第3話 幸せな仲間、転がりゆく夢の先
その頃、サトルはネットの投資掲示板を覗くようになっていた。
最初は、用語を調べるためだった。
だが、いつの間にか「成功者の声」を探すようになっていた。
そこで、やたらと目立つ名前があった。
――松田師匠。
投稿数が多く、言い切りが強い。
そして、なぜか当たっているように見える。
「下がったところで買え。上がってから飛びつく奴は、永遠の養分だ」
「逆張りは信念。恐怖の中で買えない奴に、利益は来ない」
逆張り。
下がったところで買う。
周りが逃げる中で、あえて入る。
……なんだそれ。
「それ、僕じゃん」
サトルは思った。
周りと同じことができず、いつも浮いてきた自分。
少数派が正しいなら、自分はとっくに成功しているはずだ。
「師匠、初心者ですが逆張りっていけますか?」
気づけば、書き込んでいた。
返事は、驚くほど早かった。
「才能ある奴は、最初から分かる。お前、感覚いいな」
心臓が、どくんと脈打った。
逆張りに命を懸ける男――松田師匠。
その言葉は、サトルの胸に、深く刺さった。
*
掲示板で、松田師匠はよく昔話を語った。
「リーマンの時な、全員が投げ売りしてる中で、俺だけ買ってた」
「あのときは、掲示板が阿鼻叫喚だったな。“終わりだ”“もうダメだ”って」
「実はな、チャートは嘘つかねぇ。下げ切ったら、あとは戻るだけだ」
サトルは、スマホを握ったまま読み込んだ。
「含み損はな、我慢料みたいなもんだ。耐えた奴だけが、最後にステーキ食える」
ステーキ。
その言葉に、なぜか反応してしまう。
「俺はあの一発で、車と家の頭金を作った」
「怖い? 怖いのは、一生ビビって動かない人生だろ」
誰かが突っ込む。
「証拠あるんですか?」
少し間が空いて、松田師匠はこう返した。
「証拠なんか出したら、真似する奴が増えるだろ」
「逆張りは、信じた奴だけの世界だ」
……なるほど。
具体的な数字は出てこない。
銘柄名も、日付も、決して明かさない。
それでも、不思議と説得力があった。
サトルは思った。
成功者って、いちいち証明なんかしないのかもしれない。
それに――
失敗談だけは、短かった。
*
その日の夜、サトルのスマホに通知が入った。
――松田師匠からの個別メッセージ。
心臓がドキッとした。
「君は、才能があると見込んだ」
短い一文だった。
「掲示板で騒いでる連中とは、明らかに目線が違う」
「だから今日は、特別な人物を紹介しようと思う」
特別。
その言葉だけで、指先が少し震えた。
「この世界にはな、表に出てこない“大物”がいる」
「その一人が――大魔導士田中だ」
……大魔導士?
冗談かと思ったが、松田師匠はいたって真面目だった。
「逆張りの完成形。相場の底を、呼吸みたいに当てる男だ」
「伝説はいくつもあるが、全部は語れん」
「語れるのは一つだけだ。あの人は、“相場に選ばれた側”だ」
サトルは、画面から目を離せなくなっていた。
大魔導士田中。
現実離れした肩書きなのに、なぜか笑えなかった。
「この人と話せる機会は、滅多にない」
「君が逃すなら、次はないと思え」
逃す理由なんて、どこにもなかった。
サトルの中で、投資はもう勉強でも、実験でもなくなっていた。
――選別だ。
選ばれる側か、それ以外か。
そんな気がしていた。
*
指定された時間になると、松田師匠から、ひとつのURLが送られてきた。
通話アプリだった。
サトルは、少し迷ってから接続した。
画面に映ったのは、拍子抜けするほど地味な男だった。
年齢は50代くらいだろうか。
白いシャツに、くたびれたカーディガン。
後ろには、トランクスやシャツ、タオルがぶらさがっていて、生活感が漂っていた。
名乗りもしないまま、男は、こちらをじっと見ていた。
数秒。いや、10秒くらいか。
「……君が、サトル君か」
声は低く、抑揚がなかった。
「はい」
「ふうん」
それだけ言って、また黙る。
沈黙が、長く苦しい。
こちらが何か喋らないと、時間だけが削られていく。
「松田君から、話は聞いている」
田中は、画面から視線を外さずに言った。
「君は、“下がってるのに、怖がらない顔”をしているらしい」
そんな顔、自分で見たことはない。
「逆張りは、技術じゃない」
田中は、淡々と続ける。
「性格だ」
「自分が間違っているかもしれない、という前提で、それでも金を入れられるか」
「それが、できない人間は、どんな理屈を覚えても、途中で壊れる」
サトルは、喉が乾くのを感じた。
「君は――」
田中は、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
「まだ、壊れていない」
それだけ言うと、通話は、向こうから切れた。
画面には、自分の顔だけが映っていた。
サトルは、しばらく動けなかった。
拍手も、激励も、成功談はない。
なのに、なぜか逃げられない感覚だけが、残っていた。
*
それからサトルは、松田師匠と銘柄を決め、同じタイミングで投資をするようになった。
「ここだ。恐怖が一番濃いところだ」
松田師匠の言葉を信じ、サトルは、指示された銘柄に資金を入れた。
結果は――惨敗だった。
下がる。さらに下がる。
含み損の数字が、日に日に大きくなる。
落ちる何かを素手でつかんで、ボロボロと言う具合。
ボロボロになっても容赦なく落下し続ける……。
底かどうかは、後になってみないとわからないな。
サトルは、素直にそう思った。
画面を見るたび、胃の奥が重くなる。
それでも、サトルは松田師匠を疑わなかった。
サルも木から落ちるって言うしな。
100%正解なんて神様でもない限り不可能だ。
師匠は、逃げなかった。売らなかった。
掲示板でも、いつも通り強気だった。
「まだだ。ここからが本番だ」
その姿勢が、なぜか尊敬に変わっていった。
*
一方で、大魔導士田中は、まったく別の次元にいた。
「1億の損? それは損じゃない」
田中は、狭い一室で、カップラーメンをすすりながら言った。
「投資銀行に、金を預けているだけだ」
平然としている。
「1000万損したなら、次で2000万儲ければいい」
「それを気に病むなら、最初から向いていない」
声の調子は、最初に会ったときから、何も変わらない。
「俺はな、儲けより信念のほうが大事だ。金は、ただの紙だ」
画面越しに見える田中の部屋は、やっぱり驚くほど殺風景だった。
狭い一室。机と椅子。積まれたカップラーメン。
相変わらず背後にトランクスがぶら下がっていた。
外出する気配もない。
一日中、ネットに張り付いている生活。
その姿は、成功者というより、修行僧に近かった。
それでも、サトルは思ってしまう。
――この人たちは、本物だ。
自分の損失を、「痛み」としてではなく、「通過点」として扱える人間たち。
僕はまだ素人だから。彼らに近づくには1000年早いんだね。
それなのに、そこに立てている幸運な自分。
サトルは、少しだけ誇らしかった。
*
それからというもの、サトルの頭の中には、田中の言葉が居座るようになった。
――金は、ただの紙だ。
含み損の数字を見ても、以前ほど胸がざわつかなくなっていた。
これは損じゃない。投資銀行に預けているだけだ。
そう言い聞かせると、不思議と落ち着いた。
松田師匠は、相変わらずだった。
「ここで逃げたら、今までの下げを全部ムダにする」
その言葉に、サトルはうなずいた。
逃げるのは、いつだって簡単だ。
「信念だよ」
師匠は、そう言っていた。
「信念があるかどうかで、勝負は決まる」
サトルは、自分にもそれがある気がしてきた。
会社では相変わらず浮いていた。
だが、以前ほど気にならない。
――分かる人にだけ、分かればいい。
そう思えるようになっていた。
夜、狭い部屋でチャートを眺める。
カップラーメンをすすりながら、ネットの掲示板を更新する。
この生活は、貧しいはずなのに、なぜか「選ばれている」感覚があった。
サトルは、少しずつ変わっていった。
節約FIREを目指していたはずなのに、
気づけば、「自分は正しい側だ」と信じることが目的になり始めていた。
*
気がつくと、サトルの周りには仲間が増えていた。
含み損仲間、と呼ぶべき人たちだ。
掲示板やチャットに現れる、似たような境遇の連中。
まず目立っていたのが、追証のナナ。
「また追証きました……今月3回目」
そう書き込みながらも、ナナは決して退場しない。
「でも、ここで切ったら負けですよね?」
その一文に、いくつもの「分かる」が付く。
次に、そんギラン。
「含み損は、含み“夢”だと思ってます」
「まだ、確定してないですから」
語尾には、いつも笑顔のスタンプ。
その他大勢もいた。
給料日前に入金する者。カードローンを検討し始める者。家族に内緒で取引している者。
誰もが、どこか誇らしげだった。
――耐えている自分たち。
負けているのに、なぜか仲間意識が生まれていた。
「俺たちは、分かってる側だよな」
誰かがそう書くと、すぐに反応が返る。
「情弱は、とっくに逃げてる」
「ここで残ってるのは、選ばれし者」
サトルは、その輪の中にいる自分を感じていた。
含み損は、もはや恥じゃない。むしろ、信念の証だった。
画面の向こうで、赤い数字が並ぶ。
それを見つめながら、サトルは思う。
――独りじゃない。
それが、何より危険な安心だとも知らずに。




