亡霊たちの祭壇と、未来への応答
ある種の理知的な若者たちが、文学や思想といった曖昧な領域に対し、神経症的なまでの嫌悪を示すのを眼にするときがある。彼らのその震える手は、単なる好みや適性の問題を越えて、何か切実な恐怖に触れているように見える。
それはおそらく、彼らが「知能」という名の定規を、自らの脊髄にまで埋め込んでしまったことへの反動なのだろう。現代社会という巨大な選別機は、計算可能で、資本の増殖に寄与する能力のみを「光」とする。その強烈な光に照らされ続けた彼らは、自身の内面までもその定規で測らずにはいられなくなり、数値化できない混沌を、まるで病原菌のように恐れているのだ。彼らは自らをシステムという神に捧げられた生贄であり、同時にその熱烈な信徒でもある。
人間は、いつの時代も、自分の頭上に「超越的ななにか」を戴かなければ、一歩も足を踏み出せない哀しい生き物なのかもしれない。かつて、その玉座には絶対的な「神」が座っていた。 しかし、近代の夜明けと共にその権威は揺らぐ。ニーチェが狂人の口を借りて「神は死んだ」と叫び、ドストエフスキーがイワン・カラマーゾフに「神がいなければ全てが許される」と嘆かせたとき、世界は冷たい虚無の風に晒された。キルケゴールが指摘したように、絶対的な支柱を失った人間は、無限の可能性というめまい(不安)の淵に立たされたのである。
この耐え難い軽さに怯えた近代人は、空席になった玉座に、急いで別の偶像を据えた。それが「自由意志」という名の神だ。 カントが夜空の星と内なる道徳律に畏敬の念を抱いたように、我々は神の導きを失った代償として、「自律した理性」を新たな支配者に仕立て上げた。我々は、「人間は因果の鎖から解き放たれた特別な主体であり、自らの意志で全てを決定できる」という新しい神話を捏造したのだ。 法も、倫理も、この新しい神の教義に従って書き換えられた。「お前がやったのだから、お前の意志が裁かれるべきだ」。そうして「責任」という言葉は、過去の罪を断罪するための冷たい鎖となった。これこそが、我々が築き上げた近代の防波堤だった。
しかし今、科学という名の無慈悲な解剖学者が、その新しい神すらも「幻想である」と暴き始めている。 その光景は、かつてスピノザが喝破した真理を現代に蘇らせる。スピノザは言った。「石が空を飛びながら意識を持てば、自らの意志で飛んでいると思うだろう」と。 現代の脳科学が明らかにする脳神経の微細な発火、環境という不可視の糸、遺伝子のアルゴリズム。それらが我々を操っているのだとすれば、我々はスピノザの言う「石」に過ぎない。あの玉座に座っているのは、自由意志という名の「裸の王様」ですらない。ただの虚空だ。
では、我々は再び「すべてが許される」荒野へと放り出されるのか? 決定論の歯車として、虚無に沈むしかないのか? 否、そうではない。ここで、ひとつの柔らかな光が差し込む。國分功一郎氏らがスピノザや中動態の世界を通じて示唆するように、責任という言葉の定義を、「原因の所在(imputability)」から「応答の可能性(response-ability)」へと静かに反転させるのだ。
想像してみてほしい。責任とは、過去の行いを悔い、断罪するための重石ではなく、未来からの呼びかけに応えるための「ドア」であることを。 例えば、環境問題という巨大な嵐を前にして、誰が最初に炭素を燃やしたのかという犯人探しは、しばしば不毛な迷路に入り込む。あるいは、歴史的に積み重なった構造的な差別の前で、「私には差別の意図などなかった」と叫ぶ特権者の抗弁は、法廷では通用しても、傷ついた人々の心には届かない。カント的な「自律した意志」の有無など、ここではさして重要ではないのだ。 重要なのは、今、目の前で誰かが呻いているという事実に対し、あなたが「応答できる力」を持っているかどうか、それだけである。
水に溺れている人がいるとき、その人を川に突き落としたのが誰かを知る前に、浮き輪を持っている者はそれを投げる。なぜなら、彼には「投げる能力」があり、それこそが彼にとっての責任の正体だからだ。そこに、自由意志による選択があったかどうかという形而上学的な問いは不要だ。
資本主義というシステムは、我々を歯車に変え、特定の価値観以外を切り捨てるよう要請し続ける。その巨大な回転の中で、我々は知らず知らずのうちに誰かを踏みつけ、誰かの空気を奪っているかもしれない。そこに悪意はなくとも、システムの一部であるという事実からは逃れられない。
だが、絶望する必要はない。「意志」という亡霊に固執するのをやめ、「応答」という生きた営みに身を委ねるとき、我々はシステムの奴隷であることをやめ、真に倫理的な主体として生まれ変わる。
責任とは、断罪ではない。それは、「私がここにいる」ことの意味を、他者との関係の中で絶えず奏で続けることだ。誰かの呼びかけに耳を澄まし、それに応じようと身を乗り出すとき、我々の行為は単なる反射や因果の連鎖を超えて、世界に新たな価値を刻む「贈与」となる。
神も自由意志もいらない。ただ、呼びかける声と、それに応える震える魂があれば、それだけで人は倫理的でありうるのだ。




