第8話 あの人の肉声――いて座の物語(後半)
郷愁をさそう光彩にみちた憧憬も、ときには錆色と薄墨色に塗りこめられた悪夢にさえなる。
ヒドラは消耗を感じさせる神経と、身体に居残る倦怠を追いはらいたくて、しばらく寝台に半身を起こしたまま陶然としていた。
いて座……ケイローンの物語か……そういえば――
ふと夢のなかでトゥラキアが語っていた続きが気になりだしヒドラは、沓摺りをまたいで、隣にある執務室へと足をはこぶと、画面の電源をいれ、本体の起動キーを叩いた。暗証要求を三度パスし、データにアクセスする。目的のものはすぐに見つかった。
ヒュードラーとトゥラキアを繋ぎつづけたもの。それは、幼き日々にもちあるいたデータパッドの記録だった。彼は画面の文字を追いながら、夢のなかで語られた続きにはいった部分で、音声再生に切り替えた。
「矢の先には、かつて退治された蛇の化物、ヒドラの猛毒が塗ってあったのですから……」
懐かしい声だった。とたんに泣き出したいような、悔しいような心持ちが彼の胸のうちに膨れあがっていった。
「ふつうの半人半馬、つまりケンタウルスであれば、すぐに死んでしまったことでしょう。しかしケイローンは違ったのです。なにしろ、彼は大神ゼウスの父クロノスの血を受継いでいたので、不死身の体だったのです。不幸なことでした。その日からケイローンは不死身ゆえに、猛毒に苦しみつづけたのです」
「ねえ、不死身って?」
「死なない、死ねないってことよ」
音声記録には、ヒュードラーの声も残っていた。
「彼の毎日は、さながら地獄のようでした。――ヒュー、地獄の意味はわかる?」
「わかるよ」
「……言葉も話せず、食事も喉をとおりません。もちろん、眠ることさえままならかったのです。そうです、ケイローンは不死身ゆえに苦しみつづけたのです……」
息遣いが聞こえるようなトゥラキアの声に、ヒドラは全身を締めつけられ抱きかかえられる、痛みと温もりを感じていた。
「彼は、不自由な口で、大神ゼウスに何度も申し出たのです。『どうかわたしを殺してください』と。しかしゼウス様は首を横にふるばかり。ケイローンはひどい苦しみのなかで考えました。『この命を誰かのために役立てられるなら、きっとゼウス様も、わたしの願いを聞き入れてくれるのではないか?』と。それからというもの、彼は友だちやかつての先生たち、教え子たちの顔を一つ一つ思いだして、ひどい苦しみを味わっている人はいないかと考えたのです。いました、ケイローンと同じ苦しみを味わっている者が。火の神プロメテウスでした。神々のあいだで禁止されていた約束をやぶり、人間に火を与えたことで、彼はもう長いこと刑罰を受けつづけていたのです。不死身のプロメテウスは岩に鎖で縛りつけられ、昼は禿鷹に腹を引き裂かれ肝臓をついばまれ、夜は傷が再生するという毎日を送りつづけていたのです」
「ひどいな」
ヒュードラーの声には憤りがあった。
「そうね……死ぬことは恐いことかもしれない、だけど、死ねないことも幸せではないようね」
トゥラキアの声は、もの静かで悲しげだった。
「ケイローンは、大神ゼウスに願いでました。永遠の命をプロメテウスに与えることで、彼の刑罰を許してあげて欲しいと。ゼウス様はケイローンの思いやりある申し出に、深く心をうたれて、ついに彼の願いを聞き入れたのです。こうしてケイローンとプロメテウスは永遠の苦しみから解放されたのでした。そののち、大神ゼウスは彼の功績と深い思いやりを讃えて、ケイローンを天に昇らせ、星座となしたのです。それがいまも夏の終わりごろになると、南の夜空に見える、いて座だといわれているのです」
「あんたは、いったい何を伝えようとしてるんだ! 子どもじみた俺を揶揄おうと夢に現れたっていうのか!?……」
だが、言葉とは裏腹に、ヒドラの心は今しがた耳にしたトゥラキアの優しい語り口から、長いこと忘れていた慈愛にうたれて痺れていた。
彼は、頭を、胸を、際限なく掻き毟りたくなるような憂鬱さのなかにあった。
そのとき、またトゥラキアの声が聞こえた。気のせいに思えない明瞭さをもって。
「ヒュー、あなたは勘違いしたの。そして心を閉じてしまった。あたしさえ寄せつけようとしなかったの」
「母さん!!」
ヒドラが顔をあげた先には、仄かな光を放ちながら蕭然としたトゥラキアの姿があった。