第1話 坂の上の標本、坂の下のゾンビ
家は、とにかく近所だった。
坂の上の高級住宅街。その一角にマナブ君の家はある。城のような洋館だ。
父は高名な学者、母はピアニストというインテリ家庭で、お手伝いさんがおやつを手作りしているらしい。
出てくるのは、無添加の野菜ケーキやヘルシークッキーだ。
対して、坂の下にある僕の家は、古くて狭い。
家族がわちゃわちゃと身を寄せ合って暮らしている。
おやつはもちろん、これでもかというほど添加物まみれの駄菓子だ。
毒キノコのような色をした、あんなやつ。
それを兄弟で奪い合って食べる。
口の周りが、人を食ったような赤や、ゾンビみたいな緑に染まる。
そのたび、互いの顔を見てゲラゲラと笑い転げていた。
*
マナブ君は有名私立への進学を拒否した結果、僕と同じ公立校のクラスメイトになった。
一言多いお調子者の僕と、口数の少ない彼。
ある日、僕は学校の裏庭で数人のグループに囲まれた。
「お前、さっきの授業で『将来は世界を救うロープを掴む』なんて言っただろ。バカのくせに笑わせんなよ」
突き飛ばされ、泥だらけになった僕の前に、ふらりとマナブ君が現れた。
そして、唐突にこう言い放った。
「これからサトル君をいじめる人は、『僕はサトル君のことが大好きです』って告白しているものと見なすよ。みんなに言いふらすからね」
学級委員で、先生からの信頼も厚いマナブ君の宣言。
その効果は絶大だった。
それ以来、僕へのいじめはピタリと止んだ。
これが「鶴の一声」というやつだろうか。
マナブ君が鶴なら、僕はなんだろう。……ガチョウ?
後日、マナブ君に聞いてみた。
「ねぇ、なんで僕を助けてくれたの?」
「家、近いよね。以前、君の家の前を通りかかったとき、口を緑色にして笑ってるサトル君を見たんだ」
マナブ君は、少しだけ顔をしかめて続けた。
「うちのおやつ、不味いんだよ。……君の家のゴミ箱に、捨てさせてくれない?」
それ以来、マナブ君の家のおやつは、僕の兄弟が美味しくいただくことになった。
その代わり、僕とマナブ君は毒々しい色の飴を頬張り、互いに口の周りをゾンビにして笑い合った。
*
マナブ君は、僕が飴を噛み砕く音を、まるで貴重なレコードに耳を傾けるようにじっと聴いていた。
「サトル君のその色は、僕が今まで見たどんな蝶よりも鮮やかだね」
彼の部屋には、壁一面に美しい蝶の標本が並んでいた。
「死んでいるのに、生きているときより綺麗だね」
僕が何気なく言うと、彼は微かに笑って、ピアノを弾くような細い指でガラスケースを撫でた。
マナブ君を見ていると、人生は最初から難易度が違うんじゃないかと思ってしまう。
一方で僕は、子供の頃から「変わり者」のレッレッテルを貼られていた。
親からは「お前はバカだから、人より頑張らないと虐められる」と言い聞かせられ、学校では余計な一言を言っては数人に目を付けられた。
僕は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を愛読している。
バイブルと言ってもいい。
内容はうろ覚えだけど、天から幸せ行きのロープが降りてくる場面だけは、やけに鮮明で、忘れられない。
僕にも、いつか天から幸せのロープが降りてくる気がしている。
そのロープに大勢が群がり、重さで切れてしまうとしても、せめて僕が登り切ったあとで切れてほしい。
その話をマナブ君にすると、彼は少し黙ってから言った。
「……サトル君。そのロープ、君の真上で切れたりしないといいね」
「不吉なことを言うなよ。マナブ君は心配性なんだね」
マナブ君は僕の首筋に冷たい指を這わせ、獲物のサイズを測るような手つきで言った。
「ねぇ、サトル君。蜘蛛の糸の内容、あんまり知らないんじゃない?」
僕はそのときも、マナブ君の言葉を冗談だと思った。
だって、あのロープは「幸せ行き」なんだから。
*
学校の図書室で、僕はマナブ君と偶然隣同士になった。
彼は例の蝶の標本の本を広げていた。
「これ、すごく綺麗だね」
僕が声をかけると、マナブ君はちらりとこちらを見て、
「君は色彩に敏感だね」
とだけ言った。
その言葉の裏に何か含みがあるのは、僕にもわかった。
でも、どうしても笑ってしまう。
僕は口の端を緩ませながら、彼の目を覗き込んだ。
「サトル君、君は本当に……」
マナブ君は言いかけて、言葉を飲み込む。
そして、静かにページをめくった。
放課後、僕たちは学校の屋上で小さな実験をしていた。
マナブ君は蝶の羽を手に取り、光にかざして透かしてみせる。
「ほら、同じ蝶でも角度によって色が違って見えるだろう?」
「うん、ほんとだ……」
僕は驚きと興奮で、思わず声を上げてしまった。
「君、楽しそうだね」
「だって、本当に綺麗なんだもん」
マナブ君は少し困った顔をして、でも目は笑っている。
マナブ君はいつも静かに観察している。
でも、時々、僕の胸に手を置くようにして、
「君の感じ方は面白い」
と囁くのだ。
その囁きは、まるで冷たい水に触れた瞬間のように、体の奥まで染み渡った。
*
僕の中で、何かが弾けた。
マナブ君のようになりたい。
バカにされないためには、誰にも追いつけない場所へ行くしかない。
僕は「努力のゾンビ」になることを決意した。
マナブ君の家から回ってくる「おやつ」は、正直に言って、僕ら兄弟の口には合わなかった。
素材の味を活かしすぎた、砂のようにパサつく全粒粉クッキー。
甘みのない、青臭い野菜ケーキ。
兄弟たちは一口食べて「うげっ」と吐き出し、結局いつもの駄菓子に戻っていく。
けれど、僕は違った。
マナブ君が「不味い」と顔をしかめたそれを、僕は一つ残らず、無表情で口に運んだ。
美味しいかと言われれば、不味い。
喉を通るたび、舌が「これは毒だ」と拒絶反応を起こす。
けれど僕は、その不快感を脳内で「栄養」という記号に書き換えた。
「マナブ君。これ、すごく身体に良さそうな味がするね。僕は好きだよ」
嘘だった。
でも、マナブ君が捨てたかったものを、僕がすべて飲み干す。
その行為に、僕は奇妙な優越感と、彼との繋がりを感じていた。
不快感に耐えるのは、僕の得意技だ。
目的のためなら、僕は自分の感覚さえも消せる。
ゾンビは何度でも立ち上がる。
僕も、そうする。
*
食事と睡眠以外のすべてを、勉強に捧げた。
インフルエンザで熱が40度近く出たときも、薄れゆく意識の中で英単語帳を握りしめていた。
「サトル、もう休みなさい!」と止める母を振り切り、3日で学校へ這って行った。
皆勤賞こそが、マナブ君に自慢できる唯一の賞だった。
それを逃したのが、残念で仕方なかった。
でもいい。切り替えよう。努力のゾンビはへこたれない。
しかし、どうしても越えられない壁があった。
体育だ。
運動神経という、生まれ持ったスペックの差。
50メートル走では常に最後尾。
背中でクラスメイトの失笑を浴びるたび、僕の心には真っ黒な泥が溜まった。
普通に走っても勝てない。
なら、どうする?
中三の秋、1500メートル走の試験。
僕はスタートラインで、隣に立つ学年最速の陸上部員に囁いた。
「……知ってるか。昨日、校長先生が裏庭で、秘密の踊りを踊ってたんだ。こう、腰を8の字に振りながら……」
「はあ? 何言って――」
号砲が鳴った。
僕は必死に走りながら、追い抜こうとする者たちの耳元で、昨夜練り上げた渾身のギャグや、捏造した学校の7不思議を次々に吹き込んだ。
最後には、髪を逆立て、腹を突き出して見せた。
「ちょっと待て、サトル……っ、腹が……っ!」
笑いすぎて呼吸を乱した陸上部員が、膝をつく。
僕はその横を、真っ赤な顔で、舌を出し、白目を剥きながら、全力で駆け抜けた。
「見たか、マナブ君! 僕の勝ちだ! 姑息と言われようが、僕は最後尾を脱出したんだ!」
放課後、酸欠で倒れ込んだ僕に、マナブ君は真顔でスポーツ飲料を差し出した。
「サトル君。すごいのはすごいよ。でも、努力のベクトルが、ちょっと曲がっている気がする」
「いいんだ。小説だって人生だって、都合よく解釈した奴が勝つんだから」
僕は空を仰いだ。
青い空のどこかに、僕にだけ見える幸運のロープがぶら下がっている気がした。
*
とにかく、僕はできる努力を全部した。
そのおかげで、勉強もなんとかなり、虐められたり、からかわれたりすることは減った。
マナブ君は、こう言う。
「それって……みんな、サトル君のことが怖くなったんじゃ……」
「正解! その言葉を待っていたんだよ。僕の底力にはかなわないと、諦めたのさ」
「能ある鷹は、なんか隠すっていうじゃないか」
「爪かな?」
マナブ君が、即座に答えた。
「そうそう。僕が爪を出した途端、みんな驚きと恐怖を感じたってわけ」
「爪に、ピンクのマニキュアでも塗っていたのかな……」
「ぶははははは」
「面白いね、マナブ君は」
「……」
僕は何も疑うことなく無邪気に過ごした。
……まさかその先に、底なしの「赤」が広がっているとも知らずに。
ようこそ、坂の下へ。
この物語を見つけてくださり、ありがとうございます。
ここに並んでいるのは、甘くて毒々しい駄菓子のような、救いのない安らぎです。
――夜はまだ始まったばかり。
続きが気になった方は、ぜひブックマークや評価で、僕と一緒に「幸せのロープ」を握っていただけると嬉しいです。
おやすみなさい。
あなたの夢が、どうか琥珀色に染まりませんように。




