねえのか」

 馬鹿な会話をしているな、と思わなくなるほど、俺達はその会話に意味を見出していなかった。

 ただ、なんとなく俺はこの女が気になっていた。

 ただ本当になんとなく、だったのだが。

「……君、名前は?」

 抑揚(よくよう)のあまり無い口調で女が訊いてきた。返す。

「カケネだ。姓は無え」

 俺の言葉に、「そうか」とだけ答えて、自分の名前を言う事すら忘れている様だった。何か考えてでもいるように顎に手を当て、俯く。じれったくなって、俺はついキツイ口調で利いた。「お前の名前は? 名乗ったら名乗り返すのが礼儀しゃねえのか」自分で自分の口から〝礼儀〟なんて言葉が出たのがおかしかった。俺が、礼儀かよ。

「ああ、すまない。私か? 私は――」

 その時、少しだけそのぼんやりした顔から淀みが抜け、すっきりした顔になった。


「クーラ。クーラ・〝ボーダーレス〟・クーラーだ。よろしく頼む」


「よろしくするかどうかは解んねえけどよ……」

「するさ」

「何でだ」

「君を助けたのが私だからだ」

「……だから?」

「え、いやそういう時、普通は恋が始まるものじゃないのか、こう、ラブロマンス的に」

「どこがどう普通なのか知んねえけど、それは無えよ多分」

「始めよう」

「絶対嫌だ」

「ま、どうせ動けないんだから、私の好きに出来るんだけどな自由に」

「離せー!!」

「こらこら暴れるな。冗談だ冗談」

「なら何で俺の胸板擦ってんだ!!」

「女として当然だろう」

「馬鹿なのかやっぱり!!」

 そんなこんなで、俺はクーラ・〝ボーダーレス〟クーラーに出会った。

 忘れられない思い出の、始まりだった。 



 6



 ズボンを履き直した女――クーラ―は、俺の事を再びぼんやりした顔で見つめてくると、改めて、といった感じで「怪我の具合はどうだい?」と訊いてきた。

 俺は「そうか、礼まだだったな」と言うと、

「ありがとな。何でか知らねえけど助かったぜ。もう死ぬと思ってたからな」

「礼を言われる程の事ではないよ。君が倒れていたから家まで運んだだけだ。それに、百%善意という訳でもないしね。私には私なりの動機がある。だからそんなに綺麗な気持ちだけでもないんだ」

 俺はいぶかしむように女、クーラの顔を見た。何だ。何か俺にするつもりなのか、こいつ。

 その顔を見たからか、クーラは「大したことじゃない」と前置きして、「いや、君にしてみれば大したことなのか? すまないな、私はそういう人の感情の機微には(うと)いんだ」と続けますます俺の顔は酷くなっていく。本当に何をさせるつもりなんだコイツ。

 手に持っていたコーヒーとか呼ばれる飲み物をずず、と啜ると、もう一方の手に持っていたカップを俺の枕元にあるスタンドに置いた。「起きれたら飲むといい」と言った。

 一応礼を言って上半身を何とか起こすと、痛む腕に顔をしかめながらその湯気を立たせているコーヒーを口に持っていく。

 少し啜るだけで解る。美味い。苦いけど、美味い。味には全然無頓着な俺にも解る位に、美味かった。

 ちびちびと啜っていくと、何がおかしいのか、くすくすと笑うクーラ。何だよ、感じ悪ぃな。

 と思いつつも、どこかそれは気分を害するような―今まで俺が向けられてきたようなもの―では無かった。むしろ、好意に近い物だった事で、更に俺は戸惑う羽目になる。クーラのその顔が、幼い少女のように見えたからでもあった。調子狂うな、と更に顔をしかめる。

「何だよ、何が可笑(おか)しいんだよテメェ」

 思わず照れくささを誤魔化すかのような態度で返してしまう。今までろくにこういう相手と会話したことが無いのが今更になって解る。大体、俺と話すような奴と言うのは大抵人を殺した奴だったり人買いとか麻薬売ってるやつだとかで、ロクなヤツじゃ無かった。ま、俺も大概と言えば大概だったが。否定しきれないのが逆に笑える。つくづく、駄目な人生を送って来ている。

 そう考えていると、クーラは、「可愛かったよ」と言った。は? 何言ってんだコイツ。

 ふふ、ともう一度笑って俺を見ると、

「さっきの顔、まるで普通の少年のようだったよ。可愛かった」

 そう言われ、俺は顔が熱くなるのが止められなかった。いきなりそんな事を言われて、動揺しない奴がいるだろうか、いや、言われ慣れてる奴なら違うんだろうが、こんな見てくれがそこそこいい女に可愛いなんて言われるのは、何だか裸を見られるより気恥ずかしい。男に可愛いとか何言ってんだ、という言葉が浮かぶより速く、俺はどもりながら一杯一杯な思考の中、「何言ってんだ」としか返せなかった。俯きながら、顔が冷えるのを待つ。クーラは「ふむ、私の脈がこんなになるのは久しぶりだな、興奮しているという事か……」見ると、訳の解らない事を言って腕の脈を取っていた。心なしか顔が赤くなっている気がする。何なんだこいつは。

「で、俺に何をさせたいんだ。お前」

 これ以上変な空気にならないように、俺は先程交わされた会話の方向へ再び持っていく事にする。クーラもそれに応じ、「ああ、そうだ、その話だったね」と頷き返した。

「――君は、〝呼人〟だろう?」

 俺はその言葉に一瞬で険しい顔を作り直した。今度は照れ隠しでは無い、本当の裏の顔を作って応じた。なんだ、こいつもそういう手合いか。何だよ、そう言う事なら初めから言ってくれよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そうした顔を作って見ていると、「ああ、何か誤解があるようだが、私は別に君のその力で何かしようとは微塵も思ってないよ」

 そう言うと、またずず、とコーヒーを啜りながら美味しそうに顔を綻ばせた。不覚にも、その顔が可愛いと思ってしまった。大人びた外見の割に、所々で幼い感じになるのが不思議だった。妙なアンバランスで、つい引き込まれるような、そんな不安感と不快じゃない引力みたいなものを持っていた。いかん、と思って首を振る。そんな簡単に人を信じてどうする。俺は嫌と言う程裏切られてきたじゃねえか、もっと学習しろ、カケネ。

「何さっきから首振ったりしかめっ面したり微笑んだりしているんだい? 何か可笑しいのかい?」

 本当に不思議そうにそう言ってくるクーラに、そんな顔をしていたのか、と再び引き締めた。いかん。本当にペースが乱れてる、気を付けねば。

「君の〝呼人〟を研究させてほしいんだよ。この私に」

 そう言って,クーラはにこり、と微笑んだ。

「私は研究者なんだ。()()()()()()()()

 訳が解らず、俺は首を傾げた。よく、言っている意味が解らない。研究者、というのは何となくこの部屋といい格好といい、何となく納得できるものだが、この世の全て、というのはどういう事なのか。

「何だよこの世の全てって。意味解んねえよ。専門とかそういうのってあるもんじゃねえのか。俺はそういうの良く知らねえけどよ」

「ふむ。私の言い方がまずかったか、つまりだ。私の専門分野は森羅万象、この世の(ことわり)全般の事を指すんだ。食器の洗い方から、戦争の兵器まで。その領域は様々でね。そしてそれを研究し、発表し、その成果として雑誌に掲載されるか何かして金をもらい、また違うモノを研究する。それの繰り返しでね、色んな所に顔を出しているから、何時の間にか垣根無し(ボーダーレス)というあだ名が付けられる始末さ。…ま、気に入ってるから自分のミドルネームにしたんだが。いいだろう?」

 何がいいのかは解らなかったが、とにかく凄いのは解った。

 普通、何かの研究者というのは、大きく自分の分野を超える事は無いと思っていた。

 それは間違ってはいないのだろうし、俺くらいの人間でもそのくらいの認識で間違いなかったはずである。

 それをこの女はそんな垣根を越え活動しているという。

 この部屋の散らかりようからも解るが、知識量が相当であることは容易にしれた。印刷物である高価な本がこんなに山になっているのは膨大な資金が必要であり、それが出来る事も事実としてこの女が実力ある研究者であることを物語っている。

「実はお前って凄え奴なのか……?」

 見た目がずぼらを絵に描いたような人間なので、傍目には信じられないが、この女はどうやら本物らしい。

「……ま、最近では何故か兵器の開発に関わっていたから、自分の身も少し狭くなっているんだがね。興味本位で首を突っ込むのは危険だとようやく気付き始めた。私の頭の中にしかない情報を、何とかして手に入れようとするくらいだからね。好奇心は猫を殺すというけれど本当だね」

 コーヒーを啜りながらそんな事を言ってくるクーラ。いや、それは自業自得だろ。

 俺はもう一度周りを確認して、「で、俺の何を研究するってんだ」と尋ねる。クーラは「〝呼人〟には特殊な力があるだろう? その能力を使い、もっと便利な道具を作れないか、と考えてみたりするわけだ。蓄音機は確かに便利ではあるが、それでも君の能力には到底及ばない。どうだろう、助けた礼と思って私に力を貸してくれないだろうか」と大真面目に言ってきた。

 俺は、ただこの能力を忌み嫌っていたので、そんな風に誰かの役に立とうなんて考えた事が無かった。それは、今までの俺に対する付き合いと、全く違っていた。

 研究。それが一体どんなものを指すのかは解らないが、少なくとも俺の能力を有効活用するために調べたいっていうのなら、ま、いいか、と思っている自分がいる事に一番驚いた。何だ、俺らしくもない。こんなにあっさりと自分が利用されるという時に、心が軽くなっているとはどういうことだ。訳が解らん。

 どうしちまったんだ、俺は。

 そんな事をぐるぐる考えていると、クーラはその沈黙を肯定と取ったのか、笑顔で「決まりだな」と言って腰かけていた椅子から降りると、そのまま扉へと向かって行く。途中、ふらふらしていたせいか本の山に躓き、雪崩のように落ちてくる本にしたたかに頭をぶつけながら、そのことを恥ずかしがるでもなく淡々と歩みを再開する。

「ちょっとは掃除しろよ……」

 起き上がれるようになったら、まずこの部屋の整理から始めねえとな。こんなゴミためにいつまでも住んでらんねえ。と、思った所で、俺はこの家にしばらく厄介になることを決めている事に気付く。それに気付いた瞬間、何故か面白くなって自然と笑ってしまった。

 ――袖擦()り合うも多生の縁――、か。

 俺らしくない思考と言動に、俺自身が一番驚いていた。

 何だかな。俺らしくねえな。と、思うと同時に俺らしさってなんだろう、とも考える。

 生きる事にただ必死で、生きる事に精一杯だった毎日。

 それが、今では自分らしさについてこうして頭でこね繰り回し、ぐるぐると堂々巡りさせている。これが可笑しくなくてなんだろう。ふと、俺の目から何か出ていることにようやく気付いた。

 涙、だった。

 ぼろぼろ溢れて落ちていくその涙は、何故か自分の今までの辛い思いでを溶かして流してしまっているようだった。

 らしくない。本当に、らしくない。仰向けになりながら、腕で目元を隠し、声を押し殺して泣く。

 それが嬉しさだったと気付くまでに、俺はかなりの時間を費やしていた。



 7



「何やら目元が赤いようだが。何かあったのかね?」

「風邪だ。気にすんなっての」

「まあ、いいが。……腹が減ってはいないかね? とりあえず食事でもしようと思って持ってきたのだが……」

「マジか!!」

 ここの所まともな飯をろくに食ってなかった。助かった。これでしばらくは生きられる。そう考える事自体が、自分がどんなにぎりぎりだったのかが解る。ひでえ暮らしだったんだな、今まで。

 そのお盆には様々な料理が並べられており、どれも盛り付けが最低に酷かったが、匂いと言う点ではどれも美味しそうだった。よかった。本当によかった。飯が、飯が食えるなんて。

「食っていいのか!?」

 するとクーラは笑って、「好きなだけ食べるといい」と言った。

 嘘偽りなく俺は痛む手になど関心も示さず、その料理を片っ端から食べた。もう。そりゃもう片っ端から、遠慮の二文字すら無く、汚かろうが何と言われようが、俺は夢中でそれを頬張っていった。幸せだった。みてくれさえ気にしなければ、その料理達は最高に美味かった。二十分後には、全ての皿が綺麗に空になっていた。

 満腹になったのは何年ぶりだろうか。覚えていないが、大分前なのは確かだ。

 膨れた腹をさすりながら、俺は大きな息を吐く。よし、これでしばらく持つだろう。

「ありがとうな、助かったぜ」

 げふッとげっぷを出して幸福感に浸っていると、「それは良かった」とクーラは満足そうに頷いていたが、

「まあ、それだけ食べたんだ。もちろん協力はしてもらうよ? さあて、何から始めるべきかな、やはりまず最初は身体検査からだろうな。普通の人間と違う所はどこなのか、反対に同じ所はどこなのか、きちんと調査する必要がある。じゃあ、そこにうつ伏せになってもらおう、早く。ハリーアップ!!」

「目の色が変わるってのはこういう事言うんだろな、多分」

 何を言っても無駄そうだったので、俺は大人しくうつ伏せになった。丁寧にクーラが俺の身体のあちこちを点検していく。ふうむ、と呟いてから、「外見上は特に変わった所などは無いようだな」としきりに頷いていた。俺は「まあそうだろうな、もし腕が三本とか足が四本あったんだったら、もっと解りやすかったんだろうけど」と皮肉を言ってみても「その通りだ」と再びうんうん頷いている。もういいや。何でも。

「君はどういう風にして声を記録するのか、自分で解ってやってるのかい?」

 とクーラが真剣な声を出して言ってきたので、少し俺も考え、

「いや、特に意識自体してないかもな。やっている事と言えば、自分が〝録音〟したい時に意識を集中する、海に潜っていくような感じになればいいだけだから。ま、それをするにもコツがあって、すぐには使いこなせねえかもしんねえけど」

 と自分で言っていて全く説明になっていない事を言っているな、と苦笑する。今の説明で解ったら、それこそ天才レベルだ。

「なるほど。ほぼ〝呼人〟の力は無意識の感覚で行われている。が、それを体得するのは暗黙知のような自分の感覚を掴まないと難しい。そして意識の奥まで潜っていくという表現から、普段認知していない所でようやく使える力、という事になるんだろうな。なるほど興味深い」

 なにやら解ってしまったようだ。よく解らないが、今の説明で何が解ったというのか。難しい単語が出て来たので、一応納得してくれたものとして俺はクーラの顔を見ていた。 丸眼鏡越しの彼女はやはり整った顔立ちをしており、白衣からは煙草の匂いとコーヒー、そして女性の少し甘ったるい香りが混ざって、何とも言えない心境になる。まじまじと見るのも失礼だと思って目を外す。何か、やりづらい。何だか解らないが、非情にやりづらかった。

「まあ、身体の事と、君の〝呼人〟の力の特性も少し解った。では、もう少し検査と能力の実験をしてみよう。いいかな?」

 好奇心百%のきらきらした瞳でそう言われれば、こちらとしても頷くしかない。俺は「ああ」と言って、

「好きなだけお前に付き合ってやるよ。命の恩人には違いねえしな」

 とため息と一緒に呟いた。

 ぱあっと顔を輝かせると、「では、まず身体測定から―」と胸板に妙に指先をわきわき動かしてくる馬鹿に、

「お前実はかなりの淫乱なんじゃねえのか」

 と言うと、

「何を言うんだ。私はこれでも抑えてる方だぞ」

「普段はもっと酷いのか!?」

 と頭の悪い会話をするのだった。

 それから暫く。俺はクーラの様々な実験。――どのくらいの時間〝録音〟出来るのか。どのくらいの距離なら〝録音〟が可能なのか。とか、声はどの位の再現率なのか、等という自分にとっても有意義な研究を一緒にしていた。

 セクハラは、もう日常茶飯事になっていたので、もうツッコむことも止め、割と本気で頭をぶったくのが日課になっていったのは少し悲しかったのだが。

 そしてある日の事。

 事件は起きる。

 二度と忘れないであろう、クーラとの大切な日々の終わりを告げる事件が。

『俺が俺になった』切っ掛けが、近づいていたのだった。



 8



「薬、というものについて、君はどう思うね?」

 包帯もようやく取れ、身体も正常に戻っていた頃。最初に(かくま)われてから一か月が経とうとしていた。

 その時にはもうだいたいこの女の事は解って来ていたので、暫くは放置しておこうかと思ったが、少し可愛そうなので付き合ってやることにした。俺は呼んでいた小説(クーラが熟読していた恋愛もの)から目を上げ、

「人の身体の調子を整えてくれる人間の味方、じゃねえのか?」

 と返すと、本だらけだというのに全く関係が無いとでも言うように煙草を悠々とふかしているクーラを、説教した方がいいのかどうか迷う。というより、何で居候の俺がそんな事をしてやらねばならないんだ、と思い直し再び小説のほうへと意識を持っていった。何だかんだ言っていたが、読んでみると意外と面白い。甘ずっぱい展開ばかりで背中がかゆくなることもあるが、不快な気分ではない。自分がまだ経験したことの無いものばかりだからかもしれないが。

 そうすると、クーラはぷはーと美味そうに机に置いてある灰皿に煙草の吸殻を押し付けると、再び机の前のタイプライターの前で指を動かし、時折積み上げられている本をぱらぱらと捲り、その部分を引用でもしているのか目線を外さずタイプライターの方を見ずに打ち続けている。凄いと感心する所なのだろうが、いつもこうなので慣れてしまった。クーラは仕事人間というよりも時間をいつも無駄にしたくない、と考える典型的な趣味を仕事にしてしまいました人間なので、コーヒー、タバコ、タイプライターと本があれば生存できると思っている節さえある。何者なんだ、お前は、とはもうツッコまない。

 自分から振っておいて返事が返ってこないこともざらなので、俺は特に気にもせず本を読み続けた。すると、いつの間にかこちらを向いていたクーラが、「本当にそれだけだと思うかね?」と再度質問を重ねてきた。

 何だかいつもと違う真剣さがそこにはあったので、俺も姿勢を正し聴く姿勢を取った。

 何かあったのか、その顔には焦燥とも不安とも、あきらめともつかない感情が見え隠れしていた。嫌な予感がした。上手く言えないが、とても嫌な予感が。

「何かあったのか、お前?」

 そう尋ねると、クーラは「いやね」と一端脇に置いてあったコーヒーを啜ると、

「薬というものは、一種の麻薬なんだよ。病人に飲ませれば病気の治癒に効果があるものも、間違えば本人の身体を回復不可能までに壊してしまうことにもなる。それが作った人間の意志に関わらず、だ」

 そう言うと、クーラは、「君に言っておきたい事がある」と静かに、そして厳かに見つけて言ってきた。

 俺も「何だ?」と真面目な顔を作って応じる。何か。何か大切な事を言われる。そんな予感だけ原動力にして。そしてクーラは少しためらうように一瞬顔を下に向け、息を大きく吸い込んで吐くと、


「私を、嫌いにならないでほしい」


 と言った。

 俺は意味が解らず、「……は?」とだけ返事とも呼べない様な返事を返した。何を言っているんだ、こいつは、ついに頭使いすぎでぶっ壊れたか、と俺が真剣に心配していると、

「私は罪を犯した」

 と、また似合わない疲れとも諦めともつかない表情をして、俺を見た。その机の前には、タイプライターの横になにやら書類が置いてあるのを見た。どうも今朝から様子がおかしかったのは、その書類を見てかららしい。決意を秘めた目をして、俺を見つめる。

「その罪を少しでも軽くしようと、私は思う。それが、責任というものだ…まだ、出来ないかもしれないが」

 全く意味が解らず、しかし重大な何かを決めたその瞳に、俺は何か言い様のない不安に包まれながら「無茶なことでもしようとしてるんじゃねえだろうな」と低く重い声を出した。

 その顔を見ながら、クーラは、

「君に出会えて、私は少し変わったらしい」

 と柄でも無い事を言いだす始末。何だ。何だってんだ一体。

「君に会ってから、私は面倒が増えた。飯は作らねばならないし、寝床も二つだし服はいつもきちんと着ろと怒られるし煙草は危険だから吸うなと言うし。食事中は五月蠅く騒ぎ立てる、いい迷惑だった」

 全部お前の側が原因だったじゃねえか、という言葉をすんでの所で飲み込む。今はそんな事を言ってる場合じゃない。

「でも、楽しかった」

 そう言って、クーラはふわりと微笑んだ。

「私は今まで、人というものは面倒だし、関わるのも最小限にしてきた。あの事があってからは、更にだ」

 俺はその言葉に違和感を抱いたが、それよりも早くクーラは俺に言ってきた。

「君という人間は、確かに普通の人とは違うかも知れない。それは、今まで一緒に過ごして来た実験の内容でも明らかだし、君は人間より優れた違う生物と呼んでもいいかもしれない。それほど、君の運動能力と思考能力、〝呼人〟の力は大きかった」

 クーラは俺を褒める訳でもなく、淡々と事実を語っている、という感じだった。俺は口には出さないが、それをとても嬉しく感じた。何故かは良く解らなかったが。

「それでも、君は人間だった。人間よりも人間くさい、お節介で、五月蠅くて、何処にでもいる、一人の青年だった」

 俺は何と言えばいいか解らなくなった。一体何故、急にそんな事を言い始めのか、俺には全く見当もつかなかった。唯一解ることは、今のクーラは、俺に別れを告げようとしてる事。理由も言わず、俺から何らかの理由で去ることを前提として話しているのではないか、という不安だった。

「君は、誰かのために、誰かの辛さや悲しみのために動ける〝人間〟だ。それは、私が保証する。私に保証されても嬉しくないかもしれないがね」

 俺は、声を出そうとして、それが上手くいかない事を感じた。

 粘つく喉奥で、何かが俺に襲いかかって来ていた。

 このままではいけないと、そのクーラの声で感じ取っていた。

 だが、それが何なのかは、解らないまま。

 彼女は話が終わったとでもいうように、再び机に向かってタイプライターを押す作業を再開した。かたかたという音だけが響く。俺はキツネにつままれたような感じでぼうっとクーラを見ていた。

 再び俺も小説に目を向ける。

 主人公の女性が相手の男に告白されるところだった。

 全く、頭に入って来なかったが。

 静かな室内、静かな空間。でも、一通の書類が何かを変えたのは確かだった。

 次の日、起きてみるとクーラはどこにもいなかった。

 俺の、彼女を探す日々が始まったのだった。



 9



 手当たり次第に探した。

 いつもコーヒーを飲みに行く店だとか、意外と可愛いモノ好きなアイツが立ち寄りそうな雑貨ショップ。タバコ屋に酒屋。寝泊りするはずの宿屋に飲食店。皆俺の顔を見て嫌そうな顔を隠しもしないが、そんな事は慣れっこだったのでただひたすら探し回った。

 そんなこんなで三日。もう三日アイツはこの家に帰ってきていない。流石にもう、悠長な事を言っていられる状態ではない。

 俺は家に戻ると真っ暗な部屋にランプで明かりを点けた。

 ぼうっと浮かびあがる本の山が俺を出迎え、一種の幻想的な光景に目を奪われる。

 ぶつからないように慎重に歩みを進め、俺が来たときに使っていたベット脇、―今の俺の布団がしいてある場所に寝っ転がる。どうしたもんか。頭にはぐるぐると不安や焦燥、怒りなどが渦巻いていたが、それほど今の俺はクーラを中心に回っていた事を知る。何でも無い日常で、屑同然だった俺に寝る所と飯と本を与えてくれ、そしていつの間にかその香りに胸を高鳴らせるようになった。そんな事はもちろん言ったりはしないが。だからこそ、余計に心配は募る。一体今どこで何をしているのか。

 置手紙すら無かったこの三日間。もしかしたらひょっこりと帰ってきて、あの馬鹿面さらして「いやあ、道に迷った」とでも言って帰ってくるのではないかとさえ思った。

 そんな気配が微塵も無い事から、それがどれだけ楽観的な考えなのかを突きつけられる。

 もう一度、あいつが消える前の事を思い出していた。

『薬とは、一体何なのか』だった。

 アイツは何か兵器開発にも関わっているらしいことも言っていた。

 では、その関係で身柄を拘束されたとか、そういう事なのだろうか。解らないが、そうであればもう行く場所は一つしか無い。

 この国の最大の軍事基地、〝シャトラーゼ基地〟に。

 いるかどうかも解らない場所に、しかもこの国最強の兵士たちがいる場所に、行かねばならない。これは非常に危険で行き当たりばったりな方法だ。

 しかし、この国で探してもいない、後奴がいそうな場所は、そこら辺しかない。

 覚悟を決めろ、カケネ。今動かなかったら、今アイツに会わないようにしたら、絶対後悔する。後悔なんか、ずっとしてきた。後悔無い方が少ない位だ。

 だから、動く。動いていれば、何かにぶち当たる可能性も大きくなる。だが、立ち止まっていれば、俺はずっときっとこのままだ。

 人生を悲観する暇もなく、ただ惰性で生きるためだけに金属を拾ったり、飯を盗んだりする生活に戻ってしまう。それだけは、嫌だった。いや、それも正確な感情じゃない。ただ、俺はあいつに会わないまま、きちんとした区切りも無いままここで終わるのが嫌なだけだ、きっと。

 あの顔をもう一度見たい。この感情が何なのかは、もう自分では解っている。解っていても、認める事は無いだろう。でも、それでも俺はあいつに会いたい。突然煙みたいに消えてはいそうですか、とはなりたくない。

 恩義があるという建前を利用して、俺は動く理由を見つける。そうだ、まだ俺の実験が終わってない。俺を研究して学会だの雑誌だのに発表するんだろう。俺が、まだ必要なんだろう。

 そう考えていく内に、俺の身体は自然と動いていた。

 アイツが俺に買ってくれた、趣味の悪い上下緑の服。ゆったりとしていて袖が広く、物が入れられるようになっていて、ズボンはゆったりとした造りで、足首で縛る、ちょっと恥ずかしいものだ。上が黄緑。下が濃いめの緑。趣味が悪いと思うが、着心地は抜群で動きやすく丈夫。それに腕を通して、殆ど使われていない姿見に自分の身体を映してみる。

 金の髪に蒼みがかった瞳。薄い唇に少しこけた頬。若く見られる事が多いが、童顔では無い。むしろ目付きの悪い裏側の人間、と言う感じだ。

 それでも、昔と比べて、顔に穏やかさが出て来たのは気のせいだろうか。

 丸くなる、と人間が変わった時に指す言葉があるが、正にそんな感じだった。

 俺はもう一度服の感触を確かめてから、鏡に映った自分に言った。

「俺は、ゴミためにいる自分じゃない。自分は、もうそこにはいない。俺はカケネ。一人の、たった一人の人間、だ」

 そう呟いて、心の中で付け足す。

 それを教えてくれたのは、あの女だ、と。

 散々手がかりがないか調べた机の中に、こんなものがあった。

『シャトラーゼ軍、薬学部、認証。クーラ・〝ボーダーレス〟・クーラー』

 とそっけなく書かれた証明書。間違いない。あいつは、あそこにいる。

 震えそうになる手を思いきり机に叩きつけ、俺は深呼吸した。

 大丈夫、行ける。だって俺は、呼人だから。

 ゆっくりと立ち上がり、今の衝撃で立ち上った埃に顔をしかめながら、帰ってきたらまた説教だな、と知らぬ間に笑みが浮かぶ。

 そうだ。まだ、終わりにしてはやらねえぞ。絶対。

 扉に向かって、ランプを消し、寝る事にした。起きたらすぐに出かけられるように、服もそのままで。

 真っ暗になった天井を眺めた。

 音は、何も無かった。

 クーラの顔が浮かんだ。

 しばらく、目を開けていた。

 消えないように、じっと。



 10



 シャトラーゼ軍。

 俺達の住む国が管理する軍隊。その強硬な態度と行動で、しばしば抗議行動も起こる、しかしその実力で全てを容認されている、やくざが国営になったような最低の軍隊。

 俺はその敷地の前に立っていた。

 大きな門の前には屈強そうな衛兵が二人、槍のような武器を携えて立っていた。

 両脇にそびえる小さな山のように、それは威圧的に俺に視線を注いでいる。

 俺は右側にいる衛兵に、「すまねえ、ちょっといいか――」と言おうとして、少し丁寧な言い方の方がいいか、と考え、

「すまん。少しいいか」

 と言って話しかけた。

 胡散臭げな態度は俺に不躾に注がれる視線に凝縮されていて、たちまち不快な気分になる。が、ぐっと堪えなるべく穏やかにするように努めた。

 視線を外さず、自分に出来る最大級の微笑みを浮かべ、再度尋ねる。

「ここに、研究家の、いやシャトラーゼ軍薬学部、クーラ・〝ボーダレス〟・クーラーがいないだろうか。少し日用品を持っていくように頼まれてな」

 その言葉を聞いた直後、警戒レベルを一気に上げたらしい男は、

「そのような人物は、この敷地内には存在しない。誰かは解らんが、来るだけ無駄だ」

 突き放した物言いに、俺の頭は一気に沸騰しそうになったが、ぐっと下唇を噛んで耐え、「そう言わずに頼む。そちらも仕事であるのは重々承知なのは解っているが、こちらも事情がある。――……生理用品、足りてないらしいんだ。()()にこんな事を頼むやつなんだが、どうか許してくれないか。俺自身も何をしているかは解らないんだが、困っている事は確かだ。出かける前に(こと)づけられていてな。すまないが、呼んでもらえないろうか」

 精一杯日常に無頓着な上司にあきれながらも気のいい助手を演じてみる。しかもその内容が男には解りづらいものである事で、頬が赤く染まった衛兵に、再度畳みかけるように言い続ける。

「すまない、本当にすまない。君の事を困らせたいわけじゃ無いんだが、こっちも(てい)よく使われている立場だという事が解れば理解してくれるんじゃないだろうか、頼む」

 そうやって低姿勢を貫いていると、衛兵も少し自分のいつも立たされている状況を思い出したのか、お前も大変だな、といった顔を作って俺を見た。

 しぶしぶだったものの、その目には同志を見ているような同情心が一杯に詰まっており、いい人間で助かった、と思った。

 思ってから、苦笑する。俺が他人を〝いい人間〟だと評価するなんて、どんだけあの女に毒されているのかが解る。少しも不快じゃないのが不思議だったが。

 がらがらと開いて行く門を見ながら、俺は最大限の好意と同志を見る優しい目線を送ると、衛兵は少し頷きそれきり黙ってしまった。人間ってのは面白いもんだな、と思った。

 左隣にいたもう一人の衛兵は驚いた顔をしてこちらに近づいてきていたが、目の間の衛兵が手で大丈夫だ、と示すと、立ち止まって戻っていった。

「すまない。この恩は忘れない」

 おおげさだ、と言わんばかりに少し悪戯っぽい顔を一瞬浮かべ、そのまま、また前を向く。本当にその言葉通りに恩義を感じて、俺は真っ直ぐ敷地内に入って行く。

 左手に縦に長い大きく武骨な感じの、装飾が一切排された建物が威圧するように建っており、その正面、俺が見ている側では小さな花壇がずっと続いている。何かこの冷たい雰囲気を隠そう、もしくは和らげようとしているのかもしれないが、実際はそのアンバランスから、歪んだ何かを感じ取ってしまう。色とりどりの花々が、無言でこちらを見つめている。そこから目を離すと、右手側には砂で(なら)された訓練場のような大きな空間が広がっていた。木で出来た壁やその上から垂らされたロープ、掘りには泥水が張られていたり、戦闘馬車を運転するためのコースのような所もあった。遠くでその馬が鳴く声がしてきたり、ちょうど今調教中なのかもしれなかった。

 その右手側を進んでいくと、小さな検問場所のような木で出来た小屋があった。

 近づいていくと、一目で部外者だと解る俺に一瞬で不信感を抱いたらしい受付の男が俺に短く「何のようですか?」とぶっきらぼうに訊いてきた。

 俺は先程と同じように「すまないが」と前置きして、

「俺はクーラ・〝ボーダーレス〟・クーラーの助手をしているんだが、彼女に届けてほしい物をもってきた。何処にいるのか解らないか?」

 受付の男は、しばし俺の顔を見つめた後、

「荷物でしたら、私が預かりますので、どうぞこちらにお渡しください」

 と至極当然の対応を取った。

 俺は気を害した風に見せて、

「待ってくれ。これは彼女自身に関わることなんだ。すまないが君に届けるのははばかられる。それに、俺は彼女に来てくれ、と前もって言われている。何でも、今している研究の実験に協力してほしいというんだ。不審がる気は解るが、済まないが話すことは出来ない。どうか、後生だから教えてくれないだろうか。疑うのは当然と解ってるんだが」

 そこまで言うと、善良そうな顔を作って受付の男を見た。私は研究一筋でそう言う事は良く解りません、と言った雰囲気を出して。

 疑いを向けていた目を少しやわらげ、俺を見て今、訊いてきますのでそこでお待ちを。

 と言ってからそこから出て来て左側の建物に走っていった。

「全く、声が相手に届けられるものでもあれば楽なんだがなぁ……」

 とぼやいた受付を見た後、俺は少しその場に立って、空を見た。

 少し広がってきた雲に、不思議な脈の速まりを感じて。



 11



 通された場所は、大きな空間だった。

 大きなという事しか出来ない様な所で、運動するために作られたというのは間違いない。

 白い天井と、床は白い石で敷きつめられており、光沢を放っている程だった。

 不思議だったのは、そこかしこにその石が砕けた跡があったり、壁が凹んでいるのはいい方で罅が入ったり、穴が開いていたりしていて、何かが激しくぶつかり合ったような形跡が多かった。何度も擦ったようで壁は木材が割れているし、頑丈なんだろうがそれも赤黒く変色している場所もある。

 白衣の研究員が忙しなく動き回り、熱心にメモや何かを紙に書き出したりしていた。

 フラスコやビーカー、色の付いた薬品を置く棚が入ってすぐ左側に置かれており、頑丈そうでしかも高そうな石の棚に仕舞われていた。

 何をしているのかうっすらと解ってきて、背筋が冷たくなる。そう思っていた矢先、体中を包帯だらけにした、身長が二メートルくらいはありそうな大男が暗い、冷たい眼をしながら椅子に腰かけ、その色とりどりの薬品を少しずつ配分された飲み物をゆっくり飲んでいた。怖気が走った。何を飲んでいるのか、考えたくもない。

 そこには、いつもの白衣姿で、しかし何か感情を抜き切ったかのようにせわしなく動いているクーラがいて、一瞬、本当にあれが俺の良く知っている彼女ということが解らなかったほど、その顔に何の表情も浮かべてはいなかった。

 俺が近づいていくと、彼女はまず自分の頬を引っ張ってみて、それのせいで涙目になりながら、今度はこしこしと自分の目を一生懸命に擦っていた。そんな事をせずとも俺は俺だ、と言っても良かったのだが、面白いのと、ここまで来てやったぞという優越感に浸っていたかったため、あえて何も言わなかった。

 よろよろと更に汚れていた白衣を揺らしながらこちらに近づいてきたクーラに、にっと微笑んで、「よう、久しぶりだな、馬鹿女」と精いっぱいの皮肉を言ってみた。が、返ってきた言葉は、

「何で来たんだッ、こんな所に!!」

 という怒声だった。

 せっかく来てやったのにそのセリフは無いだろうと思ったのだが、そんな事はお構いなしに彼女は身体をわなわな振るわせながら、こちらへと踏み出し、ぱんっと、俺を、叩いた。


 呆然とした俺は周りの反応と同じに、時が止まったかのように立ち尽くしていた。

 周囲が俺達の事をひそひそと囁いているのを見て、ヤバいと思う気持ちと、何故そこまで拒絶されたのかが解らず戸惑う気持ちで頭が満杯になり、何も言えなくなる。

 クーラは汚くなった白衣の裾で気にも留めず涙をごしっと拭くと、手を引いて俺を大きな空間から隣に続くらしい部屋へと連れて行った。

 そこは休憩スペースらしく、何やらコーヒーメーカーや果実のジュースが氷が入った

 入れ物に入れられていて自由に飲めるようになっているらしく、その鋼で出来たような入れ物は汗をかいている。

 その他にもチョコレートや見た事も無いような菓子類が置かれていたり、様々な娯楽系書物が置かれていたり、一種の休憩場所らしかった。中から鍵をかけると、やっとクーラは落ち着いてきたのか、俺の方に向き直り、言う。

「何で来たんだね、君は……こんな所には来ちゃいけないんだ、君は。こんな所を見ちゃいけないんだ、……君がいてはいけない世界なんだよ、カケネ……」

 そう辛そうに漏らす彼女に、先程の光景がまざまざと思い浮かべられた。

「お前、戦争の兵器がどうとか、前言ってたよな…ってことは、あれ(・・)が――」

「君の想像の通りだ……」

 泣きそうな顔を作りクーラは俯いて、


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 血を吐くようなそのセリフに、思わず俺はその身体を抱きしめたくなったが、少し手前で留まる。今、そんな事をしている場合じゃない。

 力なくテーブルの前の椅子に腰を降ろした彼女に掴みかかる様に、顔を近づけて、小声で怒鳴った。

「何でそんなことしてんだよお前は! 自分が何してんのか解ってんのか!!」

「したくてしてる訳じゃないことくらい解るだろうッ!!」

 その怒気に思わず圧倒され、俺は何も言えなくなった。

 その顔は涙で光り、声は震え、テーブルの上で固く握られた拳は力を入れ過ぎて白くなっていた。

 そんな顔を何十秒見ていただろう。

 俺は呟くように、もう一度、今度は静かに尋ねる事にした。

「何でこんな事してんだよ……お前……」

 その言葉に、少し身体を震わせると、クーラはぐすり、と鼻を鳴らすと、「仕方無かったんだ」と言って笑った。

「初めは、私の恩師がかかった難病を克服するための薬を作る、という事が目的だった。筋肉が次第に硬化していき、次第に身体全体が動かなくなり、ゆっくりとだが呼吸も出来なくなり死ぬ、というものでね。彼を見ている内に、何とか出来ないものか、と研究していた。そんな時、このシャトラーゼ軍の薬学部にいい薬があると聞いて来たんだ。君も知っての通り、この世界は小さな多くの島で出来ている。それぞれの島同士が遠く、しかも滅多に交流が無いからそれぞれ独自の世界、島、国固有の特徴ある動物や植物が手つかずで残ってる。今もまだその片鱗は多分に残っているし、これからも当分残るだろう。そんな世界が楽しくて国境無し(ボーダーレス)として研究を続けていたが、この研究室では自分では手に入れられないような薬品の元になる植物が大量に保存されていたんだ。そして私は研究を続けた結果、遂にその進行を遅らせる成分を発見した。

 恩師に試した結果、劇的によくなり、今では普通に生活している。今でもお礼とバースデーカードが途切れた事がない。私もやっと恩が返せたと喜んだんだが、辞める時、こう言われた。『ここまで来て戻れると思うのか』と。意味が解らなかったが、軍は最初からそのつもりだった。

 その成分は多く投与すると、筋肉組織に劇的な変化を与える。詳しくは話せないが、要は超人になれる薬、麻薬になるんだ。作る時、私は宣誓書を書かせた。絶対に悪用しない、した場合即刻法的手段に訴える、と。

 その宣誓書ごと『してない』と言われた、自分の家にまで押し入られその写しまで燃やされるとは、思ってもみなかった。

 私は立派な重罪人さ。大切な人達の命を盾にされる程に。

 君がすんなり通されたのも納得だよ。私の手伝いに来たと言うのなら、君も一緒に犯罪人にしてしまえば力も増えるし何より人質も増えるんだからね。まさに飛んで火にいる夏の虫、だよ」

「……っくしょうッ!!」

 そう短く叫ぶと、俺はテーブルを思いきり叩きつけた。

 上に乗っていた菓子がバラバラと床に零れる。頭をガシガシと掻くと、ふうっと鋭く吐いて、「逃げるぞ」と言った。

 クーラが驚いた顔を作ると、すぐに「無理だよ……」と首を振った。何でだ、と目だけで俺が尋ねると、彼女は、

「私が今まで何人に薬を投与したと思ってるんだい? 最初は()められたとしたってしたことが許される訳じゃない。どんな言い訳したって、思考能力の無い、筋力ばかり発達したバケモノを作りだしたことに変わりないんだ」

 泣きそうになりながら、顔を精一杯引き締め彼女は俺を見る。どんなことをしてもここから離れない、と意思表示するかのように。

 俺はドアを睨みつけて、「逃げりゃいいんだよ」ともう一度呟く。

 今度はクーラは聞き分けのない子供を相手にするかのように、「君には悪い事をしたと思っている。一端解放された時、むしろ殺されずにすんで逆に礼を言ってしまったくらいだったよ。でもまたあの紙が来て……協力しなければ遠くに住む友人達を一人ずつ拷問にかけると言われてる。……もう、逃げることすら出来ないんだ……」

 俯いている俺の頭を優しくふわり、と撫でられる。

「私の服、着てくれたんだね。良く似合ってるよ。あんなに嫌がっていたのに……照れ屋だね君は」

 撫でられる手が震えているのに、俺は唇を痛いほど噛んだ。ぷつり、と音がして、血の味がした。俺は、睨みつけるように、クーラを見た。その眼に溜めたくもない涙を乗せて。

「君に、伝えておきたいことがあるんだ」

 そう言って、青白い顔のまま、笑った。

「私の、最後の発明についてなんだ」

 両手で俺の頬を包んで、その眼に浮かんだ涙を、すっと、吸った。

「録音してくれ、私の一番愛しい人(『呼人』)」

 とても綺麗な顔で、言った。

「私の最後の、お願いだ」



 12



 〝声〟を録音してから、俺はもう一度クーラに向き合った。

 その顔は、何かを諦めた者特有の寂しげでありながら、受動的な雰囲気をしていて、俺は思わず唇を噛む。先程噛んだ所をもう一度噛むことになってしまい、鋭い痛みが走ったが、それにも構わず彼女に告げる。

「言ったよな。『私を許してくれ』って」

 びくり、と彼女は肩を震わせる。構わず俺は続ける。

「解ってたんだろ? いつか、近いうちにまた軍に呼び出される事をよ」

 震えながら、クーラは小さく頷いた。その事に強い怒りが込み上げてくる。

 馬鹿にしやがって。この信じられないくらい人の良い、いつまた地獄に呼び出されるか解らない状況で、倒れている小汚い人間をうっかり助けてしまうこの馬鹿女を、どこまで利用すれば、気が済む。

 その時、ふっと俺は自分をやけに冷静に考えた。俺は、こんなに他人の事で怒るような人間だっただろうか、と。

 それを教えてくれたのは、俺を〝人間〟にしてくれたのは、誰なのか、という事を。

 自分を犠牲にしてもいいと腹の奥が熱くなるのは、一体何故なのか、という事を。

 目の前の、どうしようもなく優しいこの女が俺にとって、一体何なのか、という事を。

 決める。

 腐った世界で、腐った人間達が作った檻の中で、一つだけ出来る方法。無茶苦茶で出鱈目で、シンプルな方法を。

 扉の向こうで、派手な音がした。誰かと誰かがぶつかり合い、そしておそらく殺し合っている音。すう、と息を吸い込み、吐き出す。やることが決まれば、後はそれを実行するだけだ。

 ゆっくりとドアに向かい、俺は呼び止められる。

 クーラは、とても優しい顔で、「もう捕まらないでくれよ」と言った。

 俺は、一言返す。

「何勘違いしてやがる」

「え……?」

 ドアに向かって、吐き捨てるように呟いた。

「どこまで頭お花畑なら気が済むんだよ。お前の言う通りに誰がするかってんだ」

 驚いた表情など見なくても解る、後ろで息を飲む姿がありありと想像できた。

「じゃ、何をするつもりなんだ君は!! ここは軍事基地だぞ、何か危ない事をするつもりなら――」


「――うるっせえって言ってんだこの馬鹿女ッ!!」


 外での激しい人間の声よりも大きく、自分で言ったとは思えない程の怒声でその抗議を掻き消す。そうだ、そんな事言ってる場合でも状況でも無い。俺はゆっくり首だけ振り返り、「うるせえんだよ、この馬鹿」と繰り返し舌打ちしながら言う。こんな時でも人の心配とか、冗談じゃねえ。

「何でお前ばっかりそんな貧乏くじ引かなきゃならねえ。何でお前ばっかり我慢しなくちゃならねえ、何でお前ばっかり、そんな目をしなくちゃならねえ」

 その瞳に浮かんでいるのは何なのか、俺でも解る。一言だけ。たった一言だけだ。


「何でお前だけ、『助けて』って言っちゃいけねえんだ」


 そしてドアを開ける。

 何か言って呼び止めようとするクーラの声を無視し先程の広い空間に出た。

 轟音と咆哮、武器と武器がぶつかり合う音が木霊する。

 開けて左手側。この部屋に入る時に見た大男が戦斧(バトル・アックス)を振り降ろし、それを見た事が無かった細身の長身で銀髪の男、こちらは片目が見えていない隻眼で、長刀を振るっている。

 どちらも顔には精気が無く、虚ろながら見ている物は相手だけ、相手の傷ついた部分だけ、という吐き気のするものだった。

 研究員は俺のすぐ横で無心にデータを取っていて、なにやら時折楽しそうに話している。

 こんな事をしているのに、だ。

 その二人の所にと歩いて行く。ゆっくりと、確実に、一歩一歩。後ろから研究員らしき男達の「何やってるんだ、戻れッ、死にたいのか!!」「あんたが傷つくと俺らの評価に差し支えるんだよ、何してんだッ!!」「サンプルの誤差が解らなくなる!!」とか喚いている。

 うるせんだよ。どいつもこいつも。

 ――どいつも、

 急に入ってきた俺に興味を示すように戦斧の大男が振り向いてきて、俺の方に寄ってきた。その傷だらけの身体から血を吹き出させながら、どこか恍惚(こうこつ)とした表情を浮かべているそいつに俺はにこりと微笑み――

 全身のバネを全開にして(ふところ)まで飛び込み、左腕を限界までしならせその顔に拳を叩きこむ。

 体重差が百キロほども違う相手だろうがなんだろうが関係ない。そのまま身体を腰から回すように捩じり上げた身体はぐるんと元に戻り、自分の身体が軋むのが解る。

 拳を不意打ち気味に喰らった大男は何をされたのが解っていないようできょとんとしながら、尻もちをつきながら俺を見つめる。

 その反応を無視して、斜め左側にいた隻眼に向き直り、――腰だめの(ひね)り気味の中段蹴りを放つ。全くの予備動作無しの攻撃にもろに腹に喰らい、そのまま二メートル程飛んでいった。

 ――こいつも。

 倒れていた大男はすぐさま俺を敵認定したのか、戦斧を振り上げて俺に打ち下ろしてくる。それを目で確かめてからぎりぎり半身にして躱すとそのままの体勢で股間を思いきりアッパー気味の振り上げで潰す。ぐしゃり、という嫌な音と感触を味わいながら振り抜く。

 凄まじい絶叫が轟くが、関係ない。こんな奴に構っている暇は無い。

 その光景を見ていた隻眼は一瞬躊躇したようだが、すぐに俺を殺すことを最優先させたのかその長刀を横薙ぎに振ってくる。筋力を格段に上げているらしいので普通の人間なら目視も難しいだろう。だが俺は呼人だ。誰からも好かれず、誰からも受け入れられることも無いバケモノだ。バケモノ歴なら俺の方がずっと長い。長刀に自分の踵を合わせて剣先を逸らすと、ぎりぎり頭を通って行く。髪の毛が二、三本持って行かれたが、構わない。

 その振り抜いた隙を狙って間合いに即座に入って行き、その頭を掴んだ。

 思いきり後ろに後頭部を引くと、その眉間に額を叩きつける。

 星がちかちか舞っているのも構わず、もう一度引き、叩きつける。ぐらり、と身体が傾いたのを逃さず、ゼロ距離から後ろに回り、首をホールドする。力を籠め―ぐるり、と骨を折る。ごきん! という響く音が聞こえ、ずるずると隻眼が落ちていく。顔中に血が飛び散っていた。自分が今どんな顔をしているのかよく解らない。ただ、振り向いた先にいた研究員たちが、俺の後ろで倒れている奴らで見慣れている戦いとは全く違った感情の籠った殺し合いを間近で見たせいで、全員声も出ず、震えている。

 ――ふざけやがって。

 俺は精一杯怒りを抑えこんだ声で、言った。

「連れて来い」

 この世界は、もっと綺麗なんだよ。


「クーラ・ボーダーレス・クーラーを、ここに連れて来い」


 俺が生きていたいと、思えるほどには。

 ここからどうするか、俺は休憩室のドアの前で俺を見ているクーラに、ただ目をやった。

 どういう理由で泣きそうになっているのかを、知らないまま。



 13



 ゆっくりと近づいてくるクーラを見ながら、俺は呼吸を整えながら目を閉じ、開けた。

 横には悄然(しょうぜん)とした風の彼女が複雑な感情を混ぜ込んだような顔をし、俺を見ていた。

「さて、ここからどうするか、解ってるよな」

「解るわけないだろう、君のすることはクレイジー過ぎて私の思考回路には解読不可能だよ」

「ここから逃げる。お前は何も悪くないようにして」

「……何を考えているんだい、君は」

「ま、見とけ」

「見とけられないよ!!」

 隣の五月蠅いお人好し女ににやりと薄く笑いかけ、俺は怯えて仲間を呼びに行ったらしい研究者らしき奴らに、すうっと大きく口を開けて叫ぶ。

「おおい、てめえら,よッく聴けェ!! この女は俺が預かったァ! 欲しけりゃ自力で取ってみろぉッ、最高の解体ショーの材料にしてやるぜェッ!!!」

 見事にあっけに取られたような顔をする白衣の男達。ついでに隣のクーラも。

 一拍して、俺はクーラを背中に背負い、そいつらに向かって走り出す。解凍された空間の中で、突っ込んでくる男の恐怖に一斉に叫び声をあげて逃げて行く研究者達。それを笑いながら背中を蹴り飛ばしていく俺、そして奴らと同じ様に綺麗な叫び声を上げているクーラ。

 正に阿鼻叫喚といった広い空間で、真ん中あたりにいた俺達は斜め右手にある扉、休憩室の真正面にある出口に突っ込んでいく。

 自分の脚力の限界に挑みながら、俺はとにかくこれでいい、いいと念じながら走る。もう、息が上がってしまいそうになるけど、伊達に今まで物を盗んで追われ慣れてない。とにかく出口に身体ごと体あたりすると厳重そうな扉は軋み、そこに出ていた研究者の一人を押しつぶして外に出る。

 長い廊下を走りながら、先程の衛兵と同じような制服と警棒、銃を携帯した男達が出てくるが、全く速度を落とす事なく進み、全てを蹴り飛ばして先へと急ぐ。ここに来るまでの道順はその厳重さで覚えていた。連絡員たちが走っているのを後ろで聞きながら、とにかく外に出てしまおうと急ぐ。

「俺は外れものだ!!」

 走りながら叫ぶのは体力と呼吸の両面でしんどいものだったが、構わず続ける。聞こえているのはその瞬間強く握られた肩の痛みで伝わった。

「お前の意志じゃない事を俺が伝えていれば、いくら奴らでもお前だけを標的にすることは無い。そうしたら、もう俺達の勝ちだ。そうだろ、クーラ!!」

「カ、ケネ……」

「俺はもっとお前と一緒にいたい!! もっとお前の文句も言いたいし、もっとお前の実験にも付き合いたい! もっとお前の寝相の悪さに辟易(へきえき)したいし、もっとお前の服の趣味の悪さを馬鹿にしたい!! だからクーラ!!」

 すうっと苦しくなりながら、最大級に声を上げ、叫ぶ!!

「俺と一緒にいてくれッ、クーラッ!!」

 ぎゅうっと、首元の服が握りしめられる。そしてふっと笑ったのか嗚咽を漏らしたのからない様なくぐもった声で、言った。「ほら、言ったじゃないか……」ずずっと鼻をすする音が、した。


「二人のラブロマンスが始まったじゃないか、カケネ……」


 俺達は笑った。

 馬鹿みたいに。滑稽に。頭悪く。考えなしで、思いきり。

 こんな世界で、肥溜めみたいな世界で俺は、俺はクーラに出会った。

 何もかもを越えられるような、心地よい翼を持ったように感じながら。

 笑った。言った。叫んだ。

「好きだ、クーラぁああッ!!」

「私もだよ、カケネぇッ!!」

 どこまでも行ける。どこまでも飛べる。どこまでも超えていける。

 ボーダーレスに。自由に。羽ばたいて。

 俺達は、最強だ。

 最高で、最強だ。無敵だ。

 苦々しい顔はもう沢山だ。古い、脱ぎ捨すてろ。

 外に出る。もう夕日が西に傾いている。目を焼くような赤く熱されたような光が網膜を痛める。

 そのまま建物脇の花壇を横切りながら、俺は門へと突っ走る。

 受付の男が驚いた顔で俺を見ている。悪いな、嘘ついて。おかしくてまた笑う。

 勢いを殺さず、俺は門の小さな突起に足をかけ、そして、一気に身体を押し上げる。

 ――飛んだ。

 門を飛び越え、そのまま向こう側に落ちていく。最高の瞬間だった。

 全てがスローモーに見え、門の両脇の衛兵があんぐり口を開けて俺達を見上げているのが視界に入ってまた、俺は笑い、そして何かを弾くような音が聞こえた。がくん、と背中で大きくクーラの身体が()ねる。着地する。

 そのまま船に乗るための道を走っていく。

 誰かが俺たちを見て、甲高い声で叫んだ。

 クーラの足を乗せていた腕が、何か液体で濡れる。

 俺は目を見開いた。

 それは赤黒く、濃く、どろりとした、真っ赤な、何かだった。

 俺は何を言ったか、もう覚えていない。とにかく裏路地に入って身体を隠し、汚いと解りながらもその道にクーラをゆっくり預ける。

 夜が、来ようとしていた。



 14



 俺は、目を覚ましてうーんと伸びをした。

 青空が気持ちいい。風が頬を撫でていき、俺の寝汗を心地よく冷やしてくれる。

 隣には、古ぼけたような小さな墓がある。俺は埃をもう一度払うと、その前に腰を降ろした。お前も、黙ってないで少しは夢にきちんと出て来い。気の利かない奴だな。笑って、その文字をなぞる。

 あれから、もう七年が経った。

 十四だった俺は、もう二十を超えて、こうやって旅をして暮らす毎日である。でも、この日だけは毎年こうやってここにきて掃除をする。好きだったコーヒーと、タバコを添えて。

 頬を緩め、俺はまた俯く。駄目だな、ここに来るとどうも感傷的になりすぎる。男らしくも無く、情けない気分になり沈み込みそうになる。

 ちゃらり、と首に下げた懐中時計を撫で、俺は馬鹿女の顔を思い出す。いつまでも変わらない、思い出の中だけのとぼけた女を。

 あの時の〝声〟は、まだ俺の中にしっかりと残っている。

 しかし、その〝声〟が実現するのは、もう少し後になりそうだ。少なくても、まだ俺が呼人として生きている限りは。

 それにしても実現していたらどうなるんだろう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 まだ俺の我儘(わがまま)で伝えていないが、アイツの最後の発明は、世界を変える事は間違いなかっただろう。()()()()()()()()()()()()()()

 遠くで風が鳴っている。俺はもう一度伸びをして、立ち上がってパンパンと腰を叩き草を落としてから、そこを離れようとした。

 そこに、一人の男が立っていた。何やら悩ましげな顔だったので、()ぐにピンとくる。

「依頼か?」

 少し硬い顔に戻って尋ねる。仕事に切り替わるのがいまいち曖昧(あいまい)になっている。苦笑する。

「あんたか?」

「何がだ?」

「〝国境を超えていく(ボーダーレス)奴〟、ってのは」

 俺は何故だか笑いが込み上げ、そこで思わず笑ってしまった。相手がいぶかしむように睨む。仕方ない、こんな日なのだから。古くてぼろぼろの緑の袖で涙を拭う。

「そうだ」

 向き直り、真っ直ぐ前を見つめ、言う。 



「俺がカキネナシ(ボーダーレス)・カケネだ」


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