第二話 その2
「ほら、また諦める! ちょっとは考えなよ」
香菜に言われて、優万は考えてみた。
亮介が陸上部を辞めた理由。
そういえば、本人は辞める時に『家の都合』とは言っていなかったか。
「家の都合、とか…」
ははは、と誤魔化した優万に、香菜が鋭く質問してくる。
「それは、優っちゃんの考えじゃなくて、鳥羽が言ってた事じゃん。それとも、優っちゃんは本当にそう思ってるわけ?」
そう言われて、優万はつまった。
あの時の亮介には、迷いはなかった。
亮介の表情を思い出しながら、優万はゆっくりと考えている事を口に出す。
「…う〜ん…。鳥羽くんが言ってたのは、嘘じゃないと思う。でも…」
「でも?」
「何か、家の都合ってだけが理由だけじゃないような…気がする」
香菜は、小さく首をかしげる。
「どういう事?」
「家の都合なら、いかにも無理矢理辞めさせられましたって感じになるじゃない? でも、鳥羽くんはそんな風じゃないように見えた。まるで、…そう、自分の意志のようなものを感じた」
優万の言葉に、香菜は更に首をかしげる。
「意志? そりゃ、部を辞めるってのは自分の意志なんだろうと思うけど」
香菜の言葉に優万はつまったが、小さく息を吸ってから続ける。
「意志っていうか…自分が辞めなくちゃいけないっていう使命感? みたいなもの? そんな感じがしたの」
「優っちゃんの言ってる事、なんかよくわかんないなぁ」
香菜は、首を左右に捻りながら、呟く。
「うん。わたしも言っててよくわかんない」
優万は、苦笑しながらペットボトルの蓋を開けた。
「何よぉ、優っちゃんも言っててよくわかんない事をわたしに話してたの?」
「えへへ、ごめん」
優万は、膨れた香菜にいたずらっぽく言った。こくっと一口お茶を飲んで、優万は遠くを見る。
「…今、鳥羽くん何してるんだろう」
「さぁね。案外、彼女と遊び歩いてたりして」
しれっとした香菜のとんでもない言葉に、優万は愕然とした。
「そ、そんなのいないよー!」
香菜は、意地悪そうに笑う。
「それはどうかな? 知らないだけなんじゃないのぉ?」
「…ぅ…。それは、…そうだけど」
途端に落ち込んだ優万を見て、香菜は吹き出してから優万に抱きついた。
「もう! 優っちゃんったら可愛すぎー! 冗談だって」
からかわれて、優万は怒ってみせる。
「香菜ちゃんヒドーイ!」
「ごめんごめん」
香菜は、笑って謝る。これは単なるじゃれ合いなので、交わす言葉には深い意味はない。
ないはずだ。
なのに、香菜が言った『彼女と遊び歩いてるかも』という可能性だけは、妙に優万の心にしこりを残した。
それから、亮介の話から逸れて他愛ない話をしている内に陸上部の練習は終わり、堀がジャージ姿のまま二人のいるベンチにやって来た。
「お待たせ」
「ううん。じゃ、どっか場所移そっか」
香菜は、堀が近付いてくると勢いよく立ち上がり、堀と優万ににこっと笑いかけた。
正直なところ、暑くて堪らないから、場所を移動したいというのがある。優万に否やはなかった。
三人は、高校を出てすぐにあるファミレスに入った。冷たいものが飲みたかっただけなので、ドリンクバーだけ頼んで、ひとまず落ち着く。
「大倉から話聞いた。俺に聞きたい事があるんだって?」
優万はうなずいたが、違和感を覚えて首を捻った。それから、それを口に出す。
「…大倉…? 二人ってさ、付き合ってるのに名前で呼びあってないの?」
「えっ!?」
予想外の変化球に、香菜と堀は同時に素っ頓狂な声を上げていた。
「な、何を言い出すの…!?」
顔を赤くして口をパクパクさせる香菜は、優万から見てもちょっと可愛かった。
優万は、なぜかからかってみたくなって、にやりと笑ってみせる。
「んー? 二人とも、お互いの名前知ってるよねぇ?」
「……っ!!」
更に顔を赤くして黙る二人。そんな二人を優万はにこにこ笑って黙って見ていた。
妙な沈黙。
一瞬置いて、優万はあっさり二人を解放した。
「…そんな事より、今日はごめんね。急に鳥羽くんの話聞きたいなんか言い出して」
堀は、目に見えてほっとした顔で答える。
「いや、良いよ。俺も、誰かに聞いてほしかったし」
「そう、じゃあ良かった。でも、色んな人に訊かれたんじゃないの?」
訊くと、堀は意外な事に首を振った。堀自身も意外だと言わんばかりだ。
「それが全然。噂にはなってるけど、俺には全く誰も話を聞きにはこないんだよなぁ」
「そうなんだ」
優万も、意外で相槌を打つと、横から香菜がしたり顔で口を挟んできた。
「噂の出所って、あの時の現場に居合わせた合唱部の部員じゃん。部活中で状況が状況だったし、鳥羽の事はニュースだけど、堀の事までは記憶になかったのかもよ?」
あぁ、と堀は納得した。
「合唱部って、本当に練習熱心だもんな」
「皆合唱バカなのよ」
香菜は呆れたように言う。そういう香菜も、もちろん優万も合唱バカの類に入るのだが。
「しっかし、アレを見られてたなんて全然気付いてなかったよ。あの時はいっぱいいっぱいだったし」
堀は、見られていた事を恥じるように頬を掻いた。
こうして話して接していると本当に堀は穏やかな少年なのだ。あの時、亮介に怒鳴っていた事の異常さがわかる。
「あの後、結局鳥羽くんから理由訊けたの?」
優万の質問に、堀はさっと顔を曇らせた。
「いや。捕まらなくてさ…」
「捕まらない?」
その話は香菜も初耳だったのだろう。聞き返す。
「あぁ。憎らしい事に、辞めたあの日までに部室の荷物を全部片付けててさ。休み中だから学校には現れない。メールも電話も応答なし。家も知らないし、もうお手上げだよ」
大きくため息を吐き、両手を挙げて堀は肩をすくめてみせた。
優万はなんとなく「やっぱり」と思っていた。
亮介の退部に彼自身の辞めようという強い意志があったのなら、そうなって当然だ。特に、理由を訊かれるとわかっていて姿を現したり、連絡が取れるようにはするはずがない。
「だから、このタイミングで辞めたんじゃない?」
優万の言葉に、香菜と堀は優万の顔を見つめた。二人に見つめられて驚くが、優万は続けて根拠を話す。
「だってそうじゃない? 次の日から休みって時に辞めたら、自分から接触しない限り、あれこれ訊いてくる人たちには会わないで済むでしょ」
「そっか…」
当たり前といえばよくわかる理由に、香菜は納得する。堀は、納得こそしたものの、何か釈然としないものがあるようだった。
首を捻りつつ、半ば独り言のように呟いた。
「でもさ、まさか自分の誕生日に辞めなくても…」
そのふと耳に飛び込んできた衝撃の単語に、優万は大きな声を上げていた。
「誕生日!?」
あまりに大きな声だったから、周りの席に座っていた人たちが一斉に優万たちに視線を向ける。
優万は、顔を赤くしてうつむいた。――が、すぐに堀に真剣な顔を向ける。
「あの日、鳥羽くん誕生日だったの!?」
堀は、優万の迫力に気圧されたように体を引いてうなずいた。
「う、うん。プロフィールは把握してるし、間違いないよ」
優万は、考えこんだ。
やっぱり、何かがおかしい。
一つ一つを見れば偶然の積み重ねにすぎない。しかし、何かがおかしいと優万は感じるのだ。
急に辞めたくせに、前から辞める準備をしていた亮介。
その亮介が辞めたその日は自分の誕生日。
そして極めつけは、インターハイの常連だった亮介が辞める事をあっさりと認めた顧問、理事会だ。
亮介が好き勝手に振る舞い、それがある程度周りの大人に許されているという事も、どこか変だ。
「ねぇ、優っちゃん?」
黙りこくってしまった優万を心配そうに香菜が覗きこんでくる。優万は、努めて微笑んだ。
「なに?」
「大丈夫?」
「大丈夫大じょ――」
優万は笑って返事をしようとして、凍りついた。窓の外を見つめたまま、動けなくなる。
その目線を追って振り向いた香菜と堀は、優万の目が釘付けになっているものを見て、思わず声を揃えて叫んでいた。
「鳥羽っ!?」
そこにいたのは亮介だった。優万たちのいるファミレスとは道路を挟んで向こう側にあるコンビニの前だ。所在なさげに立っている。
「何で、こんなとこに――」
堀が呻くように呟いた。ここは、まだ学校から近い。
今、『鳥羽は学校の近くには現れないだろう』と言っていたところだ。まさか、そんな矢先に現れようとは。
亮介は、優万たちが見ているとは全く気付いていない。コンビニの中をチラチラと気にしながら、誰かを待っているようだ。
不意に、コンビニから目も覚めるような美女が出てきて、亮介に駆け寄った。長い黒髪で赤い清服のようなデザインの服を着た、一見してただ者ではないとわかる雰囲気の美女だ。
彼女が亮介に微笑みかけると、二人は歩き出した。ちらっと見えた亮介は、珍しい事に微笑んでいた。
優万は、その光景に釘付けになっていた。見たくないのに、目が離せない。
どうしてこんな所にいるんだろう。それよりも、一緒にいる美女ひ一体何者なんだろう。亮介との関係はどういうものなんだろう。 優万の頭の中はそんな疑問で渦巻いて、亮介がもう目の前からいなくなった事にも気付かなかったくらいだ。
「…ちゃん、優っちゃん!? ちょっと、大丈夫!?」
香菜の呼びかける声が随分大きくなっていた。優万は、はっと我に返る。
「あっ…、うん。大丈夫」
「ほんとに? ヒドイ顔してるよ?」
優万は、そう言われて嘘を吐くのを諦めた。
「うん…。ちょっと何か…、訳わかんない」
このもやもやした気持ちはどう表現したらいいのかわからない。ショックで、苦しくて、混乱している。
『彼女と遊び歩いてるかも』
グラウンドで香菜が言っていた言葉がなぜか頭の中をぐるぐる回っていた。
あの美女は、亮介の彼女なんだろうか。だったら、あんな美しい人には到底敵わない。
香菜は、未だに呆然としている優万を見て、これはまずいと慌てたようだった。優万を何とか浮上させようと、わざと話題をずらそうとする。
「優っちゃん、明日の練習午後からだってわかってる?」
「え…、うん。…ねぇ、鳥羽くんと一緒にいたのって、あれって…彼女かな…?」
「え…」
香菜は、せっかく話題をずらそうとしたのに元に戻されて言葉に詰まる。香菜自身は、優万に冗談めいて言った事などすっかり忘れているのだ。
困って堀をちらりと見やるが、堀は、優万よりも困惑しているようだった。
香菜は、優万に困ったような視線を向けながらも、真剣な眼差しで言う。優万自身は自覚していないが、どれだけ本気なのかはよく知っているのだ。
「…さぁ、わかんない。随分仲良さそうではあったけど。堀は何か知ってる?」
優万と同じくショックを受けていた堀は、香菜に振られてはっと我に返った。
「あ、いや。全然。兄弟はいないらしいし、親戚…とか」
堀の慰めともつかないような言葉だったが、香菜は待ってましたとばかりに食い付いた。
「それそれ、親戚かもよ。だって、明らかに年上じゃん、あの人。それに、あんな美人じゃ鳥羽には勿体ない」
慰めてくれているはずなのに、優万は亮介をけなす香菜の発言についついむっとしてしまう。
「勿体なくないよ」
「はいはい。じゃ、あの人は彼女なのね」
「―――っ」
ずばっと切り返されて、優万は何も言えなくなる。香菜は、優万が言葉を失った事に笑った。
「ごめんごめん。鳥羽のくせに優っちゃんの心を弄んでるのがイラついてさ。優っちゃんをいじめるつもりはなかったの」
それがわかっているから、優万もうん、とうなずいた。
香菜が、グラスの中のストローをぐるぐるとかき回す。からん、からん、とグラスが音を立てた。
優万を見ながら、彼女は立ち直ったようだった。
「で、これからどうするの?」
「これ…から?」
きょとんと優万は香菜を見つめる。香菜は大きくうなずいた。