第4話 真夜中のミサ爆誕。謎の予言者
その日――。
ゴムんじゃーバンドが、ついに「−3」に届いた。
画面が、一瞬、静まり返る。
「みなのもの、稀な現象が起きた」
「奇跡だ」
「ここが――大底だ」
次の瞬間、チャットが爆発した。
「買え」
「買え」
「買え」
「買い向かえ!!」
「突撃だあぁぁぁぁぁ!!」
稀は、たぐいなる稀へと姿を変え、そのまま、あっさりと突き抜けた。
下へ。さらに、下へ。
「――ぎゃああああああああああああああああ!!」
画面の向こうで、誰かが叫んだ。
「落ちるナイフうぅぅぅぅぅ!!」
追証のナナだった。
そんギランは、どうやら気絶したらしい。返事が、途切れた。
赤い数字だけが、淡々と増えていく。
奇跡は起きなかった。起きたのは、ただの現実だった。
*
その沈黙を破ったのは、大魔導士田中だった。
「若造たちよ」
淡々とした声が、チャットに、響く。
「まだ、その程度の傷で、光を語るか」
直後、1枚の画像が貼られた。
――桁が、違った。
マイナス1億。
画面いっぱいに広がる、赤い数字のスクリーンショット。
言葉が、消えた。
誰も、冗談を言わない。誰も、スタンプを押さない。
「これが、逆張りだ」
「ここが、正念場だ」
松田師匠が、すかさず続ける。
「ここで残れるかどうかで、人生が分かれる」
「耐えた者だけが、次の景色を見る」
サトルは、自分の含み損の数字を見返した。
……小さい。あの1億に比べれば、取るに足らない。
そう思えてしまう自分が、怖かった。
*
しばらくして、追証のナナが、ぽつりと書き込んだ。
「……これ、ひとりじゃ、耐えられないですよね」
すぐに、そんギランが反応する。
「正直、さっき、目の前が真っ白になりました」
サトルは、少し考えてから、打った。
「真夜中に、集まりませんか」
「含み損の……ミサ、みたいなやつ」
一瞬の沈黙。
「いいですね」
「必要だと思います」
「祈らないと、無理だ」
賛同の文字が、静かに並び始めた。
時計は、深夜を回っていた。
誰もが、赤い数字を抱えたまま、眠れずにいた。
その夜、彼らは決めた。
これは、個人で背負うものじゃない。
信念は、共有してこそ、折れずに済む。
――真夜中の、含み損のミサが、始まろうとしていた。
*
真夜中の含み損のミサ
深夜二時。
通知音が、ひとつ鳴った。
――大魔導士田中が入室しました。
チャット欄の空気が、一段、変わる。
アイコンは、神々しい光を放つ老賢者。
背景に広がる光輪とは裏腹に、現実の田中は、質素なアパートでカップ麺を啜っているはずだった。
「……集まったようだな」
司祭の声は、いつも通り低く、淡々としていた。
「若造たちよ。今宵も、含み損を抱えて来たか」
返事は、ない。
代わりに、松田師匠の狼アイコンが、牙を剥いた。
「ここが正念場です」
「底は、恐怖の向こう側にあります」
損失1500万。それでも、師匠は前を向いている。
次に、泣き顔のウサギが震えた。
「〇〇(銘柄名)、もう……息してません……」
「追証、明日までです……お祈りしてきます……」
追証のナナ。
部屋中に吊るされたテルテル坊主が、かすかに揺れているのが、サトルには見える気がした。
そして――忠犬ハチのアイコン。
「……バリッ」
「損切ったら、負けです」
そんギランは、証券会社から送られてきた“損切の刻印が押された煎餅”をチャット中にバリバリと噛み砕いていた。
田中が発言すると、即座に、書き込みが入る。
「大魔導士様……!」
「本日も、御言葉を……!」
画面の向こうで、見えていないはずの田中に向かって、土下座しているのが分かった。
サトルは、赤いザリガニのアイコンのまま、黙っていた。
損失、400万。ここでは、一番“軽い”。
田中は、一枚の画像を貼った。
――マイナス1億。
「これが、信仰だ」
「損とは、徳を積む行為」
「耐えた分だけ、人は、近づく」
誰も、反論しない。
むしろ、安心したようだった。
――自分たちは、まだ“浅い”。
その感覚が、彼らを救い、同時に、縛っていた。
ミサは、静かに続いた。
損失を告白し、恐怖を共有し、「まだ確定していない」と唱和する。
真夜中の含み損のミサは、祈りであり、麻酔だった。
*
午前二時。
部屋のカーテンを閉め切り、外界の光を完全に遮断する。
三枚のモニターが放つ毒々しい青白い光だけが、僕の「聖域」を照らしていた。
画面の中では、血の雨が降っていた。
僕が松田師匠に教えられ、全財産と「正社員ごぼう抜き」で得た信用をすべて注ぎ込んだ銘柄が、滝のような勢いで垂直落下している。
「……ふふ、今日もいい降りだ。徳が、徳が積み上がっていくぞ」
資産合計欄。
マイナス400万を示す数字が、僕の激しい鼓動に呼応して赤く点滅している。
僕は震える指で、チャットルーム『含み損に耐える聖域』の扉を叩いた。
大魔導士田中(司祭):
「皆の衆、よく集まった。今夜の相場は、神が我らに与えたもうた『選別の儀式』である。案ずるな、この崖を下りきった先に、真のエルドラドがある」
追証のナナ:
「司祭……胃が……胃が溶けそうです……。もう追証が払えません……」
松田師匠:
「ナナ君、修行が足りないな。逆張りこそが真理。この下落こそ、大富豪への片道切符なんだよ! サトル君、君の心臓はまだ動いているか?」
僕は乾いた喉を鳴らし、キーボードを叩きつけた。
サトル:
「もちろんです、師匠! 僕の計算では、あと100円下がったところが『真の大底』です。そこから蜘蛛の糸が降りてきて、僕を垂直に天国へ運んでくれるはず。僕は選ばれし者ですから!」
大魔導士田中:
「おお、サトルよ。その意気だ。マイナス400万程度でガタガタ言うな。私を見ろ。今、ちょうど1億2千万が溶けて『無』に帰したところだ。見ろ、私の心が透き通っていくようだ……」
画面に、田中の資産推移グラフがアップロードされる。
それは、もはや「絶壁」と呼ぶにふさわしい、奈落の底へ向かう崖。
いや、死への滑り台だった。
追証のナナ:
「1億……! 司祭、もはや神……! 拝ませてください……!」
サトル:
「(これだ。これこそが、僕が求めていた高みだ……!)」
僕は本気で感動していた。
インフルエンザで学校へ行ったあの日。
体育で全員を笑わせて抜き去ったあの日。
部長にゴマをすりまくったあの日。
すべては、この「圧倒的な絶望」を笑い飛ばす瞬間のための予行演習だったのではないか。
大魔導士田中:
「さあ、祈りの時間だ。午前4時の『予言』が降りるまで、皆で含み損を抱きしめるのだ。耐えろ。耐えた者だけが、朝日に輝く蜘蛛の糸を掴むことができる」
チャット画面が、祈りを捧げる絵文字で埋め尽くされる。
僕は画面の前で手を合わせた。
胃を焼くような激痛を「天国への通行料」だと自分に言い聞かせ、トランス状態でチャートを見つめ続けた。
だが、この時の僕はまだ気づいていなかった。
大魔導士田中の「1億損しても平気な理由」が、単に彼が『既にすべてを失って壊れているだけ』だったということに。
そして、午前4時。
あの、砂時計のアイコンが動き出す。
*
チャットルームのログが、ピタリと止まった。
大魔導士田中すら沈黙し、ナナは「追証……もう払えない……」という言葉を最後に反応がない。
サトルのモニターには、含み損「480万円」の数字が無慈悲に刻まれていた。
目の奥が熱く、視界がチカチカする。
その時だ。
真っ黒な砂時計のアイコンが、画面の底からゆっくりと浮上してきた。
予言者:「まだ、蜘蛛の糸が見えると信じているのか」
サトルは、凍りついた指先を動かした。
サトル:「予言者さま……! 見えます。僕には見えます。黄金に輝くロープが、今まさに天から……!」
予言者:「サトルよ。それはロープではない。……お前の首を括るための、ただの縄だ」
心臓が、キリキリした。
画面の向こう側で、予言者が冷笑しているような錯覚に陥る。
予言者:「夜明けが来るのではない。夜が、永遠に固定されるのだ。……おめでとう。お前は今、本当の地獄への招待状を受け取った。午前4時2分、その銘柄は『死の淵』へと加速する」
チャットルームが凍りつく。
2分後。
予言の通り、チャートが物理法則を無視したような角度で、さらに下へ突き抜けた。
サトル:「……嘘だろ。予言者……これ、どういう……」
予言者:「救いがあると思っているうちは、まだ二流だ。絶望に追いつかれないように走れと言ったな? 残念だが、絶望はお前の『前』からやってくる」
サトルが“返信しようとして、何も打てない”
入力欄にカーソルだけが点滅する。
その一言を最後に、砂時計のアイコンは消えた。
あとに残されたのは、真っ赤な雨が土砂降りのように降り続くチャートと、さらに膨れ上がった550万の損失。
サトルは、ガタガタと震え出した。
「謎の自信」という鎧が、ミシミシと音を立てて剥がれ落ちていく。
その時、不意にスマホが震えた。
マナブからの通知だった。
『まだ起きてる? 地下の実験室でコーヒーを淹れすぎた。……死にそうな顔をしてるなら、飲みに来れば』
――通知の光が、血の色のチャートよりも、ずっと深く僕の瞳を刺した。




