賢くなること
頭がいい人というのは、何を思って勉強しているのだろう。そりゃもちろん自分の将来のためだろうけれど、私はどうしてもそういう風に思って勉強することができなかった。だから、多分私は知りたいのだ。自分が何のために勉強しているのか、知りたいのだ。
「俺は、別に将来のために勉強してるわけじゃないよ」
昼となく夜となく勉強しているという噂の秀才、御堂くんはそう言った。
「そうなの?」
「ああ。まあ高校生にもなって将来のことを考えてないのもそれはそれでダメだろうけど、俺は少なくともそういう感覚で勉強してるわけじゃない」
「じゃあどうして?」
彼はちらりと私を一瞥して、手を止めることなく答えた。
「俺は凡人だ。だから生まれたときからの天才には勝てない。遺伝子の問題もあるしな」
数学の問題を解きながら、御堂君は当たり前のことを言うトーンでつぶやく。それはすごく、悲しいことのような気がした。
「随分ドライなこと言うんだね」
「客観的にそう思うだけだ。でもだからって、俺は自分の価値を下げたいわけじゃない。だから、自分の価値を保つために勉強してるんだ」
自分の価値を保つ。
それが御堂君の勉強の存在意義なのか。
「そうなんだね。ありがとう、参考になった よ。勉強の邪魔してごめんね」
「ああ、別に構わない」
ひらりと手を振って、私は別の場所へと向かった。
「何のために勉強するのって?」
「うん」
この高校の一年生の中でも麒麟児と名高い夢野さんはそう言って首をかしげた。
「考えたことなかったなあ。私は勉強することが生きることみたいな感覚だから、勉強しない人生なんてもう考えられないの。呼吸と一緒よ。自分の中に取り込むものと同じだわ」
「辛いとか、思ったことないの?」
そう聞くと、夢野さんはからりと笑って言った。すごく綺麗な、満たされた笑顔だった。
「あなたは呼吸をするのが辛いと思ったことがあるの?」
「……あるかも」
「え、大丈夫? 何か困りごと? その年で?」
本気で心配させてしまったようだった。慌ててかぶりを振る。彼女はホッとしたように笑った。
「よかった。私は勉強することが辛いとか思ったことないわ。だって呼吸してる感覚なのだもの。きっと勉強をしなくなったら、私は一日も保たずに死ぬでしょうね」
柔らかに微笑む彼女は、きっと生まれながらの天才なのだろう。彼女にとっては勉強が生きることなのだ。
「ありがとう。参考になったよ」
「いいのよ。またね」
サッカーの高校生全国大会で優勝した、文武両道で有名な 榎本君は訝しげだった。
「何のために勉強するのか?」
「うん」
私が肯定すると、裏庭に寝転んでいた彼はますます困惑したようだった。
「それ聞いてどうするんだ?」
「参考にするの」
「何のだ」
異様なほどに食いついてくる。何かあるのだろうかと思いながら、私は説明を続けた。
「私も勉強を好きになりたいの。だから、みんな何を糧に勉強しているのかなって思って」
「……ふーん」
「教えてくれる?」
ごろりと草の上に寝そべり、彼は一つあくびをした。伝染しそうになるのをこらえて彼の言葉を待っていると、ぽつりと彼が言った。
「お前さ、他の人に聞いたってダメだろ、それ」
「え?」
思わぬ答えが返ってきて、キョトンとした。面倒臭そうに、彼は体を起こす。
「だから、お前自身が勉強の糧にするものは、お前が決めなきゃダメだろ。人のなんて参考になりゃしねえよ。所詮他人は他人だ」
私はむっと眉をひそめた。
「それはあなたには関係ないじゃないですか」
思わず敬語になる。しかし榎本くんは眉一つ動かさない。
「大有りだ。昼寝の時間を邪魔されるのはごめんなんでな」
うっ、と言葉に詰まる。確かにそれはそうかもしれないが、そんな言い方しなくたっていいのに。
不満そうな私の表情を見て、榎本君はさらに告げる。
「だいたいな、勉強なんてのは楽しくやろうと思ってできるものでもねえよ。所詮やらされてるものだ」
「まあ、それはそうだけど……」
どうもしっくりこないなあ、なんて思っていると、突然彼は体を起こして私を抱え上げた。
「わ、わ、わっ……」
「大体お前、こんな小さい時期から何達観しやがってんだ。どっからどう見ても小学生だろお前」
そう言って、彼はじろじろと私の体を眺める。
頬がかあっと赤くなった。羞恥と、憤怒で。どうしてこの人はこんなに人の精神を逆撫でするような言い方をするのだろう。確かに私は小学二年生だけれど、でも。
「そんなこと言わなくてもいいじゃないですか!」
「いいや言うね。小学生なんてのはな、遊んで笑って精神年齢の低さ特有の面倒な人間関係に苦しんでりゃそれでいいんだよ。お前別に成績が下がってるわけでもないんだろう、実は」
ギクリとする。なんでわかるんだろう。確かに私は成績が下がってるわけではなくて、むしろいい方だ。ただ、勉強がやりたくないだけなのだ。でも、それはきっといいことではなくて、悪いことだから、だから。
そんなことを思っていると、彼はまた私の心を見透かすように言う。
「やりたくない勉強なんてやめちまえ。お前の姉さんがこの学校を背負って立つほどの天才なのは、お前の人生には関係ねえよ」
目を見開いた。全部お見通しだったのかと、驚くより先に恥ずかしくなってきた。
瞬く間に覇気がなくなっていく私を見て、榎本君はため息をつく。
「お前の姉さんは結構なシスコンだよ。学校でも有名だ。そんなに愛してくれてんだからお前が姉さんにコンプレックス持ってたらダメだろ。もっと肩の力抜け」
とすんと地面に降ろされて、私はふと泣きそうになる。姉さんを見てると、自分が小さなものに見えてしょうがないのだと、嗚咽交じりに告げた。自分なんて誰も本当は見ていないのではと。
「……お前、名前は?」
「へ?」
「間抜けな声出してんじゃねえよ。名前は?」
鼻をすすって、よくわからないままに私は名を告げる。
「日和」
「ヒヨリ? なんて書くんだ」
「……小春日和の、日和」
「ふーん、可愛いじゃん」
榎本君はふっと笑う。
「俺がずっと覚えててやるよ。誰がお前のこと忘れても覚えててやるよ。だから安心して遊べ。全く人間てのはスペックのある人間ばっかりに目が行くからな。だからお前みたいなのが泣く羽目になるんだよな」
くしゃりと頭をかき回すように撫でられる。その言葉に、その笑顔に、ふっと涙が落ちた。この人は今まで質問してきた人の中で特別頭がいいわけではないけれど、きっとこの人が一番賢い。きっと、一番だ。
「思う存分泣いて、笑え。それはお前の時期だけにある特権だ」
その言葉は、私の心に浸透するように響く。
「……うん」
ほろほろと静かに涙を流しながら、私はずっと昔から縛られていた何かから、救われたような気がしていた。
あなたのしている勉強に意味はありますか?
勉強って辛いですよね、別にやらなくても死なないけど、やらないと将来こまるし……私は結局よくわからないままに勉強しています。ダメですね笑
余談ですが、「死ぬ気で勉強しなさい。大丈夫、死なないから」という言葉は誰のことも救ってない気がするんですよね……何言ってんでしょうね、流してください。
さて、初めて使った叙述トリック!!
騙されてくれるかな……心配ではあるけど頑張ったからとりあえずよし!