美しき聖女様の生活事情
「ユーベル様! どうか、我が夫の怪我を治していただけませんか!」
「ユーベル様! 息子の熱を下げることはできませんでしょうか……!」
「美しき聖女様! どうか、わたくしどもに御加護を……!」
「聖女様! どうか、寿命を延ばしてくださいませ!」
「ユーベル様! 俺と一緒に、愛の方程式を解きませんか!」
(ユーベル、ユーベル、ユーベル……聖女様、聖女様、聖女様……。ああああ、もう、うるせえええええ!)
今日も今日とて、聖女ユーベルの周囲は騒がしい。
人々の祈りと嘆願が飛び交い、彼女の名を呼ぶ声は絶え間なく響き渡る。誰かが手を合わせれば、別の誰かが涙ながらに縋りつく。しまいには、愛の方程式なるものを持ち出し、求婚してくる輩までいる始末だった。
そんな日々に、ユーベルはすっかり辟易していた。
聖女として人々の傷を癒やすこと自体に、不満があるわけではない。己の力が誰かの助けになるのなら、それは本望だ。苦しむ者の痛みが和らぎ、絶望に沈んでいた者の顔に安堵が浮かぶ。その瞬間には、彼女自身もささやかな喜びを覚えていた。
しかし、いかに聖女といえど万能ではない。
傷や病を癒やすことはできても、寿命を自在に延ばすなど不可能だ。ましてや、愛の方程式などという得体の知れないものを解いてやる義理もない。
それにもかかわらず、人々は次から次へと願いを持ち込んでくる。まるで聖女という存在が、あらゆる望みを叶えるために天から遣わされた便利な道具であるかのように。
おまけに、彼らは決まってユーベルを「美しき聖女様」と称賛する。
確かに、彼女は人目を惹く容姿の持ち主だった。艶やかな髪に、整った目鼻立ち。そこへ聖女という神聖な肩書きが加われば、世の人々が憧憬の眼差しを向けるのも無理はない。
けれど、当の本人は己の容姿にさほど自信を持っていなかった。
人々は聖女という肩書きに目を眩まされ、彼女の実像を見誤っている。慈悲深く、清廉潔白で、誰に対しても分け隔てなく微笑む、非の打ち所がない女性。
そんな都合のよい幻想を、勝手に押しつけているのだ。
何を願っても聞き入れてくれる。自分だけを特別に見てくれる。どれほど無理難題を突きつけても、決して怒らない。
――冗談ではない。
ユーベルとて、一人の人間である。腹も立てれば、面倒だと思うこともある。誰にも邪魔されず、惰眠を貪りたい日だってあるのだ。
しかし、そんな聖職者らしからぬ一面を、民の前で晒すわけにはいかなかった。
だからこそ、彼女は人々との間に一定の距離を保つよう心がけている。
本心を明かしてはならない。
感情を露わにしてはならない。
余計な詮索を許してはならない。
そして、何よりも――自分の素性を知られてはならない。
それが、彼女の身につけた処世術だった。
知らないことは、幸せなこと。
ユーベルは、そう自分に言い聞かせている。
(まあ、私の私生活を知ってしまったら、美しいだなんて二度と言えなくなるでしょうけれど)
彼女には、誰にも知られてはならない秘密があった。
それは、単に人には言いづらい趣味があるとか、過去に恥ずかしい失敗をしたとか、そんな生易しいものではない。
人間性の終着点と呼んでも差し支えないほど、荒廃しきった私生活。もはや、人としての体裁すら保てているのか怪しい有様だった。
(言えない。絶対に言えない……。考えただけで頭が痛くなる)
そんなことを考えながら、ユーベルは寝台の上でごろごろと寝返りを打っていた。
柔らかな寝具に身を沈め、頬を枕に押しつける。窓から差し込む陽光は穏やかで、外からは小鳥の囀りが聞こえてきた。昼下がりの空気は、眠気を誘うには申し分ない。
あと少し。あと少しだけ、この幸福を享受したい。
そう願った矢先のことだった。
カランコロン、と玄関の扉に取りつけられた呼び鈴が、軽快な音を奏でる。
ユーベルは、ぴたりと動きを止めた。
まさか。
いや、そんなはずはない。
薄い期待を抱きながら、彼女はそっと耳を澄ませる。
「ユーベル。入るぞ」
聞き慣れた声が、扉の向こうから響いた。
(……ああ、終わった)
平穏な休日の終焉を悟り、ユーベルは枕に顔を埋めた。
声だけならば、実に美しい。低く落ち着いた声音には妙な色気があり、耳にする者の心を否応なく惹きつける。おまけに顔立ちまで美麗なのだから、腹立たしいことこの上ない。
神は、いったい何物をこの男に与えれば気が済むのだろうか。
「また来たのですか、殿下。勝手に入らないでください」
ユーベルが不機嫌さを隠そうともせずに告げると、扉の向こうから、さも当然といった声が返ってきた。
「いいではないか。私の女なのだから」
「いつ、殿下の女になったのでしょうか?」
「今」
「そうですか。では、今すぐお帰りください」
「つれないな」
殿下は悪びれる様子もなく、悠々と室内へ足を踏み入れた。
その立ち居振る舞いには、王族としての気品と、他人の領域に土足で踏み込むような図太さが同居している。身分だけを考えれば、ユーベルが無下に扱ってよい相手ではない。
しかし、だからといって好き勝手に振る舞われては困るのだ。
そもそも、王族と聖女がこうも気安く交流していること自体、あまり好ましい状況とはいえない。周囲に知られれば、あらぬ噂が立つのは必至である。
「そもそも、殿下――」
ユーベルは、ひとまず抗議の一つでもしようと口を開いた。
ところが、言葉を最後まで紡ぐより早く、殿下が愉快そうに笑い声を上げる。
「ははっ! 相変わらず面白い女だ」
「…………」
ユーベルは、ゆっくりと口を閉じた。
(何が面白いんだ、この人は。人の話を最後まで聞け、この王族め)
胸中で盛大に毒づく。表情だけは聖女に相応しい穏やかさを保っているものの、その内心は穏やかとは程遠かった。
そもそも、彼女には殿下のこうした振る舞いが理解できない。
貴族は貴族。王族は王族。聖職者は聖職者。
それぞれが定められた立場をわきまえ、節度をもって交流する。それが最も波風の立たない生き方だと、ユーベルは考えていた。
もっとも、この世でも指折りの高貴な身分にある王族が、こうも頻繁に自分のもとへ顔を出すのだから、世の中というものはままならない。
殿下とは、神殿で顔を合わせて以来の付き合いだった。
初めこそ、王族と聖女という立場に相応しい、形式的な会話を交わす程度の関係だったはず。それがいつの間にか、彼は用事があるとも告げずに訪ねてくるようになった。
そして、訪れるたびにユーベルをからかい、好き勝手なことを言っては満足そうに帰っていく。
彼女としては、できることなら穏便にお引き取り願いたい。
だが、目の前の男にそんな願いが通じるとは到底思えなかった。
「ところで、殿下。本日はどのようなご用件でしょうか?」
ユーベルは、気を取り直して尋ねた。
少なくとも、訪問の理由くらいは聞いておきたい。まさか本当に、暇つぶしのためだけにやって来たわけではあるまい。
しかし、殿下は不思議そうに首を傾げた。
「用がなければ来てはいけないのか?」
「はい」
「即答か。傷つくなあ」
「お心を傷つけたのであれば申し訳ございません。ですが、私にも予定というものがございますので」
「ほう。どんな予定だ?」
「睡眠です」
「今、起きているではないか」
「殿下がお越しになったからです」
「なるほど。つまり、私が来なければ、お前はまだ寝ていたわけだ」
「ご理解いただけたようで何よりです」
ユーベルは、にこりともせずに答えた。
殿下は、ふむ、と顎に手を当てる。
その顔には、反省の色など微塵も浮かんでいなかった。それどころか、何やら新しい玩具でも見つけた子供のように、どこか楽しげな気配さえ漂わせている。
「それにしても……」
彼は、室内をゆっくりと見回した。
「最後に私が来たのは、いつだったかな?」
「五日前です」
「そんなに前だったか」
「私にとっては、つい先ほどのことのように感じますけれど」
「ひどいな。久方ぶりに会ったというのに」
(五日で久方ぶりって、どんな感覚をしているんだ、この人は)
ユーベルは心の中で呆れ果てた。
殿下の表情には、先ほどまでの軽薄な笑みが浮かんでいる。ところが、彼が室内を見渡すにつれ、その顔から徐々に笑みが消えていった。
視線が、床へ。机へ。
そして、再び床へと戻る。
「……ユーベル」
「はい?」
「これは、どういうことだ?」
「何がでしょう?」
「この部屋だ」
その一言に、ユーベルの背筋が凍りついた。
(しまった)
そう思ったときには、もう遅い。
彼女は恐る恐る振り返り、己の生活空間を見渡した。
そこには、見慣れた惨状が広がっていた。
床には脱ぎ捨てられた衣服が散乱し、靴や小物が無造作に転がっている。机の上には、いつ開封したのかも定かではないパンや、色の変わったヨーグルト、さらには生肉らしきものまで置かれていた。
椅子には分厚い書物や書類が幾重にも積み重なり、少しでも振動が加われば、たちまち崩落しそうな有様だ。
台所の隅には、正体不明の袋や仕事で使用する聖具が放置されている。流しには洗い物が山をなし、用途不明の小瓶まで散乱していた。
そして、極めつけは寝台である。
柔らかな寝具の上には薬草や謎の石ころが転がり、枕の脇には、いつのものかも分からない書物が開きっぱなしになっていた。
酒に酔った勢いで放り投げたものも、きっと混ざっているのだろう。
しばし、沈黙が落ちた。
「…………」
「…………」
殿下は、こめかみを押さえた。
「……ユーベル」
「はい」
「聖具を台所に置くとは……。本当にお前は聖女なのか?」
「聖女であることと、整理整頓が得意であることに、何か関係があるのでしょうか?」
「大いにあると思うが?」
「そうですか」
ユーベルは、すっと視線を逸らした。
殿下は、もはや何も言うまいとでもいうように、深々と息を吐く。
「それで、ユーベル。片付けをする気はないのか?」
「…………」
沈黙こそが、何より雄弁な答えだった。
「……なるほど」
殿下の声が、わずかに低くなる。
「よし。掃除をするぞ」
「えっ」
「今すぐだ」
「お待ちください、殿下! 聖女に掃除をさせるおつもりですか!?」
「聖女だろうと何だろうと、部屋が汚ければ掃除くらいするだろう」
「わ、私は聖女です! 神に仕える身でございます!」
「ならば、神もこの惨状をお嘆きになるだろうな」
「…………」
正論だった。
あまりにも正論すぎて、反論の余地もない。
(くそっ……!)
ユーベルは、心の中で盛大に悪態をついた。
しかし、相手は王族。しかも、普段から妙に勘が鋭い男である。ここで逆らえば、余計に面倒なことになるのは目に見えていた。
「……分かりました」
「よろしい」
こうして、聖女ユーベルの平穏な休日は、あっけなく幕を閉じた。
彼女の望みは、ただ静かに眠ること。それだけだったはずなのに。
どうしてこうなったのだろう。
ユーベルは人生の理不尽さを噛み締めつつ、床に散らばった衣服を拾い始めるのであった。
*
「それにしても、随分と荒れた部屋だな。最後に私が来たときは、ここまでひどくなかった気がするが」
「申し訳ございません」
「五日間で、ここまで荒れるものなのか?」
「人間、努力すれば何事も成し遂げられるものです」
「その努力は、別の方向に向けてほしかったな」
殿下は額に手を当てた。
ユーベルは、ばつが悪そうに目を逸らす。
確かに、五日前にはここまでひどくなかった……はずである。少なくとも、床が見えなくなるほどではなかったと記憶している。
しかし、一度片付けを怠れば、次第に物が増えていくのが人間というものだ。たった一着の衣服を床に置いたことが始まりとなり、気がつけば部屋全体が混沌の坩堝と化していた。
ユーベルにとっては、もはや見慣れた光景にすぎない。
だが、他人に見せるとなれば話は別だ。
(だからこそ、何の前触れもなく訪ねてきてほしくなかったのだ。)
流石のユーベルとて、客人を迎える際には、それなりに部屋を整えている。いくら私生活が荒廃していようとも、他人の目に触れる場所くらいは取り繕うだけの分別があった。
つまり、今回の惨状を招いた元凶は、何の連絡も寄越さず、突如として押しかけてきた殿下にある。まさか、自分以外の人間に、この目も当てられぬ生活ぶりを目撃される日が来るなど、夢にも思っていなかった。
否――思っていなかった、では済まされない。
知られてはならなかったのだ。
人々が抱く聖女としての理想像を損ないかねない、あまりにも醜態じみた私生活。これが露見すれば、日頃から取り繕ってきた聖女としての矜持も、たちまち瓦解してしまうだろう。
そして何より、神官長にだけは、絶対に知られるわけにはいかなかった。
「……ところで、殿下」
「何だ?」
「聖具を台所に置くのは、やはりまずかったでしょうか?」
「まずいに決まっているだろう」
「ですよね……。では、神官長様には、このことを内緒にしていただけないでしょうか」
ユーベルは途端に愛想のよい笑みを浮かべた。
先ほどまでの不遜な態度はどこへやら。腰を低くし、両手を合わせ、殿下の顔色を窺っている。
さらには、媚びを売るように体をくねくねと揺らし始めた。
普段の彼女を知る者が見れば、目を疑うに違いない。清廉な聖女の名に、これほど似つかわしくない姿もそうそうないだろう。
殿下は、しばらくその奇妙な動きを眺めたあと、呆れたように眉を上げた。
「そんなに神官長というのは怖いのか?」
「ええ、それはもう。半殺しにされるでしょうね」
「…………」
冗談なのか、本気なのか。
判断しかねた殿下は、わずかに目を細めた。
「……そうか。聖職者というのは、裏表が激しすぎないか?」
「ご安心ください。うまく隠しておりますので」
「安心できる要素が一つもないのだが?」
殿下は、とうとう呆れ果てたように深々とため息をついた。
今日だけで何度目のため息だろう。
ユーベルはそんなことを考えながら、何食わぬ顔で床の衣服を拾い集めていた。
どうやら、この男は思っていた以上に面倒見がよいらしい。
口では文句を言いながらも、結局は手伝ってくれるのだから。
*
それから二人は、黙々と片付けに取りかかった。
ユーベルは床に散らばった物を拾い集め、殿下は書類や衣服を種類ごとに分類していく。
殿下は、王族らしからぬ手際のよさを発揮していた。散らかった書類を整理し、乱雑に置かれた本を棚へ戻し、床に転がっていた小物を一つずつ拾い上げていく。
時折、用途の分からない物を手に取っては首を傾げるものの、結局、何も尋ねずに片付けてくれた。
そんな彼の手が、ふと寝台の脇で止まる。
「ユーベル。これは何だ?」
殿下が手にしていたのは、手のひらに収まるほどの石ころだった。
表面はごつごつとしており、特筆すべき特徴もない。そこらの道端に転がっていたとしても、誰も気に留めないような代物である。
殿下は訝しげに石を眺めた。
「石ですね。大切に育てると、すね毛が生えるそうですよ」
「…………何?」
「その石を長い間触っていると、今度は触っている者の髪の毛がなくなっていくそうです」
「……なぜだ?」
「髪の毛が生える成分を他者から奪い取って、成長する石ですから」
ユーベルは至極真面目な顔で説明した。
声音にも表情にも、冗談を言っているような気配は微塵もない。
むしろ、長年研究を重ねた学者のような堂々たる態度だった。
殿下は、手元の石ころとユーベルの顔を交互に見比べる。
「…………そうか」
やがて、彼はそっと石を元の場所へ戻した。
それ以上、追及する気はないらしい。
(高貴な身分の御方には、少々刺激が強すぎたみたいですね)
ユーベルは、内心で満足げに頷いた。
もちろん、そんな奇妙な石が実在するかどうかは、本人にも分からない。そもそも、なぜそんな話を思いついたのかすら定かではなかった。
ただ、殿下の困惑した顔が見られたので、彼女としては十分に満足である。
こういうところが、彼女の底知れないところなのだろう。
美しく、慈悲深い聖女。
その仮面の裏側には、妙に子供じみた悪戯心と、時折とんでもない方向へ飛躍する発想が潜んでいるのだった。
やがて、片付けも佳境に差しかかった頃。
殿下が窓を開け放つと、澄んだ外気が室内へと流れ込んできた。
淀んでいた空気が一掃され、埃っぽかった部屋に、かすかな草木の香りが満ちていく。
家の前には大きな樹木が立ち、鮮やかな翠の葉を青空いっぱいに広げていた。
梢は風が吹くたびにさらさらと揺れ、枝葉の隙間からこぼれ落ちる陽光が、地面に幾何学模様を描き出す。木漏れ日は黄金色の斑紋となって床を彩り、穏やかな風が薄いカーテンをそっと揺らしていた。
みずみずしい緑の匂いと、陽射しに温められた木の香りがあたりを包み込む。
まるで、時間そのものが緩やかに流れているかのような、静謐なひとときだった。
ユーベルは、ふと手を止めた。
窓の外に広がる景色を眺めながら、静かに目を細める。
これからも、この国が平和でありますように。
人々が健やかに暮らせますように。
誰もが明日を恐れることなく、穏やかな日々を送れますように。
彼女は、そんな願いを胸の内でそっと唱えた。
聖女としてではなく、一人の人間として。
「……ユーベル?」
不意に声をかけられ、彼女は我に返った。
「あ、いえ。何でもございません」
慌てて視線を戻し、再び作業に取りかかる。
とりあえず、床掃除をしなければならない。
ユーベルは雑巾を水の入ったバケツに投げ入れ、二、三度絞った。
しかし、もともと雑巾が汚れていたせいか、水はあっという間に灰色へと変わってしまう。
「…………」
殿下が、無言でその様子を見つめていた。
「……何か?」
「いや。何でもない」
彼は何か言いたげに口を開きかけたものの、結局、何も言わずに視線を逸らした。
おそらく、言いたいことは山ほどあるのだろう。
しかし、今さら何を言ったところで、この聖女の生活態度が改善するとは思えなかったのかもしれない。
二人は再び、黙々と手を動かした。
時折、何かが床に落ちる音や、物を動かす際の耳障りな音が響く。それでも、ユーベルは一向に気にしなかった。
こうして、四半時ほどが過ぎた頃。
ようやく、部屋の大部分が人を招ける程度に片付いていた。
無秩序に広がっていた衣服や靴、小道具などは種類ごとに分類され、床には久しく見ることのなかった空間が広がっている。
ようやく足の踏み場が確保できたのだ。
もっとも、片付けから床掃除に至るまで、その大半を担ったのは殿下だった。
ユーベルが物を拾い集めている間に、彼は書類を整理し、棚を整え、床を拭き、挙げ句の果てには洗い物まで片付けてくれたのである。
甲斐甲斐しく動き回る殿下の姿を見て、ユーベルは申し訳なさを覚えずにはいられなかった。
王族に、ここまでさせてしまってよいものだろうか。
いや、よいはずがない。
それは彼女にも分かっている。
分かってはいるのだが――。
(……まあ、手伝ってくださるとおっしゃったのは殿下ですし)
結局、都合のよい結論に落ち着いてしまうあたり、ユーベルも大概であった。
ふと辺りを見渡すと、窓の外はすっかり茜色に染まっている。
いつの間にか日が傾き、室内には薄暮の気配が忍び寄っていた。
殿下は、壁際に置かれた蝋燭に火を灯す。
小さな炎が揺らめき、二人の影を壁に映し出した。
どこまで気の利く男なのだろう。
普段は、神経を疑うほどふざけた振る舞いをするくせに、こういうところだけは妙に細やかな気遣いを見せる。
ユーベルは、そんな殿下の横顔をちらりと盗み見た。
「本当に綺麗に片付きましたね。殿下、ありがとうございました。よろしければ、お茶でも飲んでいかれませんか?」
「いや、いい。お前も疲れているだろう」
「しかし、それでは寝覚めが悪いといいますか……」
そこまで口にしたところで、ユーベルはふと殿下の顔を見た。
そして、思わず腹を抱えて笑い出してしまう。
普段から身なりも振る舞いも整っている殿下が、今では自分と同じように埃まみれになっているのだ。
美しい顔には薄く埃がつき、端正な衣服もあちこちが乱れている。いつもならば隙一つない王族の姿が、今だけは見る影もない。
その落差が、どうしようもなくおかしかった。
「お、お前だって埃まみれではないか!」
殿下の顔が、かあっと赤く染まる。
どうやら、笑われたことが不服らしい。
しかし、ユーベルの笑いは止まらなかった。肩を震わせ、目尻に涙まで浮かべながら笑い続ける。
やがて、その様子につられたのか、殿下もまた、くつくつと喉を鳴らして笑い始めた。
ひとしきり笑ったあと、彼はふと真面目な表情に戻る。
そして、ユーベルの手に、そっと自分の手を重ねた。
「……なあ、ユーベル」
「はい?」
「私は、お前に会うために、何かしら理由をつけなければならないのか?」
先ほどまでの軽妙な調子とは違う、静かな声音だった。
ユーベルは、わずかに目を見開く。
「……はい。私と殿下では、立場が違いますから」
彼女は慎重に言葉を選びながら答えた。
「私にとって、殿下は理由もなく会ってよい相手ではございません」
王族と聖女。
その立場の違いは、決して小さなものではない。
どれほど気安く話せるようになったとしても、二人の間に横たわる身分の隔たりが消えるわけではなかった。
ましてや、ユーベルには聖女として守るべき立場があり、知られてはならない秘密もある。
だからこそ、彼女は一定の距離を保たなければならないのだ。
そうでなければ、いつか何かを失うことになるかもしれない。
しかし、殿下はそんな彼女の懸念など意に介さない様子で、あっさりと頷いた。
「そうか。なら、理由があったらよいということだな?」
「……ええ、まあ」
「よし。ならば、問題ない」
殿下は、満足げに微笑んだ。
その笑顔を見て、ユーベルは嫌な予感を覚える。
この男が、そう簡単に引き下がるはずがない。
「……ちなみに、どのような理由でしょうか?」
「決まっているだろう」
彼は、重ねた手にわずかに力を込めた。
「次も、私がこの部屋を掃除してやろう!」
「…………は?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
ユーベルは瞬きを繰り返し、目の前の男を凝視する。
殿下は、至極当然のことを告げたかのような顔をしていた。
まるで、空が青いことを説明しただけだとでもいうように。
「……殿下。それは、理由と呼べるのでしょうか?」
「呼べるだろう?」
「王族に、掃除させる聖女が何処にいるのですか」
「ここにいるではないか。それに私は、他でもないお前に会いたい。それだけだ」
その声音は、いつになく穏やかだった。
冗談を言っているようには見えない。
ユーベルは、ふいに胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。
これまで、聖女として求められたことは数え切れないほどある。
癒やしてほしい。救ってほしい。願いを叶えてほしい。
誰もが彼女の力を必要とし、その肩書きに価値を見出していた。
けれど、ただ自分に会いたいと言ってくれる人は、果たしていただろうか。
聖女だからではなく、何かを叶えてくれるからでもない。ただ、ユーベルという一人の人間に会いたいと。
そんなふうに言われたのは、初めてだったのかもしれない。
「……殿下は、変わったお方ですね」
ようやく絞り出した言葉は、ひどくありきたりなものだった。
「よく言われる」
「褒めておりません」
「知っている」
殿下は、楽しげに笑った。
そして、ユーベルの手をそっと離す。
「今日はもう帰る。片付けも終わったことだしな」
「……そうですか。では、お気をつけてお帰りください」
ユーベルは、努めて平静を装いながら答えた。
殿下は扉へ向かいかけたものの、不意に何かを思い出したように足を止める。
「ユーベル」
「はい?」
「次に来るときは、何か菓子でも持ってこよう」
「……甘いものですか?」
「ああ。お前は甘いものが好きだろう?」
ユーベルは、思わず目を見開いた。
そんなことまで覚えていたのか。
聖女としての振る舞いや、人々の願いに応える姿ではなく、彼女自身の些細な好みを。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
「……はい。ありがとうございます」
「どういたしまして」
殿下は満足げに微笑むと、今度こそ扉の向こうへと姿を消した。
カランコロン、と呼び鈴が鳴る。
そして、静寂が戻った。
ユーベルはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて、はっと我に返る。
「……いや、待てよ」
誰もいなくなった扉を、じっと見つめた。
「私、殿下にお茶を出していないよね?」
片付けを手伝ってもらったうえ、お茶すら振る舞わずに帰してしまったのである。
それどころか、甘いものを持ってきてくれるという約束まで取りつけてしまった。
(……私、もしかして、とんでもなく失礼なことをしたのでは?)
ユーベルは頭を抱えた。
王族を埃まみれにし、掃除をさせ、挙げ句の果てにはお茶も出さずに帰す。
冷静に考えれば、相当に無礼な振る舞いである。
しかし、しばらく悩んだ末、彼女はふっと顔を上げた。
(まあ、いいか。次に来たら、お茶くらい出しましょう)
結論は、実にあっさりとしたものだった。
反省しているのか、していないのか。
本人にも、よく分かっていないらしい。
ユーベルは軽やかな足取りで寝台へ向かうと、整然と片付いた寝具に身を投げ出した。
「……ああ、疲れた」
聖女としての務めを果たすよりも、ずっと疲れた気がする。
けれど、不思議と嫌な疲労感ではなかった。
むしろ、胸の奥には、いつもとは違う穏やかな余韻が残っている。
ユーベルは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
明日もきっと、人々はユーベルを聖女と呼ぶだろう。
美しく、慈悲深く、誰の願いでも叶えてくれる、理想の聖女として。
その期待に応えるため、彼女は再び微笑み、誰かの願いに耳を傾けることになる。
けれど。
(……あの人の前では、少しくらい聖女らしくなくてもいいのかもしれない)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
ユーベルは、はっと目を開ける。
「……何を考えているんだ、私は」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
頬がわずかに熱い気がしたが、きっと気のせいだ。
そうに違いない。
彼女は布団を頭まで引き上げ、今度こそ眠りにつこうとした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!!!
現在、より面白い物語を書くため、文法や語彙力、話の引き出し方など勉強しています。
もしよろしければ、作品を読んで、1番印象に残ったシーンや、キャラクターの率直な印象、ここが分かりにくかったなど、感想欄や★評価欄で教えていただけると嬉しいです。今後の大切な参考にさせていただきます。
辛口評価もどんどん受け付けておりますので、どうぞよろしくお願いします♪




