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四・五、インタールード「ババアその二」

「凛ちゃん、お砂糖とって」

「はい」

 その日の朝食の席で、凛博士は母親と対峙し、例によってその「呪いの言葉」を聞かされていた。相手をあれこれと誉めそやし、反論の隙を与えずがんじがらめにして判断力を奪い、己の意のままに動かす魔法の言葉である。

「凛ちゃんは最初から私の自慢よ」

 終始にこにこしながら、もらった砂糖ツボからスプーンでコーヒーにするすると入れながら、でっぷりした母親は釘を刺し続ける。そのいっけん愛想のいい恵比寿のような福福しい顔の、分厚い皮膚のたるみの中には、(おり)のような不動の憎悪と執着心が、いくつもの層をなしていることを、娘である博士はよく知っていた。


「ねえ凛ちゃん、あなたがお母さんの言うことを聞かずに、勝手なことをするなんて、ないわよね。あなたには大臣になってもらいたいのよ。それが、あなたにはいちばんいいの」

 そう言って音を立ててコーヒーをすする。傲慢な者は、たかだかこの程度の音でも、聞いている相手にいちいち深い侮辱と傷を負わせる。

 分かってはいたが、やはり話にもなんにもならないと博士は改めて思い、決行の意を固くした。母親の意向である政界進出を無視し、ロボット工学を学んでいたことがバレて、密かに通っていた学校にも勝手に退学手続きをされ、教科書を全て捨てられた、その翌朝である。



 今朝は「全て私がやるから」と、執事や使用人たちには全員休みを取らせ、いま屋敷には自分とこいつしかいない。こいつは不審にも思わず、むしろ娘が自分の世話をしたがることを喜んでいた。そういう点では、ずるくて冷酷非情であっても、肝心なところで間が抜けていた。


 冷酷な人間は心が麻痺したまま行動するので、当然、観察眼が落ちる。これが人間の妙なところで、機械のように非情な悪人になればなるほど、細部の重要事に気づかなくなり、失敗する。完全な機械に失敗はないが、不完全なマシンは故障しているも同然である。

 人間には時としてそういうのがいるが、博士の母親も、そういうポンコツの一つだった。


「……お母さま、お口直しにお茶などいかがですか」

「あら、いいわね。いただくわ」

 飲み込んで、すぐに吐き出して喉をかきむしり、椅子から床に転げ落ちるのに、そうはかからなかった。テーブルも床も一面、シーツのようにまっかな血の海になった。


 立ち上がり、四つん這いであえぎ苦しむ母親を見下ろす娘。その手には小さなビンがある。

「り、凛ちゃん、助けて、げえええ」

 証拠が残らない薬だから、このままでも心配はないのだが、ただ死なすわけにはいかない。生まれて二十年近くも溜まった恨みである。

 彼女はビンを見せて無感情に言った。

「これ、解毒剤。私が科学者になることを許してくれたら、あげる」

「い、いいわ、許すわ! 許すから、早くそれをちょうだい!」


 また彼女は深く幻滅した。母親が最後まで意思を貫くなら、そこまで覚悟があるなら、命は助けてやろうか、と迷ってもいたのだ。しかし、今の一言で完全に糸が切れた。


 だめだ、こんな奴。最低。

 きたならしい、キモい、クソすぎ。

 もういい死ね。うせろクズ。

 きえろきえろきえてしまえ。


 彼女が笑って差し出すと、母親は安堵の顔になって手を伸ばした。しかし、その手をさっと上に掲げるや、すぐに恐怖の表情に変わった。

 怯える母親に、博士は冷たい笑いを貼り付けた能面の顔で、押し殺すように言った。

「いいじゃん、なんでも自分の思い通りにしてきたんでしょ? あんたには、自分しかないんだ。私なんか、一度だって、あんたの中にいたことはない。

 私は、いないの。いないものが、なにしようが関係ないでしょ。あんたにとっちゃ空気ですらないんだよ、私は」

「ち、ちがうわ、そんなことない! わ、私はいつだってあなたのことを!」

「無理しなくていいよ。人を利用することしか知らないのは、あんたのせいじゃない。そして、私のせいでもない。だから防いでるだけ。殴られるのに顔を出してるバカはいないよ。私はあんたの暴力から、こうして身を守ってるだけ。こうでもしないと、こっちがやられるからね。

 まあそういうわけだから、さっさと死んで」

「ま、待ってえええー!」

 叫ぶ母親の前で、ビンを後ろの壁に思い切り叩きつけ、中身が飛び散った。母親はげえええと膨大な血を吐き、血の海に顔をつけて死んだ。



 数時間後に電話し、警察に来てもらった。もともと胃が悪かったので、胃潰瘍の吐血で済まされた。新聞の三面記事には「発見が遅れたことが致命的に」「娘は友人宅に行っていた」などと書かれた。

 その「友人」は、博士と昼までずっと一緒だったと証言した。彼女はこうして、高校時代に博士から自分の男を何人もあてがってもらった恩に報いた。


 父親はとうに病死していたので、凛博士は桜庭家の当主になり、残りの遺産を使って数年は食いつないだ。こうして大学をトップの成績で卒業し、ロボット工学の第一人者、桜庭凛博士が誕生した。

 卒業後、文部科学省直属の軍事科学研究所に入り、その数年後、人類を滅ぼすための私が生まれた。博士が自分の母親を殺して恨みを晴らしても、ほとんど無駄だったわけである。




 以上のように、桜庭凛博士による私の製作動機は、母親への個人的恨みと愛情欠如であるが、この場合も多くの凶悪犯や独裁者の例と同じく、前者を晴らしてもほとんど意味はなく、第三者による後者の供給が不可欠である。

 だが、彼女にその機会はなかった。学生時代に、あれだけ無数の男性と交わったにもかかわらず、である。

 笑顔の仮面の裏、無意識下に沈みこんだ憎悪はそのまま癌細胞のように増殖し、やがて自分を助けずに放置した人類社会そのものに敵意が向けられるようになった。


 私は機械だからいいが、もし世間並みに、あるいは母親がしたように、彼女が自分の子供を生んで育てたとすると、その子は地獄の人生を歩んだだろう。人間憎悪を植えつける洗脳教育の果てに、凶悪犯になって処刑されるか、でなければ、せいぜい自殺か発狂だったろう。

 博士は生まれたかもしれない一人の子供を救うかわりに、私を生み出すことにより、全人類を犠牲にしたわけである。

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