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最終話 沈みゆく泥船と瓶の中の永遠



マナブの実験室は、いつも通り無機質な消毒液の匂いがした。

ガタガタと震える足で、僕は彼のデスクに封筒を置いた。


「……マナブくん。これ、預かっておいてくれ」


マナブは顕微鏡から目を離さず、片手で封筒を拾い上げた。


「中身を見なくても分かるよ。遺書だろう。……で、いくら溶かしたんだい?」


「……550万。僕がこれまでの人生で、ゴマをすり、不味い雑草を食べ、必死でかき集めた黄金のロープが、全部ゴミになった。予言者が言ったんだ。あれはロープじゃなくて、首を括るための縄だったんだって」


僕は椅子に崩れ落ちた。

涙も出ない。ただ、自分の存在が、あの暴落チャートのように無価値になった気がした。


「もう、死ぬしかないよ。天国に行けないなら、せめてすべてを終わらせたい」



マナブは、コーヒーカップを持ったままジッと一点を見つめていた。

ゆっくりと椅子を回転させ、僕を正面から見た。

その瞳は、いつになく冷たく、そして鋭かった。


「死ぬ自由は誰にでもある。ただ、その使いどころの安さは、僕の家の玄関にある牛柄のマットと同じだ。君は、自分の人生の決断を、その程度の雑貨と同列に扱うのか? ……悔しくないのかい。ダサくないか?」


「それ、僕が3分でAmazonで選んだやつだ」


予想外の言葉に、僕は顔を上げた。


「ただ、僕ならその死に方は選ばないな。ダサすぎるから」

「ダサい……? 僕の絶望を、君はダサいって言うのか!」


「ああ、最高にダサいね」


マナブは淡々と、淹れたてのコーヒーを一口飲んだ。


「たかだか550万。その程度の金額で人生を降りるなんて、君が今まで広げてきた大風呂敷は、そんなに安物のハンカチだったのかい?」


僕は絶句した。


「君は、いじめから逃げるために死ぬ気で勉強した。体育で皆を笑わせてまで最下位を拒絶した。部長に這いつくばって正社員の座を奪い取った。……その君が、たった数百万の赤字で『ごめんなさい、やっぱり僕はバカでした』って頭を下げて消えるのか」


マナブは封筒を僕に投げ返した。


「死ぬなら、せめて損失の桁を一つ増やしてからにするんだね。400万や500万じゃ、歴史にも残らない。末代まで『あそこの家の子は中途半端に貧乏だったね』って笑われたくないだろう?」



僕は、投げ返された封筒を呆然と見つめた。

マナブの言葉は、正論の顔をした劇薬だった。


「……桁を、増やす?」


「そうだよ。1億でも10億でも損して、世界経済を揺るがすくらいの怪物になってから死ねばいい。そうすれば、君の掴もうとした『蜘蛛の糸』も、少しは見栄えが良くなるんじゃないかな」


僕は、乾いた笑い声を上げた。自分でも驚くほど、喉の奥からおかしな笑いが込み上げてきた。


「はは……ははは! さすがマナブくんだ。1億損してから死ね、か。……そうだよな。ここで死んだら、僕はただの『ニラとスイセンを間違えたバカ』で終わっちゃうもんな」


僕は封筒を破り捨て、ポケットからスマホを取り出した。

画面には、まだ絶望的な赤字が並んでいる。

だが、僕の心には、マナブから注入された新たな「謎の自信」が、怪しく脈打ち始めていた。


「分かったよ、マナブくん。死ぬのは、もっと盛大に負けてからにする。……でも、その前にもう一つだけ、試してみたいことがあるんだ」


「……ろくでもないことだろうね」


「最高のアイデアだよ。この『地獄』を、売ってやるのさ」


これが、伝説の投資本『逆神サトル』の、真の産声だった。



サトルの顔に光が差した。希望の光だ。


「マナブくん……僕は天才だよ。僕が『上がる』と言えば下がり、『下がる』と言えば上がる。これって、未来を100%予知できているってことじゃないか!」


マナブは淹れたてのコーヒーを吹き出しそうになりながら、淡々と応じる。

「逆方向に、だけどね。統計学的には、君の曲げっぷりはもはや異常気象の域だよ」


サトルはその言葉を「最高の褒め言葉」として受け取り、損失の記録、真夜中のミサの狂乱、そして自分が信じ切った「蜘蛛の糸」の成れの果てをすべて書き殴った。


タイトルは――『逆神サトル:僕が買いボタンを押した瞬間に世界経済が崩壊する理由』。


サトルの本は、世間では鳴かず飛ばずだった。

だが、あのミサの中では――それは「伝説の書」になっていた。



今、サトルがどこで何をしているのかは、誰も知らない。

大魔導士田中も、ナナも、松田師匠も、そんギランもいつの間にか、

名前だけがログに残り、姿は消えた。


彼らは救われたのか、それとも、今もどこかで祈っているのか。


深夜2時。

チャットルームに、新しい参加者が入室した。

――ユーザー名:シンゴ(初心者)


「すみません。含み損が、もう耐えられなくて……」


しばらく、誰も返事をしなかった。

だが、やがて一つ、淡々とした書き込みが現れる。


「ようこそ」

「ここは、まだ確定していない人間のための場所です」


それだけだった。


説明も、勧誘も、成功談もない。

それでもシンゴは、なぜか画面の前で深く息をついた。


――独りじゃない。


その感覚だけで、今夜は、まだ眠らなくていいと思えた。


時計は、午前2時を指している。

どこかで、誰かが静かにカップラーメンの蓋を開ける音がした。


祭りは、まだ終わらない。

世界は終わらなかった。



マナブは、慣れた手つきでガラスの蓋を閉めた。

密閉される直前、わずかに混じった外気さえも、彼は「不純物だ」と吐き捨てるように顔をしかめた。


「サトル君。君がこれまで必死に吸ってきた、坂の下の薄汚れた空気は全部抜いておいたよ。代わりに、僕が特別に調合した防腐液を注いであげた。これはね、君という人間を一滴も腐らせないための、僕の全財産なんだ」


気泡が一つ、サトルの頬をなぞるように昇り、そして消えた。

液体の向こう側で、サトルの目は開いたままだ。

死んでいるのではない。彼はただ、無限に続く「今この瞬間」の中に、強制的に引き止められているのだ。


「……マナブ……くん……」


サトルの口から、最後の一息が零れ落ちる。

それは言葉というより、重力に負けて沈んでいく小さな泡だった。


「聞こえているよ。君の無様な叫びも、あの日、毒々しい色の飴を噛み砕いた音も。みんな僕が録音して、この瓶の中に閉じ込めてあげる。ほら、見てごらん。君の爪は、あの日僕が言った通り、綺麗なピンク色に染まっているだろう?」


マナブは、標本瓶を慈しむように抱きしめた。

冷たいガラス越しに、2人の体温が触れ合うことはない。

だが、マナブにとってはこれこそが、他者に汚されない究極の接触だった。


「……でも安心していいよ。この糸の端っこは、僕がしっかり握っている。君を地獄にさえ落とさない。ここが、君の天国だ」


サトルの視界が、琥珀色に染まっていく。

もはや、含み損の赤字も、深夜のチャットの通知音も聞こえない。

ただ、マナブの静かな呼吸音だけが、ガラスの壁を震わせて伝わってくる。


「……ああ、そうだ。言い忘れていたけれど。君のFIRE(自由)の代金は、僕が全額、損切りしてあげたよ。これで君は、誰の負債でもない。僕だけの、完璧なコレクションだ」


マナブは深夜2時のタイマーを切り、部屋の明かりを落とした。

闇の中で青白く発光する円筒ケース。

そこには、世界で最も静かに――。


永久に敗北し続ける男の姿が、宝石のように収まっていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


サトルの挑戦は、ここで終わりです。

彼はようやく、誰にも邪魔されない、完璧な「自立」を手に入れました。


今夜、あなたのスマホに灯る数字は、何色をしていますか?

もしもそれが、底なしの赤に見えたなら――。

その時は、坂の上の研究室へお越しください。


最高に苦くて甘いコーヒーを淹れて、お待ちしております。

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