風景描写練習帳
例えば、
■桜
というお題がついていたら桜を描写しています。
■桜(+喜)
と(+●)がついているものは、桜の風景描写に、喜びの感情を追加して書く。という流れです。
■朝の雪(+喜び)
鐘の音がゆったりと長く響き渡った。その音はいつもよりも静かで、そして清らかである。
そっとベッドから抜け出した少女は、足の裏に感じる冷たさにしばし震えた。木の床も、木のベッドも少しの温かみさえ帯びてはいないのだ。
そうっとつま先立てて、踊るように進めば床をきしむ音が鳴り響き、少女は目を輝かせた。音が、いつもよりもよく聞こえる。
腕を伸ばして窓を開ければ、目前に広がったのは銀の輝き。はたりはたりと白の塊が水滴を落とし、窓を支える少女の手を濡らす。
今年最初に降った雪は緩やかで、そして純白である。それを彼女は小さな手のひらですくいあげ、寝起きの口に含ませる。
しゃり、と軽い音が部屋中に鳴り響いた。
■月(+静)
暗闇のアスファルトに、浅い水たまりがいくつも続く。
男はそれを踏み抜き歩いていた。街灯のないうすら暗い道である。避けて通るには、闇が少々厄介だった。
革靴が水を弾くが、音は闇の中へと吸い込まれていくようだ。
「……」
風ではない何かが男の頬を撫でるので、彼は立ち止まって辺りを見渡す。
それは黄金の指であった。光がまっすぐ男に降り注ぎ、やさしく頬を撫でる。
先ほどまでは雨雲に包まれていた空。気がつけば雲が風に流されて、月が姿を見せていた。
ぽたりぽたりと雨だれが看板より垂れている。それが地面に触れて弾ける。
その弾けた粒のひとつひとつに、月の光は反射して黄金に輝く。
音のないその世界に、雫の音だけが凛と鳴った。
■猫の道
人の目の高さで見ても、その道には気づきもしなかっただろう。
そこは鬱蒼とした、道一つない森である。雨降りの後なのか、土と緑がむっと香った。
身をかがめてみれば、新緑の隙間に小さな細い道がある。眺めるうちに、一匹の黒猫がそこに滑りこんだ。
立派な尾を持つ大人の雄。毛は見事に柔らかく、光と温度を吸い込んできらきらと輝く。
その尾を左右に振りながら、素早く、そして堂々と彼はその道を行く。
小さな花、緑の蔦、木の根に降り落ちる新緑の青。木々の隙間から漏れた光が、彼の横顔を照らす。
凜と伸びた髭は長く、まるでオリーブのような美しい目は新緑の色を落とし込んだよう。
「こんな道、知らなかっただって?」
ゆったりと尾を振って彼はにやりと笑った。
「当然さ、猫の道だもの」
しなやかな彼の足が大地を力強くけり、小川を悠々と飛び越えた。
■オムライス(+恐怖)
それは、ずしりと重い黄色の固まりだ。
表面は薄い膜が張ったような燻んだ黄色味。赤いソースは、自身の重さに耐えかねたように卵の表面を滑り落ち、白い皿を無残に汚した。
スプーンを立てて表面を削ると、堅固に見えたそれは意外に脆い。ぱくりと割れた黄色の皮の内側、そこに見えるのは、赤茶色の米粒の群。何十粒、何百粒あるのか。数え切れない。ただ迫り来る。ああ、それは蠢く命の塊だ。
何か見てはいけないものを見てしまったようで、私は慌てて卵の皮で蓋をする。
机の上に鎮座するその物体は、まるで私の胃袋を誘うように暖かい湯気をくゆらせた。
■ 桜(+寂)
そこは桃の園である。風の強い日であったように思う。どこかより粛々と音が響く。おそらくこれは桜の音であろう。
桜は鳴くのだ。いや、泣くのだ。と、かつて恩師が呟いた事があった。その言葉のとおり、桜は風に揺さぶられて泣いている。
空は恐ろしいほど灰色の曇り模様。上がりきらない雨が、しとしとといつまでも冷たく大地に降り注ぐ。
風に翻弄された桜花が舞い上がる。私は頭に腕に髪に振り抱える桜の花を手で振り払って歩く。ああ、これはまさに春の嵐である。
そう思い足を止めると、唐突に、風が、凪いだ。
同時に、とつとつと降り続いていた花の雨が止む。しんとした静寂だ。音がない気配もない。
ただ桜花が動きを止めて一斉にこちらを見る。
よくよく見れば、可憐な花の合間に新緑の緑が隠れている。
そうだ。春は、終わろうとしているのだ。その終わりを嘆くように花は泣くのだろう。
私は力の抜けた足を引きずって、土の色に染まった花弁を踏みしだいた。
■桜(+喜)
ピンク色の花びらが、踊るように宙に舞った。
ささやかな風だというのに、花弁は一枚二枚と美しく回転して空中へと舞い上がる。
見上げればそこには雲一つもない晴れた空。抜けるような春の空に、桜が色をつけていく。
歌うような声が聞こえた気がしたが、それは桜が風に揺れた音だろう。
宙で踊りゆらりと落ちてくる花びらへ手を伸ばせば、指の隙間をすり抜ける。
振り返れば、辺り一面花びらの海。桃色の芝生となった大地から、確かに春の音が聞こえた。
■桜(+夢)
気がつけば、彼は桜のトンネルの中にいた。
季節はまだ、春も浅い頃合い。周囲を囲む花はまだ七部咲きといったところで、頼りない小さな花がぽつりぽつりと咲いているのだった。
葉桜よりも、いまだ咲ききらぬ花のほうが、見ていて幾分か寂しい心地がする。
男はそこを過ぎようと夢中に足を動かすが、頭上に続く桜のトンネルはいつ途切れるものとも分からない。
何歩進んだものか。蒸し暑さに驚いて頭を上げれば、そこには満開を迎えた桜が見える。
つい、と風が吹けば花びらは一斉に風に舞った。
驚いて前を見れば、数歩先に見える桜はすでに葉桜だ。振り返れば来た道の桜は七部咲き。そして頭上には、今盛りの満開の桜。
男が天を振り仰ぐと、急に桜散らしの雨が降り始めた。
■琥珀(+恐怖)
カップに勢いよく熱湯を注ぐと、それは一瞬濁ったのちに透明の色を取り戻した。
そこに二つばかりの塊を落とすと、じわりと琥珀の色を滲ませる。
それは安物、ティーパック。熱湯に落とされた袋は湯を吸い込んで大きく膨れ上がる。そして最後の抵抗のように水面に顔を出し、助けを求めるようにもがいて、もがいて……やがて沈んだ。
美しく透き通っていたはずの湯が、侵食されるように琥珀の色に染まっていく。下腹部が染まり、胸のあたりが染まり、やがて頭の先まで染まっていくのである。
おそらく、葉が血を流しているのだ。身を削り、自身を吐き出しているのだ。
これは色の侵食に他ならない。
湯はやがて、諦めたように琥珀に染まった。
底には、力なく倒れ伏す二つの袋だけが残っている。
■育花雨(+優)
目前に広がるのは、黄色の花畑だ。
見渡す限り、なんと華やかな色合い。
遠目に見れば一つの黄色の固まりだが、近づいて見ればごく小さな黄色の花のつぼみが、照れるように肩を寄せあっているのが分かる。風が吹けばまるで頼りないもののように揺らめき、緑の葉をしならせる。
そこに針のように細く柔らかい雨が降り注いだ。
春はとかく雨が多い。薄い雲の隙間から、雨がやわやわ降りはじめ、せっかく咲いた菜の花を濡らしていく。
花は、その小さな花弁は健気にも雨粒を受け止めて、そして滴をぷくりと浮かばせ垂らす。
そういえば、春先に降る柔らかい霧雨を育花雨という。そのことを、女はふいに思い出す。
美しく咲けよと、美しく散れよと、雨は慈しむように花を叩いた。
■かささぎ(+寂)
それは不思議な鳥である。
黒を基調とした色味を持ちながら、柔らかそうな腹と羽の先は抜けるような白。
そして、まるで石をぶつけ合わせるような声音で鳴くのだ。
カチ、カチ、カチ、声は空から降ってきた。
あれはカササギだ、と女が物怠げに呟いてみせる。カウンターの中に立つ女だ。酒が過ぎたのか、今は薄暗いカウンターにもたれかかるようにして、なんとか立っていた。
酒の匂いが、ぷんと漂う。
「この辺じゃあ珍しい鳥だよ」
女はそういって酒の入ったグラスに手を伸ばす。夕闇に迫ろうかというその空に、鳥は一羽きりで飛んでいる。
聞けば、この鳥は群れずに飛ぶというのである。ただ一羽でどこへいこうというのか、その小さな体は雲の中に紛れて消えた。
カチカチ、カチカチと声だけがいつまでも響き渡る。灰色味がかった夕闇空に橙の光がさっと撫で上げると、やがてそこに夜が現れる。
目を上げれば、カウンターの女は机に突っ伏して眠りに落ちていた。
■春霙
暖かい日差しがふいに割れて、ぽつりと冷たい雨が大地を叩く。
雨粒はどんどんと大きな塊となり、やがて光に揺れる大きさとなった。気づけばそれは春霙に変わっているのだ。
霙といっても春のそれは冬に比べるとずいぶん柔らかい。触れれば蕩ける儚さである。
もう季節も終わるであろう寒椿の花に、霙が静かに注ぐ。
すると、椿の赤に驚いたように霙はあっという間に溶けてしまった。ゆるゆるととろけたそれは水滴となって大地へ注ぐ。
降り始めと同じくらい、終わりは唐突である。
気まぐれな雲は去り、湿気った日差しが椿の影を伸ばすところである。
■月夜道
少年は、一心不乱。暗闇の道を歩いていた。
彼が進む道には、真っ直ぐ月光が降り注いでいる。
その黄金の道を進めば、恐ろしいことはなにもない。そうだ、恐ろしいことなどなにもないのだ、と少年はつぶやいた。
周囲は木々に覆われた深い森である。彼の進む道は砂利ばかりの道である。薄い草履では、石が幾度も指に絡んで転びそうになる。
左右の森から聞こえるのは、ほうほうと響く鳥の鳴き声。夜に鳴く鳥は不吉であった。
黙々と歩く足が土を踏み、小石を蹴り上げ進むとやがて道の向こうに小さな社が姿をみせる。
赤い塗装が剥げた古い社である。かつては狐が祀られていたのだと、遠い噂で聞いたことがあった。
月の光は、そよそよと社にも降り注ぐ。
少年は足を止めて手を合わせた。着物の裾から冷たい風が滑りこむ。寒さのばかりではないだろうが、細い足がかたかたと震えている。
祈り終えた少年は社を背に歩き始めた。すると、先ほどまでは少年の行く道を照らしていた月の灯りが、次は少年の帰り道を照らしはじめる。
必死に道を歩く少年は、気付きもしなかったはずだ。
天に浮かんだ黄色の月。その下に、だらしなく垂れた古びた狐の尾。つるりと垂れたあと、慌てたように月の中にするりと吸い込まれた。
■葡萄畑(+喜)
日差しが大地を焼いていた。
この地方は日差しさえ陽気である。夏の光に焼かれた大地は白く染まり、目前に広がる葡萄畑は緑の輝きを周囲にまき散らしている。
空気に混じるのは香ばしい小麦のかおりだ。葡萄畑の向こうに続く家のどこかで、パンが焼き上がったに違いない。
その家々の屋根も、大地と同じく日差しに焼かれて白かった。
陽は熱いが、風は湿り気がない。ただ、ただ、乾いている。
乾いた太陽の光を浴びながら、老いた男は道を行く。葡萄畑が続くこの道は、かすかな坂道になっている。砂を踏みしめると空気が乾いているせいだろう、白い煙が上がり光の中で輝いた。
「やあ」
坂道を抜けるとそこには真新しい白の家。
老人が道を蹴り上げ歩く音が聞こえたのか、唐突に扉が開く。
戸の向こうに見えたのは、満面の笑みである。その笑みは、老人のものによく似ていた。
「久しぶり」
戸の内側に立つ少年は、大きく手を開いて笑う。日差しが指に集まって、彼の腕は黄金の輝きに見えた。
■夕暮れ(+やるせない)
いつの間にか眠りに落ちていたようだ。
水に喘ぐように口を開ければ喉が乾く。そして起き上がると頭の奥がみしりと音を立てる。
目を開ければ、窓の向こうに見事な日の入りが見えた。
落ちる太陽はなぜ大きく見えるのか、揺らめくそれは茜色の光を放って山の合間へと落ち沈もうとしていた。
空は紫がかり、そこに灰色がかった雲がかかる。千切れながら風に流される雲の隙間、薄い宵月が見えた。 すでに、一番星も昇っている。
窓に寄り添い見つめていると、空を染める紫と茜はゆっくりと色を変えていく。やがて恐ろしいほど美しい桃色に染まった。
ただしそれは一瞬だけのこと。夕ましはすぐに薄れ、空気はやがて紺に変わった。
それを狙ったように、太陽が地平線に隠れる。そこは天と大地の境界線、確かにそこに一条の光が走る。
今はまだ宵のうち。やがて間もなく世界は夜の帳である。
■夜桜(+穏やか)
濃い闇の中、桜の花はよく映える。
そこにあるのは、巨木であった。なにより古い木である。そして幾度か死にかけたことがあるのだろうか、枝は補強され大切に守られている。
愛されている桜だ、と男はつぶやいた。
古びた幹は渇ききっているというのに、枝には見事な花が咲いている。年老いてもなお、花をつけることだけは忘れられないのだろう。
枝垂れた枝に花が散る様子は、薄墨の中に落とされた朱のようだ。
風が動くと花も動く。ひらりひらりと舞い散る花は、老木から離れることを悲しむように揺らめいて大地へと落ちる。
そして、巨木を彩るように根元へ桃色の絨毯を作り上げるのだ。
何と悲しい光景か、と男はため息をつく。しかし隣に立つ女は老いた手で老木の幹をそっと撫でた。
そして、綺麗ねえと女は無邪気に微笑むのだ。
その一言で、あたりは一面光を帯びたようである。
■春時雨(+不安)
桜が咲くまでは暖かかったというのに、満開と同時に温度が冷えて雨が降る。 意地の悪い雨が空気を冷やし、私達姉妹の身体を震わせた。
「桜の時期に降るから、春時雨というのよ」
姉はそういって天に向かって手を伸ばす。
彼女の纏う桃色の着物が春風を含んで、ふわりと軽く靡いた。
姉が伸ばした小さく細い指先に、ぽつりぽつりと雨が雫を落とす。ああ、とため息をつく間もなく雨が降りだした。
雨を受けて桜たちは顔を俯ける。弱い花はやがて落ちてしまうだろう。
しかし花弁に溜まって光る雨粒は美しい。やがて雨の重さに耐えかねたように、花が大地へ散る様子も物悲しかった。
姉は大地に散った花を土ごと握りしめ、それを遠くへと投げる。着物の裾が土に濡れ、膝が震えている。
「花冷えだわ」
彼女は不機嫌そうにそう言って、土に汚れた手を払った。
雨が止むころ、季節は変わる。短い春など、息をする間に終わってしまうのだった。
■竹林
凛と音が鳴いたようである。
振り返ると、そこは青の世界だ。起立した、竹林だ。
夏の生ぬるい風を受けて、さやさやと柔らかい音で鳴く。時折、凛と聞こえるのは竹自身が音を持っているのだろう。
竹林は延々と続き、白く焼けた大地に影を落としている。細い木立の隙間を風が抜け、ここは他の場所より温度が低いに違いない。
「竹の時期に降る雨を、竹時雨と言うんだよ」
日本語は美しい。と博識な友がそういった。今日は驚くほどの晴天で雨など降り出しそうもないが、その代わり竹の合間から露が降り落ちて二人の頬を濡らす。
強い風が吹いて、美しい竹の音色が空気を染めた。
「見てご覧。綺麗な川だ」
竹林のそばには、透き通った川が見える。笹が船のように流れていく。見た目より、ずいぶん急流だ。手を差し伸べると、冷たい水が手首を濡らす。竹に似て、鋭い冷たさだった。
水辺に立つ竹には神が宿る。と彼は言って手を合わせる。すると、竹が祝福を与えるかのごとく静かに波を立てた。
■雷
紫がかった空に光があふれる。光の源は突如、轟音をたてた。
厚い雲に覆われた天に、光の筋が走る。やや遅れて、うなるような響きが聞こえた。
かつてそれは神にも龍にも例えられたという。天より降り落ちてくる、神の怒りに例えられたこともあるという。
黒い雲に白の筋。空を割ったそれは、巨大な神の瞳である。
■夕日(+幸)
天へと伸びるビル群の影が、道を行く人々の足元に長く伸びてくる。
影は揺らめき、伸び、薄く濃く姿を変えた。冷たい風は静かに止む……と、周囲が暖かな光に包まれた。
オレンジの光がビルの窓に反射して、 やがて眩しいほどに輝きはじめる。
しかし、ゆっくりと静かに光は収まり、やがてビルも人々夜の闇に沈み始める。
全てが闇に沈むかと思われたその時。思い出したように、ビルの内側に光が灯った。
それは夕日を吸い込んだようなオレンジの光。
ぽつりぽつりとビルの内側を彩って、闇の中にビルが浮かぶ。
ひとつ、ふたつ、みっつ、家路に急ぐ人々の目の中にも、その鮮やかな色が落とされた。
世界は、オレンジのただ一色である。
■古城
目前に、古びた城が鎮座していた。
鬱蒼とした木立の中、突如現れたような感がある。灰色の空の下、その城は静かに息づいていた。
崩れかけた壁には枯れ果てた蔦が取り巻いている。風が吹けばすぐにはがれてしまうだろう。今なお残っているということは、この辺りは風が吹かないのか。
大地の草も今や枯れ、踏みつけるだけで容易く崩れた。
これを寂寥というのか、あるいは恐怖というのか。城は不動だ。それを囲むのは、数名の男たちであった。
矢に剣。思い思いの武具を手にした男たちは終始無言のまま、互いに見つめあう。
どれだけそうしていたものか、日が落ち空気が暮れ、男たちの影を古城へと伸ばしたころ。さて行こう、と腰に刀をさした男がおどけた様子でつぶやいた。
■春の残雪
道の端が白く輝いている。それは早春、道には緑の芽があちらこちらに顔を出している。その緑にかかるように白の輝きが目に映えた。
残雪だ、と連れはそう言う。
春の残雪というのか、気温の低い山道には雪が残ることが多い。
踏んでみれば冬のものより柔らかく、足の下でするりと溶ける。
目を上げれば、遠方に見える山裾には重くたなびく春霞。
白い結晶は、春の陽気にとろとろと溶け始めているようである。
■雪の足跡
雪の降った翌日のことである。
「足跡だ」
少年はうれしそうにそうつぶやいた。玄関の開けた先、道に雪が積もっている。その道を誰かが進んだのだろうか、くっきりと足の跡が残っている。
足跡は男のものだろう。その大きな跡に自分の足をあわせ、少年は白い息を吐き出した。
どこへ進んだものか、雪道に続く足跡は少年の目線よりまだ先に続いているようである。
顔も知らない誰かが、ここを歩いたのは数時間前ほどだろう。と、少年は考える。
「浅い雪だから」
隣に立つ母親が目を細めた。
「明日には消えているよ」
そして二人は並んで、道を遡りはじめる。
大地に落ちた雪は白というより、青味がかって見えた。
■輝く桜(+不安)
白い桜が眼下に広がっている。
ふと、目線を前へと向ければ遠方まで見渡す限り桜の園だ。
梅には一目百万と呼ばれる名所があると聞く。桜であればこれを一目何万と称するべきか。
音もない、いや音はある。それは桜の立てる音である。
今年の桜は色白だと、誰かがそう言った。抜けるような青空の下、白く揺れる桜はまるで骨のように見えた。
赤みを持たないそれは、弱々しく風に揺れる。 弱々しいくせに、人を誘うように揺れるのだ。
そして目前の花がぼとりと、音をたてて泥の中へ身を落とした。白の花は色に染まりやすい。
泥に汚れたそれは身を横たえたまま動かない。おそらく春を終える合図であったのか。
■水に桜
それは紅色と水色の戦いである。
それが繰り広げられているのは、湖面だ。濁った湖の上、膜を張るように桜の花びらが広がっている。
折からの雨で、そばにある桜の花が攫われたのだろう。花びらが大挙として水の上へと散っている。
水に落ちても、花は容易く沈むことがない。頼りなげに浮かんだままだ。
そして彼らはけして風や水の流れに逆らわない。しかし沈まない。確実に湖を自分のものとしようとしている。
ああ、これはまさに桜の島である。
同時に魔性の島だ。足を踏み入れれば、それは簡単に水中へ人を引き込むだろう。
暮れ行く晩春の生ぬるい風を浴びながら、花は一段と明るみを増した。
■五月野
雨に打たれた草葉が、重みに負けてしっとり頭を垂れていた。
草原の緑は雨を受け、ますます深みを帯びるようである。名も知らない草々に水の滴りが輝いている。
丸い雫はつるつると草を伝い、大地へと染み込んだ。灰色の空を背景に、大地だけが不思議と眩いほどだった。
梅雨時期の草原を五月野というのだと、どこかで聞いたことがあった。
まさにこれは五月野だろう、と男はため息をつく。そのため息を受けたように、雨足は急に強まった。
■市場
そこは寂れた市場だった。
長らく雨の恩恵を受けていないのだろう、赤茶けた大地の上に布作りの建物がいくつも、ようよう立っているという形である。
店の数はおよそ10あるか、どうか。どの店も音一つない。誰も顔を出さない。行き交う人もなく、そこは静寂の市である。
店の数は少ないが、いずれも同じ形態だった。つまり古ぼけた木の枠に破れた布が渡され店が隠されている。砂漠に近いこの場所は、日よけがなければ生活ができないのだろう。
なるほど、この地は日差しが強い。長い間日よけに使われていたと思われる布地は、触れるだけで崩れそうなほど、乾ききっている。
一番手前の店では、様々な形の硝子瓶が並んでいる。外の雰囲気にはそぐわない、美しい売り物である。
「探し物があるのですが」
少年は恐る恐る店内を覗き込み、声をかけた。薄闇の奥、何かがうごめいて声を返す。
「何を」
奥に人が座っていたのだ。それはぬっと顔を持ち上げ、少年の姿を上から下まで舐め上げるように見つめる。
琥珀の瞳に射抜かれて、少年は思わず呻いたがそれでもなんとか声を出す。
「りゅ、竜の」
店の主は鼻の大きな老婆だ。小さく折り畳まれたようなその体に纏うは西方の民族衣装。
かつては踊り子だったのかもしれない。その精緻な刺繍は踊り子の纏う衣装である。
「竜の?」
急かされて、少年は覚悟を決めたように言い切った。
「……目を」
「ああ」
少年の引き攣った声をうけるなり、彼女は途端につまらなさそうにあくびをした。
「ちょっとお待ち。たぶん、奥の箱のどこかだ」
「え、あるの」
焦る少年の声に、老婆が目を細める。そして、何だってあるよ。と、彼女は欠けた歯を見せつけ笑った。
■ポプラ
目の前に立ちつくすは、静かな巨木だ。
薄く霧かかる草原の中、その木はただ一本でそこにある。
広がった枝葉の先は霧霞の中に溶け込み、幹の表面もぼんやりと紫がかって見えた。
霧が深いのか、それとも木がぼやけているのか。
頭上は風が強いとみえ、さらさらと葉の擦れ合う音が聞こえた。
「ポプラの木だね」
隣に立つ友人は霧の中に立つ木を見てそう言う。
「雌雄異株で春に花をつけ、その後に種子を散らすんだ。並木道が真っ白に染まることがあるだろう? あれだよ」
男は雄弁に語る友人の顔を見て、肩をすくめる。
「あまり木に興味がないから分からない」
「じゃあ、ポプラの木だけ覚えるといいよ。そうだな、この音を覚えておくといい。さらさらと綺麗な音がするだろう?」
二人は同時に目を閉じる。まるで震えるような音だ、と男は思った。
霧風の中、柔らかそうな葉が揺れている。
「ポプラの学名は、震えるという言葉だ。これは震えるように葉が揺れるから」
そして友人は切なく一本で立つその木に近づいた。幹の表面はごつごつと硬ばっていた。
遠方で見た幻想的な空気はそこにはなく、ただ疲れ果てた木に見える。
「エデンの園にあったのが、ポプラの木だ。アダムとイブに選ばれなかった生命の木だ。その時から、ポプラは震えるようになったんだ」
強い風が吹いた。細かい枝がゆれ、葉が散る。その葉は天へと届けとばかりに、宙を舞った。
■香る雪
唐突に、冬の香りがした。
「雪」
と、女は呟いて空を見る。ちょうど、白い雪が舞い落ちる瞬間である。
灰色の雲を割るように、真白の塊が降り落ちてきた。一粒が大きく、触れるとその途端に水に変わるほど、柔い雪だ。
こんな雪のことを、牡丹雪というのだろう。これは気温が高く水蒸気の多い時に降るのだと、女は聞いた事があった。
確かに周囲の温度は高く、雪の冷たさだけが異質である。
弱々しく降り落ちるそれを手のひらに受け止めると、雪は淡く消えた。
鼻を近づけると、不思議に透き通った香りがするのだ。
例えるなら、それは早朝の香りだ。深い川の底を流れる香りだ。そして、切ない香りだ。
「雪が香っているんだよ」
彼女の祖父は、笑みさえ浮かべずそういった。笑みを浮かべることが罪とでも言うように、老人は淡々と空を見上げる。
「雪は香るんだ」
そうして、肩へ降り落ちた大粒の雪を鬱陶しげに振り払った。
■豚の角煮
それは、もっちりとした肉厚の脂だった。
すっかり茶色に染められたそれは、蛍光灯の明かりにてらてらと照らしだされている。剥き出しの体に恥ずかしがる様子もなく、彼らは堂々と皿の中に盛られていた。
柔らかく照る脂身に比べ、身の部分は所在なさげだ。きゅっと身を縮ませて、滲み出した脂を全身に纏っている。
箸で突けば脂身は固い。ねっとりとしたそれは最後の抵抗のように揺れて、やがて箸の圧力に負けたように二つに割れた。
■夏の朝
夏特有の朝靄が、グラウンドの芝を濡らしている。
その露が乾いた空気に触れて舞い上がる。しっとりとした湿り気が大地から上ってくるようだった。
やがて夏には珍しく冷たい風が吹き抜けて、湿気った空気を空へとながしていく。
少年の足が一人二人とグラウンドを踏みつけて、静まりかえっていたその場所を賑やかにしたのはその時。
早朝の日差しが、朝露を美しく輝かせた。
■雪と提灯
ざくざくと白の素足が雪の中へ沈んで行く。まるで骨のように細い足首は、雪の冷たさに負けたのか赤く染まっていた。
それは女の足である。いや、少女と言うべきだろう。
まだ幼い足が雪原を踏みしめる。すでに深く積もったその厚みに、少女の足は時に脛まで沈む。
その度、彼女はもがくように足を抜きだしそして懸命に一歩を進めるのだ。
手には古ぼけた提灯。中に灯された火が不安気に揺れて、進む道を照らしている。
淡い光では雪を溶かすこともできない。ただ、闇を割って少女の行く一寸を橙の光で導き出す。
ちらり、と雪はまた降り始めたようだ。提灯の火に雪が舞い落ち、かすかな音を立てた。
提灯の持ち手にも、雪が舞い落ちてくる。
少女はさえざえとした黒の瞳を天へと向けて、白い息を闇の中へと吐き出した。
■窓から光
気がつけば夕刻であった。
昼間まで愚図ついていた空も、夕刻になるに従い晴れ上がり今は美しい茜色を見せている。
男は何かに呼ばれたように、手を止めて顔を上げた。
薄く汚れた窓硝子の向こうは燃えるような夕暮れ色である。夕陽の輝きが雲を割って窓を叩いているようだ。
光は真っ直ぐ部屋へと侵入し、風呂場の戸をしらじらと輝かせていた。
床に溜まった薄い埃が光に照らされ、産毛のようにちらちらと光っている。
ぼんやりと眺めていれば、確かに太陽は沈んでいるのだろう。部屋を染め上げる光は少しずつ掠れている。
やがて光の範囲が狭くなり、ぷちりと潰れるようにそれは音を立てて消えた。
残されたのは薄闇の部屋と、どこかからか聞こえる消防のサイレン。
男は嘆息し、そろそろとライトに手を伸ばした。
■枯れ木
それは雨上がりに見えた風景である。
グレーがかった重い空はすでに宵闇。湿気った空気のせいか、真の闇にはなりきらず周囲は白くぼやけていた。
そんな中、一本の木が目に飛び込んできたのだ。
それは団地の一角に生えている。巨木だ。いや、巨木であったものだろう。いまやそれは、巨大な枯れ木である。
枝にはもう葉さえなく、ただカサカサとした木肌を晒している。
新緑の季節と呼ばれる今の時期には、却って不気味な姿に見えた。
「見事なもんでしょう」
不動産を営む、という男が欠けた歯を見せて笑う。
「木のミイラと呼ばれてます」
こぶだらけの指先につまんだ煙草で、男は木を指し示した。
「幹は立派なもんですけどな、黒くすすけてもう命は無いと専門家も言うてます」
木は夜の空気に吹かれても、微動だにしない。そこに木があるというより、木の形に空間が切り抜かれたようだ。
「でも倒れもせず、こうしてずっと立ったまんまなんですわ」
太い枝を空へ向かって、突き出す姿は贖いを求める聖者の姿に似ていた。
この木はいつからこうして立っているのか、尋ねることもはばかられ私は口を閉ざす。
命を持たないはずの木が、こちらを見た気がした。
■夜道
外灯が照らす光だけが目に焼き付く、そんな夜である。
光はぽかりと大地に降り注ぐ。そして私の立つ周囲に、円形の染みとなって広がっていた。
「今から200年、時を止めねばならないのです」
そんな光の染みの向こう側から、突然声が聞こえた。
「孤独な作業ですよ」
それは黒いスーツをまとった中年の男だ。帽子を深く被っているのだろうか。顔は見えない。スーツの裾から見える白い手が、こぶだらけの杖を握っている。
そんな格好で、外灯の下を避けて闇の中に立っている。
冗談か、気でも違っているのかどちらかに違いなかった。
だから私はつい苦笑混じりに呟いてしまったのだ。
「200年ですか」
「そう200年」
しかし男はにこりとも笑わない。顔も見えない、見えるのは首から下だけだ。
彼が立つのは黒の、ただ真黒の大地だ。アスファルトは凛と冷えている。それは男とよく似た雰囲気だ。
「寂しいでしょう」
200年、それは本当の事なのかもしれないと私はふいにそう思った。
「孤独ですよ。あなたたちにとっては一瞬の間ですが私は200年を独りで過ごします」
男の口調に柔らかさが生まれる。
しかし彼は外灯の照らす場所に足を踏み入れる事はけして、ない。私も彼の側へ足を運ぶ勇気を持てずにいた。
「その間、旅でもすることにします。ああ、そうだ。200年後はあなたに逢いに来ますよ」
「楽しみですが、ひどく気の長い話ですね」
「なに。あなたにとっては一瞬だ」
その瞬間だ。
「え」
外灯が、チリリと鳴った。虫でも飛び込んだのか。そう思い顔を上げるとそこに見えたのは満月。
気がつけば外灯などどこにもない。大地に注ぐのは外灯の光ではなく月の光だ。先ほどと同じく、丸い美しい円を描いた光の染み。
天に見える月は知っているものよりも大きく、そして赤みを帯びている。
なによりも、大地の荒廃が目に焼き付いた。地面から水分が飛んでしまったのだろうか。露出した大地の破片が、風に吹かれて光の外へと飛び出していく。
「……」
私は声を出そうとして声が出ない事に気がついた。
「ああ、お久しぶりです。といってもあなたからすれば先ほどの話ですが」
声の出せない私の代わりに声を上げたのは、先ほどの男。
相変わらず顔は見えない。ただ声が老人のように掠れ、スーツは汚れ、手にした杖は新調されていた。
そして、男は感嘆するように笑うのだ。
「200年ぶりに、笑いましたよ」
私は手を振り上げた。否、それは腕ではない。枯れ果てた一本の固まりだ。茶色く強張った、今にも節々が折れてしまいそうな、葉さえ持たない木の枝だ。
「よく育ちましたね」
男の白い杖がとん、と私の体を叩いた。
「枯れそうですが、枯れない。あなたは200年をかけて、体内に水を蓄えたようだ」
その時。確かに私は、自分の体内に水の音を聞く。
目の前に続くは闇に落ちた夜道。いつになれば朝が来るのだろう、と私は声のない声で呟いた。
■菖蒲湯
湯の上に一抱えほどもある布の固まりが浮かんでいる。
それはざっくりと編んだ麻の袋だろう。中には菖蒲の葉が詰まっている。
濃くしっかりとした緑の茎。それに青々とした葉が凧糸で結ばれて詰められているのが淡く透けて見えた。30束もあるだろうか。心なしか香りが青い。
湯に押されるよう、ゆらゆらとその固まりは水の上に揺らめいている。沈まない事が不思議なほど、それはずしりと重みを感じて見えた。
お世辞にも綺麗とは言えない薄暗い銭湯の片隅、そこだけ夏の香りがした。
「こういうのも風情があってええでしょう」
どこか西の訛りを持つ老婆がそう言って笑む。
その途端のことだ。ぷつりと音を立ててその袋の裾を縛る紐が解け、そうして中身がふいに湯に散った。
散ってみればそれは緑の固まりだ。それは湯の流れに乗って方々に散り渡る。葉が散乱したその様子は、まるで森の中に隠された池のようでもある。
表面に葉を泳がせた初夏の池。
「良いですよ。もうお客さん等でお仕舞いなんで」
騒ぎを聞きつけた番頭が湯船を覗く。そして、驚くほど綺麗な東の言葉でそう言った。
「そのままで、そのままで」
湯の中に浸かる老婆は赤い顔のまま、歌うように言う。
私は、今や池のようになった湯船の中程へ恐る恐るすすんだ。
そしてまるで潜るように菖蒲の群生に身を沈めると、そこは爽やかな夏の風景である。
■夕陽
山の裾野を遠望すれば、灰色味かかってみえることがある。
夕刻に映えるのは、そんな色合いの雲だ。そして、雨降る前日の夕刻にはそんな雲がよく現れる。
折り重なった雲裾を割るように、ゆらゆらと橙の光が溢れていた。
下から上へ突き上げるそれは、まるで炎のようだ。雲を舐め尽くすかと思われた夕陽の舌は、やがて哀れにもその雲自身に飲み込まれた。
残るものはただ、切れ切れとなって空へ漂う雲の切れ端。そしてその切れ端の下腹部をかすかに染める夕陽の残骸だけである。
■雨粒
天から降り落ちてくる雨は、恵みであると人は言う。
一粒、そんな恵みが目前の木の葉に降り落ちた。新緑にふさわしい抜けるような青い葉だ。若々しいその葉は水滴を容易く受け止めた。
雨粒とは所詮水だ。形など持たないものだ。だというのに、葉に落ちた雨は玉のように丸く形作られて、緑の斜面をつるつると移動する。
葉の上に包まれた雨粒は、まるで宝石のように美しい。光を受けてそれは様々な色に輝くようだった。
「急ごう」
男の隣に立つ老人が独り言のように呟く。
「これは激しい雨になる」
彼の言葉が終わるや否や、まるで予言のように雨の香りが近づいてきた。それは驟雨と呼ばれるものだろう。
叩きつけるような力強い雨音が、突如男達の目前を曇らせた。
■砂漠のカフェ
水分を失った空気は、恐ろしいほど白く染まるらしい。
男の目の前。ガラス越しの向こう側に広がるのは砂の粒子。どこまでも見渡す限り、白く輝く砂しか見えない。
そうだ、そこは砂の楽園であった。
遠望すればそれは砂と言うよりも水にも見える。似て非なる物だが、水と砂はどこか近しい。
しかし昼の砂は熱い。美しいと言って迂闊に触れれば、火傷をも覚悟しなくてはならないだろう。
男は目を細めて砂を眺めたあと、その風景にも飽いたように肩をならした。
「マスター!」
男の肩がコキリ、となる。その音が合図のように男の隣にある戸がカラリと開く。
それに連動して、戸の上にかけられた白い看板も揺れた。鋭い陽に焼かれたせいだろうか、描かれた文字は薄い。焼けこげるように薄くなったそれには、ほんのかすかにcafeの文字が浮かんで見える。
かつては重厚な看板であったであろうそれは元の役割を忘れ、今では扉に当たっては揺れるただのチャイムに成り果てている。
「あっついったらありゃしないよ。コーヒーちょうだい。冷たいの」
「はいはい」
入ってきたのは若い男だ。彼は日よけ代わりに被っていた布を取り払うなり、目の前に置かれた冷たい水を煽る。透明のグラスについた水滴を指で拭うと、男は名残惜しげにそれも舐めた。
「また砂漠になってたよ。あっちもこっちも」
「そうでしょうねえ。ちょっと前まで、店の前は緑があったんですけどね」
マスターと呼ばれた店の主人は、男の座る小さなカウンター席を覗き込む。白い木で作られた一本の机だ。机の向こうには背もたれのない小さな椅子が3つばかり。その後ろはすでに壁。ここは恐ろしいほどに狭い店だった。
マスターは乾いた布で適当に机を拭くと、そこに巨大なグラスを置く。
「随分と砂になってるなあって、ちょうど今考えていたところです」
「こんなところにお店出してお客さんは来るの?」
グラスに注がれたものは濃い琥珀の液体。それを旨そうにすすり、男はようやく息を吹き返したように笑みを浮かべた。
「酔狂だって噂だよ、こんな町外れの砂漠の真ん中に」
「あなたみたいな酔狂な人が時々来てくれますから」
主人が笑ってみせると、男も笑った。顔に砂が付いている。歩いてきたのかもしれない。手が赤黒く変色しているのは、転んで砂でも掴んだのだろう。
「マスター面白い話をしてよ」
「そうですねえ」
主人は小さなコンロに火を付けて、小さな鍋をかける。中の液体はすぐに沸騰する。それを陶器のカップに注ぐと、温度など感じない顔付きでそれを一口含む。
「竜の脱皮の話とか」
「それはもう聞いたよ」
「じゃあ、夜になって現れる砂漠の化け物の話とか」
「それも3回目」
カウンター越しに男が苦笑した。手のコーヒーはもうすでに空っぽだ。主人はそこに鍋の液体を注ごうとして、男に手で制される。
「そんな熱いの飲めないって」
「そうですか?」
少々不満げに主人は鍋を引っ込めて、代わりに冷えた氷と冷たい珈琲でグラスを満たした。グラスが急激に冷え、キュっと切なく鳴く音がする。
「それより、話が聞きたいな。せっかく熱い中、ここまで来てるんだから」
「ではとっておきの話を」
主人は指をたて、それでそっと宙を切った。それだけで、部屋の中が急に涼しくなるようである。
こんな話を聞けるのはこの店だけですよ、と主人は子供のように笑った。
■枇杷
軽い雨の一滴が窓を叩いた。と思うと同時に滴は倍に増え百に増え、気付けば辺り一面水煙を上げるほどの大雨である。
「ああ、酷い雨」
老婆はなぜか嬉しそうに笑いながら戸を開けると、手を外に差し出した。
先ほどまでの淡い日差しはもう消え失せ、大地は暗く沈んでいた。その大地に雨は叩きつけるように降っている。
「昼なのに、見てこの夜のような」
彼女が指し示す空は薄く曇っていた。幾重にも折り重なる雲が、雨の原因だろう。
奥でごろごろと不穏な音が響いている。梅雨らしい雨ではない。まるでこれでは夕立だ。と老婆はやはり嬉しそうに笑うのだ。
「ああ。枇杷を早くとっておいてよかった。間に合った、間に合った」
彼女は大事に抱えていた腕を開く。
中には、まだ枝に付いたままの枇杷の実が数個見えた。黄橙色というのか、青空に映える抜けるような色彩。
可愛らしい実には薄く産毛が生えている。その毛は実だけに止まらない。枝自体も白く柔らかい産毛に覆われており、まるで作り物のようなかわいらしさだ。
柔らかい産毛は雨の滴を受け止め、きらきらと輝いていた。
柔らかそうな枝ですね、と老婆に言えば彼女はまさかと言って目を見開き首を振る。
「柔らかく見えるけど、枇杷の枝はとにかく固くて。折れにくいから杖になるのよ」
実は食用に、葉は薬に。そして枝は杖に。捨てるところの無い木ねえ、と彼女は素朴な枝に指を這わせ、そしてやがて実を器用にもいだ。
「枇杷は雨が当たると味が落ちるから 」
指の先ほどの小さな実は、青い香りがする。夏の香りである。初夏が訪れる香りだ。
薄い皮を剥げば、とろみのある枇杷の汁が床に散る。滴が垂れると同時に、外を賑わしていた枇杷泣かせの雨もまた止んだようである。
「本当、夕立みたい」
気がつけば、件の枇杷の木に一羽の雀の姿。高い声をあげ、羽に付いた水を払うなり曇り空に向けて飛んでいく。
この不定期に降りしきる雨が終われば、続いて現れるのは抜けるような夏の青空だろう。




