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実験場

最低のきっかけ、最高のおめでとう

掲載日:2026/07/27




 彼は、悩んでいた。


 同棲八年目。

 大学時代の交際を合わせたら、十年目。


 お互いに三十歳間近。


 彼女が結婚を望んでいることには気づいていた。

 直接言われたことはない。


 だが、わかる。

 八年も一緒に暮らしていれば、そのくらいは。


 問題は、彼の方だった。


 彼女は美人だった。

 仕事もできた。

 年収も彼より高い。


 自慢の彼女だ。

 誰に紹介しても羨ましがられる存在だった。


 親友は言う。



「さっさと結婚しろよ」



 彼もそう思っていた。


 それなのに。

 彼は踏み出せずにいた。


 理由は、はっきりしない。

 嫌いなところがあるわけではない。


 むしろ、その逆だ。

 嫌いなところが、見当たらない。


 欠点がない。

 完璧すぎる。


 だからこそ、怖い。


 自分のような人間が、その隣にいていいのか。

 釣り合っているのか。


 ふとした瞬間に、そんな考えが頭をよぎる。

 そして、そのたびに言葉が止まる。



「結婚しよう」



 たったそれだけのことが、言えないまま時間だけが過ぎていく。

 気がつけば、八年目だった。




 ******




 ある日の夜。


 夕食を終えた二人は、それぞれ寛いでいた。

 彼は風呂から上がり、タオルで髪を拭きながらリビングへ戻る。


 彼女はソファで、テレビを見ていた。


 バラエティ番組だろう。

 賑やかな笑い声が聞こえる。


 それを見て、薄く笑う彼女の横顔が妙に綺麗だった。


 彼は足を止める。

 風呂が空いたことを伝えようとしていたはずなのに、言葉が出てこない。


 本当に綺麗だな。

 今更ながら、そんなことを思う。


 そして、いつもの袋小路にさまよう。


 本当に、自分でいいのか。

 自分とは違う人間のように思えることがある。


 同じ時間を過ごしているのに、どこか別の人生を生きているような感覚。


 隣にいるのに、遠い。

 そんな矛盾が、ずっと胸の奥に残っている。


 だから言えない。

 「結婚しよう」の一言が。


 軽々しくは出せなかった。


 彼は小さく息を吐いた。

 その時だった。


 ふいに彼女が身体を傾けた。



 ぷぅ~~……。



 一瞬、世界が止まったような気がした。


 彼は目を大きく見開いて固まる。

 テレビの笑い声だけが、やけに遠くで続いている。


 彼女は、姿勢を戻し、何事もなかったようにテレビを見ている。

 その横顔は、先ほどと変わらずに綺麗だった。



「えっ!?」



 彼が言った。



「えっ!?」



 彼女も言った。

 勢いよく彼の方に振り向く。


 二人は固まった。

 やがて、何かが彼の鼻先を触った。



「くさっ!?」



 思わず叫んでいた。

 さらに反射的に鼻を摘み、目を瞑る。


 完全に無意識だった。

 生存本能の敗北である。



「……あっ」



 その直後、失敗を悟る。

 しまった、と思いながら目を開く。


 彼女はソファーから立ち上がって、震えていた。


 涙目だった。

 下唇を噛み締めている。

 肩がぷるぷると震えている。


 まずい。

 本当にまずい。



「だ、大丈夫だから!」



 それは口をついて出てきた言葉だった。

 だが、彼自身も何が大丈夫なのかが分からなかった。



「忘れろ!」



 彼女が叫んだ。



「えっ!?」

「忘れろ!」



 クッションを掴む。



「忘れろ!」



 ぼふっ。

 彼の顔面にクッションが直撃した。



「ちょっ!?」

「忘れろ! 忘れろ! 忘れろー!」



 ぼふっ。

 ぼふっ。

 ぼふっ。


 クッションの連打が始まる。

 彼は両腕で顔を守りながら後ずさった。




 ******




 熱気がほのかに残る寝室。


 明かりを消したベッドの上。

 二人は並んで横になっていた。



「ねえ、どうしちゃったの?」

「ん?」

「木曜日なのに……。」



 彼女の言葉に、彼は少し笑った。


 確かにそうだった。

 明日も仕事がある。


 だけど、頑張ってしまった。

 お風呂上がりの彼女を見たら、我慢ができなくなった。



「結婚しよう」



 彼は言った。



「えっ!?」



 彼女が少し遅れて上半身を跳ね起こす。

 暗い部屋の中で、ベッドが大きく揺れた。



「なんでっ!?」


「どうしてっ!?」


「……えっ!?」



 彼は答えに困った。


 正直に言うべきだろうか。

 でも嘘もつきたくない。


 しばらく悩んだ末に言った。



「お前の屁、聞いちゃったし」

「……はっ?」



 彼女が口をぽかんと開ける。



「責任とるよ」



 沈黙。

 長い沈黙。


 彼女は瞬きをした。

 もう一度した。



「……な、何よ、それーーーっ!」


「普通、もっとこうっ……。違うでしょ!」


「ずっと待たせておいて、それが理由なの!?」



 彼女の声が裏返る。

 その混乱した様子がおかしくて、彼は苦笑した。



「うん」

「……な、何よ、それ」



 彼女は言葉を探す。

 どれも形にならないまま、喉のあたりで止まる。


 さっきまでの勢いが、行き場を失っている。


 彼も上半身を起こす。

 ベッドの上に正座し、姿勢を正すと、彼女を真っ直ぐに見た。


 一度だけ、息を吸う。



「俺と結婚してください」



 彼女は瞬きを忘れたように固まった。

 数秒の沈黙のあと、彼女は微笑んだ。



「はい」



 涙をこぼしながら。


 彼はそっと彼女を抱き寄せる。

 彼女も抱き返した。


 しばらくして、彼女が彼の胸に顔を埋めながら言う。



「ねえ……。もう一回、シよ?」

「一回でいいのか?」

「バ、バカ……。」

「明日は休もう」

「……うん」



 息が少しだけ混ざる距離で。

 さっきまでの騒ぎも、ためらいも、二人も、全部が同じ部屋の中に混ざり合う。


 ずっと出せなかった答えは。

 案外、こんなくだらない夜に見つかるものだった。


 その夜は、まだ終わらなかった。




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