トイレの花子さん
古い木造校舎の二階突き当りの女子トイレ。奥から二番目が花子さんのトイレだ。
ずいぶん昔からここに囚われている花子さんはこの場所が嫌いだった。
トイレ特有の臭気が混じった、暗くてじめじめした空気。断続的にかすかに響く水音。個室トイレという狭い空間が否応にも孤独を感じさせる。
だから彼女は子供が入ってくるたびに話しかけた。
たいてい無駄に終わるとわかっていても、寂しさからそうせずにはいられなかったのだ。
中には霊感のある子もいたが、そういう子は決まって彼女を見るや否や悲鳴を上げて去ってしまう。
気づいてほしいけれど、気づかれると唯一の話し相手がいなくなる。
そんなジレンマを抱えて花子さんはトイレに佇んでいた。
時代が流れて子供たちの服装は変わり、次第に人数も減っていく。されど古臭い木造校舎だけは変わらなかった。
そうしたある日、ついに子供たちが来なくなった。廃校になったのだ。
しんと静まり返った静寂に、子供たちのはしゃぐ声はない。彼女を慰めるものはもう来ないのだ。自分を閉じ込めている暗い空間で、花子さんは膝を抱える。トイレに響く水音が増えたことは誰にも気づかれなかった。
どれぐらいそうしていただろうか。
日の光の届かない個室では時間の感覚も曖昧だ。一か月程度にも思えたし、一年ぐらいかもしれない。とにかく、校舎の外から聞こえた耳慣れない音に花子さんは顔を上げた。
喉から漏れる嗚咽を飲み込み、耳を澄ませて様子をうかがう。
地の底を叩くような重低音と金属を擦りあわせる甲高い音。木材が軋みをあげ、叩き割られていく音。
それらが少しずつ近づいてきていることに気づいた花子さんは小さく息をついた。
ようやく終われるのだ。この長かった地縛霊からついに解放される。
それは諦観に似た安堵だ。だが、ずっと囚われ続けてきた彼女にとっては孤独から解放される唯一の手段かもしれなかった。
膝を抱えて目を閉じ、じっとその時が来るのを待つ。
そして本当に久しぶりに日の光を浴びた。
顔を上げると視界いっぱいに広がる晴天。緑豊かな山の稜線が連なり、風が体を吹き抜けていく。花子さんの頬にいつの間にか雫が伝っていた。
あれだけ泣いたのにまだ枯れ果てていなかったのかと感心する一方で、最後に故郷の景色を見れて良かったと思う。暖かな陽光を全身で受け、目を閉じて景色を瞼の裏に焼き付けようと試みる。
大型機械のショベルが彼女の足元を薙ぎ払い、トイレが長きに渡る役目を終えた時、彼女の脳裏に疑問が浮かんだ。
というのも、いつまで経っても静かにならないのだ。
鳴りやまない工事の音におそるおそる目を開けると、そこには先ほどと変わらない風景。
すでにトイレは原型をとどめず、足元に残骸が転がっているだけだ。それなのに花子さんはまだそこに立っていた。
やがて工事が終わり、何もかもが撤去される。更地となった場所に彼女を縛るものは既に無い。
一人取り残された彼女は呟いた。
「そうだ、旅に出よう……」