豚
カラスは少しだけ焦っていた。
酔いのおかげで多少惚けていたが、彼とて馬鹿ではない。
それ相応の相当の力量を誇る、天下無敵の剣客である。
最初は酒による酔いと、これから行き着く先の色街の事で頭が一杯だったから気付かなんだが、これだけ背後から闘志をムンムンさせて来られれば、気付かされる。
しかもかなりの人数とみた。
途中、草履の鼻緒が切れたふりをして立ち止まったが、瞬間、背後からたくさんの殺気が背中に向けられた。
間違いない。
背後にいるたくさんの一般市民共は、全員が全員、こちらに非常に濃密な意識を向けている。
尾行されたか。
カラスは山なりに架かった橋の半分より向こう、つまり下り部分を進みながら、この状況を打破するべく思案した。
しかしながら先程より明らかに人の数が減っている。
わざわざ人気の無い方向へ進んでしまったか、はたまた或いは尾行している集団・組織が前以て人払いをしたかのどちらかである。
もし前者ならば奴らの思う壺であり、また後者であるならば奴らの思う壺などと言っている余裕さえもなくなる。
後者だとすれば、それだけ奴らの算段がついていることに他ならない訳だから、しかるべき対処にて俺は殺害・暗殺されるということだ。
「うーむ・・・ううむ・・・困った。困った事だぞこれは。ううむ・・・。」
カラスはうむうむと唸りながら、前者であって欲しいと願った。
てか実際、既に余裕はゼロに等しかった。
こうなればヤケクソである。
とりあえず逃げよう。
カラスは決心する。
逃げて逃げて逃げまくって、行く手を遮る奴らは片っ端から斬るしかないだろう。
実際後ろをついてきている奴らの正体も人数もわからないんだし、逃げまくったら追い掛けてくんだろうから、それである程度の把握は出来るだろう。
倒せそうなら奴らの相手をして、無理そうならまた逃げまくって、それでもダメなら、こないだみたいに何とか誤魔化して窮地を逃れるしかあるまい。
カラスはフッと酒臭い息を吐き、橋の下り勾配を全力で走り始めた。
尾行していた警備隊員の一人がやっとこ山なりの橋の頂上部分へ差し掛かり、先を見つめる。
と、下りを勾配を走って逃げるカラスの背中が視界に入る。全力疾走だ。
「しまった。感付かれたか!」
この警備隊員は後ろの仲間に叫んだ。
「奴が逃げた!」
「何!!」
忍びながら尾行を続けていた警備隊員達が一斉に殺気をむき出しにして走り始めた。
「追えぇぇぇ!逃がすなぁぁ!」
「うぉぉぉぉ!!」
警備隊員達は口々に声を上げながら橋を下る。
ドドドドドドドドド! 彼らの足音が響く。
ドドドドドドドドッ! 疾走中のカラスがたくさんの足音に驚いて後ろを振り向く。
「え゛!!制服!?それに関係なさそうな人種の奴まで・・・人数多いし・・・。ヤバいよヤバいよ!」
カラスは迫り来る警備隊員の軍団を引き連れる様に、遂に橋を渡りきり、草の生い茂る原野の一筋の砂利道を続けて疾走した。
「うぉぉぉぉ!来るなぁぁぁ!来るんじゃねぇぇ!」
「待てゴルァァ!」
カラスは半泣きで走り、警備隊員達は鬼の形相でこれを追う。
最後尾のイサミちゃんも逃がしてたまるかと全力で駆ける。
「くそ・・・多分ありゃ街道でオッサンを殺したから追ってきてんだな・・・所謂、警察組織みたいなもんか・・・。 ん?何だありゃ・・・?ありゃあ・・・豚・・・と、豚舎か・・・。」
なんでこんなとこに豚舎なんぞがあるんだバカヤロウ。
舐めるな糞っ垂れ! カラスは豚共がピギィとかプギーとか鳴きながら呑気に糞でも捻り出しているのかと思うと、心底ムカついた。
人が生きるか死ぬかの状況にいるのに、豚のお前らは鈍重な肉体を持て余し、人によっては可愛いともとれる阿呆丸出しの面構えで誰かの間違った感性に媚り、餌と思しき物は何でも口に入れる浅ましさ、尻からは無意味に丸まった尻尾を生やして、間違った感性の誰かのその間違った感性を更に擽り拍車を掛け、引いてはそいつらはある豚の一面を見て、=豚さんって可愛いっキャハッ!などと一部が全てだと思い込み、豚は可愛い生物だと言い出し、頑なに考えを崩さない。
そして何時しか豚を愛していると言い出し、豚グッズを収集する重症者までも排出する始末。
その癖、平気な顔してハムを頬張り、豚カツを食う。
結局のところ豚はムカつくのかと言うとそうではなく、ある種、豚に対する汚らしさ貪欲さを含めて豚を好きだと思わない奴は真の豚好きではない訳だから、豚好きを名乗るのはおかしく、その辺の認識の一切無い頭パーが『あたし超豚好きなんだァ』とか言っているのがムカつくのだ。
しかし根本は豚が無駄にマニアの感性を擽る容姿を持っているのが引き金であり、そこをいくと豚に対してムカついていないと言うのは些か違うかもしれない。
まぁ、何にせよカラスはたまたま視線の先に見えた豚舎に豚という生物が飼育されている事を前提として、豚という生物に対する安易で不明瞭な価値観、或いは豚という生物の生態メカニズム云々を明らかに誤って認識している昨今の豚好きマニアに対して憤怒の念を思い起こしたのである。
ジャジャジャジャジャジャジャジャジャッ 警備隊員達の追跡の足音が砂利道の砂利を叩く音へと変化していた。
と、カラスがどうやら豚舎付近にまで辿り着こうとしていた。
薄の穂が風にそよぐ。
爽やかな晩夏の風が吹いた。
頬を撫でる心地よさとは裏腹に、酷い悪臭が鼻腔を突く。
「臭っ!メチャ臭っ!お゛え゛ぇぇぇぇ。」
カラスは右手側前方の豚舎を涙目で睨み、鼻をつまむ。
数十メートル後方の警備隊員達も、この風の悪戯を必死で堪えた。
「なんて臭いなんだよ・・・超最悪だ。」
イサミちゃんも走りながら臭いに耐える。愚痴りながら。
「糞がぁぁぁ!もー耐えらんねー!警備隊員達はしつこく追ってくるし、豚小屋はすげぇ臭ーし!こうしてやるわ!」
逃げながら叫ぶカラスが豚舎の手前まで来て、巨大なポリバケツ二つを砂利道に向かって放り投げた。
自棄な行動である。
ドシャドシャーー! と、今度は砂利道に転がったポリバケツから大量の生ゴミが飛び散り、道を汚濁する様に不快に飾りつけた。
豚の餌なのだろう。
しかしこんな風に沿道にバラ撒かれれば、それはやっぱり只の生ゴミでしかない。
「あー!あの野郎生ゴミバラ撒きやがった!」
「なんてサイテーな奴なんだ!」
警備隊員達は口々にカラスを非難した。
だがしかし。
そんな警備隊員達の罵声はカラスの耳に届いていなかった。
「・・・・・」
カラスは無言で豚舎内に蠢く豚共と錠閂を見つめていた。
迫り来る警備隊員達。
カラスはニターッと厭らしい笑みを浮かべた。
なんとも薄気味の悪い笑顔である。
人は大体こういう笑顔の時、得てして悪知恵を働かせているものである。
例外なくカラスもそうした知恵を働かせており、そして素晴らしい行動を取った。
突如、腰の刀を抜刀するや、気合い一発。
豚舎の錠閂を叩き斬り、扉を一刀両断にする。
ぱきん。
赤茶色に錆付いた錠が割れながら宙を舞う。
かたん。
かたん。 真っ二つにされた閂が入り口の両側にそれぞれ滑り落ちる。 ガタン、ガタンガタン。ガッターン! 最後に叩き斬られた扉が大きな音を立てて崩れ落ちた。 豚共は驚いた。そして破壊された入り口をみんなで見た。自由への片道切符がそこにあった。青い空が無尽蔵に広がり、薄の穂が一面に広がり、澄んだ空気がとてつもなく新鮮だった。すると豚共は一斉に外に飛び出したのである。 どすどすどすどすー。 成熟した巨大な豚が数十頭、完全に砂利道を封鎖してしまう。
「うわっ!なんだ!?アイツ豚舎の入り口ぶっ壊して豚を外に出しやがった!」
警備隊員達は目の前に飛び出した豚に顔を引きつらせて立ち止まった。
足元には先程カラスがバラ撒いた生ゴミが散乱し、臭気を放っている。
それよりなにより、カラスは豚の群れの向こう側にいた。
そう。最悪なことに、豚の群れは逃げるカラスと追っ手の警備隊員達の間に飛び出したのである。 豚達がブゴブゴと鼻を鳴らして何かを察知した。餌だ。餌があるぞ!警備隊員達の足元に散乱した餌を豚達が察知したのだ。 だが警備隊員達には豚語なんて通じないし、ましてや心も通い合わない。というか警備隊員達は、豚と豚の間を擦り抜けてカラスを捕縛しようと、向かってきた。豚の群れは豚の群れで、警備隊員達の足元の餌目がけ一斉に突撃を開始する。 凄まじい勢いで激突する豚軍団と警備隊員達。腹にタックルされてフッ飛ぶ者、腰にのしかかられ群れの中に沈む者など警備隊員達は完全に豚軍団の餌食となり、豚軍団が完璧に警備隊員達を足止めした。餌に間違えられて噛られた奴や、顔をべちゃべちゃに舐められて唾液に塗れる奴などほとんどの者が戦意を喪失しつつあった。踏み付けられ、噛られ、糞をかけられ、生ゴミの海に寝そべり、目眩がするくらいの強烈な悪臭の中、失神者、嘔吐者が続出し、さながら周辺は地獄絵図となった。ここは砂利道のはずだったが、砂利などは一切見えず、糞尿、生ゴミ、吐瀉物、豚、警備隊員で溢れ返っている。 その様を見ていたカラスがせせら笑いながら余裕の足取りで砂利道の向こうに去っていく。 豚は我先にと生ゴミを漁り、ぐちゃぐちゃ食い散らかし、ついでに仲間の垂れ流した糞尿や、警備隊員がもどしたソレをもぺちゃぺちゃと食い捲っている。 そこへ漸くイサミちゃんが追い付いた。が、目の前の光景に唖然とし、遥か彼方、微かに見えるカラスの白い影に目を移した。 「カラスめ!やるじゃねぇかよ!だが逃がす訳には行かないぜ!
でりゃぁぁぁぁ!」
イサミちゃんは走る速度を落とさず、地獄絵図のに向かって猛スピードで突っ込んでいく。
ダッ
ダッ
ダッ
ズシャ。
豚の群れに突っ込む寸前、イサミちゃんの体が宙を舞った。
藍色の制服が空中でバサッと音を立てる。
扇子は右手に、剣は腰に、そして胸に情熱を秘めて、イサミちゃんが空を飛んだのだ。
右膝を立て、左膝を落とし、両腕は水平に、彼は鳥になった!
というのは嘘で、人間が空を飛行するなんて現実的に無理な話で、実際にはジャンプしただけのことでしかない。
イサミちゃんはジャンプして一頭目の豚を躱すと、落下の間際に別の豚の頭を踏み付けて再度のジャンプを展開する。
次は別の豚の背中を踏み付け、その次はまた別の豚のケツを蹴飛ばし、時には仲間の警備隊員の後頭部を踏み抜いたり、失敗して豚のウンチを踏んでしまい、些かしょげたりしながらも、まぁ全体的には颯爽とした感じで豚越えを成し遂げたのだった。
そんなイサミちゃんの豚越えに気付かない遥か前方のカラス。
彼はもう全てが済んでしまったことだと安心しきっている。
イサミちゃんは後ろを振り返った。
豚、豚、豚、の豚の群れの中、時折無数の呻き声があがる。
呻き声を上げているのはカラスの計により犠牲となった警備隊員達だ。
いくらなんでも死亡者・重傷者は出ていないだろうが、恐らく彼らはもう戦えないだろう。
しばらくは豚の悪夢を見るだろうし、豚肉は食えなくなるだろうし、へたしたら嗅覚が完全にヤられてしまっているかもしれない。精神状態も心配である。
「おのれカラス!
俺一人でも必ず捕らえてやるからな!」
イサミちゃんは一人憤慨し、一人でカラスに挑むことを決意した。
扇子を胸元にしまい、左手を左腰の剣の鞘に当てて、忍者っぽい走り方でカラスの後を追った。
ちなみにその頃、元・水晶屋(26)は正気を取り戻した直後、皿洗いのバイトをクビになり、云い知れぬ敗北感・虚無感を抱き、辺りをほっつき歩いていたのであった。