最低のきっかけ、最高のおめでとう
彼は、悩んでいた。
同棲八年目。
大学時代の交際を合わせたら、十年目。
お互いに三十歳間近。
彼女が結婚を望んでいることには気づいていた。
直接言われたことはない。
だが、わかる。
八年も一緒に暮らしていれば、そのくらいは。
問題は、彼の方だった。
彼女は美人だった。
仕事もできた。
年収も彼より高い。
自慢の彼女だ。
誰に紹介しても羨ましがられる存在だった。
親友は言う。
「さっさと結婚しろよ」
彼もそう思っていた。
それなのに。
彼は踏み出せずにいた。
理由は、はっきりしない。
嫌いなところがあるわけではない。
むしろ、その逆だ。
嫌いなところが、見当たらない。
欠点がない。
完璧すぎる。
だからこそ、怖い。
自分のような人間が、その隣にいていいのか。
釣り合っているのか。
ふとした瞬間に、そんな考えが頭をよぎる。
そして、そのたびに言葉が止まる。
「結婚しよう」
たったそれだけのことが、言えないまま時間だけが過ぎていく。
気がつけば、八年目だった。
******
ある日の夜。
夕食を終えた二人は、それぞれ寛いでいた。
彼は風呂から上がり、タオルで髪を拭きながらリビングへ戻る。
彼女はソファで、テレビを見ていた。
バラエティ番組だろう。
賑やかな笑い声が聞こえる。
それを見て、薄く笑う彼女の横顔が妙に綺麗だった。
彼は足を止める。
風呂が空いたことを伝えようとしていたはずなのに、言葉が出てこない。
本当に綺麗だな。
今更ながら、そんなことを思う。
そして、いつもの袋小路にさまよう。
本当に、自分でいいのか。
自分とは違う人間のように思えることがある。
同じ時間を過ごしているのに、どこか別の人生を生きているような感覚。
隣にいるのに、遠い。
そんな矛盾が、ずっと胸の奥に残っている。
だから言えない。
「結婚しよう」の一言が。
軽々しくは出せなかった。
彼は小さく息を吐いた。
その時だった。
ふいに彼女が身体を傾けた。
ぷぅ~~……。
一瞬、世界が止まったような気がした。
彼は目を大きく見開いて固まる。
テレビの笑い声だけが、やけに遠くで続いている。
彼女は、姿勢を戻し、何事もなかったようにテレビを見ている。
その横顔は、先ほどと変わらずに綺麗だった。
「えっ!?」
彼が言った。
「えっ!?」
彼女も言った。
勢いよく彼の方に振り向く。
二人は固まった。
やがて、何かが彼の鼻先を触った。
「くさっ!?」
思わず叫んでいた。
さらに反射的に鼻を摘み、目を瞑る。
完全に無意識だった。
生存本能の敗北である。
「……あっ」
その直後、失敗を悟る。
しまった、と思いながら目を開く。
彼女はソファーから立ち上がって、震えていた。
涙目だった。
下唇を噛み締めている。
肩がぷるぷると震えている。
まずい。
本当にまずい。
「だ、大丈夫だから!」
それは口をついて出てきた言葉だった。
だが、彼自身も何が大丈夫なのかが分からなかった。
「忘れろ!」
彼女が叫んだ。
「えっ!?」
「忘れろ!」
クッションを掴む。
「忘れろ!」
ぼふっ。
彼の顔面にクッションが直撃した。
「ちょっ!?」
「忘れろ! 忘れろ! 忘れろー!」
ぼふっ。
ぼふっ。
ぼふっ。
クッションの連打が始まる。
彼は両腕で顔を守りながら後ずさった。
******
熱気がほのかに残る寝室。
明かりを消したベッドの上。
二人は並んで横になっていた。
「ねえ、どうしちゃったの?」
「ん?」
「木曜日なのに……。」
彼女の言葉に、彼は少し笑った。
確かにそうだった。
明日も仕事がある。
だけど、頑張ってしまった。
お風呂上がりの彼女を見たら、我慢ができなくなった。
「結婚しよう」
彼は言った。
「えっ!?」
彼女が少し遅れて上半身を跳ね起こす。
暗い部屋の中で、ベッドが大きく揺れた。
「なんでっ!?」
「どうしてっ!?」
「……えっ!?」
彼は答えに困った。
正直に言うべきだろうか。
でも嘘もつきたくない。
しばらく悩んだ末に言った。
「お前の屁、聞いちゃったし」
「……はっ?」
彼女が口をぽかんと開ける。
「責任とるよ」
沈黙。
長い沈黙。
彼女は瞬きをした。
もう一度した。
「……な、何よ、それーーーっ!」
「普通、もっとこうっ……。違うでしょ!」
「ずっと待たせておいて、それが理由なの!?」
彼女の声が裏返る。
その混乱した様子がおかしくて、彼は苦笑した。
「うん」
「……な、何よ、それ」
彼女は言葉を探す。
どれも形にならないまま、喉のあたりで止まる。
さっきまでの勢いが、行き場を失っている。
彼も上半身を起こす。
ベッドの上に正座し、姿勢を正すと、彼女を真っ直ぐに見た。
一度だけ、息を吸う。
「俺と結婚してください」
彼女は瞬きを忘れたように固まった。
数秒の沈黙のあと、彼女は微笑んだ。
「はい」
涙をこぼしながら。
彼はそっと彼女を抱き寄せる。
彼女も抱き返した。
しばらくして、彼女が彼の胸に顔を埋めながら言う。
「ねえ……。もう一回、シよ?」
「一回でいいのか?」
「バ、バカ……。」
「明日は休もう」
「……うん」
息が少しだけ混ざる距離で。
さっきまでの騒ぎも、ためらいも、二人も、全部が同じ部屋の中に混ざり合う。
ずっと出せなかった答えは。
案外、こんなくだらない夜に見つかるものだった。
その夜は、まだ終わらなかった。




