憧れ
憧れ。わたしはかのじょに憧れることで救われていたような気がします。それはどんなに手を伸ばしても届かない星のように遠くで輝いていて、手に入れられないからこその安心といいますか、今日もきらきらと輝いていることを確認したいだけの存在でした。
かのじょの名前は、よる。瞬きをしたときに長い睫毛がゆっくりと動くのが幻想的で、血管が見えそうなくらいの白い肌はまるで花びらのように薄っぺらく感じました。
よるはわたしと同じ制服を着ていましたが、かのじょの輝きは一グラムも閉じ込められることなく、周囲を魅了しました。かのじょが歩くと、そこはまるで誰もいない雪道のように異世界にいざなわれるのでした。
数学の授業中、よるの肩に蝶がとまっているのを目撃したとき、すべての人間は等しくないことを実感しました。ところがよるは自分の肩にとまっていたアゲハ蝶に気付くと、小さな手で握りつぶしてしまったのでした。まるで自分の身体から出てきた汗を拭うかのように蝶を処理してしまったかのじょに、わたしは戸惑いが隠せませんでした。
「よる」
かのじょの名前を声に出してみると、まるで魔法のようにふしぎなパワーを感じました。わたしはかのじょの存在に心底惚れていて、信じていました。
なにを? かのじょの生きる世界であれば、わたしも心強かった。
けれど、わたしの信頼も虚しく、よるは徐々に変わっていきました。周りと打ち解けることをしなかったかのじょは、いつしか教室の中心を牛耳る女子たちの群れに入り、ふつうの女の子になっていました。心にもなさそうな「かわいい」を女子たちに浴びせ、よるのお墨付きをもらった彼女たちは調子にのっていました。よるのスクールバックには明らかにお揃いで買ったダサいキーホルダーが不自然に揺れ、わたしは辟易してしまいました。
もう星ではないかのじょに、わたしは手を伸ばしました。休み時間の女子トイレで鏡をのぞくかのじょに、とうとう話しかけました。
「髪、きれいだよね」
よるの長くて艶のある髪の毛は以前と変わっていなくて、わたしはそれがとてもうれしくて、安心していました。
「わ、びっくりした。ありがとう」
わたしが背後にいたことなど気付かなかったのか、よるはやけに人間らしく驚いていました。よるはリップを塗りなおすと、前髪をコームで梳かし、鏡に向かってニコッと笑い、トイレから出ていきました。
よるは、放課後になると女子たちの群れからいち早く飛び出し、わたしの知らない男の元へと走っていきました。上履きの色で、一つ上の先輩だと分かりました。よるはその男の腕に絡みつき、男の口にきれいな髪の毛が入ってしまいそうな近距離のまま校門を抜けました。
どうしよう。わたしのお星さまはもう見えない。わたしはかのじょに幻想を抱いてしまっていたのでしょうか。そのうつくしい容姿に特異なストーリーを妄想し、歪んだ目で見ていたのでしょうか。
誰とも交わらないで、理解しようともされようともしないかのじょにわたしは強さを感じていたのでした。孤独をうつくしく提供してくれるかのじょにわたしは憧れていました。でも、実際はアゲハ蝶をつぶせるほどの、恐ろしく楽観的な、温度のちがう女の子でした。
よる。その名前を最後に呼んで、わたしはノートの端に書いたアゲハ蝶の絵を消したのでした。
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