第2話 生きにくいサトルの挑戦。緑のゾンビはどこへ行く
あの日から、20年が経った。
坂の上の洋館は、建て替えでもしたのだろうか。
相変わらずの豪邸で、ときどきピアノ曲が流れてくる。
昔と変わらない、あの優雅さのままだ。
坂の下の僕の家も、ボロではあるがまだ残っている。
わちゃわちゃと暮らしていた兄弟たちは、それぞれ別の街で暮らしている。
僕は今、5つ目の零細企業で派遣リーマンをやっている。
余計な一言が多い僕は、どこへ行っても周りから浮いてしまう。
まったく……生きにくい。
仕事に向かない性格というより、集団で働くこと自体に向いていない気がする。
なんとかしないと。
*
スマホで検索してみた。
「働きたくないでござる 生きにくい どこに行っても浮く」
すると、見慣れない言葉が引っかかってきた。
「FIRE」
なになに……
「経済的自立と早期リタイア」
「FIREの本質は、早く引退することではなく、『人生の選択肢を、お金から自由になった状態で自分で選べる』ことにあります」
メモ、メモ……
俄然、やる気が湧いてきた。
最近流行りのFIRE。
これ、僕にピッタリじゃないか。
無理やり仕事を続けるより、余裕のある暮らしがしたい。
目指すのは、ただの節約FIREだ。僕の給料ならそれでいい。
支出を最小限に抑え、少ない資産でFIRE。
生活レベルを極限まで落とす。
700万円もあれば、僕ならいける。
古い空き家は祖父のものだから家賃はかからない。
野草を摘み、釣りをして、畑も作ろう。
……夢が広がるな。
*
次の日から、僕はFIREに向けて本気で動き始めた。
嫌な上司には
「そのネクタイ、とてもお似合いですね」
などと言いながら、お茶やコーヒーを何度も入れた。
笑顔を振りまき、ゴマをすりまくった。
嫌な仕事も率先して引き受けた。
その甲斐あって、非正規から正社員へ。
11人抜きの昇格だった。
――僕だって、やればできるじゃん。
マナブ君とも、久しぶりにLINEで話した。
研究職として、大学の地下でネズミと格闘しているらしい。
夢の新薬を開発するんだそうだ。
僕がマナブ君だったら、お金もあるんだし、遊んで暮らすけどな。
*
その日から、サトルは「FIRE生活」の実験を早々に始めた。
まずは食費の削減だ。
近所の土手や空き地に生えている野草を、スマホ片手に採りに行った。
画像検索と照らし合わせながら、
「画像検索では、確かに“食用”だった」
「これは食える」
「これはセーフ」
と、なかなか様になっている。
ビニール袋いっぱいの成果を抱え、今日はほとんどお金を使わずに生きられた、と一人でご満悦だった。
帰宅後、野草を丁寧に洗い、鍋で茹でる。
湯気と一緒に、どこか青臭い匂いが立ちのぼった。
――自然の恵みってやつだな。
そう思いながら、醤油を少し垂らして口に運んだ。
最初は、少し苦いだけだった。
だが、ほどなくして様子がおかしくなる。
胃の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛む。
冷や汗が止まらず、視界がぐらりと揺れた。
「……あれ?」
次の瞬間、トイレと床を往復する羽目になった。
立っていられず、そのまま廊下にへたり込む。
意識が遠のきかけたところで、自分で救急車を呼んだのか、誰かに呼ばれたのか、もうよく覚えていない。
気がついたときには、白い天井が目に入った。
「毒草ですね。少量でよかったですよ」
救急隊員の言葉は、妙に淡々としていた。
――節約FIRE、1日目。
点滴の管を眺めながら、サトルは思った。
救急車というのは、走り出すと頭の後ろがガタゴト痛くてたまらない。
意識があると、あれは災難だ。
気分がさらに悪くなって、結局吐いてしまった。
助かったのは確かだ。
ただ――この体験、いったい誰に文句を言えばいいんだろう。
*
――どう考えても、FIREは時期尚早だった。
点滴を受けながら、サトルは天井を見つめていた。
野草生活は、1日で終了。
身体を張ってまで節約するのは、どうやら自分には向いていない。
それでも、働き続ける未来を思うと、胸が重くなる。
じゃあ、どうする。
スマホをいじっているうちに、「投資」という文字が目に入った。
……入院中なら、時間だけはある。
勉強するには、ちょうどいいかもしれない。
そんなことを考えていると、病室のドアが、こん、と控えめにノックされた。
「おう、起きとるか」
顔を出したのは、祖父の古民家の隣に住んでいる、あのおじいさんだった。
「毒草にやられたって聞いての。若いもんは、たまに無茶をする」
そう言って、みかんの入った袋を置く。
「ありがとうございます……」
少し間が空いて、サトルは切り出した。
「おじいさん、投資って……どう思います?」
おじいさんは、ベッド脇の椅子に腰を下ろし、ゆっくりと笑った。
「投資はなぁ、サトル。頑固な性格には、向かんのじゃ」
「えっ」
「感情で動くと、だいたい失敗する。怖くなって売る. 欲が出て買う. 人間は、そういう生き物じゃ」
そう言って、天井を見上げる。
「だからの、わしは機械のほうがええと思っとる」
「……機械?」
「ルール通りに動く。迷わんし、言い訳もせん。我々みたいな庶民がやるなら、そのくらいがちょうどええ」
「どうしても投機をしたいなら、損切りが命じゃ。損失9、利益1でも勝ちあがる。それができんのなら……」
おじいさんは視線を落とし、短く言い切った。
「コツコツ働け。それが一番堅実じゃ」
*
サトルは、点滴の管を目で追いながら、なんとなく分かる気がしていた。
雑草を食べるより、ステーキを食べたい。
どうせやるなら、投資でいっちょ当ててやるか。
――僕なら、できるはずだ。
胸の奥で、根拠のない自信がふくらんでいく。
視界の向こうに、幸運のロープが、うっすらと見えた気がした。
退院して間もなく、サトルは投資を始めた。
最初は恐る恐るだった。
金額も小さく、画面を開くたびに心臓が少し早くなる。
――が。
ある日、数字が明らかに増えているのに気づいた。
「……え?」
もう一度見直す。
間違いじゃない。ちゃんと増えている。
翌日も、その次の日も。
気づけば、含み益はぐんぐん伸びていた。
「……いや、待て」
サトルはスマホを置き、深呼吸した。
これは、偶然かもしれない。ビギナーズラックという言葉も、頭をよぎる。
……よぎっただけで、消えた。
「でもさ」
小さく笑いがこぼれる。
「普通、こんなにうまくいく?」
画面に並ぶ緑の数字が、まるで自分を肯定してくれているみたいだった。
――僕, 天才じゃない?
そう思った瞬間、これまでの失敗が、一気に書き換えられていく。
仕事に向いていなかったんじゃない。集団が合わなかっただけだ。
野草を間違えたのも、運が悪かっただけ。
才能は、ちゃんとあった。
ただ、発揮する場所がなかっただけ。
「やっぱり、向いてるわ……」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
サトルの中で、投資はすでに「手段」ではなく、自分を証明するための「舞台」になり始めていた。
……その舞台が、底なしの赤に染まり、心地よい悪夢へと変わるまで、あとわずか。




