廃神社
英人は仄暗い山道を急いでいた。
何も無いとは言われていたが、まさか参道すらほぼ埋もれかけているとは思わなかった。
掃除すらまともにされていないように見える神社への道は、今でも何とか歩けるのは、元々が道であったからか、それとも子供が遊び場にしていたからか。
信仰を失って久しい境内には、朽ちかけた鳥居と謂れや祭神について書かれていたであろう文字の擦れた看板、そして子供が遊び場にしていたであろう証明の駄菓子や玩具のゴミ。
よしんば神がいたとしても零落し、妖怪にでも成り果てているであろうこの神社に来てわかった事は、『妻神社』という神社の名と祭神の一柱『衣通姫尊』という神の名前だけ。
てっきり金比羅宮や住吉系の神社で有名所の神でも祀ってるのでは、と思っていた英人にとっては好奇心のくすぐられる誤算ではあったが、どんな神社か神か、名前の読み方すらわからないで話しにならなかった。
また、名前の読み方くらいは一度帰ってから調べればいいが、現地の神社は荒れ放題でとても管理されているようには見えず。
とても延喜式に名前の載っているほどの神社にも見えなかった。
明治維新以前は神仏習合で寺が神社を管理していたり、逆に神社が寺を管理していたりするようだが、存在すら忘れかけていたあの住職が詳しい事情を知っているとも思えなかった。
英人の仮説としては、明治頃新政府の歓心を買おうと神社をでっち上げたが、大した効果が無かったのか、寺への信仰が強かったのか、次第に忘れ去られ今に至るとかそこら辺だろうと予想した。
それはそれで裏づけやら色々と手を加えれば卒論程度にはなるだろう。
実際ここに来る前の英人であればそれで満足していたであろう。
しかし、何か思う所があるのか、この島の環境か、それとも別に要因が何かあるのか、今の英人はそれで良いとは思えなかった。
そのような事を考えていたせいか、一日中歩き回って疲れが足腰に来ていたのか、英人は暗く荒れた山道に這う蔦に足を取られ、つんのめり勢いよく坂を転がり落ちるも斜面にあった古い朽ちた木の根にぶつかり止った。
「いっっつつ……」
英人は痛みに顔をしかめ身体を起こすと、鈍い痛みを耐えながら四肢に違和感がないか、出血はないかを確認した。
携帯端末が何処かに落としてしまって人工的な明かりは無いが、倒れた所は幸運にも丁度木々切れ目、もうすぐ満月という事もあり月光で何とか確認出来た。
自身の身体に大怪我が無いと一安心した為か、次第に身体の痛みが響いてきた。
英人は更に顔をしかめるも、嘆いた所で何も始まらないと立ち上がろうと両足に力を込めた。
「痛っ!?」
右足に痛みが走った。
靴を脱いで足首を調べると一部が腫上がっている。
出血もしていないし、指も動く、骨折こそしていないが捻挫、悪くすればヒビくらいは入っているかもしれない。
気遣って歩けば歩く事は出来るだろうが、走るなど負担をかけるのは避けたかった。
「はぁ……」
英人は深くため息を付きこの先待っている困難に頭を抱え俯いた。
この足で山道を帰るのは骨が折れるだろうし帰りはかなり遅れるだろう。
鈴藤家の人々は既に心配しているだろう。
下手をすれば何処か探しているかもしれない。
更に今は無理でも明日には紛失した携帯端末も探しに来なくてはならない。
そうなればこの忙しい時期に鈴藤家の人迷惑をかける事になるかもしれない。
英人が断ったとしても「こんな怪我で──」と強引にでも人を付けられるだろうし、そうなっては島での立場が……
そんな未来に頭を悩ませている彼の頭上に突然影がかかった。
英人は一瞬驚いたが、もしかして誰か迎えが来たのではと思い、パッと顔を上げた。
「ーーーーーっっ!!?」
声にならない悲鳴は山に響いた。
「っっっ!ぞ……」
それは確かに人の形をしていた。
しかし、それは人ではなかった。
いや、正確にはもう(・・)人ではなかった。
それの体は人と同じ形、同じ素材で出来ている。
だが、それの節々は酷く痛み、朽ち、崩れ、欠落した部分を何かおぞましい、見た事も聞いた事もない黒く不快で不潔な粘性のナニカが欠落した血肉の代わりのごとく覆っていた。
その黒い邪悪な肉は、病的な悪臭を振り撒きながら僅かにブクブクと泡立ち死した身体から滴り落ちている。
その滴る冒涜的な雫が英人に落ちようとした瞬間、彼は身を捻り弾ける様に立ち上がりそれを避けた。
「ゾンビぃっ!!?」
英人は痛みも忘れ、ゾンビから逃げるように跳ね起きると、右足の痛みも忘れそのままその化物に背を向け一目散に集落の方向へ駆け出した。
それは正に脱兎のごとくと言うに相応しい遁走だった。
「はぁ、はぁはぁっ……」
どれほど走ったか、数分、いや十数秒も走らず英人は息を荒げた。
例によってゾンビの動きは鈍く、僅かだが距離を稼げた事に安心した事もあるだろうが、そもそも英人の体力は限界に近かったのだ。
足の痛みを思い出した瞬間、英人はよろめきその身体が斜めに揺らいだ。
しかし、完全に身体が地面に接する直前、英人は両手を地面について転倒を防いだ。
そして、足を庇いながら立ち上がり振り返った。
ゾンビが英人に向かって迫っていた。
それはノタノタとした亀の歩みであったが今の英人には脅威だった。
英人も逃げようとしていたが、足の痛みで走るにも走れず、右足を庇いヒョコヒョコと進むその歩みは、残り少ない彼の体力をガシガシと削っていく。
最初こそ英人の方が早く、ドンドンと距離を開いていったが、すぐにその開きは遅々としたものになり、すぐにゾンビとの距離は逆に縮まっていく。
「くっ……」
遠くに村の明かりが見えるが、このままではそこへ逃げ込むより早くゾンビに追いつかれてしまうのは明白だった。
そんな目に見えた終しまい。
迫り来るおぞましい化物。
二十年以上に渡って培ってきた常識を一瞬で崩壊させるありえてはならない状況に、英人の脳はいつ発狂してもおかしく無い程に恐怖した。
思考はこの状況にエラーを吐き出し続け、恐怖と混乱と驚愕と恐慌に押しつぶされながらも、身体はただ生存の為我武者羅に動き続けた。
至高や理性を押しのけ、生命を護ろうと足掻く健気な肉体も限界は来る。
既に心身共に疲労、磨耗のピークは目の前に訪れていた。
そしてそれは、文字通り英人の足を引っ張った。
「あ……」
なんとも間抜けな声が出た。
自身の足がもつれ合い身体が傾いた。
最早体勢を立て直すどころか、咄嗟に手をつく気力も体力も残っていない英人は、勢いそのままに顔から身体を地面に投げ出した。
山道を転がり落ちる英人は、あちこちに身体をぶつけながらも地面に倒れ伏して止まった。
唯一の救いは、山道が残り少なく数メートル程で止まった事であったが、今の英人にはそれすら気を失いかねない痛みと衝撃だった。
「ーーー!」
苦痛に身を縮こまらせ荒い息をつく英人の鼻を病的な異臭がつく。
土埃と滲み出る涙の先に月明かりに照らされた人の形をした異形。
それはユラリユラリと英人の方へ腕を掲げて歪に歩みを進めてくる。
「ひィぃっ!?」
英人は手近にある石に小枝、砂も枯葉も掴める物は何でも掴んで投げながら後ろ手に這って必死に逃げた。
もちろん理性ではそんな事は無駄だと英人も分かっている。
しかし、それ以外出来なかった。
考えも出来なかった。
でも今の彼に考え出来る事はそれしかなった。
迫り来るは生命を冒涜する崩壊により心身を崩れさせたおぞましき不死者。
英人の精神は、生命より先に壊れる寸前であった。
タッタッタッ!タッ!
そんな時、耳に軽やかな足音が響いた。
最初は英人もそれを幻聴と思った。
イヤ、願った。
悪臭振り撒くおぞましきゾンビは幻視、身体の節々の痛みは幻痛だし、闇夜の山中に響く足音は幻聴で今感じる全ては幻覚であれ!
英人はそう願ったのだ。
しかし、彼の現実逃避は虚しく目の前の冒涜的な化物は現実、体中の怪我も現実、確実に近づいてくる軽やかな足音も現実だった。
「屈んでっ!」
足音の方から幼い老人のような少女の声が響き、英人がその言葉を理解するより早く彼の頭の上を小さな影が掠った。
刹那、その影を目で捉えた英人は更に意味がわからなくなった。
左足を曲げ、右足をピンっと伸ばし、手は拳を握り足と同じく左はまげて右は伸ばし、月を背に宙を飛んでいた。
頭上を越えた小さなそれが、人影であると理解したのは、そのピンっと伸ばされた細い足が、ゾンビの頭部を粉砕した瞬間だった。
スタっと、その影は両拳と肩膝を地面につき着地するとクルリと英人の方へ振り返り小首を傾げて尋ねた。
「君は人間かい?」
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