第4話 あの人との再会――いて座の物語(前半)
ようやく人心地がついたのと、サイキック・タブレットの効果が切れたのはほとんど同時だった。
自室にもどったヒドラは、倦怠感に身をまかせ、そのまま寝台に倒れこんだ。混濁とした意識のなかで彼は夢をみた。
育ての母トゥラキアの声が聞こえる。幼き日のヒドラ、いやヒュードラーがそこにいた。
「今日はどんな?」
「なによ、そんな愛想のない顔をして。本当は話ききたいくせに。少しは素直になりさい、ヒュー」
それは、トゥラキアとヒュードラーが嵐の海をこえたあと泊まった、ニューヨークの木賃宿からはじまった、読みきかせの風景だった。いて座の挿話が語られたのは、すでにニューヨークは遠く東に去り、シルバーグレーのワゴン車でアメリカ大陸を横断しているころだった。
「いいからはじめてよ」
「仕方のない子ね」
そういいながら、トゥラキアは狭い車内で自分の傍に横たわる少年の頭を撫でてから、唐突に語りはじめた。
「大神ゼウスの父クロノスは、ある日、緑豊かな草原で美しい妖精に出会ったのでした。妖精の名はフィリラといいました。彼女に一目惚れしたクロノスは、思いをとげようと考えました。ですが、フィリラはいつも見渡しのよい草原で花や蝶と遊んでばかりいるのです。これではクロノスは人目につかないように彼女に近づくこともできません。なにしろ、一目惚れとはいっても、彼は思いをとげたいと考えていたのですから」
「思いをとげるってなにさ?」
トゥラキアは少し困った顔をしながらも微笑んで、ヒュードラーを抱きよせると、
「こういうことよ」
といって少年の口を唇でふさいでみせた。
「なにすんだよ! ……わかったから、先をつづけて……」
嫌がりながらも、ヒュードラーの頬は紅色に染まっていた。
「クロノスは考えました。そしてよい案を思いついたのです。馬に変身して近づけばいいではないか、と。こうして馬に変身したクロノスとフィリラはしだいに仲良くなり、ついにクロノスは思いをとげることができたのです。それから何か月かがすぎたころ、フィリラは子どもができたことに気づいたのです。こうして生まれたのが、ケイローンという男の子でした」
「いて座ってケイローンの話なんだ」
「しかし男の子はかわった身体をもって生まれてきたのです。クロノスが馬に変身していたからでしょうか。ケイローンの腰からうえは人間、腰からしたは馬の姿をしていたのです。神々や人々は、ケイローンのような姿の者をケンタウルスと呼んで怖れていました。彼らは乱暴者だったからです。そんなわけで、彼の母フィリラも、ケイローンを怖がり、彼を洞窟に捨ててしまったのです」
「ひどい母親だなー」
「そうともいえないと思うけど……。あなたみたいな乱暴者の母親も楽ではないはずよ」
トゥラキアは意地悪に笑ってみせてから先をつづけた。
「捨てられたケイローンを可哀想に思った大神ゼウスは、彼を拾って育てることにしました。乱暴者といわれていましたが、ケイローンにはそういうところがなく、とても頭のよい子でした。そして身の回りには彼よりも頭のよい神々がたくさんいましたから、彼は医学や芸術をアポローンから習い、狩りのしかたをアルテミスから学んでいったのです。ですから、頭が良くて優しいケイローンは、誰からも好かれたのでした」
話の先をききたいのだろう、ヒュードラーは眠気に負けじと、閉じてしまいそうな瞼を必死に開けようとしていた。
「そんなケイローンでしたから、こんどは人にものを教えることになったのです。ヘルクレスやカストル、アキレウスといった、のちに英雄と呼ばれる者たちの先生になったのです。――そんなある日のことです。ケイローンに弓の使いかたの上達を見せたかったヘルクレスは、狩りの練習にはげんでいたのです。それに気づいたケイローンは教え子の姿をこっそりと繁みの陰から覗いていたのです。しかし、その日にかぎってヘルクレスのはなつ矢は獲物をとらえることができません。それもそのはず、ヘルクレスはお酒を飲んでいたからです。はなつ矢、はなつ矢が、みなあらぬ方へと飛んでいくばかりです。そしてあろうことか、ヘルクレスのはなった矢は、偶然にもケイローンの足に刺さってしまったのです。悲鳴をきいてケイローンの傍に駆けよったヘルクレスの顔は真っ青でした。なぜなら、矢の先には、かつて退治された蛇の化物、ヒドラの猛毒が塗ってあったのですから……」
「なぜだ! なぜ今頃こんなことを思いださせるんだ!」
寝汗に濡れて目覚めたヒドラは、呼吸が乱れていた。
「なぜだ!……いまさら俺はヒュードラーになど戻れはしない。そもそも、この俺を地獄に堕としたのは、母さん、あんただ!」
彼は自分の叫び声に驚いて、混濁する意識を追いはらおうと激しく頭を振った。
「あんな、あんな死に方をされて、俺が冷静でいられたと思っているのかい、母さんは……」
そのとき、ヒドラは耳奥にトゥラキアの声をきいたような気がした。
「ヒュー、それは違うわ……あなたはなにかを勘違いしているのよ」と。