宿と浪人
若い浪人が街中を歩いていた。
茶店通りを抜け、菓子屋を覗き、寺院を見物し、八百屋の店先で小僧と談笑を交わし、また茶店通りを引き返すと、もう夕方になっていた。
「はははっ夕暮れか。
いやいやいや、時の過ぎるのは早いね。」
沈む夕日。
家々の屋根が紅く縁取られ、逆光により黒い影にしか見えない民衆達が絶望的に美しかった。
「さてぇー今夜の宿を探してぇー、熱い風呂に入ってぇー、旨い酒でも飲んでぇー、旨い食い物に舌鼓を打ってぇー、ふかふかの布団、まっさらなシーツの上で、気持ちの良い眠りにつこうかねぇー、はははっ!」
浪人は気楽に笑いながらめぼしい宿を探す。
と、よさそうな宿を見つけた。
店先ではオヤジが七輪で肉を焼いていた。
そこへひょこひょこと野良犬が寄ってきたので、オヤジは立ち上がり、野良犬を蹴っ飛ばして、肉を皿に乗せた。
「シッシッ!あっちいけ野良犬!」
必死に野良犬を追い払うオヤジ。
浪人は爽やかな空気を醸しながら、オヤジに話し掛けた。
「これ、おっちゃんよ。そんな無闇やたらに犬をいじめちゃいけないよ。可哀相だろ?
おっ!美味そうな肉じゃないの。
はははっ。
そんな事より一つ聞きたいんだが、この宿は営業してんのかね?
っていうのもさ、俺は訳あって旅をしている者なんだけども、まぁ、日も暮れたしそろそろ今夜の宿をと思って探していてね。はははっ。」
「あ、お客様ですね?
いや、私はこの宿の主人なんですがね、はぁ〜、旅ですかぁ。さぞやお疲れでしょうねぇ。
本日営業してますし、空き部屋もいくつかございますよ。
そうですか、旅の御方ですかぁ〜。
あ、どうぞどうぞ、中へお入りください。」
浪人はオヤジに招き入れられ、宿に入った。
中は綺麗な木造の作りで受付の向かい側に食堂がある。
と、オヤジが帳面を開き、ペンを置いた。
「じゃあ、あのお客様、こっちに名前を、こっちには住所を書いて下さいね。あ、住所が無ければ無しと記入して頂ければ結構ですから。」
「あー、はいはい、宿帳ね、はいはい。」
浪人はさらっと宿帳に名前を書き込んだ。
名前:カラス
住所:なし
浪人が記入し終えると、オヤジが目を通す。
「それじゃカラス様、部屋に案内しますね。」
言ってオヤジが二度手を叩くと、奥から、まるでおてもやんみたいな間抜けな顔をした仲居がやってきた。
うぷっ。
あんまり間抜けな面構えなのでカラスは思わず吹き出したが、直ぐに顔を整えなして、宜しく、と頭を下げた。
カラスはおてもやんの案内で部屋に入ると、白い羽織を脱いで、ソファに腰掛けた。
「なんかあったらお申し付け下さいな。」
おてもやんは一言添えて部屋を後にする。
カラスはしばらく黙って天井を見ていたが、おてもやんの間抜け面を思い出しては、うはっ、うはっ、うはっ、うははははっと笑うのであった。
しばらくしてカラスは部屋を出た。
風呂に入りたくなったからだ。
廊下に出たところでオヤジを呼び止める。
「これ、オヤジ。風呂に入りたいんだけども、浴場はどこかね?」
「風呂ですか、廊下の突き当たりを右でございますよ。」
「ほうほう、突き当たりを右だね。あ、後、頼みがあるんだが、この格好で過ごすのも堅苦しいから、なんか着るもんがあったら持ってきてくんないかな?」
「はい、かしこまりました。」
カラスはスキップをしながら浴場に入った。
衣類を脱ぎ、刀を二本とも置いて、湯槽に飛び込む。
こういう時、人は極楽極楽と言うものだな、とカラスは思った。
浴場は広かったがカラス以外は誰もおらず、カラスは少し得した気分になった。
まるで王様になった心持ちである。
「いっやー、さいっこーだねー。まいったなー、ははは!」
カラスはこの気持ち良さに昇天してしまいそうであった。
二十分ほどしてカラスが風呂から出ると、オヤジが用意したらしい服が脱衣所に置かれていた。
書き物が添えてある。
「え〜、なになに、カラス様、服を置いておきます。これは亡き息子の物でしたが、誰も着る事がないので差し上げます。サービスです主人より。・・・ふーん。じゃあ貰っておくか。」
オヤジが用意したのは、濃紺色の甚平であった。
カラスはさっさと甚平を着て、刀を担ぎ上げ、白い着物を脇に抱えた。
部屋に刀と着物を置いて、食堂までやって来てカウンターに座る。
カラスはカウンター越しにオヤジに話し掛ける。
「よ、オヤジ。コレありがとね、着心地いいよ、コレ。ちょい大きいけどね。風呂も湯加減良かったしね。あ、酒くれる?食い物も適当に見繕ってくれる?」
「はい、ただいま。」
直ぐにおてもやんが酒を持ってきた。
うぷっ。
カラスはまた吹き出したが、顔を伏せて、笑った事がバレないように装った。
運ばれてきた冷や酒をグイッと飲み、冷奴を頬張る。美味い。
実に美味い。
また一口飲む。
美味い。
カラスは、くっはぁぁ、と言って息をついた。
そして街道の茶店での出来事を思い出してみた。くくくくっ。
カラスは思い出して、けらけらと笑った。
にしても、随分と阿呆な話をでっち上げたなと思った。
そう思ったら、また可笑しくなって笑ってしまった。
悪霊犬?ぷっ
犬王?ぷふっ
犬軍?ぷふーっ
悪霊犬狩り?
ぷっふふっ!
美味い酒、笑える話。
カラスは上機嫌になってぶはぶはッと笑うのであった。