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白鴉。  作者: のり
15/17

対決!

カラスが周りの景色を眺めながら砂利道を歩いていた。

酔いが冷めず、まだ顔がほんのり赤らんでいる。

表情は喜色満面笑美の百花繚乱状態で、世界中の幸福を独り占めにしたみたいな笑い顔であり、些か他人から見れば腹立たしくも苛立たしくも映るであろう。

色街に行って女性と遊ぶのが、よほど楽しみなのだろう。

時折吹く優しい微風が薄をさわさわと揺らし、連動してカラスの黒髪も柔らかくそよぐ。

静かな午後、夏の昼下がり、穏やかな空に鳶がくるりと輪を描いた。

ゆっくりとした足取りで闊歩するカラス。

のんびりと歩きながら、時々着物の肘や裾の匂いを嗅いだ。

これから女と遊ぶのに豚臭かったら嫌われてしまう。

それが気掛かりでまた匂いを嗅ぐ。

カラスは女に馬鹿にされたり邪険にされたりするのを大層嫌う。

常に人の風上に立ってものを云いたいカラスにとって、男の威圧や風格などが一切通用しない女は目障りでしかないのだ。

しかしながら小馬鹿にしてくる女にムカつきを感じる反面、そうされることにより微妙な嬉しさと快感をも感じてしまう自分が悩ましかった。

ジャッジャッジャッ カラスの後ろを誰かが走ってきた。

足音は、砂利道だから靴底が砂利を踏み付ける音である。

ジャッジャッジャッジャリッ。

足音が止まった。

何者かが立ち止まったのはカラスの後方数メートルといったところか。

カラスは背後の何者かに背を向けたまま、左手の親指を刀の鍔に押し当てて後背部に全意識を向ける。

すると間もなく背後の者が第一声を発した。

「カラス。御用だ。神妙にお縄を頂戴する。要するにだ、逮捕するから抵抗すんじゃねぇ。わかったか?」

背後の何者かは完全に腰の剣に手を掛け、いつでも斬れる体勢を取っていた。

藍色の制服、政府指定のブーツ。

それは警備隊員達の中で唯一人、カラスの計を躱して追跡してきたイサミちゃんであった。

「フッ・・・嫌だと言ったらどうする?」

カラスはそう云いつつ冷ややかな笑みを口元に浮かべると、くるりと振り返った。

対峙する二人。

と、カラスの顔を初めて見たイサミちゃんが険しい顔になった。

振り返り、イサミちゃんの顔を見たカラスも、同様の顔付きになる。

「あれ・・・確かこないだの・・・。」

二人は互いの厳しい顔を向かい合わせて声を揃えた。

それはお互いが何日か前に取っ組み合いを演じた相手だったからである。

すると二人は、出先でレンタルビデオの返却日が今日だった事をたった今思い出した人の様な顔つきになり、全てを理解した。

「そうだったのか。」

二人はまたもや声を揃えた。

しばらく黙って睨み合う二人。

無言が作り出した虚無的空気の中、一陣の風が二人の間を通り過ぎる。

「・・・おまえがカラスだったとはな・・・」

唐突に喋り出したイサミちゃん。

カラスはニヤッと笑ってみせた。

「バレちゃあしょうがない。いかにも俺はカラスだ。文句あるか?」


「そうか。カラスか。やはりあの時の俺の勘は正しかったわけだな。よくわかったよ。自己紹介しようか。俺はこの国の警備総隊長イサミだ。そして俺はこの数日の間おまえを追っていた。理由は・・・自分でわかるだろ?」

  

「理由ねぇ・・・。さぁなんだろう?皆目見当もつかないんだけど。」


「フッ。またはぐらかすつもりか。やれやれ得意技だな。あの夜もすっかりやられたモンなぁ。おまえの口から出任せにまんまとハマっちまってさ。だがその因果からか、俺はこうして貴様を捕まえようとしている。貴様に可笑しな勇気を与えて貰ったお陰で、こんなにも早く逮捕できるんだぜ?面白いよなぁ?」


「あ、そう。よかったね。」


「ほう。今日は随分と元気が無ぇじゃねーか。逮捕と聞いて臆したのか?はっはっはっ・・・ところで一つ聞きたいんだがな、何故あんな真似をしたんだよ。チワワと武芸者を意味も無く殺すなんて・・・ちゃんとした理由があるんだろ?」


「ふん。言いたくないね。」


「言いたくないだと?」


「ああ、言いたくない。なぜなら俺には黙秘権があるからだ。知ってるだろう?黙秘権。」


「黙秘権・・・。」


「え・・・まさか知らないの?」


「いやいや、あの・・・も、黙秘権ね、知ってる知ってる!俺、超知ってるよ!黙秘権ね、黙秘権、うんうん。」


「そう?」


「知ってるよ、マジで。でもな、逮捕したらしつこく尋問してやるから安心しな。」


「へ?逮捕?逮捕だと?・・・だーっはっはっは!」


「何だ貴様、突然笑いやがって・・・」


「いやだってさぁ君ィ、逮捕って・・・。俺が誰だか知らない訳じゃないでしょ?」


「え、知ってるよ、カラスでしょ?」


「違ぇーよ!そういう意味じゃねぇよ。そりゃ確かに俺はカラスだよ?しかもさっき言ったし。だけどなー俺が言いたいのは、そーゆー意味じゃねぇんだよ!俺がどーゆー人間なのか分かってるのか?って意味なんだよ!」


「あ、そうなのかごめんごめん、そーゆー意味なのね。ならば言おう。よくわからん。」

 

「分かんないのかよ。じゃあ仕方無いから特別に教えてやる。実はこの俺、カラスは恐ろしく強い超人的剣士なのだ。」


「あ、それは知ってる。っていうかさっきのはそうゆう意味だったのか。てっきり俺は貴様が実は政府の偉い人だったりとかそーゆー意外なビックリネタを期待していたんだが、どうやら違ったようだな。期待外れだぜ。」


「うるせーよ。しかも俺は強いってゆーか、メチャ強いんだよ。」


「ま、確かに貴様は強いんだろうよ。あの金色杖のレッドを一太刀で斬殺してるみたいだしな。」


「そーゆー事だ。要するに俺は凄い強い上におとなしく捕まる気なんて全然ないんだよ。だから君じゃどうしようも無いと思うよ。」


「はっはっはっ!面白い!凄い面白いね、カラスちゃんよ!」


「は?なにが?」


「自分だけが強いとか思っているみたいだがな、そいつぁ大きな勘違いだってことだ!」


「どーゆー意味だ。全く意味がわからん。」


「はっはっはっ。なら教えてやるぜ。この不肖イサミ、理念点心流の免許皆伝だ!」


「理念点心流!?」


「そうだ。剣の一流派、あの理念点心流。俺はその免許皆伝、言わば極意伝承者だ!」


「・・・・・ぷっ。くっくっくっくっくっくっ・・・!」


「何が可笑しい!カラス何で笑う!」


「言うに事欠いて自分の流儀を語るとは・・・はっはっはっはっはっははっひーはひー!あっははははは!」


「わ、笑いすぎだ!」


「だってさぁ・・・。・・・ぷふーッ!あっはっはっ。」


「何で笑うの?そんなに可笑しいかな?理念点心流って結構有名じゃん?変かな?」


「いやいや、立派だよ。イサミ君っつったっけ?イサミ君、君は立派だ。うんうん。」


「なんか結構ムカつくんだけど。」


「悪いけどさ、流派をさも自慢気に語るのは止めた方がいいよ。マジダサいから。」


「そ、そうか?」


「うん、明らかにダサいよ、ダサダサだね。己の腕に自信が無いのがすっごい浮き彫りになっちゃったって感じでさ、見てるこっちが痛いんだよねぇ。ははは。」


「そう言われてもなぁ・・・・・・。じゃあ聞くけど、あんたは一体どこの流派の免許皆伝?」


「あ、なに俺!?俺か・・・いや実はさ、俺そーゆーの無いんだよね。」


「は?マジ?」


「うん、マジ。でもそーゆーの無くても実際に超強いしさ、生活にも困らないから全然大丈夫!」


「ま、なんでもいいぜ。おとなしく捕まる気が無いなら抵抗すりゃいい。どっちにしたって俺は貴様を捕まえなきゃならねーからな。」


「はぁ?なんでいきなしそんなん言い出しちゃってんの?明らかに腕が劣る君がさぁ。」


「仲良くお喋りすんのはもう止そうや。女子校生じゃあるまいしよ。そろそろ決着をつけようぜカラス。貴様が強いかどうかは、この俺が実際に確かめて決めてやる・・・。」

仲良くお喋りしていたと思いきや、イサミちゃんが突然に猛りだし、剣を抜いて構えた。

だが反対にカラスは一向に刀を抜こうとせず、苦笑いを浮かべている。

「おい!どうしたんだカラス!刀を抜けよ!それともむざむざ捕まる気なのか!?嫌なら抜けッッ!!抜くんだッッ!!俺は容赦しないぞ!」


「いやいや待て待て、そう早まるなっての。死に急ぐことないじゃないの。ね?落ち着こうイサミ君。落ち着こう!」


「うるせぇ!!戯言はもうたくさんだ!」


「・・・仕方ない。そこまで言うのなら・・・相手をしてしんぜよう。」

云いながらカラスは右膝を突き出し、グッと姿勢を落とした。

左手は左腰の刀の鞘へ。

右手も左腰に回し、上目遣いでイサミちゃんを見据える。

イサミちゃんはゆっくりと剣を振り上げ、頭上でピタッと止める。

上段の構えだ。イサミちゃんの剣がキラリと光った。

「ところで・・・」

カラスが構えたまま、恐る恐る声を発した。

「なんだよ。まだなんかあんのか?」

イサミちゃんが上段の構えを微動だにせずに答えた。

「イサミ君。君のその剣はよく見るとなかなかの銘剣だね。かなり切れ味がよさそうだよ。業物かい?」


「当たり前だ。こいつは我が家に伝わる家宝だからな。虎鉄っていう名剣だ。」


「そうか家宝か。いやぁ実に素晴らしい。その輝き・・・惚れ惚れする。羨ましいな。」


「あーそうですかい。じゃあ切れ味も味わうといいぜ?」

イサミちゃんがジリジリと間合いを詰めていく。

カラスはイサミちゃんが詰めた分、反対にジリジリと後退して間合いを広げていく。

「オイ。カラス。」


「なんだよ。」


「お前やる気あんのか?なんでドンドン後ろに退いていくんだよ!」


「関係ないだろう。俺の作戦だ。」

 

「チッ姑息な奴め。」

尚も二人は一定の間合いを保ち続けた。

なかなか埋まらない二人の距離。

イサミちゃんが右に行けば、カラスも右へ。

イサミちゃんが前に出れば、カラスは後ろへ。

イサミちゃんが咳をすれば、カラスはあくびを。

イサミちゃんがどうやって第一撃を加えるか思案していると、カラスは明日の夕飯の心配をする。

そんなこんなで時間を少しずつ消費していく。

とうとうこの静かな対峙に耐えられなくなったイサミちゃんが、気合いの咆喉を上げて、より高く剣を振り上げた。

「理念点心流免許皆伝!我が豪の剣を受けてみよぉぉぉ!」

しかし次の瞬間、カラスも叫んでいた。

「ちょっと待ったぁぁ!ストップ!スト〜ップ!!」

カラスの声にイサミちゃんがビクッとして完全停止した。

「なんだ、ストップってのは!この期に及んでまだ何か言うのか!」


「違う!そうじゃない!勘違いするなよ!」


「じゃあなんだ!」


「いや、ちょいと思いついた事があってね。」

カラスはそう言うと、右手で路傍の石を一つ拾い上げた。

イサミちゃんはその様を怪訝な目でジロジロ見つつ云った。

「なんでいきなり石を拾うのか全く以てわかんないから聞くけど、なんで石を拾ってんだ?」

カラスは右手に握られた拳サイズの石を前に突き出して質問に答える。

「俺は右利きだ。大抵いつも右手に刀を握るし、振る時も常に右手で刀を振る。そしてこれは石だ。しかも利き手で握っている。ははは。イサミ君、意味分かるよね?ハンデだよハンデ。俺の様な至極のスーパー剣客にとって君のような者を斬るこたなど容易いことだ。しかしそれじゃあちっとも面白くはないだろう?兎と狼の喧嘩なんか既に結果が見えているもの。つまりやる前から君の負けは決定済みなわけ。いや可能性が無い訳じゃないよ?そりゃ確かに君のような奴でも、何だっけ?てんねん・・・あ、違うな・・・え〜・・・あ、理念点心流だ。そうそう。で、その理念点心流で免許皆伝の君だから強いかも知んないけどさ、俺相手じゃやっぱりレベルが違いすぎちゃう訳よ。レベルが。そうなると俺も楽しくないよね。もう本当に全然楽しくない。うん。余裕で楽勝過ぎて得るものは何もないし、ただ君は無駄に死ぬだけ。つまらないよ。そうなっちゃうとさ。結局そうやって君を殺しても俺自身はただ無駄に時間潰したなぁ程度にしか思わない。これじゃあ死んだ君が浮かばれないよね?そこでだ。こうやってハンデをつけるわけよ。そしたらほら俺も凄い苦戦するかもしんないじゃん?場合によっちゃ君が勝ったりなんかして、俺は捕まったり、はたまた死んだりするかもしんない。ね?どうかな?いい案だろ?」

カラスは最もらしく語ってみせた。

イサミちゃんは上段の構えを尚も続けながら、思った事を云った。

「ハンデをつける意味は大体分かった。」


「良かった。分かって貰えたんだね。ははは。よく人からさー、説明が訳分かんないよ、とか、もっと要点をまとめてから喋れ!とか言われるから、意味が通じていないんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたよ。」


「いやハンデをつける意味は分かったんだよ。意味は。でもよ、なんで石を持つだけでハンデになるのかそこんとこがマジで全っ然分かんないんだけど。そこら辺を教えてくんねぇかな?」


「君も頭の回転がにっぶい奴だなぁ。つまりさ、俺は右利きだから右手で刀を抜くわけなんだけども、こうして石を握ったら右手で刀を抜くことは出来ないでしょうよ。で、結局んとこ左手を使う訳になるけど、刀ってのは左の腰にあるから左手で抜刀すると大層難儀な訳よ。しかも俺は左利きじゃないから、なんかこうやり辛いんだよ。で、君と俺との実力差を考えた場合、この位に俺が難儀しなきゃ二人の差なんてなかなか埋まらないだろ?」


「あ〜なるほど。要するに利き腕を石を握る事で封じてしまうと。そーゆーことか。」


「うん、そう。」


「よし、じゃあそうしようか。俺が有利になるならこんな得な事って無いモンなぁ。」


「そうか。じゃ、分かったら少し後ろに退いてくれるかな。ある程度距離取ってから改めて闘ろうじゃないか、なぁ。」


「OK、分かった。」

イサミちゃんは何の疑いもなく後退し、二人の間の距離は6メートル程に広がった。

イサミちゃんは心の中で小さくガッツポーズをしていた。

勝てると思ったからだ。

カラスは明らかに、この俺を過小評価している、と感じた。

いくらカラスが凄絶な使い手でも、今までは相手に恵まれての事。

この状況下ならば自分に軍配が上がるのはまず間違いはない。

イサミちゃんは間違っても理念点心流の免許皆伝である。

実戦向きの荒々しい道場稽古で己の腕を磨き、免許皆伝される迄に至ったのだから強いだろう。

草々に不覚を取るはずも無く、また相手が利き腕を封じたとなれば殊更負ける理由が無くなる。

勝負事の観点で言うならばお互いのベストを尽くして闘いたいという気持ちもあったが、カラスを逮捕することを命題として彼はここにいる。

だから勝負というもの自体に固執するのは笑止千万、お子様的考えに他ならず、多少ダーティだが相手から提案してきた事だし、この提案を承諾し一気にケリをつける事が、今回の目的に対し最も直向きな行動になるわけだ。

悪いが勝つぞ・・・! イサミちゃんは心の中で力強く呟き、改めて剣をゆったり振り上げた。

スーッと虎鉄の切っ先がイサミちゃんの正中線上を通って上昇していく。

そしてある瞬間、全てが停止する。

虎鉄の動きもイサミちゃんの目も口も腕も停止し、呼吸はしているのだろうがそれがちっとも場の流れに逆らわないというか、自然の中に完全に溶け込み、恐らく心は今完全に無の状態に突入していることだろう。

目に映るのはカラスの姿だけ。

聞こえるのはカラスの呼吸する音だけ。

イサミちゃんの体中の全神経がピタッとカラスに照準を合わせ、体内で躍動する爆発的エネルギー衝動がグングンと腹の中で蓄積されていき、来たる大爆発の頃合いを見計らいながら待っている。

一方のカラスは相変わらず右手に石を握ったまま仁王立ちしていたが、イサミちゃんが尋常じゃない素振り・顔つきに変わりつつあるのを見て、併発する様に左足を大きく引き、左手を刀に掛け始めた。


石を握った右手は手の甲を見せ付ける様に前に掲げ、右肩をグーッと体の中心に入れてゆく。


間合いを取る為なのか、それとも右腕を一本犠牲にしてまで勝つつもりなのか・・・。




二人は無言のまま凝固し動かなくなった。



勝負の時を探る様にタイミングを見計らう。


カラスの顔は未だ赤く、それが酒によるものであるにも関わらず、目は研ぎ澄まされた剃刀の様に冷たく鋭かった。

反対にイサミちゃんは完全に超自然的空気に同化し、半ば神が降臨したかの様な静けさや神聖さを漂わせ、無の状態に浸りきった事を思わせる。

そしてついに云い知れぬ雰囲気が一気に吹き飛んだ。

最初に動いたのはイサミちゃんであった。

何の前触れも無く、目を見開き一気に勝負を決めに来たのだ。

ほぼ同時にカラスは右足を軸に左半身を手繰り寄せるようにグイッと持ち上げ、左手を刀から離し石を握った右手を包む。

全体重が右足に乗った次の瞬間、全ての比重を左足に込めて大きく踏み込むと、上半身を捻りながら右腕をオーバーハンドで振るった。

ブンッッ!

「?」

ドスッッ。

極限まで加速された石がカラスの右手から放たれるやイサミちゃんの鳩尾を直撃した。

「うごごごぉぉ!!」

イサミちゃんは変な声を出して虎鉄を手放しながら胸部を押さえて蹲る。

足元にゴロンと、拳大の石が転がった。

カラスはふーっと息を吐き、そしてイサミちゃんを見つめ続ける。

痛みと苦しみに耐えながらイサミちゃんは立ち上がろうとした。

だが胃が上がり続けるような非常に不快な苦しみは凄まじく、口元から唾液を垂らしながらよろめいて倒れてしまった。

地面に転がったまま丸くなるイサミちゃん。

嗚咽と呼吸が入り混じった彼の声が、地獄の苦しみを物語る。

イサミちゃんはしばらくは立ち上がれそうにないようだ。

それでもイサミちゃんは気力を振り絞って口を開いた。

「ぐ・・・き・・・さまぁ・・・約束が・・・ちが・・・うぞ・・・な・・・ぜ・・・だ?」


「約束?あぁハンディキャップの事を言いたいんだろう?別にどう闘おうが俺の勝手じゃないか。これは兵法だよ。兵法。ダーティなやり方だけどさ、このシビアな世間を生き抜くにはこれくらいやらなきゃ生きていけないのさ。俺みたいにどこにも属さないフリーの人間は特にね。それになるべくなら警備隊員は殺したくないんだよね。遺恨は遺恨を生むしさ、それに国家権力ってのは仲間に被害者が出ると異常なくらい犯人逮捕に躍起になるからね。ははは。」

これが男の勝負と言えるのかどうかは別として、カラスがイサミちゃんを退けたのだから勝負ありと言ったところか。

だが何とも姑息で卑怯な勝ち方である。

カラスはハンディキャップをつける為と称して右手に石を握った。

ここまではいい。

色んな意味で合格であろう。しかしその後がよくない。

カラスはこともあろうにハンデとして握っていた石をイサミちゃんの胸部、しかも鳩尾を狙って全力で投げつけた。

無論、胴体がら空きのイサミちゃんの上段の構えにも問題はあるが、やっぱり何だかずるい。

相手がわざわざ自らの利き腕を封じてきた、馬鹿なヤツめ、と思い込んでいたイサミちゃんが馬鹿をみた格好だ。


これで全てが終わる。


自分は石が鳩尾を直撃したダメージにより、当たり前に悶絶して動けそうもない。

しかしカラスは何のダメージをも負わずに平然と其処に立っている。

このまま奴は此処を立ち去り、その足でこの国から出ていくだろう。

出国するには関所を通らねば為らず、しかしこちらはカラスの容姿を関所の門兵に手配してあるから奴が出国する際には、ほぼ確実に検問に引っ掛かるだろう。

そうなればカラスだって黙っていない。

名前や人相なんかが割れて追われてるのに、そう易々と検問に応じる馬鹿の訳が無い。

恐らく奴はその場で門兵を斬殺し、強引に国を出ることになる。

そうなればこれがなかなかいい手段で、国を出た者を追うのは大変なもので、世の中段取りというものがあって、諸国に協力を要請せねばならず、これがまたなかなか上手くいかないことは必至で、結局そうやってモタモタしている間にカラスはドンドンと逃亡していき、最終的には所在が分からなくなり、追跡は困難になり、やがては中止になる。


だがしかし実際に恐いのは、奴が他国に逃げる事自体では無く、それにより発生する諸々の問題なのである。

先ず、発生するのは責任問題だ。

これは政治家・官僚を飛び越えて必ずこちらに下りてくる。

免職あるいは停職か。

いずれにしろローンの支払いが困難になる。

そしてもう一つの問題は政治政策大臣の息子オジーの事だ。

愛犬チャッピーの仇討ちが出来ないと分かれば、あの狂悪な彼は必ず激昂して乗り込んでくる。

間違いなく流血沙汰になり、死人も多数出ることだろう。

最悪だ。

奴が逃げてしまうことで多くの者が不幸な目にあうのだ。

何とか今捕まえなければいけない。

だが、何の手段もないし、他に誰がいるわけでもない。

顔の赤いカラスと、こうして先程から悶絶しつつ思考を巡らす俺との二人以外、ここには誰もいない。

嗚呼駄目だ。

もう終わった。


などと、イサミちゃんは現在の状況を加味しながらも先の事を憂慮し、激しく悲観的心境に陥ると同時に、鳩尾の込み上げる様な地獄の苦しみに必死に耐えるのであった。

霞む視界の向こうにカラスの足が見える。

白い足袋と草履。

カラスは逃げようとしてはいなかった。

カラスがなぜ逃げようとしないかイサミちゃんには分からなかったが、それでもイサミちゃんにとってそれは彼の今後の人生が首の皮一枚で繋がっていることを意味している。

要するに彼は少し安心したのだ。


カラスは先程から黙ったまま周囲を逐一見渡していた。

顔は赤かったが、目は真剣そのもので、既にイサミちゃんという者の存在が頭から消えている風にさえ見える。

薄などの草が生え揃った広大な原野。

遠方に聳える山々。

物言わぬ空虚な雲。


何かが違う。

何かがおかしい。

静寂に支配されたこの空間の何かが、さっき迄とは明らかにガラリと変わっている。


一体何なんだ?


カラスは異様な雰囲気を超敏感に感じ取り、何度となく辺りを観察する。

得体の知れない、かくも嫌な予感・・・。


カラスは知らず知らずの内に汗をかいていた。

舐めれば酒の味でもしそうな汗だった。

息も段々に荒くなる。

逸る鼓動。

異様な空気。

カラスが右を向き、左を向きする度に、それらが徐々に近づいてきている気配がする。



ガサガサッ。



不意に周りを覆う草むらの一角が音を立てて揺れなびいた。


すると同調する様に他の箇所からもガサガサと、同様の音がしだした。


草と草とが触れ合う、あるいは草と何かがぶつかり合う、そういう音であった。


 

ガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサ・・・



「チ!囲まれたか。」




カラスはそう吐き捨てて、ゆっくりと刀に手を掛けた。



やがて音が止み、草むらからニューッと無数の影が立ち上った。

黒づくめの謎の男達。

真っ黒な洋服に真っ黒なズボン。

真っ黒な靴に、首にはこれまた真っ黒なマフラーを巻いている。

そんな男達が総勢十人。草むらからカラスを取り囲んでいた。


夏だというのにマフラーかよ。


カラスは突っ込む気が無い訳では無かったが、何か不快な面持ちになったまま終始黙っている。

息が荒い。

心なしか目が虚ろ。

おまけにひどく酒臭かった。



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