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文学小論

フーゴ・フォン・ホーフマンスタール「道と出会い」を解釈する

作者: 金子圭亮

 「夢」というものは、人の精神を映し出す鏡のようなものであるが、多種多様な夢の型が存在する中で、見る者の願いや望みを現出させる型の夢は、その中でも頻出する可能性の高い型のひとつである。そして、人の願いや望みというものは、それを喚起させる要因がつねに存在する。この「道と出会い」の中では、アギュールなる人物が、作者ホーフマンスタールにそのきっかけを与えている。一閃の稲妻のごとく彼の心中に走ったアギュールの言葉、それが、いつ、どこで、彼の中に入り込んだのは定かではないが、このことは全く重要ではない。重要なのはただひとつ。アギュールと出会ったこと、つまり、アギュールが彼の思索の許容限界量を瞬時にして一杯に満たし、それが彼を見知らぬアギュールの世界へといざなったということだけである。


 われわれも、日々、さまざまなアギュールに遭遇している。人間は、持てる感覚器官のすべてをもって多種多様な情報を吸収しているが、その外界からもたらされる情報は、人間に心的影響を与えずにはおかない。そして、そうした影響に起因して発生する心的変化の中に願いや望みといった類の感情がある。たとえば、世界遺産の写真を見て、一度はそこを訪れてみたいと感じたり、歴史書を読んで、過去の世界を見てみたいと感じたりするそれである。もっと生物的本能に近いものであれば、料理を見て、それを食したいと思う感情や、容貌の優れた異性を見て、交際したいと思うといった感情も、そこに含まれる。時には、原因が明確ではないにもかかわらず、ただあれこれを「したい」という感情を覚える場合もある。もちろんこの場合にも忘却の彼方にその願いや望みの原因は存在している。いずれにせよ、人間はつねに願いや望みを持ち、そのことを「夢見る」という動詞で表現している。そして、その「夢見る」対象が、現実的に可能であるか不可能であるか、または、現実の世界のことなのかそうでないのかは、誰にも分からないことであるか、重要なことではない。


 ホーフマンスタールは、アギュールの存在をどこでどのように知ったかは思い出すことはできないが、アギュールの存在した事実だけは明確に彼の頭蓋の中に納め、そして、それを主因に、彼は、自身の理想とする世界を創り上げた。断片化した情報を再び紡ぎ上げ、足らぬ箇所は創造の力によって補う。また時間経過によっても、世界が拡張されたり、あるいは損なわれたりする。そうした作業を幾度となく繰り返すうちに、少しずつ世界が構築されていく。以上のような過程を通して作られた世界は、意識と無意識の内を交互に移動し続けるが、決して消滅することはない。無意識下に沈滞しているときも、たとえば、作中では旅行案内書にメモした言葉を見てアギュールのことを思い出したように、特定のきっかけによって意識に戻ってくることができる。こうして、その世界の創り手は、自分の創った世界を夢見続けることになる。


 頭蓋の中でその世界は夢見続けられているわけであるが、言うまでもなく、睡眠中でもその活動は続いており、実際の夢となって現出するわけである(もっとも実際にホーフマンスタールが作中のような夢を見たかどうかは問題ではなく、作中ではただ創り出した世界を語る上での文学的表現技法として夢の形式を使っていると考えるべきであろう)。さて、作中で描かれるアギュールのいる世界は、その夢の創り手であるホーフマンスタールの自我のなした産物である。つまり、彼が覚醒中に読んだアギュールについて記述された本(作中では語られないが旧約聖書)などから得られた情報と想像が組み合わさって構築された世界であり、「アジア」など普遍的な名詞などが出てくるか、もちろん実際にホーフマンスタールはアジアを訪れたことはなく、彼の理想が生み出した幻想のアジアである。そこで描かれるアジアは、欧州人であるホーフマンスタールが、常日頃得ている限られた情報によって構築されたアジアであるから、まさに夢のごとく、全体像が歪んでいる。明確な造形がなされているのはその世界の核であるただアギュールのみ、その他のすべてはアギュールを彩るための単なる付属品にすぎない。遊牧民風の民にしろ、褐色の美女にしろ、中央アジア風な衣装にしろ、取って付けたがごとくの、欧州人の創造しがちな身近なアジアから突貫作業で造られた分かりやすい部品群である。ただ本物なのは、ホーフマンスタールに感銘を与えた言葉の主、アギュール。いや、正確には、夢の中で彼が目撃するアギュールさえも幻である。真実であるのは、アギュールという男によって放たれた言葉のみ、ただそれだけであり、老いて、たくましく、立派な髭を持ち、頭にターバンを巻き、ほっそりとした身体といった、アギュールに関するすべての描写は、ホーフマンスタールの想像が生み出した幻想のアギュールの姿形にすぎないのである。


 ここで、タイトルである「道と出会い」に改めて注目する。「道」とは、「出会い」とは、果たして何なのだろうか。「道」つまり、「Weg」は、単純に道という意味を持つだけではない、ここでは、「方法」や「過程」という意味合いも含まれるのである。言わずもがな、これらの方法や過程の行き着く先にあるのは、「出会い」である。そして、その出会いとは、作中では、アギュールの言葉との出会いにほかならない。つまり、ここでの道、方法、過程とは、アギュールの言葉を知ることとなったそのきっかけである。文中ではすでに忘却の彼方へと追いやられてしまった後であるそのきっかけであるが、どこかでその言葉を読んだことは紛れもない事実である。こうした出会いへのきっかけが道なのである。また、「出会い」に至る「道」があるならば、「出会い」より始まる「道」もまた存在する。前者の道がアギュールを知るまでのことであるならば、後者の道は、アギュールから創造された世界へと続く道である。これこそが、今まで長々と述べてきた、幻想のアギュールの世界を創り出す作業を指すことは言うまでもない。


 では、新たな道へと繋がる一種のハブである「出会い」の持つ価値、その重要性について考える。ホーフマンスタールは文中で述べている「抱擁ではなく、出会いこそが、ほんとうの、愛のしぐさなのだ」。それでは、なぜ、抱擁ではなく、出会いこそに価値を求めるのか。それは、可能性の無限の広がりがあるからであろう。出会ったその瞬間を起点とし、そこからどう展開するのか、あらゆる可能性が広がっており、いかなるものにも抑制されることはない。だからこそ価値があるのである。アギュールとの出会いが出会いだけであったからこそ、価値があった。距離的な隔絶および時間的な隔絶を無視し、実物のアギュールを見知り、たとえば、一言でも言葉を交わしたりでもしたら、もうそこには、出会いの持つ価値は損なわれてしまっているか、失われてしまっている。顔も声も知らない、決して透視することのできない厚い壁の向こうにいるアギュールだったからこそ、ホーフマンスタールの心を占有しえ、新世界の創造へと結びつけることができたのである。


 つまり、作中で夢として語られ、描写される世界とは、アギュールとの出会いから始まった無数の可能性の中からホーフマンスタールが選定した世界であり、出会いとはまた、そうした選定権を与えられる唯一の瞬間なのである。そして、これは、文芸、詩作に限らず、あらゆる分野の芸術家達が、それぞれの仕事をなしうるその過程を婉曲的に表現しているのであろう。着想の種となる何かを発見するまでの道、そしてその種との出会い、そしてそこから始まる創作という道が続くのである。種が芽吹き、成長し、やがて大樹となり、実を宿す。創作の力は無限である。だからこそ、それをなすための必要不可欠な要素たる出会いこそに価値があるのである。ホーフマンスタールのこの作品「道と出会い」は、静かに、だが、確かにそう語っていると、私は思う。

上記の文章は私が学生の頃に書いた小レポートをそのまま掲載したものです。文学解釈は読者それぞれが自由に行うものでありますから、当然私の解釈が正しいなどと主張するつもりはありません。「Die Wege und die Begegnungen」は下記のサイトにて無料で読むことができます。ぜひあなたもこの作品を解釈してみてはいかがでしょうか。

http://gutenberg.spiegel.de/buch/die-wege-und-die-begegnungen-972/1

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