第一話
1
どんどんと薄暗くなる。
俺の身体の影はもう見えなくなりそうだった。
闇が包む。
思ったよりも日が暮れるのが早かった。
ここらでテントを張ろうかと考えたが、こんな普通の道に普通にしゃれこうべが落ちている場所で寝るのもぞっとしない。
どうなることか解ったものでは無い。最悪強盗と対峙するくらいの覚悟が必要である。歩いていくと遠くの方で次第に人気のある音と匂い、そして明かりが見えて来たので少し安心した。やれやれよかった。何とか宿にありつけそうだ。
心から安堵をしてから辺りを見回す。こういう時程警戒しなくてはならない。気が緩んだ時ほど危ない時は無い。やられる程柔じゃないが、今は仕事中、『声』に何らかの影響もないとは言い切れない。
俺は深呼吸し足早に歩く。
闇が深くなり、道が見えなくなる。人よりも目もいいので普通には歩けるが、こういう時一般人は明かりを点ける。その時が最も危ない。襲われる瞬間だ。
じゃりじゃりという音が響く。ブーツの下の砂で一応固められている道は、酷く歩きにくく膝に負担になった。あまりこの道を通る人間がいないという事、つまり船からここまでくる人間も少ないという事だ。閉鎖された島なのだな、と思った。まあ、閉鎖的というならこの世界自体酷く閉鎖的とも言っていいと思うが。
「鳥も鳴かないな……」
着いてからずっと思っていたのだが、鳥の鳴き声があまりしない。おかしいとは思ったが、どうやら元々生物がいないようだ。
獣もいるがそれももっと森の深くだ。人はわざわざ奥まで入って行って貴重な動物を仕留めてくる。船の中で聞いた話によれば随分とこの国では猟師が尊敬されているらしい。納得である。
今回の依頼人も猟師らしいと言えば猟師らしかった。寡黙で喜びを表現するのが苦手、だが温かい。見ていて非常に付き合いやすい男だと俺は思ったが、周りからは頑固だ融通が利かないなどと色々言われているようだった。が、そんなもの関係ない。個人的に今回の依頼人の男は俺にとっては〝充分届けられるべき〟人間である。あの幸せそうな顔を見れば何もいう事は無い。重要なのはそういう風に思われている人間もあんな顔をするという事。人は笑う。それがどんな時であろうとも。しかし出来得るならば、幸せの笑顔が見たい。それが珍しいものであればこそ、なお貴重で喜ばしいものだから。
今回の依頼人の『声』を届けるため、俺は今こうしてその家まで歩いていた。郵便も普及した現代では、もう俺のような人間は消え去るべき、消えゆくべき存在なのだろう。
しかし『呼人』と呼ばれる人間の最後として、必要とされるうちはしようと思う。この身体が『声』を運ぶに足りる人間である限り。俺は海を渡り、地を踏み、歩く。それが、俺の役割だ。
そんな事を思っていると、だんだんと明かりが近くなってきた。もうすぐか。少し足どりも軽くなる。踏みしめるじゃりの感触も気にならなくなる。
世界が暗転した。
囲まれた、と思った時には俺の周りは黒い人影が二重に取り囲んでいる。
苦い顔をして立ち止まった。
だから嫌なんだ、こういう土地が。
口に溜まった唾を吐き出し、周りを睨む。
やれやれ。
仕事を邪魔するとは。
そこで身体を沈ませた時、誰かが声を上げた。何だ?
と思った時には周りを駆け抜けている。
女だ、と思った時にはもう身体が勝手に動いていた。
難儀な事だ、と思った。
2
『ボイス・ポストマン』。そう俺達は呼ばれている。
この世界、――〝シェルファ〟と一応呼ばれている――では大陸というものが無く、大きさもまちまちな〝島〟が数多く存在し、それが散らばって人々が住んでいる。
そんな世界では長い間相手に自分の存在を知らせるための手段が無かった。そのため、独自に進化した国が至る所に出来、そのため更に世界は混乱した。
そんな中、古くから俺達のような人間――『呼人』――という存在が、職業があった。
俺達は他の人間が持たない特殊技能、『声』を届けられるという力を持っていた。
どんなものかといえば正にそのままであり、頼まれた者の『声』を完璧にその本人と同じ、口調も態度も完全にコピーして再生する、というものである。
時間は五分。その時間なら誰でもどんな人間でも再生する事が出来る。
その力は時に忌み嫌われ、崇め奉られ、迫害の対象にもなった。
しかしどんな時でも変わらなかったのは、一つだけ。俺達は貴重な『資源』だった事だ。
相手に自分の気持ちを正確に伝える。届ける。その力は不気味であり、遠ざけたい存在でありながら誰にとっても必要なものだったからだ。
俺達『呼人』は、一種の誇りを持って仕事をしている。
『声』を届けるという奇跡のため、世界を歩く。
しかし時代が進み、音声が届けられるのもそう不可能では無くなってきた今では、俺を含め『呼人』は殆ど居なくなった。
でも俺達は運び続ける。『声』を。頼まれる限り、望まれる限り、いつまでも。どこまでも。
名をカケネ、カキネナシ・カケネ、で『カケネ』で通している。
今来ているここ、『ヨラズの島』に来て思った事。
世の中物騒だな、と。そして、女は何処に行っても逞しいな、という事であった。
「大したものだな」
口笛を吹きそうになるほど、それは実に見事だった。
あれだけいた山賊たちは、みなその身体を大地に投げ出していた。
その女は、こちらを向いた。美しいな、と素直に思ったのだった。
3
「何故このような所に来られたのです」
そう言われて俺はたじろいだ。たった今、この山賊どもを二人で一緒に倒したというのに最初に出てくる言葉がそれか。せめて身体の心配くらいしてくれてもよさそうなものを。
俺は頭を掻きながら、「いや、仕事だ」と手短に答えた。何を考えているか解らない、ということをよく言われる自分としては、この説明が更に不信感を与えてしまっているのだろうな、と思って憂鬱になった。今回の依頼人にも、好感を持ったのは自分を重ねたからだ、と分析ごときものをされれば思わず頷いてしまう。
「仕事とはどんな?」
女はこちら不躾な眼を向けたので少し不快だったが、助けられた恩もある。素直に「『声』を届けに来た」と言うと、露骨に顔をしかめた。
「『呼人』様でしたか……薄暗くて解りませなんだが見れば金の髪に蒼き瞳……確かに」
『様』付けしているものの顔は堅い。相当警戒されてしまっている。ま、仕方ないと言えば仕方ない。俺達『呼人』はそういう存在だ。人と違うものは外される。変わらぬ人の世の理だ。「やはり違ったか……」と呟いてる。何の事かは解らなかった。
「先程は助かった。礼を言う」
本心だ。ちょっとやそっとでは山賊に後れを取ることはないだろうが、数が数だった。何があるか解らない。この女の助けが間違いなく大きかったのは事実だ。
「礼には及びません」
本当にそう思っているような態度だ。何だ、こんなことが日常茶飯事だとでもいうのかこの島は。
そう思って顔をしかめていると、「今宵はどうされますか」といきなり訊いてくる。
「宿屋があればそこに泊まろうと思っているが」
言うと、
「これから店を閉める時間です。もとより宿屋などは猟師様が猟の帰りに泊まるもの。外からの客人を迎えるためのものではございません」
それを聴いてますますげんなりする。それでは本当にここらで野宿する羽目になりそうだった。人がいるというのに野宿するのは何とも情けない。ま、仕方ない。
肩を落としていると「仕方ありませんね」と言い、先に歩いていく。どうしたのかと思っていると背を向けたまま、「我が家にお泊り下さい」と言って、歩いていく。ついて来いという意味にようやく気付き走って横に行った。
「ありがとう」
笑って感謝の意を述べると、少し驚いた顔をし「何だ……」と明らかに安心していた。どうしたのかと訊いたら、
「『呼人』は人間の心を捨てたバケモノだから気を許してはならないと」
行った後ですぐ発言に気付いたのか、慌て「だからです」と言い、俺が「何がだ?」と訊くと、
「あなたは心を捨てたようには見えません。あれほど、強かったのに」
『呼人』というものがどれだけ誤解されて伝わっているかに少なからず悲しみを覚えるが、まず、俺は目の前のこの女―よく見るとまだ幼さが残った女性―を改めて見た。
動きやすそうな赤のシャツに黒のズボン。伸縮性のあるものなのか、身体に吸いつくようなのに、動く度に伸び、縮んだ。足元は革で出来た靴、サンダルと呼ばれるものに似ていた。普段から運動をする事が解る、健康的な躍動感のある身体だ。
顔は目元に赤い紅を引き、反対に唇には何も塗っていない。逆にそれがアンバランスな色気を漂わせていた。美しい、と最初に思った事は間違いじゃなかった、と思った。
ひっつめにして後ろに流した長い黒髪をなびかせ、名を訊いてくる。
「カケネだ」
「オトナシです。どうぞよろしく」
綺麗な笑い顔だった。
最初からそうしてくれればよかったのにと内心思ったが、結局口には出さなかった。
町の灯の明かりが、近づいている。
4
「遠い所からようこそいらっしゃいました」
笑顔で俺を迎えたのは、オトナシの母親、家の主人だった。
どうやら主人である夫は昔猟の最中に大きな熊に襲われ死んだらしい。そんなことまで話してくれるあたり話好きな事が解る。色々訊かれたため、俺は気付いていないふりをしその場をしのぐ。まさか、こんな事があろうとは。内心驚きと後悔でうな垂れそうになったが、まだ話すべきではない、と適当に話を聴いた。
オトナシが「お湯の準備が出来ました」と言うので、入らせてもらう。
「わざわざすまないな」と頭を下げると、母親が感心したように「この方が『呼人』なんておばあ様は嘘つきねえ」と笑う。母親も実は相当に緊張していた事が解って何だか可笑しくなる。そうだ、俺はこの通り何でもないただの人だよお二人さん。そう言いたかった。
「では、入らせてもらう」
少し機嫌が良くなった俺は癖の鼻歌を歌いながらオトナシに付いていき、木目が美しい床を踏みながら歩いて行く。廊下に出ると、右側に庭があった。話に聞いていた通り、死んだ主人というのはかなりの地位をこの国に持っていたらしい。噂にたがわずいい所に住んでいる。これなら確かに問題も起きるだろうな、という成金臭さも多少感じた。
しかし、庭は見事だった。暗い中でも、松明が掲げられ、ぼうっと庭の花や木々を浮かび上がらせている。何かが出て来そうな程優美な雰囲気が、そこにはあった。猟師という山に精通した男がこういう庭を作る。解らないでもない。
風呂に近づくと、いい匂いがした。硫黄、というんだったか、卵が腐ったような匂いだが、不思議と心休まる匂いだった。オトナシに訊くと、やはり温泉が湧き出ているらしい。肌にいいのが自慢で、国の遠くからこの湯を求めてやってくる人もいるらしい。なるほど楽しみだ。
また鼻歌を歌いながら案内された場所に行こうとすると、呼び止められた。何だ、と思い振り返ると、「どうしてそんなに力が入っていないのです?」と訳の解らない事を訊かれる。意味が解らずただ馬鹿のように突っ立って続きを待っていると、
「先程の腕、失礼ですが相当訓練を積んだお方だとお見受けしました。私が出会ってきた男は、そんな力を持っていれば大抵が威張り散らした嫌な人達でした。最低です。……――でも、あなたは違う。何というか、他の男とは違うのです。何故ですか」
「お前の父親とは違う、という事か?」
さっと顔色を変えオトナシは俺を睨んできた。まあ、当然か。
「何故父の事を?」
「いや、別に知っている訳じゃない。ただ、さっきの母親の父を語る時のお前の表情が気になったからな」
「……よく見ておられるのですね」
「そう言う訳じゃない」
そう言って笑う。本当だ。よくなんて見ていない。そういう所がたまたま目についただけだ。
なおも俺に続きを話せと目で言ってくるオトナシに、少々困りながら言った。
「強い強いと思ってる内は強くない。弱い弱いと言ってるやつが本当に強い。何でも、だ。少なくとも俺が会ってきた強い奴は、皆そうだった」
微笑んで彼女を見つめ、「強くなろうと焦るな。ただ精進しろ。お前なら出来る。ま、俺も本当の意味で強くなれてる訳じゃないから、偉そうなことは言えんが」
そして背を向け、風呂場へと向かう。さあ風呂だ。楽しみだ。
気配で、ずっとそこに立ち尽くすオトナシの姿が想像できたが、気付かない振りをした。
仕事に関わるからだ、と、自分に言い訳する。
驚いた顔が綺麗だったから、というのは言えなくて当然だった。
5
「良いお湯だ………肌に効いているかは知らんが」
俺は湯船に浸かりながら長い息を吐く。心地いい。身体に溜まっていた疲れが溶け出ていくようだ。
何が必要か、と言われて身体を洗うことほど大切な事は無いと思う。よくタオルで身体を拭き、湯船に身体を浮かべる。至福の時とはこういう事か、としみじみ思った。
疲れた。しかし何にせよ仕事がしやすくなったというのは大きい。これから頃合いを見計らって『声』を伝えればいい。何にせよ、ここに泊まることが出来たのは不幸中の幸いだった。
空にはもう月が出始めており、その僅かな燐光が俺の入っている湯船に入り込む。
湯船は木のいい香りがし、またたくまに思考が解けて行く。
さてどうすべきか。
今の状態では伝えようにも伝えられない。当初の目的が完全に壊された今、伝える事に意味があるのかと思わなくはない。しかし、彼の『声』は確実に届けたい。そんな堂々巡りを繰り返しつつ、俺は中々湯船から出る事が出来なかった。
6
上がった後、何もこんなにまで贅を尽くさなくても良かろうと思う程、豪華な夕食が出て来た。
客として待遇されているのか、しきりに酒や食べ物を勧められる。
本来はあちら側が『客』という事になるのだろうが、これではあべこべだ。しかし、あまり人の出入りが少ないこの国では外から来る人間に興味深々だ。
俺も逆らわず、ただ料理を褒めながら食べた。海の幸に白い飯、時々スープ状の飲み物が出て来たが、流石に全部食べる事が出来ず残した。本当は食べれる時に食べると言うのが信条なのだが、限度というものもある。
手厚い待遇に、何処か居心地が悪くなった。
少し後、急須からお茶を淹れてくれたオトナシは、少し恥ずかしそうに「思い出します」と言った。
「何をだ?」
と聞き返すと、頬を更に赤らめ、「兄です」とだけ言った。
一番上の長男は心優しい腕のいい猟師だったが、海の向こうから来た女性と恋に落ち、そのまま駆け落ち同然でこの島から出て行ったらしい。難儀な事だ、と言った。
その下にも男兄弟が一人いるが、これまた酷い極潰しで金を盗み、女を強姦し、喧嘩もするしでほとほと困っている、という事だった。
しかしその男が長男がいなくなったら彼が跡を継ぐことになるのではないか、訊くと、「それが悩みの種でしてね」と母親は言った。
「あいつは馬鹿にも長男のヨウゾウよりも自分がふさわしいと思っている様でして…自分の実力を図り間違える者程怖いものはありません、全く、私が死んだらどうなるのかと今から心配で心配で」
そう言って大袈裟にも思える程露骨にため息をつく。成るほど、大体の事は解った。そう言おうとした時、横に座り自分よりも相当質素な夕食を摂っていたオトナシが「心配いりません」と強く短く言った。
俺が何故だ、と表情で尋ねると、
「私が、国の純粋な猟師の家系を途切れさせることなく、後を継ぎます」
そう言うと、母親はやれやれという風に首を振り、
「この子は年頃なのに縁談も断ってばっかりで、挙句にこの家の仕事を継ぐと言って訊かないんですよ。カケネさん、何とか言ってやってくれませんか」
俺に何を言えと言うのか。そもそも、今日会ったばかりで人様のそんな家庭の事情に入り込むのはどうなんだ、と思う。
しかし今回の仕事にはそれも必要か。黙っているオトナシに向き合い、
「何をお前はそんな恐れている?」
とだけ言った。
オトナシが目に見えて動揺した。それを見ていた母親も驚いた顔をし俺を見た。
「恐れてなどおりません」
声が少し震える。これ以上の追求は好まなかったが、仕方がない。
「次男に何か関係しているのか?」
「カケネさま。今日はお疲れになったでしょう。部屋を用意しております。ゆっくりお休みになってください」
自分から振っておいてもう話すな、ということらしい。
それならば仕方ない、そうしよう。立ち上がり静かに襖を開けて音に出て行く母親を追おうと立ち上がりかけたその時、一言オトナシが言った。
「なるものか、絶対に」
意味が解りかねたが、無言でその場を去る。
何か力になれればいいが。
だぼついた上着の中に腕を通し、母親の後を付いて行くのだった。
7
寝室は客人のもののようで広く、しかし殺風景な場所だった。死んだ主人の趣味だったのか、壁には掛け軸(?)というのだったか、がかけられているし、その下に段差があって、荒々しさも感じる白い陶器が置かれている。
使ってくる人間がいないせいか、どこかよそよそしく、他人を一時的に隔離するための檻のように感じなくも無い。
がらんとした部屋の中で、一人指回しをしながら考えた。
仕事は簡単だ。彼らの前で『声』を出せばいい、それだけだ。
しかし、せめてこの家が安らぐような、そんな結末も抱きたくなるのは俺がまだ未熟だからだろうか。
お節介なのは解っているが、それでも思わずにいられない。どうか。幸せに。
頼まれたあの男の笑顔が思い出される。どうしたものか。
疲れていたのだろう。睡魔が徐々に身体を蝕んでいく。身体が重く、瞼は落ち、眠りの一歩手前まで来る。
寝る時、いつも海の底に沈んでいく夢を見る。
身体が動かせず、日の光が当たるところまでは美しく、しかしその光さえ届かない所になると一面の漆黒が身を包む。
もう助からない、という所で、何故か深い安堵を感じる。
それが俺の夢。よく見る何の意味も無い、ただの夢。
そんな海の中に、ひたすら沈んで行った時、急に物音が響く。微かだが、何かが割れる音、叫び声のようなものも混じっていた。
寝巻のまま急いで飛び起き、その足で音のする方へと走って行った。
音が近づいてくる。何かがまた割れた、陶器か。考えもそこそこにその襖を開ける。
唖然とした。
泥酔した男が、母親を殴りつけている。
面倒な事になってきた。
下を向き、息を吐いたのだった。
8
その男は訳の解らない事を喋り、叫びながら母親を蹴り、はたき、時々殴る。それをただ母親はじっと耐えているだけで、見ていたらしいオトナシは唇が噛み切れんばかりの表情で反対側の壁にもたれていた。どうやら止めようとして腹を蹴られたらしい。腹部を押さえて呻いていた。この女がやられるくらいなのだから、酒乱とはいえこの男も強いのだろう。見てみると身のこなしが軽い。
しかし女の腹を蹴るなどという最低の行為をしたことに変わりない。
関係なくとも少し腹が立ち、音も無く近寄りその母親を足蹴にしている背中に向かって掌底を突き出す。
右足で踏込み左手で放つ。全身を柔軟に、腰から手首までを一本の鞭のようにしならせ床が抜けるのではないかというほど足で踏む。
背中から見た右のわき腹――つまり左の脇腹――を狙って吹き飛ばす。
叫び声を上げ飛んでいき、襖を突き破り向こうの部屋まで行った。ごろんごろんと転がりながらも受け身を取っているあたり、山の中を親しんでいる狩人の身のこなしを感じる。荒い咳と呼吸をしぜいぜいと空気を吸う。近づいて行ってとどめ、ではないが大人しくさせようと近づく。
しかし男はばっと立ち上がり右手前、右足前の構えをふらつきながらも取ると、俺ににごりながらも鋭い視線を向け、「……だ、れだ、テメエ、は……」と言ってくる。
「こういう時は自分が名乗ってから尋ねるのが礼儀じゃないのか」と言うと、
「何言ってやがんだテメェ……いきなり不意打ち喰らわせるとはいい度胸じゃねえか、殺してやるから来いよ」
「カキネナシ・カケネ、だ。名乗らなのでこっちから言う。よろしく頼む」
「つくづくふざけた野郎だ、こんなやつ連れ込みやがって……おいオフクロ!! こいつが俺の代わりにハゴスレ家を名乗る野郎ってことか!? ぜってえ認めねえぞ俺は!! 兄貴がいない今、この家は俺のもんだ。ここら一帯を締めてた親父の跡を継ぐのは俺しか居ねえ、くそ、酒だ、酒寄越せっ!!」
「アルコール中毒か。難儀だな」
「うるせえッ」
どうやらふらついてたのは俺の一撃だけでは無かったようだ。指先は小刻みに震え、視線も定まらず。よろけては立て直すを繰り返している。
「そんで、オトナシも俺のもんだァッ!!」
横目で見ると、オトナシの顔色が真っ青になっている。
どうやら複雑な関係性がこの家にはあるらしい。がそんな事はともかく。
「おい男」
俺は最大限の怒気をたたえ言った。
「逃げるなら今の内だぞ」
わき腹の痛みを思い出したのか、少し赤ら顔に恐怖の色が走ったが、すぐに「何言ってんだテメ――」
と言いかけた瞬間、姿勢を低くし一直線に男の胸元にまで飛び込む。
前に出ていた右足を両腕で掬い上げ、思い切り上に持ち上げた。叫び声とも驚きとも取れない声を上げ、そのまま頭から畳の上に叩きつける。その転がった体勢のまま馬乗りになって拳を振り上げる。その顔面に向け振り下ろした所で――寸止めする。
「逃げるか、詫びか、死ぬか。好きなのを選べ」
無表情で言うと、そのまま拳をぴたりとつけ、俺は男の濁った瞳を見つめる。
がたがたと震え始め、「あいつらじゃ駄目だとは思ったが、……何だ、このバケモノ……ニンゲンじゃねえじゃねえか……」
――ご明察。
と、言おうと思ったが、そんな気分にはなれなかった。ゆっくり離れると、男はそのまま開いた障子から外へ裸足で飛び出していった。
外は寝静まったかのように人の音が何もしなかった。蟋蟀が鳴き、微かな風情を感じたが、それも今の気分には到底似つかわしく無いものだ。
「話を聴かせてもらっていいか」
振り返って二人に言う。
寝るのは、ここでおしまいのようだった。
9
外れた戸を直し、俺は応接間に通された。
使用人も先程ちらほら見えたが、あの男が来てからぱたりと気配も立たなくなった。現金な事である。ま、使用人だから仕方ないか、とも思った。
俺は自分の前に担いできたリュックを置き、その中から痛みによく効く薬草と、軟膏を取り出した。流石に俺が彼女たちに直接塗るわけにはいかないので、それを手渡し、しばらく外で待っていることにする。
外は松明で揺れていた先程の庭が暗闇の中でひっそり佇む。
静かすぎるくらい静かだ。怖い、とこういう時には思う。何者も存在を許さない。静寂という名の、暴力。
男は力の限りの暴力をふるい、二人に乱暴を働いた。おそらくあれが次男だろう。
と、いう事はオトナシは何になるのだろうか、という疑問は当然湧いてくる。そこから、今回の騒動も起きている、と考えた方が自然だった。
しばし目を閉じ、心を落ち着かせてみようと思った。声の再生は上手く出来るか、身体に訊く。節々に変化はない。これならば正確にあの時の依頼人をコピーできるだろう。全く、詳しい事を話されないまま来たものだから、ここに来てから困った事になっている。どうしたものか。
関係ないが、昔仲間に「お前は本当に『どうしたものか』と『仕方ない』をよく言う男だな」とからかわれた事があった。
今も勝手に滑り出ていた心の声は、確かに俺を苦笑いさせる力を持っていた。
月が出ている。綺麗だ。世界にこの存在があるおかげで、どれだけ芸術家が助かったか解らない。黒々とした中に潜むその黄金の半月は、俺の仲の何かをいつも刺激した。それが何なのかを、考えた事などなかったが。
10
襖の向こうから呼ぶ声がした。
一言断って中に入る。応接間らしく調度品が高価そうなもので固められている。畳の部屋なのは変わらないがどことなく質感がいい。
猟師が尊ばれる国というのは解るが、それがここまでの地位になるとは思わなかった。あの男もそんな事は言っていなかったし。ますます口が重くなる。どういう状況になればこうなると言いたいくらいだ。
軟膏の甘い香りが立ち込める。ふわりと香る匂いは花のように慎ましやかながらも記憶に残る。この軟膏を使い続けているのもそういった理由だ。やはり臭いよりいい香りのほうがいい。もちろん、効用が一番だが。
母親の方はあれだけ激しく痛めつけられていたのに、そんな事はおくびも出さず美しく正座している。むしろ、その隣で母を労わりながら大した怪我をしていないオトナシの方が完全に頭にきている様だった。気持ちは解る。その瞳にははっきりとした憎悪が滲んでいる。
とりあえず、話を聴かなければなるまい。俺は奥で正座している二人の前に座ると、申し訳ないが胡坐させてもらった。あまりこの座り方に慣れていない。
身体に異変は無いかざっと見て調べたが大きな怪我はなさそうだった。腐っても身内、手加減はしていたという訳だろうか。
二人の方を見て言う。「申し訳ないが」交互に見る。「何が起きているのか教えてくれないか。関わる気は無かったが弾みだ、頼む」
いけしゃあしゃあと嘘をつく自分に呆れるが、方便という言葉もある。ここは有効に使うのが得策だろう。
中々口が重く、もしかしたら話してくれないだろうかとも思ったが、その内母親がゆっくりと口を開く。
「あれが……夕食の時に申しました次男です」
「そうか、何やら事情がありそうだな」
「ええまあ……ところで先程は大変すみませんでした。お休み中の所、起こしてしまったばかりか助けに入ってもらうなど……言葉もございません……」
「気にしないでくれ。あれで止めない方がおかしい」
「お言葉も……」
「いや、本当に気にしないでくれ。こちらもすまなかった。この家の者に乱暴を働いてしまった。許してほしい」
驚いた顔をした母親はやわやわと笑みを作ると、「オトナシの言っている意味が解りました」と悪戯っぽく隣のオトナシを見た。オトナシは気付かない振りをし真っ直ぐにこちらを見つめていたが、表情には焦りが見えた。理由は解らない。
「それで……どういう事なんだ?」
俺が母親を見ながら尋ねると、「まあ、よくあることですよ……」と言いにくそうにしていたが、意を決したように話し始める。
「わたくしには親友が一人おりました。仲が良く、子供時分にはよく悪戯をして一緒に怒られたものです。彼女には既に夫がおり、随分と仲のよい夫婦でした。……しかしこの国で大体そうであるように、この国の猟師には命の危険が伴います。昔から獣が少ない割に身体は大きく、危険な種も多いので、捕らえるのは命がけなのです。栄誉と地位と交換に、その身はいつ消えるか解らない儚いもの……例にもれず、彼女の夫も帰らぬ人に……その後彼女も元々の身体の弱さから体調を崩し、後を追うように…残ったのが、この」
「――私、という訳です」
覆いかぶせるように言うと、オトナシは何の変化も無いように見えるその表情に幾分陰りを見せ、俺を見る。
「血は繋がっておりません。しかし、私はこの家の娘です。死ぬ時も、ハゴスレ家として死にます。それが、望みです」
瞬間、母親が瞳を滲ませかけたが、目をやった頃に元に戻っていた。強いな、と思う。
「では、先程の次男が言っていたのは……?」
「男女の仲は曲者でしょう?」
母親は困ったように眉を八の時にして笑う。実際笑っている場合ではないのだが、歳重ねた人間は辛い時に笑う力を知っている。何があっても笑う。一つの強さである。
「――次男がオトナシを好いている、と」
「そこに利権がかかったら駄目ですわ」
「なるほど」
「私に、そんな気はありません」
オトナシは切って捨てた。切って捨てたというのが一番適切であるかのように容赦なかった。
「おそらく先程カケネさまを襲ったのもアイツの手下でしょう。そんな事をコソコソと相談していたので、急いで行ってみたら案の上でした」
「助かった」
笑って俺が言うと顔を赤くしてオトナシは俯いた。「あらあら」と口に手をやり可笑しそうに母親が笑う。良く解らなかったが曖昧に微笑む。更に「あらあら」を母親は繰り返す。それを恨めしそうに睨んでいるオトナシ。これ以上変な空気にならないよう、訊き直す。
「大丈夫、なのか」
様々な心配を含めて言ったのだが、母親には上手くかわされ「ええ」とだけ言われた。
そんな訳は無いが、俺は何か力になれないか考えてみた。気付かれないように探りを入れる。
「長男は外に出ていると聞いたが……」
正念場だ。さあ、どうなる。
「良く出来た子でした。父親が嫉妬する程に」
母親は呟き、ふうと息をついた。「狩人はよりいい狩人になりたいと思います。どんな年齢でも」首を振り、悲しそうに俯く。蝋燭の火が揺れ、深い陰を落とす。陰影がくっきりと表れ顔を隠した。踏み込んでいくべきかどうか迷う。そう思った時は、もう笑顔が戻っていた。
「神童、という言葉がございますでしょう? 長男―ヨウゾウはその腕前から夫の自慢でした。息子が自分を追い抜くまで……」
悲しみと辛さを混ぜ合わせた笑みとはこういうものか、と俺は場にそぐわない考えを持つ。皺が深く刻まれたその顔に、思わず吸い寄せられた。
「次男――ヨウショウはそんな兄に劣等感を持ち、父は次第に腕を上げ追いつかれていく事への苛立ちを募らせます……狩りの腕と正反対の、寡黙で優しい、本当に優しい子でしたので……心中はどうだったのか……今となっては想像するしかありませんが辛いものだったと思います」
オトナシは辛そうに唇を噛む。何の感情か。予想するしかないがおそらく。
「そんな時、外からたまたまやって来た女性と知り合い……何も言わず出て行ってしまいました。その後すぐに夫も……恥ずかしい事でございます」
話は終わったようだった。根が深い。
「ヨウショウと話がしたい」
突然の俺の提案に二人が怪訝そうな顔をする。何を言っている、という顔をして見つめた。
何気ない風を装い、笑う。
「俺も奴に、教えなければならないことがある」
飲んだくれになるには理由が必要だ。それ相応に。
「まあ、仕事外なんだが。本当は」
ますます解らない、という顔をされ親子は顔を見合わせていた。
11
少し歩いた所にそれがあった。
古ぼけた、長屋の様に縦長の住居。周りから離れているのは、彼らが人々に馴染めないからなのか、それとも人々が彼らに馴染めていないのか。両者な気がしたが関係ない。
中からは騒がしい男達の声が聞こえてくる。低く笑う声や卑猥な冗談、どこそこの女はいい、犯りたい、昼飯が足りない、買って来いなどの荒々しい、正に騒音だった。
ここはハゴスレの家よりも十分ほど行った所にあるヨウショウの家、もしくは手下とのたまり場だった。教えてくれた母親とオトナシは「危険だから止めた方がいい」と何度も言ったがそうも言ってられない。せめて自分は自分の思った通りにする。そのくらいは許されるはずだ。
三つの一軒家が連なったようになっている長屋で、玄関らしきものはちょうどその真ん中にあった。俺が用件を言おうと玄関の方へと近づいていくと、ちょうどがらりと引き戸を開ける音して相手は俺と向かい合う事になった。俺の方は覚えていないが、相手の恐怖とも怒りともとつかないような表情はおそらく昨日夜道で襲ってきた男の一人だろう。
俺の顔を見るなりどたどたと足を踏み鳴らし奥へと引っこむ。大声で「野郎だ、野郎が来た!」となまりの強い口調で言っている。
複数の足音が玄関の方に近づき、三人の男が顔を出した。男たちは順に俺を見測るように見た後、中央の一際身体の大きい、不精髭が濃く、太い眉にぎょろりとした目の男が俺に「何用か」と、尋ねてきた。
俺は頭を下げ、「昨日は済まなかった。倒すつもりはなかったが、何より数が数だった。許せ」と言うと、
「馬鹿にするのも大概にせんか!!」
と男は一喝した。自分としては謝ったつもりなのだが、あちらは挑発か侮辱と取ったらしい。自分の性格が嫌になるが仕方ない。難儀な事である。「ヨウショウさんにお目にかかりたい」と尋ねると「若は今眠っておられる。用件なら我々が聞く」
真っ直ぐ男の目を覗き込みながら、
「お前たちには用はない。あるのはヨウショウさんだけだ」
「我らをどこまでも愚弄する気か……」
と拳を震わせながら睨みつけてくる。難儀な事だ。
聞いていたらしい他の男達も部屋から出て来てわらわらと玄関に集まってきた。きな臭い雰囲気が漂い始める。俺は気付かれないよう肩の付け根辺りを緩く揺らしていた。足元も揺らし、全身をくまなく小刻みに動かす。関節と関節の動きを滑らかにした。
「話して来てくれないか、本当に用があるのはヨウショウさんだけだ」
「よかろう。ならば入ってみるがいい遠慮はいらん。こちらは悪いが通すつもりはない」
と言って笑った。下を向いて息を吐く。……仕方ない。
「表でやろう。玄関を壊してはいかんしな」
そう言って後ろを向き、ぽつんと離れた所にあるこの家から離れる。
どたどたと武器を持ってこいだのこれはどうだなどと五月蝿く吠える。何を準備する必要があるのだ。身体一つで充分だろうに。
その時点で彼らの実力が解るというものだが、それを指摘する気は無い。
本当の強者は剣や武器に頼らない。常在戦場。その気になれば落ちていた小石や枝で人を殺める事も出来る。武器の手入れもそれが百パーセント自分の思うように使うためにするためであって、剣や武器に心を預けている訳ではない。右手が無くなったら左手、左手が無くなったら脚で、脚が無くなったら口で戦おうとするのが本当に怖い相手だ。彼らに勝つには絶対的な差がなければならない。僅差であれば上回られる、それが彼らとの戦いだ。
少なくとも武器を自分の一部とも捉えていない相手に負ける気など微塵も無かった。あるとするならばどの程度の傷を負うのか、という一点だけ。ここで養生する気にはなれなかった。肌にも合わない。堅苦しい世界は苦手だ。もちろん良さはあるのだろうが。
玄関に振り返り、俺は両足を肩幅程広げ、肩は重い荷物がぶら下がり重力に負けたような感覚にする。全身を揺らし、身体を小刻みに震わす。全身の緊張をほぐし、とんとんとその場で軽く飛び跳ねる。よし大丈夫。
首を鳴らし彼らを待つ。
雄叫びを上げ玄関から各々の武器を持ち出してきたのか、大鎌や分銅、刀に小刀、中には鍬を持っている者もいる。
それぞれが俺を半円に囲むようににじり寄ってきた。
十人はいるだろうか。
その全員から緊張を感じる。やはり一番構えに無駄が無いのが先程話していた大男で長刀を持っていた。
ぎょろりとした目を更に充血させ、睨んでくる。
左手前、左足前の半身になり腰を落とす。つま先に多少の緊張を加え、いつでも動けるように体勢を整えた。
「覚悟はよろしいかな、御仁」
低く唸る様に大男が中段に刀を構える。
「死にたくなければここで我々に対する謝罪と、そうだな、いくらか我らに謝礼金を渡せば許してやらんでもないぞ。昨夜は我々も反省する点はあったしなぁ」
いやらしく顔を歪めた大男はそう言うと俺に向かって笑う。何だ、反省とは。自分たちの実力のことか。なら今すぐにでも続きをさせてやる。
「命を賭けた時笑える奴はいない」
全員が呆けた顔をして俺を見る。どういう意味か測りかねているようだったが、教えてやる気も無かった。
「自分の命を零しかけていると自覚しろ」
構えを深め、すり足で腰の位置を調整する。
「笑うのは、それからだ」
一人が飛びかかってくる。
難儀な事だ。息を、吐いた。
12
踊りかかってきた男の持っていた小刀を、手首の振りで弾き落としそのまま右足を基点にし一回転して踵をわき腹に叩き込む。
呻き後ろに転がった所を飛び越すように鎖鎌を持った男が分銅を投げ付け、頭を狙ってきたその重りの付け根を握り、そのまま後方へ流すように引き、姿勢を崩した所を鎌で切らない様に軽く拳で鼻頭に打ち付けると、そのまま足を持って転がす。
ろくに受け身も取れず後頭部を地面にぶつけ、脳震盪を起こしたのか動かなくなった。
斜め左から手甲を付けた奴が正拳突きを放ってきたので、左腕で進路をずらし、そのまま添うように踏込みあごへ左拳を当てた。
かくん、と膝を落とし白目を剥き倒れる。
いつの間にか後ろに回り込んでいた男が刀を振り上げていたので懐まで振り向きざま入り込み、掌を腹に直接当て、壊すように踏み込んだ足と同時に掌底を前に押し出す。
水平に二、三メートル飛び、転がって動かなくなる。
その辺りで、もう他の人間は恐れをなしたのか剣先や拳の先を震わせ、動揺した視線で中心で見物していた大男の方に向けていた。
苦々しく顔をしかめた彼はぺっと唾を吐きだすと、「使えん」とだけ言い、前に転がっていた男の腹を思いきり蹴飛ばし、自分の前へ進路を作った。
その行為に酷い不快感を持った俺は、気付くと険しい顔をしていた。顔に強いこわばりを感じる。大男は笑い、
「昨日行かなかった事が悔やまれる。まさかこんな奴が来ていたとは」
と楽しそうに言った。何がそんなに楽しいのか。今貴様が蹴飛ばした人は貴様の仲間だろう。何故そんなに笑っていられる。
思ったが言わない。もう、俺はこいつとは話したくない。黙って構えを取る。
「――貴公、名は」
「言いたくない」
「俺はジュウジ。イロハタ・ジュウジだ」
「興味無い」
「俺はある。名は何だ」
「無意味だ」
「何がだ?」
「お前はここで死ぬ」
「お前だナナシ野郎」
「勝手に来い」
言った瞬間、摺り足からの巨体に似合わぬ速度で間合いまで入ってくると、八相の形を取りながら突っ込んできた。
長刀の先が日を浴びて鈍く光る。
その先端が揺れた所で、大きく左側に避けた。
その今まで自分がいたスペースに刀が落ちる。
そのまましなりを効かせた左の横打ちを放ったが、ジュウジはその手首の柔らかさで刀の向きを変え、横一線に振り抜いてきた。
避けるためその姿勢のまま足を開き、腰をぎりぎりまで落とし、肩があった所を刀が空を裂き風切り音を耳に残らす。
その振り抜いた先で手首を再び返し、斜めに袈裟切りに追いかけてくる。
反転し、その剣先が黄緑の自分の上着を少し裂き、その勢いのまま再び今度は右拳で顔面を狙い裏拳を放つ。
その行動は予想外だったのか、呻きながらかろうじて首を後方に避け、何とか逃れた。
後退する前に剣を持った右手の付け根を手刀で叩き離れる。流石にそのまま避けていたらリーチの長い長刀に切られてしまう。その予防と手首への攻撃を含めた。
取り落とさずにそのまま落ちそうになる刀を慌てて左手を添え持ち直し、構え直す男。
荒い息を吐きながら汗だくになり睨みつけているジュウジ。もういい。そろそろ終わろう。
最早構えず、だらりと腕をおろし、少し左右に揺れながら近づいて行く。ジュウジは汗が更に顔中に浮かび、痛むのか腫れた右手首を震わせながら何とか刀を俺の首元に突きつけた。
構わず、そのまま歩き続ける。刀が触れるまで一、二歩。
ジュウジは叫び声を上げこちらに刀を突き出してくる。
しかし右手のコントロールが上手くいかないのか、少しぶれ、剣先は頬を掠めるようにして伸びていく。そのまま少し肩を後ろにそらし、完全に刀が外れたところで俺は緩い動作でそのジュウジの頭を優しいとも言えるような動作で両手に掴む。
そのまま頭を後ろに伸ばし―思いきり引き、膝に叩きつけた。上着よりも濃い緑の生地の服に真っ赤な鮮血がパッと咲き、花火のように同心円を描き勢いよく赤い色がぶちまけられる。
鼻の骨と歯が数本折れた鈍い音がし掴んだ手を離す。
横に滑り落ちるように顔面から地面に顔を落とすジュウジ。
しん、と音が消える。辺りを見回す。何も誰も言わない。一人、また一人と手に持っていた武器を落としていく。
安堵する。これ以上戦わなくてもいいようだった。
道が出来ている。音に気付き走ってきたのだろう、昨日より大分顔色のいい寝間着姿のヨウショウが玄関に来ていた。息が少し早い。俺は軽く頭を下げる。
「すまない。喧嘩してしまった。少し話を聞いてもらえないだろうか」
全員が呆然と、俺を見ている。
あまりいい気分ではなかった。
13
「何だ、話ってのは」
ヨウショウは顔を斜めにし今にも唾でも吐きかけそうな目で俺を見た。そんな顔をしてもどこか愛嬌を感じさせるのは彼の人間性を表している気がする。
部屋に通されたものの、周りは彼の手下が取り囲んでいるし、和やかとは正反対の状況だった。俺はぐるりと回りを見渡し「あまり物が無いな」と言う。
ヨウショウは何言ってんだという風に俺に「猟師ってのはな、飾り立てちゃいけねえんだ。いつ死ぬか分かんねえのに華美になってどうする。本当に大事な時はそんなもん持って行けねえんだ。親父なんかクソだぜ」とありったけの侮辱を込め言った。
「そうだな」
と俺は同意した。心からその通りだと思った。首をもう一度動かし「本当にその通りだ」と言い直す。
ヨウショウは驚いたように俺を見直し「変な奴だな……」と口の奥で呟く。
その顔は年齢にふさわしく幼いものを含んでおり、彼がまだ十代という事を思い出させた。
「で、何しに来たんだ」
幾分機嫌が戻った風に尋ねてくる。解りやすい。だからこそその自分の行動にも歯止めが効かないのかもしれない。それは、彼が仲間に慕われる一方で、こうやって個室に離れて過ごさなければならない理由なのかもしれない。
「話を聴いてもらいたい。ハゴスレの家で、母と、オトナシの三人で」
途端に顔色が変わり、真っ赤になり彼は怒鳴る。
「やっぱりテメエあの家に取り入ろうとしてんのか!!」
絵の具のようにくるくると変わる顔の色に半分感心しながら、「俺は部外者だ。ああ、ある意味関係者だが」と答えた。
「何訳の解んねえ事言ってる! 大体テメエ、何のためにここに来た!?」
後ろに置かれた彫り物がされた刀に思わず手が行きかけていた。今気づいたが、この国は刀が武器の基本になっているようだ。先ほどの、今は伸びて別室で手当てを受けているあの大男のように、何かの信仰の一つでもあるのだろうか。不思議なものだ。
「勘違いするな。俺は別にオトナシの恋人でも何でも無い。只仕事で来ただけだ」
「当たり前だ! じゃなかったらたたっ斬ってる!!」
「話を聴いてくれ。大事な事なんだ」
「だから早く言え!!」
「『声』を、届けに来た」
ヨウショウはその顔に冷静さを取り戻し座り直し、じっと俺を見る。
「……誰のだ」
「一緒に来てくれれば解る」
やれやれようやくこれで仕事に取りかかれる。
「その方が、早い」
俺はこの国に来て初めて、心から笑ったのだった。
14
暫くして、三人――母親、オトナシ、ヨウショウー―にハゴスレ家に集まってもらった。
三人とも声を発さない。特にオトナシとヨウショウは、ヨウショウはともかくオトナシは存在していないかのように只俺を見ていた。本人にもその自覚はあるのか、彼の方も特にオトナシを意識しないようにしていた。俺は部外者の特権としてその関係性がよく解ったが。それはともかく。
母親を中心に、右にヨウショウ、左にオトナシが座る。俺は三人に大きな部屋へと集まってもらい、そこで話を切り出した。
「もう解っていると思うが」
見回して言う。
「俺は、アンタたちに〝声〟を届けに来た。それで集まってもらった。あんたたち全員でないと意味が無いからな」
「……それは、つまり……」
「父親もいれば一番よかったんだが」
「けッ」
「お伝えください。カケネ様」
母親は背筋を伸ばして言った。
「ヨウゾウから――なのでしょう?」
「初めに伝えるべきだったが……すまない」
頭を掻きながら俺は少し頭を下げた。その仕草にオトナシが柔い笑みを浮かべる。ヨウショウがまた「けッ」と言って横を向く。本当に解りやすい男だ。少し笑う。気を引き締め言った。
「用意はいいか」
三人は少しの間を置いて軽く頷いた。その仕草はどことなく全員似通ったもので、家族というものを一瞬考える。頭を振り、雑念を追い出した。
「始めるぞ」
目を閉じ、少し深く息を吸う。
視界が暗く閉ざされていく中、記憶の海を泳ぐように映像が波のように断片として流れ行く。その中に余計なものもあるし、逆に大切なものもある。
必要な声と態度、姿を引っ張ってくる。少し抵抗するように映像が揺れ、自分の頭にも痛みが走った。涙が滲むが不快では無い。むしろ少しの快感をともなっていく。性の快楽に似ていなくもない、といつも思う。頭の回路の同じ所を使っているのではないか、という気さえする。
そうして引っ張り出された映像は、彼―ヨウゾウと出会い、彼の家において交わされた会話と、その時に『録音』された内容だった。
ぎこちなく笑う彼の顔と、態度、記憶の中の彼の妻の嬉しそうな表情が呼び起される。
――来た。
その波のような衝撃に耐え、目を開ける。カケネ―いやヨウゾウは、ゆっくりとその場から動きながら、部屋を歩き始めた。―始まる。
『いや、何と言っていいか解らんが……。その、そうだな、皆、元気か。俺は元気だ。リツも元気だ……。いや、本当に何を言っていいか解らんな、これは……。
いや、時間が無いんだったな。解ってる。ええと、そうだ。実は俺に、おい、止めろ、押すな、恥ずかしいのは俺も一緒だ。解った、解ったから……。
いや、重ね重ねすまん……こいつは照れ屋でな……そう、そうだ、ええと皆、聴いてくれ。俺に、俺達に、……子が、出来た。あと三月ほどで産まれる。俺は、もうこの地に骨を埋めるつもりだ。何も言わずに出た事、本当にすまない。俺が許されるとは思っていないが、いつか、決心がついたら、そちらに行こうと思う。
お前たちも元気であることを祈っている。
父上、あなたは立派な、ハゴスレ家が誇る猟師だ。いつか、また話せる日が来ればと思う。母上、身体を大事にして、どうか元気でいてくれ。俺は、あなたの息子で、幸せだった。
ヨウショウ、お前は勘違いしているようだが、父上はお前を高く買っている。あの人らしいが、それが伝えられないだけだ。今、そこに居るなら顔を見てみるといい。お前と同じですぐ解るからな。許してくれとは言わん。ただ、お前には頑張ってほしい。足らぬ兄だった俺より、お前が努力の塊である事は俺が一番良く解っている。才能とは才ではない。磨き方だ。国一の猟師になれ。お前なら出来る。…それと、お節介のようだが、女は自分の思い通りにならないものだぞ。だからこそ可愛い…だから許せ! 言葉の綾だ、こらっリツ!
……だからヨウショウ。お前を本当に愛してくれる女と幸せになれ。……頑張れよ。お前なら出来る。もう時間が? そうか……オトナシ。
――お前は、俺の妹だ。ずっと、一生、愛している。元気でな。
では……』
――時間が、俺の所に戻ってくる。意識が浮かび上がる様に取り戻され、海底の底にあった自我と呼ばれるものが取り戻された。
ヨウショウは呻きながら泣いている。
母親は俯いて上着で顔を隠していた。
オトナシは、俺を見続けている。
美しい紅を溶かしながら、音も無く一筋、二筋と透明な雫を落としていく。
『声』は届けた。
役に立ったのかは解らない。
だが、これで仕事は、終わりだ。
「確かに届けた」
静かに呟いた。
15
外に出ると、もう来た時のような美しい夕焼けだった。しゃれこうべを見た道は、もう薄暗くなっている。後で聞いたところによると、あの道は一応船との道になっているものの、あまり人が通らないので獣が通ることもあるらしい。よってそれを知らない外部からの人間を捕らえて食う、という事も起こる。危ない道なのだな、と改めて思った。
『声』を届けた後、暫く誰も話さなかったが、ふとショウヨウが思い出した、という様に「腹減った」と言った。母親が振り返り、「何か作ってくんねえか、オフクロ」と笑う。母親は驚いたような顔をしたが、くすり、と笑みを作ると「いいわよ」とだけ言って、立ち上がり、部屋を出て行った。オトナシはまだ俺の顔を見つめ続けていたが、ショウヨウの顔を見たくないからだろう、という事は簡単に察せられた。
彼は恥ずかしそうに頭を掻くと、オトナシの方を見、一言「悪かったな」とだけ言って、そのまま恥ずかしそうに立ち上がり部屋を出て行った。
庭でなのか、外でひゅうん、ひゅうん、と刀で素振りをする音が風を切る音が切っていた。何かの迷いを断ち切る様だと俺には感じられた。
「父は」
突然オトナシが、俺の方を見て話し出した。
「見栄にこだわる人でした。私は父がどうしても、好きになれませんでした。そして、それはずっと変わらず、和解出来ないまま父は死にました。もう、父に会う事は出来ないと解っても、涙は出ませんでした。兄が行った時には、泣きました。父が死んだときは一粒も流れなかったのに」
綺麗な、それは綺麗しか言えない様な笑顔で、言った。
「今、泣くことが出来た事が、嬉しい。兄が去って、父が死んだ今になってようやく、今になって、嬉しいのです」
オトナシはさらり、と長く糸のような髪を流しながら、深々とお辞儀をした。
「ありがとうございました」
何も言えずこほん、と意味無く空咳する。
「仕事だからな」
ゆっくり顔を上げたオトナシは、悪戯っ子を見るような目付きで「そうですか」と一端区切り、
「そういう事にしておいてあげます」
微笑んだ。
――難儀な事だ。
顔が熱くなる。やはり女は苦手だ。これは一生変わらないだろう。おそらく、ずっとこのままこうやって。
部屋を出ようと襖に向かって歩く。
「何処へ行くのです?」
「もう用は済んだ」と言って帰るために自分にあてがわれた部屋に行こうとする。「もう一泊してくださ――」とオトナシは言いかけ、口をつぐんだ。
それを見て、「色々世話になった」と笑い、「あまり無理はするなよ。笑った方がお前は可愛い」言った瞬間、真っ赤になったオトナシを見てしまい、自分の発言が急に恥ずかしくなった。いかん、本当に調子が狂う。女は駄目だ。駄目なものは駄目だ。急いで部屋を出て、襖を閉める。そこで大きく溜め息をついた。
庭を見ると、真剣な顔をしてヨウショウが抜身の刀を右手に持ったまま、こちらを見ていた。素振りのせいか、荒く息を吐いている。
「帰んのか」
真剣な瞳をして言った。「ああ」と頷く。
「そうか」
また、視線を逸らしながら素振りを再開する。風を切る身が引き締まるような音が辺りに鳴った。
「ここの獣は美味いんだ」汗を飛ばし、言う。
「今度食わせるよ。また来い」
ひゅうん、との音の間に本音がちらりと見え隠れして、俺は少しおかしくなった。
「ああ」
とだけ言って部屋に向かう。
少し留まろうか、そんな事を一瞬、考えた。
夕暮れの道、じゃりじゃりと砂を踏みしめて歩く。
ふと、右の木々を見る。そこに大きな鹿のような、しかしとても大きく、そして鋭利な角を持つ獣がじっとこちらを見ている事に気付いた。獣とはこんなに大きいのか、と身体を強張らせる。
その大鹿の後ろに、生まれて間もないらしい赤ん坊がいた。
小さな身体を大鹿の影にするようにして、しかし視線はずっとこちらを捉えていた。
大鹿は俺の視界から小鹿を守る様にしてそのまま奥へと歩いて行く。
小鹿は、怯えながらも大鹿に連れられ甘えていた。
空を見上げた。
鳥が遠く高く、抜けるように、鳴いていた。




