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第2話 生きにくいサトルの挑戦。緑のゾンビはどこへ行く



あの日から、20年が経った。


坂の上の洋館は、建て替えでもしたのだろうか。

相変わらずの豪邸で、ときどきピアノ曲が流れてくる。

昔と変わらない、あの優雅さのままだ。


坂の下の僕の家も、ボロではあるがまだ残っている。

わちゃわちゃと暮らしていた兄弟たちは、それぞれ別の街で暮らしている。

僕は今、5つ目の零細企業で派遣リーマンをやっている。


余計な一言が多い僕は、どこへ行っても周りから浮いてしまう。


まったく……生きにくい。


仕事に向かない性格というより、集団で働くこと自体に向いていない気がする。

なんとかしないと。



スマホで検索してみた。

「働きたくないでござる 生きにくい どこに行っても浮く」


すると、見慣れない言葉が引っかかってきた。

FIREファイヤー


なになに……

「経済的自立と早期リタイア」

「FIREの本質は、早く引退することではなく、『人生の選択肢を、お金から自由になった状態で自分で選べる』ことにあります」


メモ、メモ……

俄然、やる気が湧いてきた。


最近流行りのFIRE。

これ、僕にピッタリじゃないか。


無理やり仕事を続けるより、余裕のある暮らしがしたい。

目指すのは、ただの節約FIREだ。僕の給料ならそれでいい。


支出を最小限に抑え、少ない資産でFIRE。

生活レベルを極限まで落とす。


700万円もあれば、僕ならいける。

古い空き家は祖父のものだから家賃はかからない。

野草を摘み、釣りをして、畑も作ろう。

……夢が広がるな。



次の日から、僕はFIREに向けて本気で動き始めた。


嫌な上司には

「そのネクタイ、とてもお似合いですね」

などと言いながら、お茶やコーヒーを何度も入れた。

笑顔を振りまき、ゴマをすりまくった。


嫌な仕事も率先して引き受けた。


その甲斐あって、非正規から正社員へ。

11人抜きの昇格だった。


――僕だって、やればできるじゃん。


マナブ君とも、久しぶりにLINEで話した。

研究職として、大学の地下でネズミと格闘しているらしい。

夢の新薬を開発するんだそうだ。


僕がマナブ君だったら、お金もあるんだし、遊んで暮らすけどな。



その日から、サトルは「FIRE生活」の実験を早々に始めた。


まずは食費の削減だ。

近所の土手や空き地に生えている野草を、スマホ片手に採りに行った。

画像検索と照らし合わせながら、


「画像検索では、確かに“食用”だった」

「これは食える」

「これはセーフ」


と、なかなか様になっている。


ビニール袋いっぱいの成果を抱え、今日はほとんどお金を使わずに生きられた、と一人でご満悦だった。


帰宅後、野草を丁寧に洗い、鍋で茹でる。

湯気と一緒に、どこか青臭い匂いが立ちのぼった。


――自然の恵みってやつだな。


そう思いながら、醤油を少し垂らして口に運んだ。


最初は、少し苦いだけだった。

だが、ほどなくして様子がおかしくなる。


胃の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛む。

冷や汗が止まらず、視界がぐらりと揺れた。


「……あれ?」


次の瞬間、トイレと床を往復する羽目になった。

立っていられず、そのまま廊下にへたり込む。


意識が遠のきかけたところで、自分で救急車を呼んだのか、誰かに呼ばれたのか、もうよく覚えていない。


気がついたときには、白い天井が目に入った。


「毒草ですね。少量でよかったですよ」


救急隊員の言葉は、妙に淡々としていた。


――節約FIRE、1日目。


点滴の管を眺めながら、サトルは思った。

救急車というのは、走り出すと頭の後ろがガタゴト痛くてたまらない。

意識があると、あれは災難だ。

気分がさらに悪くなって、結局吐いてしまった。


助かったのは確かだ。

ただ――この体験、いったい誰に文句を言えばいいんだろう。



――どう考えても、FIREは時期尚早だった。


点滴を受けながら、サトルは天井を見つめていた。

野草生活は、1日で終了。

身体を張ってまで節約するのは、どうやら自分には向いていない。


それでも、働き続ける未来を思うと、胸が重くなる。

じゃあ、どうする。


スマホをいじっているうちに、「投資」という文字が目に入った。

……入院中なら、時間だけはある。

勉強するには、ちょうどいいかもしれない。


そんなことを考えていると、病室のドアが、こん、と控えめにノックされた。


「おう、起きとるか」


顔を出したのは、祖父の古民家の隣に住んでいる、あのおじいさんだった。


「毒草にやられたって聞いての。若いもんは、たまに無茶をする」


そう言って、みかんの入った袋を置く。


「ありがとうございます……」


少し間が空いて、サトルは切り出した。


「おじいさん、投資って……どう思います?」


おじいさんは、ベッド脇の椅子に腰を下ろし、ゆっくりと笑った。


「投資はなぁ、サトル。頑固な性格には、向かんのじゃ」


「えっ」


「感情で動くと、だいたい失敗する。怖くなって売る. 欲が出て買う. 人間は、そういう生き物じゃ」


そう言って、天井を見上げる。


「だからの、わしは機械のほうがええと思っとる」


「……機械?」


「ルール通りに動く。迷わんし、言い訳もせん。我々みたいな庶民がやるなら、そのくらいがちょうどええ」


「どうしても投機をしたいなら、損切りが命じゃ。損失9、利益1でも勝ちあがる。それができんのなら……」


おじいさんは視線を落とし、短く言い切った。


「コツコツ働け。それが一番堅実じゃ」



サトルは、点滴の管を目で追いながら、なんとなく分かる気がしていた。


雑草を食べるより、ステーキを食べたい。

どうせやるなら、投資でいっちょ当ててやるか。


――僕なら、できるはずだ。


胸の奥で、根拠のない自信がふくらんでいく。

視界の向こうに、幸運のロープが、うっすらと見えた気がした。


退院して間もなく、サトルは投資を始めた。


最初は恐る恐るだった。

金額も小さく、画面を開くたびに心臓が少し早くなる。


――が。


ある日、数字が明らかに増えているのに気づいた。


「……え?」


もう一度見直す。

間違いじゃない。ちゃんと増えている。


翌日も、その次の日も。

気づけば、含み益はぐんぐん伸びていた。


「……いや、待て」


サトルはスマホを置き、深呼吸した。

これは、偶然かもしれない。ビギナーズラックという言葉も、頭をよぎる。


……よぎっただけで、消えた。


「でもさ」


小さく笑いがこぼれる。


「普通、こんなにうまくいく?」


画面に並ぶ緑の数字が、まるで自分を肯定してくれているみたいだった。


――僕, 天才じゃない?


そう思った瞬間、これまでの失敗が、一気に書き換えられていく。


仕事に向いていなかったんじゃない。集団が合わなかっただけだ。

野草を間違えたのも、運が悪かっただけ。


才能は、ちゃんとあった。

ただ、発揮する場所がなかっただけ。


「やっぱり、向いてるわ……」


誰に言うでもなく、そう呟いた。


サトルの中で、投資はすでに「手段」ではなく、自分を証明するための「舞台」になり始めていた。


……その舞台が、底なしの赤に染まり、心地よい悪夢へと変わるまで、あとわずか。

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