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第一話

 世の中には、想像もつかない事がある。それを、わたしは思い知ったのだった。




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 西の神の子が人々の罪業を負うべくして生まれてから二千と幾ばくかの年月が過ぎた。

 世界は今、科学技術が発達し、かつてないほどに文明が栄えている。

 大陸の極東に位置する蓬莱国もまた、そうした先進国の内の一つだ。経済国家として成熟し、本国である中国よりも豊かである。

 遥か昔から、中原の人々からは『東の蓬莱、西の崑崙』と並び称されるほどの神秘の国であった蓬莱だが、現在は開かれた国として観光客も多い。

 人々は、蓬莱国が神秘の国と言われていた事も忘れてしまっていた。

「練習始まるよー」

 友人の大倉香菜(おおくらかな)が声をかけてきて、芹口優万(せりぐちゆま)は我に返った。いつの間にか、ホームルームは終わっている。教室にいる生徒の数はまばらだった。

「うん」

 優万は慌ててうなずいて鞄を手にした。香菜は、ひょいと窓の外を覗いてにこっと笑った。

「あ、陸上部? 鳥羽(とば)、いっつも練習くるの早いもんねー」

「ち、違っ…!」

「照れない照れない。もうバレバレだから」

 香菜は、にやにや笑いながら優万を小突く。そう言われては反論はもはやできない。優万は、大きく溜息をついて、また窓の外を眺めた。

 窓の外から見えるグラウンドでは、陸上部が早くも練習を開始している。その中で、黒いジャージに身を包んだ男の子が一人でアップをしている。

 三階からでは顔まではよくわからないが、すらりと伸びた手足としなやかな体つきはわかる。

 優万は、うっとりと見つめる。香菜は、そんな優万に呆れたようだった。

()っちゃん、あんな無愛想なやつのどこがいいの?」

 その言葉に、優万は香菜の方に体を向けた。

「どこって…、走ってるの、カッコ良くない?」

「いや、まぁ、確かにあいつは走るの早いけどさ…」

 香菜は、反論できずに頭を掻いた。ショートカットの髪の毛がひよひよと跳ねているのが可愛らしい。ちら、と窓の外を横目で見るので、優万も釣られてまたグラウンドに目を向けた。

 香菜が、ぼそぼそと呟くのが耳に入る。

「だってさぁ、鳥羽っていっつも一人でいるじゃん。友達いなさそうだし、無愛想だしさ…。根暗そうじゃん。もうちょっと愛想がよかったら、わたしだってとやかく言わなくて済むのに…」

「それはもう聞きあきた。…練習行こっか、香菜ちゃん」

 鞄を肩にかけて、優万は香菜に笑う。くるりと戸へと向かうと、慌てて香菜が追いかけてきた。

「あっ、待って待って!」

「ほら、置いてくよー」

 教室を出れば、放課後の学校は閑散としていた。特に、明日から夏休みとなれば尚更だ。

 音楽室までの廊下は、日が射してうだるような熱さだ。窓も全開だが、風もない。

 優万は、手でひらひらと自分をあおぎながら香菜に苦笑する。

「暑いねー、毎日。もうやんなっちゃう」

「ホント。教室だけじゃなくて、廊下にも冷房つけろっての」

「そうそう、そしたら快適なのにさぁ」

 他愛ない会話。部活に向かうまでのこの移動時間に、香菜と下らない話をするのが、優万は何よりも楽しかった。

 優万の通う明鳳学園は、幼等部から大学院まであるこの地域でも大きい私立学園だ。学園内での交流は、それぞれの学校が近くにないからあまり活発ではないが、それでも一貫校だからそれなりにはある。九月に行われる学園祭もその一つだ。

 優万の所属する合唱部は、幼等部、初等部、中等部、高等部、大学とそれぞれ歌を披露する事になっている。学園祭初日のとりを飾る事になっているので、部長や指揮者、伴奏者の意気込みはすごいものがあった。もちろん、優万だって気合いは入っている。

 本番で歌う西洋の讃美歌は何を言っているのか正直わからないが、曲そのものも荘厳で気に入っている。

 今の合唱部にも楽曲にも何の不満もない。

「こんにちはー」

 でも、と優万は音楽室に入って、ちらと窓の外を見やった。

 窓の外には、文化部の部室が並んでいる。運動部の部室はまだグラウンドに近い場所にあるので、まだ向こうだ。優万には、それが気に入らない。

 音楽室からは、グラウンドも運動部の部室も見えないのだ。鳥羽が走っているのが見られたら、どんなに嬉しいだろう。

 鳥羽亮介(とばりょうすけ)。高等部からこの学園にいる優万とはちがい、初等部から学園にいるという、いわゆる大きい家のお坊ちゃんらしい。しかし、だからといってそれを鼻にかけるようなところはなく、寡黙でいつも一人でいる。

 それだけなら、優万は気にも留めなかったかもしれない。

 ある時、香菜に連れられて陸上部の大会に行った事があった。

 そこで、優万は心を奪われてしまったのだ。

 亮介は、まさにスターだった。

 目の前を颯爽と風のように通りすぎた亮介は、優万の目にも美しく、陸上を愛しているのがよく伝わってきた。

 それから、何かにつけて亮介を探して、追っている自分に気付いた。亮介の姿を見る事ができれば、一日幸せだ。

 しかし、それ以上の行動には移そうとは思わない。優万の気持ちは、まだ幼いものだった。

「練習を始めるよ」

 練習前のざわつきを静めるように、部長が手を叩いて大きな声を上げる。優万は、ハッと我に返った。

「今日も各パートで個別練習。最後の三十分で軽く合わせるよ。――以上、練習開始!」

 その言葉に、優万は香菜と一緒に女声高音(ソプラノ)の面々が集まる窓の側へと向かった。主旋律を担当する花形だが、ソプラノは音域が高い分、きちんと発声練習をしないと綺麗に声が伸びない。

 電子ピアノの前に陣どって優万は深く息を吸った。

 高い声を出すのはさほどつらくはないが、優万は声量があまり大きくなかった。腹の底に力をこめて、口を大きくあけるのだが、それでもまだ大きな声でうたえない。

 発声練習を終えて、音取りをしていた部員がポーンと曲の最初の音を取る。

「じゃあ、最初っからやるよ」

「はーい」

 思い思いに返事をして、改めて最初の音に集中する。

「さんはい――」

 主よ、憐れみたまえ――。

 西洋の神へと歌われるのは、凜と澄んだ、それでいて慈愛深い旋律だ。

 優万の意識は、目の前の曲へとシフトしていった。

 今日は、何だか声の調子が良い。優万は、嬉しくなりながら歌う。

 音楽室には冷房がある事はあるが、余程暑い時でなければつかない。

 今日はまだそれほど暑くないと判断されているのか、冷房はついていない。窓は全てが開けられ、もわっとした熱気を伴った風を流れ込む。代わりに、合唱部が練習するバラバラな旋律が流れ出している。

 一つにまとまっていない音楽は美しくない。周りからすれば、この合唱――いや、音楽関係の部の個別練習が一番迷惑だろう。優万は、いつも思う。自分がそう思うから。

 しかし、この練習をきちんとこなさないと美しい音楽を作り上げる事はできない。皆が真剣だった。

 個別練習の時間はあっという間に過ぎ、部活終了時間まで残り三十分になった。

 部長が、再び手を叩いて声を張り上げる。

「そろそろ合わせるよ!」

 皆、音楽室の中央に体を向ける。指揮者が、手を軽く構えて立っていた。

 ぴたり、と静まり返る音楽室。

 指揮者は、伴奏者と顔を見合わせてうなずくと、手をサッと降った。

 その瞬間――。

「――待てよ、鳥羽!」

 声を出そうとした瞬間に音楽室の外から怒鳴り声が聞こえて、皆、出鼻を挫かれて口を開けたまま、声の方を見やった。

 優万は、聞こえた言葉にドキッとした。

 声の方へと目を向けると、二人の男子生徒が揉み合っていた。更に、優万は目が釘付けになる。

 片方は、制服姿だが、どちらも陸上部だとわかる。必死に制服姿の男子――亮介を引き留めようとしている陸上部指定のジャージ姿の男子にも、見覚えがあった。

「ねぇ…あれって、堀くんじゃ…?」

「うん。何やってんの? こんなとこで…」

 ひそひそと隣の香菜に囁きかけると、香菜も応えてくれる。堀は香菜の彼氏なのだ。秋になれば陸上部の部長になる二年の学年代表。面倒見の良い堀が、亮介と何を揉めているのだろう。

「鳥羽! ちゃんと説明しろ! どうして突然陸部辞めるなんて言うんだ!!」

「えっ…!?」

 優万は、思わず小さく声を上げていた。

 堀のその言葉は、まさに晴天の霹靂だった。

 亮介が、陸上部を辞める。なぜ?

 対して、亮介はいつもと変わらない平然とした顔だった。

「辞めるなんて言ってない。もう辞めたんだ」

「だからどうして…!」

「家の都合。そういっただろう」

 何を言っても暖簾に袖押しの状態だ。それが堀にもわかったのだろう。堀はぎりっと奥歯を噛み締めた。

「それじゃ納得できないっつってんだろ! もっと詳しく話せ。学年代表の俺には、理由を知る権利があるはずだ!」

 亮介は、堀の訴えにはまったく心を動かされた様子がない。

「だから、家の都合だと言っている。顧問はそれで納得してくれた」

「顧問と俺は違う!」

 堀は、ほとんど掴みかかりそうな勢いで亮介に詰め寄る。亮介は、うんざりしたように小さく息を吐いた。

「じゃ、納得してくれなくて結構。俺は忙しいんだ。帰る」

「鳥羽…! 陸上が嫌いになったわけじゃないよな?」

 どうあっても今は亮介の真意を探る事はできないと悟ったのか、堀は少し落ち着いた声に戻って帰ろうと背を向けた亮介に問いかける。

 鳥羽は、ぴた、と足を止めた。

「…嫌いなわけがない。でも、もう…部活はできないんだ」

 亮介は、堀に謝るように言うと、今度こそ立ち止まる事なく歩きさった。

 残された堀は、しばらく亮介の後ろ姿を見送っていたが、肩を落として部室へと戻っていく。

 優万は、それを呆然と見つめていた。

 あまりに突然すぎて、全然信じられない。あんなに陸上が好きに見えた亮介が、陸上部を辞めてしまうなんて。

「――…口さん、芹口さんっ!」

 誰かに呼ばれている気がして優万がはっと我に帰ると、指揮者が怖い顔をして優万を睨んでいた。それで、優万は更に、今が部活中だという事を思い出した。

「あ…す、すみません」

「集中してくれないと困る。三十分しかないんだから」

 指揮者は、優万を注意すると、ぐるりと皆の顔を見回した。優万のように上の空な人はいないか調べるように。

「…よし。じゃ、始める」

 改めて、指揮者は手をさっと振る。一瞬の静寂、大きく息を吸う音。

 讃えよ、神を――。

 ピアノの伴奏に乗って、静かに美しい旋律が窓から流れ出す。

 優万は、なかなか集中できなかった。おざなりではいけないと思うが、ついつい意識は亮介の事へと飛んでいく。

 あぁ、気になる。

 どうして亮介は陸上部を辞めてしまったのだろう。家の都合って一体どんな都合なのだろう。

 どうしても訳が知りたい。




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「…ごめんなさいね、亮介」

 小さく呟いた人物に、亮介ははっと顔を上げた。

「いえ…。前から決まっていた事ですから」

 亮介は、きっぱりと首を振る。その瞳に迷いはなかった。

 だから、亮介の前に座っていた女は表情を改めた。

「そう。…ならば、もう言わないわ。亮介、私に力を貸してくれるわね」

「はい。もちろんです」

 亮介は、神妙にうなずく。そんな彼を見つめていた女は、ふと唇を歪めた。

 浮かぶのは、嘲笑うかのような笑み。

「…本当ならば、私の犯した罪なのだもの。私一人で何とかすべきなのでしょうけれど…」

「あなたのせいじゃありません」

 はっきりと否定して、亮介は俯く。

「この責めを負うのはこちらです。あなたは何も悪くない」

「けれど…」

 言いかけた女は、言葉を切った。これ以上続けたところで無意味だ。

「…その話はやめておきましょう。とにかく、一刻も早く見つけなければならないわ」

「はい」

 女は呟いた。

「時間は少ししか与えられていない。お互い、全力を尽くしましょう」

 亮介は、一瞬だけ遠い目をしたが、ゆっくり、大きくうなずいた。


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