礼儀正しい人々は笑わない
礼儀正しい人々は笑わない
1938年2月27日、クリミア半島のシンフェロポリにあった地方政府庁舎および議会を謎の武装勢力が制圧。
同時に郊外の空港を占拠し、空挺堡を築き上げた。
空挺作戦によって、謎の武装勢力は3月半ばまでにほぼ全土を掌握した。
各地のウクライナ軍は抵抗する間もなく制圧され、セヴァストーポリ要塞も殆ど抵抗することなく陥落した。
謎の武装勢力は、クリミア半島においてウクライナ政府に虐げられていたロシア人に対して非常に親切であり、迷子になった子猫を少女と一緒に捜索するなど、礼儀正しく振る舞って好意を集めた。
クリミア半島では、ウクライナ人を除けば謎の武装勢力は、
「礼儀正しい人々」
と呼ばれて、支持された。
もちろん中身がロシア帝国軍であることは言うまでもないことである。
クリミア半島は、1916年のブレスト・ノヴォニコラエフスク条約で独立したウクライナの領土となった。
ニューヨーク講和条約でもウクライナの独立は再確認されたが、ロシア代表はクリミア半島の帰属問題に異議を申し立てるなど、クリミア半島はウクライナとロシアの係争事項であった。
独立まもないウクライナ政府にとってロシア帝国との正面衝突は避けたいのが本音であり、セヴァストーポリ要塞と軍港の使用権を認める代わりにクリミア半島の帰属をウクライナとする交換条件を提示し、1922年にドンバス合意を取り付けた。
ドンバス合意によってロシア帝国軍はクリミア半島に復帰したが、火種が全て消えたわけではなかった。
そもそもロシア帝国はウクライナやベラルーシ、フィンランドやバルト三国の独立を敗戦の屈辱としており、各地でロシア人が差別的な扱いを受けているとして汎スラブ主義を煮えたぎらせていた。
汎スラブ主義をプロパガンダで煽っていたのが、弱冠、20歳でロシア皇帝を継いだアレクサンドル4世である。
アレクサンドル4世は、ツァーリズムとナショナリズムを高度に融合させた
「ネオ・ツァーリズム」
を提唱して、周辺国への圧迫を強めた。
外資の導入やアレクサンドル4世の優れた経済手腕の元でロシア帝国は飛躍的に近代化され、重工業化が進むとロシア帝国軍は世界最大の陸空軍を保有するに至った。
1938年時点で、10,000機の作戦機と20,000両の戦車をもつ国など、ロシア帝国とアメリカ合衆国ぐらいなものである。
ロシアとアメリカの軍備拡張は不況対策という面もあり、30年代末の両国はほぼ完全雇用を達成している。
なお、米露両国の関係は極めて良好だった。
バルチック艦隊近代化のため1935年にアメリカ合衆国に発注されたのが16インチ砲搭載の45,000t級戦艦イヴァン・グロズニィ級戦艦である。
1番艦はアメリカ合衆国で建造され、2~3番艦はアメリカの協力でロシアで建造された。
なお、アメリカのアイアンマン副大統領はロシア生まれといういうことで、米露の友好関係構築に多大な貢献をなした。
しかし、親しい者の前ではアレクサンドル4世のことを
「金髪の小僧」
と呼ぶなど侮蔑しきっていたことが後に判明している。
アイアンマンは自分の生まれ故郷をジョージアと呼び、ロシア語風の発音であるグルジアを使うことを拒否していた。
アメリカ合衆国内の公文書や地図などは1930年代にグルジアをジョージアに書き換える作業を行っているが、これはアイアンマン副大統領の強い意向によるものである。
それはさておき、クリミア半島である。
1938年3月16日、クリミア半島の帰属を占う住民投票の結果、賛成多数でクリミア半島はロシア帝国に編入されることとなった。
礼儀正しい人々が、礼儀正しく公正且平和的に選挙の準備やその手伝いをしたことは言うまでもないことであろう。
この結果を受けて、アレクサンドル4世はクリミア半島のロシア帝国編入を認める演説を行って、3月18日に編入条約に署名した。
ウクライナ共和国は国際連盟に提訴するなど、国際社会に訴えたが結果は虚しいものだった。
誰もウクライナのために動こうとはしなかったのである。
ウクライナの頼みの綱である欧州経済帝国もロシアとの戦争は拒否した。
この時、ドイツ帝国の首相はハインリヒ・ブリューニングだったが、
「クリミア半島を与えておけば、ロシアはおとなしくなるだろう」
と公言して憚らなかった。
それが誤りであることはすぐに判明した。
礼儀正しい人々はウクライナ東部のドネツク州にあらわれて再び地方政府庁舎を占拠した。礼儀正しい人々は迅速に交通の要衝を制圧し、ドネツクのウクライナ軍は対応する暇もなく降伏を余儀なくされた。
独立を宣言したドネツク人民共和国は、ロシア帝国への編入を求めた。
ウクライナ政府は軍を出動させてドネツク州へ向かったが、ロシア軍と同等の装備で武装した礼儀正しい人々の抵抗にあって逃げ帰った。
1938年6月11日にドネツク人民共和国はロシア帝国へ編入されたが、ウクライナ軍の攻撃が続いたため、ロシア帝国政府はウクライナ軍に撤退を要求した。
受け入れられない場合は、全面戦争も辞さないとした。
ロシア帝国陸軍の大軍がウクライナ国境に展開し、それに呼応した欧州経済帝国各国の動員を開始したため、全ヨーロッパが世界大戦の危機に震えることになった。
迫りくる戦争の危機を前にして、欧州経済帝国は調停に乗り出し、オーストリア連邦帝国の首都ウィーンで首脳会議が開催された。
1938年9月29日のことである。
この会談にかけるウクライナ国民の期待は多大なものがあった。
ウクライナ政府首脳は大勢の見送りを受けて列車に乗って出発したが、ウィーン駅で彼らを出迎えた者はいなかった。
アレクサンドル4世は飛行機でいち早くウィーンに乗り込むと先に来ていたドイツ首相ブリューニングやオーストリア連邦帝国首相ドルフースと会談し、ドネツク州の併合で領土要求は最後とする誓約書を提出した。
この展開に、厳しい交渉を予想していたブリューニング首相は、呆気にとられるばかりだった。
ドルフース首相に至っては、
「交渉が始まると思ったら、いつのまにかロシアが降りていた」
とありのまま、今起こった事を記者団に話した。
それで話は終わったとして、アレクサンドル4世はベルリンへ飛行機で向かった。
ベルリンではヴィルヘルム2世と会談するなど、帝室の紐帯をアピールし、戦争の危機は去ったと宣言している。
ヴィルヘルム2世は高齢であり、人前に出ることは少なくなっていたが、久しぶりに会った甥っ子の息子を快く歓待した。
若き日にドイツ皇帝として辣腕を奮ったヴィルヘルム2世だったが、戦後、大戦中に皇帝権力の殆どが否定されたこともあって、意気消沈していた。
アレクサンドル4世の専制支配について、ヴィルヘルム2世は嘗ての自分と重ねて見ている節があり、アレクサンドル4世に好意的だった。
ベルリン王宮のバルコニーにアレクサンドル4世と共に姿を見せたヴィルヘルム2世は、揃ってベルリン市民に笑顔で手を振り、こう述べた。
「私達の平和は守られた」
ウクライナ代表団が列車でウィーンについたときには既に首脳会談は終了しており、彼らの到着を待っていた、あるいは待たされていたオーストリア首相のドルフースが面倒臭そうに会談結果を提示して、それで終わりだった。
ウクライナ国民は失意に包まれ、首都キエフにはロシア帝国の侵略に抗議するコサックが集まり怪気炎をあげた。
キエフの中央広場ではウィーン会談に抗議してバリケードが築かれ、タイヤが燃やされるなど、革命前夜のような騒然とした状況となった。
最終的にウクライナは国民の反露感情に押されるがままに、ドネツクへ再侵攻することになった。
結果、ウクライナはロシア軍の全面侵攻を招いた。
1938年10月13日のウクライナ侵攻は、ロシア空挺軍によるキエフ直撃という電撃作戦で始まった。
空挺部隊がキエフの政府施設を占拠するなど、指揮系統を破壊する斬首作戦を展開する一方で、全国境から機甲部隊がキエフめがけて殺到した。
指揮中枢が速攻で壊滅したため、ウクライナ軍は殆ど抵抗することができかった。
場所によっては、兵営からでることもできず、戦争が始まったことも知らないままに包囲され降伏した部隊もあったほどである。
ウクライナ政府がロシアとの再併合を求める降伏条約に署名したのは、開戦から僅か1ヶ月後の1938年11月11日のことだった。
ロシア帝国にとって、ウクライナは重要な穀倉地帯であり、鉱工業の中心であった。
その再併合は戦後ロシアの悲願であり、それを達成したアレクサンドル4世の人気は天を突くばかりに高まった。
ウクライナ再併合まで皇帝の唱えるネオ・ツァーリズムに懐疑的だった自由主義者や社会主義者、非合法の共産党員ですら、帝政支持派に転向するほどになり、ロシア帝国においてアレクサンドル4世は絶対者として振る舞うことになる。
広大なウクライナが僅か1ヶ月で飲み込まれたことに、欧州経済帝国は恐れおののき、そしてアレクサンドル4世の誓約違反に猛烈な抗議を行った。
しかし、ウクライナ政府の合意違反であると言われるとそれ以上の反論はできなかった。
何よりもその強大な軍備を前に自国が対抗できるかどうかも怪しかった。
ウクライナを飲み込んだロシア帝国軍を指揮したのは、ミハイル・トゥハチェフスキー元帥であった。
トゥハチェフスキー元帥は列強で最も遅れていたロシア帝国軍の軍備を近代化し、空挺軍や世界最大規模の空軍を完成させ、戦車部隊を組織し、それを運用する縦深作戦理論の確立に指導的役割を果たした。
皇帝陛下のナポレオンという些かや矛盾した異名をとるトゥハチェフスキー元帥だったが、皇帝との関係は極めて良好であった。
アレクサンドル4世から、
「君が求めるものは帝冠以外、全て与えよう」
とまで言われた20世紀を代表する軍事的な天才の一人だった。
トゥハチェフスキー元帥は理論のみならず実際の作戦指揮でも際立った手腕を発揮している。
ウクライナ侵攻に際してその指揮を任されて、僅か2週間でウクライナ全土を占領した。
トゥハチェフスキー元帥は戦車の可能性に注目した最初の軍人の一人である。
彼が新生させたロシア帝国軍は、二種類の戦車を装備した。
一つは素早い戦車(Быстрый танк)であり、BT-5やBT-7といったアメリカ合衆国が発明したクリスティー式サスペンションを装備していた。
クリスティー式サスペンションを装備したBT戦車は履帯を外して路上を高速で走行できるという特徴があったが、実戦ではあまり役にたたなかった。
しかし、履帯を外さなくても十分に高速であり、ディーゼルエンジンによって長い航続距離を保障された快速戦車はトゥハチェフスキー元帥の縦深作戦において要となる存在だった。
同時に歩兵支援用途にT-26という軽戦車が製造された。
この他に多砲塔戦車などもあったが、専ら量産されたのはBT戦車とT-26の二種類であった。
何れの戦車も対戦車砲や火炎瓶で容易に撃破可能であったが、本当に恐るべきことはその生産台数と運用方法だった。
ロシア帝国軍は、圧倒的な砲火力を投入し、前線の防衛線や防御拠点を破壊すると同時に長距離砲や航空支援を活用して防御側の後続部隊の移動を制圧した。それを殆ど全ての前線で同時に行って、対応不能なほどの広い突破口を構築している。
さらにその広い突破口から機動打撃群と呼ばれる快速戦車軍団が殺到し、弾薬等の補給が尽きるまで100km単位で前進する。弾薬の尽きた部隊は停止するが、その後ろからも機動打撃群が追い越し、理屈の上では無停止状態で攻撃を続行可能だった。
さらに空挺降下などを組み合わせて敵の指揮中枢を破壊して敵軍の動きを麻痺させることも想定されており、実際にキエフに降下した空挺部隊は政府施設を占拠して、ウクライナ軍の動きを封殺することに成功している。
トゥハチェフスキー元帥は、先の大戦を留学先のイギリスで過ごしており、直接対戦したことはなかったがシベリア戦線の結庵将軍の大騎行をよく研究していた。
結庵軍の騎兵運用の要は独立した騎兵集団による突進と迂回による包囲殲滅にあり、その高い戦術・戦略機動性は戦後のロシア帝国軍にBT戦車をつくらせる原動力になった。
結庵将軍のモンゴル騎兵を現代に再現したのがロシア帝国軍のBT戦車とも言える。
ロシア帝国はウクライナ侵攻後から旧領奪回に向けて本格的に動き始めた。
朝鮮戦争が完全に泥沼となり、シベリアの安全が確保されているうちにしかヨーロッパでの戦争などできるものではなかった。
本人は決して認めなかったが、北京で軟禁状態にある結庵元帥をアレクサンドル4世はことの他警戒していた。
結庵が復権して日本と手を結び、シベリアに再侵攻することを何よりも恐れていたと言われている。
1939年3月には、ベラルーシを軍事恫喝して領土併合条約を締結して、遂にロシア帝国はドイツ帝国と国境を直接、接することになる。
ベラルーシは元よりロシア帝国寄りの国家であり、併合そのものに大きな抵抗はなかった。
しかし、バルト三国とフィンランドはロシア帝国の軍事恫喝を跳ね除けた。
バルト三国やフィンランドは欧州経済帝国の加盟国であり、ドイツ帝国はその独立を保障していた。
ドイツ帝国はこれ以上の領土拡大要求は戦争を招くと強くロシアに警告した。
ヴィルヘルム2世は甥っ子の息子に裏切られたショックで寝込んでいたが、ドイツはヨーロッパの盟主として行動しなければならなかった。
しかし、ロシア帝国は既に戦争準備を整えており、時間経過でドイツやフランス、イギリスの軍備拡張が進むことを理解していたから止まらなかった。
1939年8月27日、ロシア帝国はバルト3国とフィンランドにロシア帝国への帰参を求める最後通牒を送った。
回答期限の8月13日に欧州経済帝国は領土問題解決のための国際会議開催をロシアに提案した。提案書には付帯事項でフィンランドとバルト三国の領土削減など、ロシアに大幅に譲歩した内容が記載されていた。
しかし、要求に満たないとしてロシア帝国は宣戦を布告した。
ロシアの宣戦布告に対応して、欧州経済帝国の加盟各国は共同でロシアに宣戦を布告。
ここに第二次世界大戦が始まることになる。
なお、開戦から7日でバルト3国は飲み込まれ、フィンランドは辛くもロシア軍の攻勢を退けたが、これは単にロシア軍の主力がフィンランドにいなかったからに過ぎなかった。
ロシア帝国にとっての主戦場は、ポーランド平原であり、第一次世界大戦で受けた屈辱を晴らすべく空陸一体の機甲作戦が発動された。
国境を超えたロシア軍の総数は300万で、師団総数は185個だった。
目標はベルリン。
作戦名は、竜巻。
全軍を指揮するトゥハチェフスキー元帥は、
「1週間でワルシャワを落とし、2週間でオーデル川まで進出する。1ヶ月でベルリンを落とす」
と豪語した。
国境の防衛線を突破することなど、ロシア帝国軍にとっては造作もなく、本当の戦いは機動戦に移行した後におきるはずの戦車戦だった。
ポーランド平原を西へ疾駆する快速戦車旅団の前に現れたのは、ドイツ東方騎士団の末裔であるドイツ騎兵軍団だった。
騎兵である。
もちろん、機械化などされていない100%生の馬で編成された騎兵だった。
サーベルを振りかざし突進する騎兵を前にして、ロシア軍の戦車兵達はいつの間にかモンゴルに来たのかと戸惑ったが、そこはポーランドであった。
なぜこんなことになったのかといえば、専らヴィルヘルム2世に責任がある。
戦後、ドイツでは皇帝の権力は殆ど否定されたが権威は保存されており、特に軍部はヴィルヘルム2世の命令には絶対服従であった。
殆どのドイツ軍人は政府に仕えている意識は乏しく、忠誠心の対象は皇帝に注がれていた。
政治に口出ししなくなったヴィルヘルム2世だったが軍隊は別口であり、老害を撒き散らした。
ヴィルヘルム2世は第一次大戦末期に西部戦線で結庵元帥が見せた騎行突破に魅了され、戦後のドイツ軍に大騎兵集団を作り上げた。
騎兵は砲兵や機関銃の火力増強の前に既に無力化しており、これは時代に逆行した退化でしかなかった。
結庵元帥の成功は騎兵の成功というよりも、情報撹乱や速攻による指揮崩壊に見るべき点があるのだが、ヴィルヘルム2世はそうは考えなかった。
騎兵は使い方によっては未だに有効であり、ポーランドのような良馬の産地を抑えたのだから、ドイツ軍は騎兵突撃を復活させるべきだと考えたのである。
ただし、新兵器である戦車を無視したわけではない。
それどころか戦車の開発にもヴィルヘルム2世は大いに関与した。
ヴィルヘルム2世はイギリス軍のマークⅠ戦車をコピー生産させて、改良発展させている。
それはそれで結構なことだが、開発の方向性が間違っていた。
皇帝は戦車は移動する要塞であるべきだと考えたのである。
これは大戦末期に防御に回ったイギリス軍のマークⅠ戦車が移動トーチカとして運用された経緯があり、戦車を防御兵器と認識するのは必ずしも非現実的な妄想とは言えない。
戦後に結ばれたベルリン軍縮条約によって戦車や火砲の数が制限されたことから、一つの戦車に多数の火砲を装備することで条約の制限内で最大火力を発揮しようという軍部も思惑もあった。
しかし、戦後ドイツの戦車がことごとく全周囲に弾幕を張ることができる巨大な多砲塔戦車となったのは、間違いだった。
戦車の皇帝たるべく開発された一連のKW(Kaiser Kampfwagen)シリーズは1~5型まであり、最大級のKWー5は重量が55tもあった。
KW5は5つの砲塔を持ち、前後に37mm砲塔と連装機銃砲塔2つずつ持ち、中央主砲の100mm砲24口径砲は毒ガス弾発射にも対応していた。
ドイツが次の戦争をどのように考えていたのかよく分かる装備である。
悪魔の城のようなドイツ軍多砲塔戦車はその巨大さで大いにロシア軍をビビらせたが、ビビらせるだけで何の戦果もあげることなく壊滅した。
そもそも機械的な信頼性が低すぎて、戦場に到達することができなかった。
自走中に故障して放棄されたり、鉄道駅で荷降ろし中にロシア軍の速攻にあって撃破されるなど、悲惨な負け方をした部隊が多い。
それに比べれば空中戦はまだマシな方だったが、ドイツ空軍は膨大な数のロシア軍に押しつぶされ、戦場上空の制空権を確保することができなかった。
ロシア帝国空軍の主力戦闘機I-17は凡庸な戦闘機だったが、ドイツ空軍のフォッカー戦闘機も同じぐらい凡庸だった。
フォッカーE101は、ドイツ空軍戦闘機部隊の伝統を引き継ぐ運動性重視の機体で、ダイムラー・ベンツの倒立V型液冷エンジンの心臓と20mm機関砲を装備した。
しかし、数が少なすぎた。
ドイツ帝国は戦争が起きるのは1940年以後だと考えていた。
その頃には自国以外の欧州経済帝国の構成国の軍備拡張も終わっており、ロシア帝国にも対抗できるはずだった。
それまで可能なかぎり外交で戦争を先送りにする予定だったが、アレクサンドル4世の方が一枚上手だと言えた。
戦況は一方的な展開となり、ワルシャワではドイツ軍B軍集団(36万)が包囲殲滅され、A軍集団(45万)はケーニヒスベルグに閉じ込められ、無力化された。
同盟国のオーストリア軍はこの間に殆ど何もすることができなかった。
オーストリア軍はドイツ軍よりも遥かに優れた戦車を多数配備していたが、ドイツ軍と共同した作戦を行うのを拒否していた。
先の大戦において作戦指揮までドイツ軍に委ねた結果、属国扱いされたことがオーストリアのトラウマになっていたからだ。
このため、オーストリア軍はドイツ軍が壊滅していくのを黙って見過ごすという誤りを犯すことになってしまった。
ワルシャワよりに西にはオーデル川まで防衛線はなく、ロシア帝国軍の機械化部隊は無人の荒野をいくように進撃することができた。
ロシア帝国軍の先鋒がオーデル川に到達したのは1939年10月15日だった。
トゥハチェフスキー元帥の予告は外れたが、それでも驚異的な進撃速度といえる。
オーデルからベルリンまではおよそ90kmだった。
ドイツ軍は殆ど思考停止状態に陥り、ヴィルヘルム2世はそそくさとベルリンから逃亡し、ドイツ帝国政府はドイツ西部のケルンに疎開する準備を始めた。
しかし、疎開が終わる前にロシア軍がなだれ込んでくるのは目に見えていた。
国内にあった予備師団をかき集めてゼーロウ高地に防衛線が築かれていたが、寄せ集めの烏合の衆でしかなかった。
そのため、ゼーロウ高地の防衛は3日が限度と考えられた。
しかし、予想外にも15日もロシア帝国軍を足止めした。
後にゼーロウ高地の奇跡と呼ばれる防衛戦の指揮を執ったのは、マンシュタイン少将という皇帝陛下の愛した多砲塔戦車を批判して閑職に追われた将軍だった。
実際に彼が行ったのは批判ではなく言葉を慎重かつ丁寧に選び、多砲塔戦車の欠点を指摘し、より効果的で安価な小型の戦車を提案しただけで、批判というほどのことはない。
しかし、彼は皇帝の不興を買って出世を妨げられた。
マンシュタインの指摘と提案があまりにも完璧かつ理論的過ぎて嫌味になっていたことに本人は気づかなかったのが、悲劇だったと言える。
過ぎたことはさておき、マンシュタイン少将の見事な防衛戦はアレクサンドル4世からも絶賛され、部下にほしいとまで言わしめた。
3日しかゼーロウ高地が保たなかったら、その時点で戦争は終わっていたとされる。
僅かな時間的猶予の中にドイツ政府はベルリンからの疎開を成功させ、ドイツ軍はエルベ川に沿った防衛線を整えることができた。
ドイツ軍のエルベ川への総退却は1939年12月5日のことである。
ロシア軍は退却するドイツ軍を追撃したが、弾薬と燃料が欠乏しており、ドイツ軍がベルリン防衛を放棄して後退したことから大規模な包囲殲滅は不可能だった。
また、アレクサンドル4世はベルリンを占領すれば戦争は終わりだと考えていた節があり、追撃は徹底さを欠いていた。
ベルリンを占領したロシア帝国政府は、欧州各国に停戦交渉を呼びかけた。
アレクサンドル4世は、欧州経済帝国はドイツ帝国の政治的な仮初に過ぎず、中心国家であるドイツ帝国を打倒すれば崩壊すると考えていた。
「欧州経済帝国は巨大な寄木細工だ。基礎を蹴り飛ばせば簡単に崩れる」
というのがアレクサンドル4世の考えの全てだった。
ロシアにとって英仏伊は先の大戦の同盟国であり、戦勝国のドイツと手を結んでいるのは一時的な現象であると考えたのである。
しかし、予想に反して欧州各国は団結してロシアに徹底抗戦を宣言するに至った。
徹底抗戦に向かう欧州団結の中で特に大きな役割を果たしたのはイタリアのベニート・ムッソリーニ首相だった。
これは予想外のことであった。
ムッソリーニ首相は反3E政策を掲げる右派で、欧州では浮いた存在だったからである。
しかし、ドイツが国土の半数とベルリンを失うという大敗を喫した今となっては、ドイツから欧州経済帝国の主導権を奪う最大の好機であった。
彼は現代のローマ帝国である欧州経済帝国において、ローマこそがその中心であるべきだと考えていたのである。
ベルリンにあった欧州帝国議会を、ローマへ疎開させたのはムッソリーニ首相の手腕があればこそであった。
思惑については英仏も同じだった。
大英帝国もフランス植民地帝国も過去となり、欧州経済帝国から離れて生き延びたところで、巨大化したアメリカ合衆国や日本連邦、ロシア帝国に翻弄されるだけだった。
ヨーロッパ各国が世界の覇権を争った時代は既に終わっており、ヨーロッパは一つの家として寄り添って生きなければならない時代となっていた。
ある意味、衰退したからこそヨーロッパは一つになったと言える。
また、先の大戦ではロシア帝国がさっさと単独講和したせいで戦争に負けたと考えており、裏切り者のロシアと手を組むなどできるわけもなかった。
ムッソリーニ首相は徹底抗戦を決定した1939年12月20日のウィーン会議を経て、欧州経済帝国戦争指導会議の議長に就任し、ドイツやオーストリア、イギリス、フランスを抑えてヨーロッパ戦線の指導的な地位に就くことになる。
想定外の戦争継続に直面したロシア帝国の動きは鈍かった。
戦線は700km近く前進しており、息切れ状態になっていた。
ポーランドはドイツ帝国の東方植民地として開拓され、アウトバーンなどの交通インフラが整備されており、ガソリンや軽油が現地調達できるため迅速な進撃が可能だった。
しかし、武器弾薬はそうもいかず、兵員の消耗は激しかった。
また、真っ直ぐベルリンを目指して突進したため、南方戦線(オーストリア戦線)やルーマニア戦線は前進できておらず、側面ががら空きとなっていた。
北部戦線に至ってはフィンランド軍はスウェーデンやノルウェーの支援を受けて強固なマンネルハイム線を築いており、雪の中で戦闘は完全に膠着状態に陥っていた。
三方向に敵を抱えたロシア帝国軍は、冬の訪れに伴ってロシアの大地が雪で埋もれたことから身動きが取れなくなっており、雪の中で戦力の再編成と再配置を行って1940年の春を待つことになる。




