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第1話 坂の上の標本、坂の下のゾンビ



家は、とにかく近所だった。


坂の上の高級住宅街。その一角にマナブ君の家はある。城のような洋館だ。

父は高名な学者、母はピアニストというインテリ家庭で、お手伝いさんがおやつを手作りしているらしい。

出てくるのは、無添加の野菜ケーキやヘルシークッキーだ。


対して、坂の下にある僕の家は、古くて狭い。

家族がわちゃわちゃと身を寄せ合って暮らしている。


おやつはもちろん、これでもかというほど添加物まみれの駄菓子だ。

毒キノコのような色をした、あんなやつ。


それを兄弟で奪い合って食べる。

口の周りが、人を食ったような赤や、ゾンビみたいな緑に染まる。

そのたび、互いの顔を見てゲラゲラと笑い転げていた。



マナブ君は有名私立への進学を拒否した結果、僕と同じ公立校のクラスメイトになった。

一言多いお調子者の僕と、口数の少ない彼。


ある日、僕は学校の裏庭で数人のグループに囲まれた。


「お前、さっきの授業で『将来は世界を救うロープを掴む』なんて言っただろ。バカのくせに笑わせんなよ」


突き飛ばされ、泥だらけになった僕の前に、ふらりとマナブ君が現れた。

そして、唐突にこう言い放った。


「これからサトル君をいじめる人は、『僕はサトル君のことが大好きです』って告白しているものと見なすよ。みんなに言いふらすからね」


学級委員で、先生からの信頼も厚いマナブ君の宣言。

その効果は絶大だった。

それ以来、僕へのいじめはピタリと止んだ。


これが「鶴の一声」というやつだろうか。

マナブ君が鶴なら、僕はなんだろう。……ガチョウ?


後日、マナブ君に聞いてみた。


「ねぇ、なんで僕を助けてくれたの?」


「家、近いよね。以前、君の家の前を通りかかったとき、口を緑色にして笑ってるサトル君を見たんだ」


マナブ君は、少しだけ顔をしかめて続けた。


「うちのおやつ、不味いんだよ。……君の家のゴミ箱に、捨てさせてくれない?」


それ以来、マナブ君の家のおやつは、僕の兄弟が美味しくいただくことになった。

その代わり、僕とマナブ君は毒々しい色の飴を頬張り、互いに口の周りをゾンビにして笑い合った。



マナブ君は、僕が飴を噛み砕く音を、まるで貴重なレコードに耳を傾けるようにじっと聴いていた。


「サトル君のその色は、僕が今まで見たどんな蝶よりも鮮やかだね」


彼の部屋には、壁一面に美しい蝶の標本が並んでいた。


「死んでいるのに、生きているときより綺麗だね」


僕が何気なく言うと、彼は微かに笑って、ピアノを弾くような細い指でガラスケースを撫でた。


マナブ君を見ていると、人生は最初から難易度が違うんじゃないかと思ってしまう。

一方で僕は、子供の頃から「変わり者」のレッレッテルを貼られていた。


親からは「お前はバカだから、人より頑張らないと虐められる」と言い聞かせられ、学校では余計な一言を言っては数人に目を付けられた。


僕は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を愛読している。

バイブルと言ってもいい。

内容はうろ覚えだけど、天から幸せ行きのロープが降りてくる場面だけは、やけに鮮明で、忘れられない。


僕にも、いつか天から幸せのロープが降りてくる気がしている。

そのロープに大勢が群がり、重さで切れてしまうとしても、せめて僕が登り切ったあとで切れてほしい。


その話をマナブ君にすると、彼は少し黙ってから言った。


「……サトル君。そのロープ、君の真上で切れたりしないといいね」


「不吉なことを言うなよ。マナブ君は心配性なんだね」


マナブ君は僕の首筋に冷たい指を這わせ、獲物のサイズを測るような手つきで言った。


「ねぇ、サトル君。蜘蛛の糸の内容、あんまり知らないんじゃない?」


僕はそのときも、マナブ君の言葉を冗談だと思った。

だって、あのロープは「幸せ行き」なんだから。



学校の図書室で、僕はマナブ君と偶然隣同士になった。

彼は例の蝶の標本の本を広げていた。


「これ、すごく綺麗だね」


僕が声をかけると、マナブ君はちらりとこちらを見て、


「君は色彩に敏感だね」


とだけ言った。

その言葉の裏に何か含みがあるのは、僕にもわかった。


でも、どうしても笑ってしまう。

僕は口の端を緩ませながら、彼の目を覗き込んだ。


「サトル君、君は本当に……」


マナブ君は言いかけて、言葉を飲み込む。

そして、静かにページをめくった。


放課後、僕たちは学校の屋上で小さな実験をしていた。

マナブ君は蝶の羽を手に取り、光にかざして透かしてみせる。


「ほら、同じ蝶でも角度によって色が違って見えるだろう?」


「うん、ほんとだ……」


僕は驚きと興奮で、思わず声を上げてしまった。


「君、楽しそうだね」


「だって、本当に綺麗なんだもん」


マナブ君は少し困った顔をして、でも目は笑っている。


マナブ君はいつも静かに観察している。

でも、時々、僕の胸に手を置くようにして、


「君の感じ方は面白い」


と囁くのだ。

その囁きは、まるで冷たい水に触れた瞬間のように、体の奥まで染み渡った。



僕の中で、何かが弾けた。


マナブ君のようになりたい。

バカにされないためには、誰にも追いつけない場所へ行くしかない。

僕は「努力のゾンビ」になることを決意した。


マナブ君の家から回ってくる「おやつ」は、正直に言って、僕ら兄弟の口には合わなかった。

素材の味を活かしすぎた、砂のようにパサつく全粒粉クッキー。

甘みのない、青臭い野菜ケーキ。


兄弟たちは一口食べて「うげっ」と吐き出し、結局いつもの駄菓子に戻っていく。


けれど、僕は違った。

マナブ君が「不味い」と顔をしかめたそれを、僕は一つ残らず、無表情で口に運んだ。


美味しいかと言われれば、不味い。

喉を通るたび、舌が「これは毒だ」と拒絶反応を起こす。

けれど僕は、その不快感を脳内で「栄養」という記号に書き換えた。


「マナブ君。これ、すごく身体に良さそうな味がするね。僕は好きだよ」


嘘だった。

でも、マナブ君が捨てたかったものを、僕がすべて飲み干す。

その行為に、僕は奇妙な優越感と、彼との繋がりを感じていた。


不快感に耐えるのは、僕の得意技だ。

目的のためなら、僕は自分の感覚さえも消せる。


ゾンビは何度でも立ち上がる。

僕も、そうする。



食事と睡眠以外のすべてを、勉強に捧げた。


インフルエンザで熱が40度近く出たときも、薄れゆく意識の中で英単語帳を握りしめていた。

「サトル、もう休みなさい!」と止める母を振り切り、3日で学校へ這って行った。


皆勤賞こそが、マナブ君に自慢できる唯一の賞だった。

それを逃したのが、残念で仕方なかった。

でもいい。切り替えよう。努力のゾンビはへこたれない。


しかし、どうしても越えられない壁があった。

体育だ。


運動神経という、生まれ持ったスペックの差。

50メートル走では常に最後尾。

背中でクラスメイトの失笑を浴びるたび、僕の心には真っ黒な泥が溜まった。


普通に走っても勝てない。

なら、どうする?


中三の秋、1500メートル走の試験。

僕はスタートラインで、隣に立つ学年最速の陸上部員に囁いた。


「……知ってるか。昨日、校長先生が裏庭で、秘密の踊りを踊ってたんだ。こう、腰を8の字に振りながら……」


「はあ? 何言って――」


号砲が鳴った。


僕は必死に走りながら、追い抜こうとする者たちの耳元で、昨夜練り上げた渾身のギャグや、捏造した学校の7不思議を次々に吹き込んだ。


最後には、髪を逆立て、腹を突き出して見せた。


「ちょっと待て、サトル……っ、腹が……っ!」


笑いすぎて呼吸を乱した陸上部員が、膝をつく。

僕はその横を、真っ赤な顔で、舌を出し、白目を剥きながら、全力で駆け抜けた。


「見たか、マナブ君! 僕の勝ちだ! 姑息と言われようが、僕は最後尾を脱出したんだ!」


放課後、酸欠で倒れ込んだ僕に、マナブ君は真顔でスポーツ飲料を差し出した。


「サトル君。すごいのはすごいよ。でも、努力のベクトルが、ちょっと曲がっている気がする」


「いいんだ。小説だって人生だって、都合よく解釈した奴が勝つんだから」


僕は空を仰いだ。

青い空のどこかに、僕にだけ見える幸運のロープがぶら下がっている気がした。



とにかく、僕はできる努力を全部した。

そのおかげで、勉強もなんとかなり、虐められたり、からかわれたりすることは減った。


マナブ君は、こう言う。


「それって……みんな、サトル君のことが怖くなったんじゃ……」


「正解! その言葉を待っていたんだよ。僕の底力にはかなわないと、諦めたのさ」


「能ある鷹は、なんか隠すっていうじゃないか」


「爪かな?」


マナブ君が、即座に答えた。


「そうそう。僕が爪を出した途端、みんな驚きと恐怖を感じたってわけ」


「爪に、ピンクのマニキュアでも塗っていたのかな……」


「ぶははははは」


「面白いね、マナブ君は」


「……」


僕は何も疑うことなく無邪気に過ごした。

……まさかその先に、底なしの「赤」が広がっているとも知らずに。



ようこそ、坂の下へ。


この物語を見つけてくださり、ありがとうございます。

ここに並んでいるのは、甘くて毒々しい駄菓子のような、救いのない安らぎです。


――夜はまだ始まったばかり。

続きが気になった方は、ぜひブックマークや評価で、僕と一緒に「幸せのロープ」を握っていただけると嬉しいです。


おやすみなさい。

あなたの夢が、どうか琥珀色に染まりませんように。


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