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時計じかけのオールレンジ



時計じかけのオールレンジ


 19世紀のアジアにおける最大の戦争、それは極東戦争である。

 極東戦争は、東アジアの主要国である日清と英仏露が争った大規模戦争であり、第0次世界大戦ともいうべき大規模戦争だった。

 アヘン戦争から半世紀ぶりのリターンマッチはアジアを火の海に叩き込むことになる。

 日本の開戦動機は、専ら国家安全保障上の要求であった。

 即ち、イギリスが日本の絶対国防圏に侵入したことに対する自衛だったと説明できる。

 しかし、それだけでは開戦に至る経緯は全く不明なままであるため詳述する。

 1843年にアヘン戦争が日本の敗北で終わるとイギリスの極東進出が本格化した。

 イギリスが目指したのは巨大市場と目された中華世界であった。

 武力恫喝で不平等な英清通商条約を結ぶと香港など5箇所を開港地として、イギリスは清との直接通商に乗り出した。

 それまで対清貿易は日本の東印領を中継した間接貿易に限られており、日本が実質的に清とそれ以外の貿易を独占的に管理していた。

 日本の貿易管理はアヘン戦争の原因の一つでもあり、イギリスは日本を排除した直接取引を望んでいたのである。

 英清の直接貿易が始まると開港地の香港を中心にイギリスの商圏は揚子江一体に広がった。

 清からは茶や生糸、陶磁器が輸出され、イギリスからは武器や工業設備が輸入された。

 列強国との衝突をさけるために清は貿易収支には極度に気を使い、国内から銀の流出を防ぐためにバーター貿易を推奨した。

 紅茶150tとエンフィールドライフル150丁や景徳鎮のティーセットと重カノン砲20門と交換するような取引記録が残っている。

 それでも英清貿易はイギリスの赤字超過であった。

 アジアには産業革命国である日本が存在し、イギリスの輸出品は概ね日本製品と重複していたため、距離の壁によって価格競争で太刀打ちできなかった。

 イギリスの輸出は振るわず、紅茶と陶磁器の輸入ばかりが先行することになる。

 そこでイギリスは赤字是正にインド産のアヘンを清に売りつけようとしたが、清は水際の対策を強化してアヘンの侵入を阻止した。

 イギリス人の脳裏に軍事的な選択肢がかすめたが、かすめただけで終わった。

 日本は極短期間の国内混乱期を経て政治的な近代化を成し遂げ、猛烈な勢いで海軍を再建し、南シナ海でイギリス海軍に対抗してきた。

 さらにクリミア戦争(1853年)の勃発で、イギリスはそれどころではなくなった。

 クリミア戦争は引き分けに近い結果で終わった。

 勝てなかったが、負けもしなかった。

 アヘン戦争を凌ぐほどの規模となったクリミア戦争で、イギリスの国庫は破綻寸前まで追い詰められ、対外的に何もできない状態が暫く続くことになる。

 その間に清は日本の援助で侮れない軍事力を保有するようになっており、露清戦争(1860年)に勝利してロシアの南下を阻止するほどになった。

 清との戦争に敗れたロシアはバルカン半島の南下政策を復活させ、露土戦争(1877年)へと向かうことになる。

 イギリスは再びロシアと対決しなければならなくなった。

 イギリスにとっての誤算、或いは巨大な錯誤は日本という近代国家に対する評価が根本的に間違っていたことだろう。

 彼らは日本をオスマン・トルコ帝国程度にしか評価していなかった。

 確かにイギリスに続く産業革命を成し遂げた工業国であったが、政治体制の旧態依然を考えれば、誤解してしまうのも無理なかった。

 また、イギリスの目を曇らせた原因の一つに白人優越思想の広まりもあった。

 彼らから見て東の果てにある未開の蛮地に、近代科学を理解し、産業革命を成し遂げた黄色人種の文明があるなど、到底、認められるものではなかった。

 しかし、19世紀は日本の文明開化の時代である。

 特に医療分野では爆発的な進歩があった。

 革命的な医薬品である抗生物質が発見されたのは1864年の横浜である。

 横浜の開業医であった東方仁は、歓楽街の若い娼婦達が梅毒に冒され落命していくことを嘆き、治療法を究明する中で17世紀半ばに横浜で製造されていた「万代丹」が梅毒に効果があったことを知った。

 古文書を頼りに失われた「万代丹」の製造方法を再発見した東方は、薬効を詳細に分析する過程で製薬材料の青カビによる抗生物質の精製メカニズムを突き止めた。

 「万代丹」とは、関東織田家の秘薬であった。

 守秘のために口伝で製薬方法が伝わり、文献資料が極端に限られたことから、1657年の吹きぬけ大火によって伝承者が死亡すると製薬できなくなった幻の秘薬であった。

 一説によるとその創始は、織田信勝によるものとされる。

 1年戦争を経て関東織田家が滅びるとその家財が散逸し、不完全ながらも「万代丹」の製薬方法のメモが古書として古本市場に流れたと思われる。

 東方が発見したメモは不完全だったが、200年分の医学の進歩によって不足分が補完され、人類は抗生物質の製造方法を二世紀ぶりに再発見したと言えるだろう。

 抗生物質の特許が日本に莫大な利益を齎したことは言うまでもないことである。

 それはさておき、香港を拠点に揚子江流域に商圏を広げたイギリスに対して天津、北鎮から満州に商圏を広げる日本は、南と北で緊張にうちに棲み分けを選んだ。

 日本もまたイギリスと同様にロシアの南下を警戒し、同時に慎重にイギリスとの対決を避けた。

 ここで日英関係が同盟や不可侵条約に進めなかったのは、日本国内の深刻な反英感情によるものだった。

 この時、日本は国内世論の反発を無視してでもイギリスを外交的に抱き込んでしまうべきだったと言われている。

 そうであれば、ビスマルクにしてやられることはなかっただろうからだ。

 バルカン半島問題を討議するためにヨーロッパ列強国を集めたベルリン会議(1884年)を経て、ヨーロッパの枢要な政治家達は一つの結論に達した。


「日本は滅ぼされなければならない」


 近代化の途上にある清は問題ではなく、日本を完全に叩き潰して彼の国のもつ植民地は文明国の手によって分割されるべきだった。

 そうしなければ、既に帝国主義の限界に達したヨーロッパ列強は、お互いに持つ植民地を奪い合って相争うより他なかった。

 特にバルカン問題はロシアとオーストリア、ドイツ、その他の西欧列強国を巻き込んだ巨大な火薬庫と化しており、いつ爆発してもおかしくなかった。

 日本を叩き潰したところで、バルカン問題が解決するわけではないが、日本と戦っている間は問題を先送りにできる。

 会議を主導したビスマルクは、日本を生贄にすることでヨーロッパの平和を購えると考えていた。

 或いはドイツ以外の国が日本との戦いで適度に疲弊してほしかった。

 未だに統一国家としての未完成のドイツには、暫く平和な時間が必要だった。

 バルカン半島の南下を否定されたロシアは極東に不凍港を求めていた。

 ロシアの豊かな物産を輸出するには凍らない海と港が必要だった。

 イギリスは中国市場における最大の商売敵を叩き潰し、日本の植民地を奪うことができれば収支は黒になると踏んだ。

 大英帝国は7つの海を制して、一つなぎの航路ワンピースを得る歴史的な宿命があると信じていた。

 フランスは国際的な孤立状態を解消できれば何でもよかった。彼らにとって必要なのはイギリスとロシアと同盟して戦ったという事実だった。

 英仏露の利害は短期的には一致していたのである。

 3カ国が連合すれば、短期間で日本を叩き潰すことができると考えられた。

 陸のロシアと海のイギリスが手を組むのである。

 できないことは何もないと考えたのはあながち間違いではない。

 戦争の発火点は、台湾王国だった。

 明朝遺臣の鄭成功によって興った台湾王国は1683年に清の圧迫を受けて冊封体制に入ったが、鄭王朝はその後も続いて19世紀末も独立を維持していた。

 台湾王国は国民の半数が日本人を直系の祖とする人々であり、公用語としても日本語が通じる場所であった。

 そのため日本との経済的な関わりが深く、商工業が急速に発展した。

 しかし、日本に近いことが良いことばかりではなかった。

 中国本土では殆ど問題にならなかったアヘン禍をまともに受けてしまったのである。

 1820~30年代にかけて日本で社会問題となったアヘンが日本以上に浸透した台湾王国は、



「阿片魔島」


 として対岸の福建省の住民から忌み嫌われた。

 台湾から多くの密売人が阿片を売りに来た記録が残されており、清朝の官憲によって厳重な取締りが行われた。

 1年戦争を経て日本が阿片の封じ込め政策を開始すると日本国内でダブついた阿片がさらに台湾へ流れ込み、台湾王国の宮廷でさえ阿片に汚染される事態となった。

 さすがにこれはまずいと感じた日本の援助によって、阿片制圧作戦が進められたが宮廷が阿片で汚染されていては実効性のある対策とはならなかった。

 当時の台湾は、麻薬に汚染されつくした社会や国家がどうなるのか、モデルケースとされるほどの惨状を示すことになる。

 国家機能の衰退から台湾では通貨の価値が暴落して代わりに阿片が通貨として流通、人夫の給料が阿片で支払われるほどになった。

 金本位制ならぬ、麻薬本位制である。

 なまじ独立国であり、日系の友好国でもあったことから、日本政府は武力を投入した強行対応をとることができなかった。

 清朝も状況は同じだった。

 日清が手をこまねく間に、イギリスは賄賂を積み上げて台湾南部の万年州にイギリス租界と海軍基地の設置を認めさせた。

 呂宋海峡の北端に位置する台湾は、日本の海上通商路のチョークポイントの一つである。

 ここにイギリスの海軍基地ができるなど、悪夢でしかない。

 国防の危機に直面した日本が介入し、日本の借款によって租界が買い戻されたのが1879年のことだった。

 万年州租界問題は、イギリスが第一次ボーア戦争(1880年)に突入して、その対応に忙殺されたため、一時的に棚上げとなった。

 イギリス政府は買い戻しは無効として、1885年4月11日に東洋艦隊を台南に派遣して、租界の再設置を台湾王国に要求した。

 日本は台湾救援のために艦隊を派遣し、台湾沖で日英艦隊がにらみ合いを開始した。

 さらに期を同じくしてロシア帝国が、満州国境に大軍を動員し、外交ルートを通じて、艦隊撤収を要求してきた。

 フランスもまた同様にスマトラのアチェから艦隊を出撃させた。

 英仏露の三カ国は共同声明を発表し、万年州租界の買い戻しは無効として、租界の設置と日本艦隊の撤収を要求してきた。

 所謂、三国干渉である。

 これは100%混じりっけなしの軍事恫喝であった。

 ここに至って、英仏露の秘密同盟に気がついた日本は艦隊を撤収させた。

 日本の戦争準備は整っておらず、英仏露を相手にこのまま開戦しても勝ち目がないと判断されたからである。

 台湾を見捨てる決断を下した大日本帝国首相は薩摩人の大久保利通といった。

 同時期に大久保と交代で首相を務めた徳川慶喜に並ぶ政治的な冷血漢として知られる大久保は、艦隊撤収と同時に盟友の西郷隆盛陸軍元帥に戦争準備を指示した。

 大阪にあった首相官邸には連日、デモ隊が押し寄せて警官隊と衝突して死傷者がでる混乱に見舞われた。

 中之島公園焼き討ち事件である。

 しかし、大久保は断固として戦争回避に動いた。

 大久保は清朝の事実上のトップである李鴻章に腹心の伊藤博文を派遣して日清同盟を結んで背後の守りを固めた。

 陸でロシアの南下を抑えられるのは清陸軍おいて他になく、日本陸海軍の全力を以てイギリス・フランスを短期間に撃破するしか勝機はなかった。

 さらに大久保はアメリカ合衆国に小栗忠順を派遣して満鉄経営参与を条件に講和の仲介を依頼している。

 南北戦争で躓いて中国進出に出遅れていた合衆国は、この申し出を快諾した。

 この間に台湾王国では、イギリス軍の進駐に抵抗した台湾王国軍が玉砕。

 王都台南はイギリス軍に占領され、250年の歴史を誇る壮麗な熱蘭遮城も焼け落ちた。

 当代の台湾国王鄭自成は燃え落ちる王宮の霊廟で自害した。

 脱出しようと思えば、脱出できたはずの鄭自成が死を選んだのは、台湾を阿片で汚し、イギリスの侵略を招き入れてしまったことへの自責の念であった。

 鄭自成自身は決して無能な王ではなかったが、積弊を極める政治機構によって身動きが取れなくなっていた。

 唯一の救いは、日本艦隊撤収時に王位継承者の鄭慶国を留学生として日本へ事実上、亡命させることに成功していたことだった。

 日清の支援で台湾王国が復興することを信じて、鄭自成は歴代鄭王の霊廟に火を放って、業火に入滅したのである。

 鄭自成の壮絶な死には、日本中から同情が集まり、反英世論が沸騰した。

 だが、大久保は情に動かされることなく、戦争準備が整うのを待った。

 あまりにも超然とした大久保の態度は右派を激昂させ、瀬田騒擾事件にて大久保は凶刃に倒れることになる。

 しかし、政府の戦争回避方針は維持された。

 臥薪嘗胆をスローガンに、日本国民は軍拡のための大増税に耐え忍んだ。

 挑発が空振りに終わった英仏露三カ国は日本の軍事力を侮り、アジアへの侵略を拡大させていった。

 イギリスはボルネオ王国の内紛に介入し、軍事力で保護国として事実上の植民地とした。

 フランスは日本が動かないと見て、再びベトナムを圧迫し、軍事恫喝でハノイに租界の設置を認めさせている。

 ロシアは外満州への圧迫を強め、国境侵犯を繰り返して清朝を挑発した。

 日清は領土の外郭を蚕食されながらも、挑発に耐えて戦争準備が整うのを待った。

 猛烈な勢いで装甲艦を建造し、師団を増設する日本の軍拡に危機感を覚えたイギリスは日本の軍拡が完成する前に、決定的な優位を得るべく琉球王国を挑発した。

 近代的な軍事力が皆無に等しい琉球王国に対してイギリスは軍港として中城湾の使用を認めるように迫り、武力行使をちらつかせた。

 琉球諸島は日本の南方航路を遮断する上で最高の立地条件を備えており、準日本国とも言うべき領土であった。

 これ以上の戦争回避は不可能と判断した伊藤博文首相は開戦を決意し、最後の時間稼ぎのためにロンドンで日英交渉を開始した。

 伊藤首相が待ち望んでいたのは、シベリアが凍りつく冬であった。

 1894年12月1日、シベリアのロシア軍が冬営に入ったことを確認した日本陸海軍はイギリス軍に先制攻撃を敢行した。

 中城湾に停泊中だったイギリス海軍の装甲巡洋艦ネルソン、シャノンは自沈に追い込まれ、台北に陸軍3個師団が上陸した。

 直ちにイギリスは日本に宣戦を布告、ついでロシアとフランスも日本に宣戦を布告したが、即座に動ける戦力はなかった。

 シベリアのロシア軍は既に冬営に入っており、フランスは艦隊をアチェに戻していた。

 清は日本との同盟を履行して英仏露に宣戦布告し、ここにアジアとヨーロッパの頂上決戦の幕が開けた。

 イギリス海軍はシンガポールから東洋艦隊を北上させ、台南湾を封鎖する日本艦隊と交戦し、台湾海峡海戦が生起した。

 この戦いにおいて、日本海軍は初めて連合艦隊編成を採用した。

 連合艦隊とは戦列艦隊と警備艦隊を合同したものである。

 250年に及ぶ日本海軍の歴史において、その大半の期間は警備艦隊しかなかった。

 これは幕府海軍の建軍が海外貿易に従事する商船を海賊等から保護するために行われたことを基礎としており、日本の海軍は国家対国家の戦争に備える軍備ではなかった。

 幕府海軍が建軍された17世紀初頭のアジアは、明の海禁政策によって国家対国家の海上戦闘が起きる余地がなかったことが大きい。

 故に日本海軍は海上警察組織であった期間が長く、警備艦隊こそが海軍の王道であった。

 絶えず国家間戦争の尖兵を務めてきたヨーロッパ各国の海軍とは、生まれ育ちが違うのである。

 しかし、ナポレオン戦争を経て19世紀に入るとヨーロッパ列強のアジア進出により、日本でも対外戦争を意識した戦列艦が多数建造されることになる。

 戦列艦をまとめた戦列艦隊が編成されると警備艦隊と戦列艦隊が併存する時代となった。

 警備艦隊と戦列艦隊の船は基本的に同じものだった。ただし、警備艦隊は同じ船体を使用しながらも装甲や砲火力は低かった。

 平時の水上警察活動にそのようなものは必要ないためである。

 警備艦隊は戦列艦隊の老朽艦を集めた艦隊と誤解する人間が多いが、警備艦隊も戦列艦隊も新鋭艦を受領している。

 老朽艦で編成されているのは、中古艦艇の輸出先である清の北洋艦隊である。

 また、古来から日本海軍は大型航洋艦を巡察艦と称しており、戦列艦隊の巡察艦は対外戦争を意識して戦列の名を冠することが一般的となった。

 帝国の浮沈を賭けた一大戦争に際して、海上警察たる警備艦隊の戦線投入もやむなしと考えて編成されたのが、連合艦隊であった。

 初代連合艦隊旗艦となったのは装甲戦列艦富士で満載排水量14,000tにも達する世界最大の巨艦である。

 連合艦隊司令長官には土佐人の坂本龍馬海軍大将が就任した。

 台湾海峡海戦は、日英合計で46隻もの近代的な装甲艦が参加した大規模海戦であり、世界各国海軍の注目の的になった。

 しかし、この戦いは世界第1位と第2位の海軍国らしからぬ混乱した戦いとなった。

 この時期、世界の海軍関係者は、


「装甲艦は砲撃では撃沈できない」


 と考えていた。

 砲弾を弾き返す装甲を備えた軍艦は砲撃では沈められないという考えは、アメリカ南北戦争のハンプトン・ローズ海戦が念頭にある。

 装甲艦モニターとヴァージニアの戦いは、お互いの装甲を砲撃で破ることができず、4時間に渡る砲撃戦は結局、引き分けに終わった。

 モニターとヴァージニアはお互いの乗員の顔が見える距離まで接近して撃ち合ったが、決着はつかなかった。なお、2艦の乗員は大量の砲弾が命中した衝撃音で聴覚を著しく破壊されており、戦後に難聴に苦しんだ。

 船が無事でも中の人間は衝撃で転倒するなど、無傷では済まなかったのである。

 それはさておき、砲撃で装甲艦を沈められないならどうするべきか?

 海軍関係者が注目したのは衝角戦術であった。

 衝角、或いは体当たりは古来から、海戦における基本戦術の一つである。体当たりで相手の船体を破壊し、乗り移って白兵戦を仕掛けるのである。

 しかし、衝角戦術は大砲の発展によって廃れていた。

 それが俄に復活したのは、砲撃では沈まない船を沈めるためには装甲がない喫水線下を破るしか方法がないと考えられたからである。

 そのため、台湾海峡海戦では日英両艦隊は衝角戦術を基本とし、お互いが相手の船舷を狙って突撃を繰り返した。

 結果として、海戦は1,000m以下まで接近したドッグファイトとなった。

 つまり、大混戦であった。

 さらに軽視していた小口径の艦載速射砲が、接近戦で猛威を発揮し、お互いの船が次々に行動不能になっていった。

 船が沈まなくても多数被弾することで、乗員を死傷させ、火災や砲弾誘爆で無力化することは十分に可能だったのである。

 海戦は阿鼻叫喚の地獄絵図となったが、日英艦隊は見敵必殺の精神を以て戦闘を継続し、殆ど共倒れに近い形となった。

 行動不能になり、停船中に火災で失われた日英の装甲艦は22隻に及ぶ。

 ちなみに衝角攻撃に成功した船は1隻もなく、沈没艦の大半は火災によるものだった。

 

「装甲艦は艦砲でも撃沈可能」


 というのが台湾海峡海戦の結論であった。

 艦砲の価値が復活すると同時に衝角戦術に代わる存在として水雷兵器の活躍が見られたのがこの海戦だった。

 日本海軍の水無月型水雷艇「如月」が、魚型水雷によって戦艦ヴィクトリアを討ち取るという大金星を挙げた。

 この武勲を敬して、如月が建造された舞鶴市内の鉄道駅の一つが如月駅と改名された。

 対するイギリス海軍も機械水雷を敷設して日本海軍の装甲戦列艦「八島」を撃沈しているので水雷兵器の運用では、日英は互角であったと言えるだろう。

 以後、世界各国の海軍は衝角を廃して魚型水雷(魚雷)と機械水雷(機雷)の開発・生産に鎬を削ることになる。

 戦術的には引き分けに終わった台湾海峡海戦であったが、清の北洋艦隊が戦場に到着して台南の海上封鎖を継続したことから、日清同盟軍の戦略的な勝利であった。

 台湾に上陸した陸軍3個師団は兵力の圧倒的な優位を以て、1ヶ月あまりで台湾を解放し、台南で孤立したイギリス軍を降伏させた。

 台湾の戦いが終わると日本陸海軍は、戦力を呂宋に集結させた。

 狙うはアヘン戦争で奪われたマレー半島である。

 この危機に際して、イギリス海軍は動かせる駒が圧倒的に足りなかった。

 壊滅状態となった東洋艦隊はシンガポールに後退したが、シンガポールの設備では修理不能であり、大破した船は本国まで回航しなければならなかった。

 本国が近い日本はこの点において圧倒的に有利であり、平戸や横須賀、呉、舞鶴、呂宋といった海軍基地を持つ日本海軍は短期間で戦力を回復させることができた。

 突貫工事で修理を終え、戦力を再編成した連合艦隊の護衛のもとで日本陸軍がマレー半島に上陸したのは1894年4月27日だった。

 イギリス東洋艦隊は出戦せず、シンガポール軍港内に立て籠もった。

 東洋艦隊は損傷艦ばかりで、戦闘能力は皆無だった。

 だが、情報操作によってイギリス海軍はあたかも東洋艦隊が健在であると誤認させることに成功した。

 連合艦隊は要塞砲があるシンガポール軍港を海上封鎖するに留めた。

 アチェのフランス艦隊は海上封鎖前に脱出して、イギリス海軍の増援が来航するまで私掠活動に勤しんだ。

 殆どのフランス艦の私掠活動は短期間で潰えたが、防護巡洋艦ラヴォワジェは9ヶ月に渡って日本海軍の追跡を振り切って、大蘭州近海を荒らし回った。

 日本海軍はその威信をかけてラヴォワジェを捜索したが発見できなかった。

 というのも、ラヴォワジェは蘭州近海で悪天候によって沈没しており、当のフランス軍でさえその行方を見失っていたのである。

 日本海軍がラヴォワジェの捜索を正式に打ち切ったのは1985年で、海底油田探査中に海洋調査船が水深1,200mの海底にラヴォワジェを発見したことによる。

 それはさておき、マレー半島に上陸した日本陸軍は、予想どおりにイギリス軍の激しい抵抗に遭遇した。

 嘗て、自分たちがマレー半島でしたことをそっくりそのまま返されたのである。

 熱帯雨林と大小無数の河川が流れるマレー半島は天然の縦深陣地だった。

 ただし、日本軍は早期にインド洋側のペナン島を占領して補給と増援を断ったので、イギリス軍の抵抗は尻すぼみになっていた。

 イギリス軍の使用するリー・メトフォード銃は非常に素早い連射が可能だったが、そうであるがゆえに継続的な補給がなければ火力を維持することができなかった。

 日本陸軍は1890年に正式採用したボルトアクションライフル(クニトモ・ライフルM1890)を投入して、イギリス軍の火力に対抗した。

 マレー半島で激戦が続く中、雪解けの春と共にシベリアのロシア軍が南下を開始。日本は背後を脅かされることになる。

 満州に侵攻したロシア軍は、およそ15万だった。

 この数字はシベリア鉄道のない時代に、河川交通や馬匹輸送でまかなえる最大兵力であった。

 対する日清連合軍の兵力は8万であった。

 清はチベットや雲南でイギリスインド帝国領に接しており、全兵力を対ロシア戦に傾けることはできなかった。

 対ロシア戦線は広大で新疆やモンゴル高原にまで広がっていた。

 ただし、ロシア帝国の目的は不凍港を得ることであり、モンゴル高原や中央アジアでの戦いは副次的なもので、本命は満州だった。

 対ロシア戦の全権を委任された楊威利元帥(元帥昇進は1895年)は局地的な数的優勢を確保するため、満州鉄道と電信を最大限に活用した。

 ヨーロッパでは鉄道や電信を利用した戦争(普仏戦争:1870年、普墺戦争:1866)が一般化して久しく、清軍がそれを用いることは何ら不思議なことではなかった。

 だが、ロシア軍はアジアで鉄道と電信が活用されることがとても不思議なことであり、想定もしていなかったらしく、鉄道機動する清軍に各地で各個撃破された。

 楊元帥の的確な分進合撃と包囲殲滅作戦は奇跡と讃えられた。


「魔術師の楊、奇跡の楊」


 という不動の名声を得た楊元帥であったが、本人にとってはやや不本意な評判だったようである。

 そもそも本人は軍事作戦に奇跡や魔術といった言葉を用いることを嫌っていた。

 軍人が戦争において奇跡に期待することは犯罪に等しいとまで言い切ったほどである。

 露清戦争に続き、再び楊元帥に大敗したロシア帝国は、増援をヨーロッパから送ったが、鉄道のないロシア軍の移動は移動そのものが大事業であり、秋まで増援は届かなかった。

 満州での戦いが安定を見ると日本軍は全力をマレー半島に投入し、上陸から6ヶ月後の10月18日にはシンガポール要塞前面に到着した。

 シンガポール要塞は元々は日本軍の手によって建設されたものだが、イギリス軍の手によって増築、改装が続けられ、鉄壁の要塞と化していた。

 日本陸軍は3次に渡る総攻撃を敢行したが、いずれも撃退された。

 日本海軍は半世紀前に成功した偽装船による奇襲攻撃を画策したが、要塞砲台によって速攻で撃沈された。

 そこまでイギリス軍は馬鹿ではなかった。

 日本軍は戦略を変更し、要塞は包囲にとどめて救援に来るであろうイギリス海軍との決戦に備え、海上封鎖を機雷と清の北洋艦隊に委ねて整備と休養のために艦隊を呂宋に戻した。

 イギリス・ロシア・フランスはそれぞれの本国艦隊から戦力を抽出し、三カ国連合艦隊を編成して、アジアに送り出した。

 三カ国連合艦隊は1895年10月11日にセイロン島のコロンボに入港し、休養と整備を行って同月28日に出港。シンガポールを目指した。

 日本海軍連合艦隊も整備と休養を終えて呂宋から、バンカ島に前進して決戦に備えた。

 この時問題になったのは、マラッカ海峡とスンダ海峡のどちらを三カ国連合艦隊が通過するかということだった。

 数的不利の日本海軍に両海峡を同時に守ることは不可能だった。

 戦力分散は各個撃破の愚論であり、水上警察である警備艦隊まで動員して戦わなければならない日本海軍の選択肢にはない。

 三カ国連合艦隊の装甲艦は44隻であるのに対して、日本連合艦隊の装甲艦は台湾海峡海戦での損耗によって24隻まで減っていた。

 勝機があるとすれば、海峡の最も狭い場所に戦場を設定して、相手の数的優位を減殺するしかなかった。

 敵艦隊を見逃すことも敗北を意味する。

 数的優位にある三カ国連合艦隊がシンガポールに入港して東洋艦隊と合流すれば劣位の日本海軍に勝機はなく、制海権を喪失し、あとはずるずると押しまくられるだけとなる。

 即ち、亡国であった。

 国家存亡の危機を前に艦隊幕僚たちは激論を交わしたが、結論はでなかった。

 最終的に坂本大将の決断により、連合艦隊はマラッカ海峡に向かった。

 赤道直下のマラッカ海峡に八洲に住まう八百万の神々は降臨しなかったが、日本海軍がもつ全ての装甲戦闘艦艇が集結した。

 日本は、一枚のカードに全てを賭けたのである。

 後に決断の根拠を求められた坂本は、


「龍の閃きぜよ」


 と答えた。

 要するに勘だった。

 しかし、その決断に異論を唱えるものは誰もいなかったという。

 坂本は海軍内部でも神がかりで知られており、台湾海峡海戦で旗艦の富士が被弾して司令部幕僚が全滅しても本人は無傷で生き残るなど、超常的な幸運に恵まれた。

 霊感のあるものが坂本を見ると、黒い蛇のようなものが坂本に侍っているのが見えたり、美しい女性と坂本が艦橋で逢引をしているのを見たが、次の瞬間には煙のように消えていたという噂もあり、心霊現象には事欠かない人物であった。

 そして、1895年12月2日午前10時21分。

 戦列第3艦隊の偵察艦瑞穂が水平線に多数の煤煙を発見し、敵艦見ユの警報を発した。

 日本は賭けに勝った。

 マラッカ海峡に突入した3カ国連合艦隊は、日本艦隊との決戦を予期して臨戦態勢にあったが、艦隊速度と指揮系統に問題があり英・仏・露と3分していた。

 先行したのはイギリス艦隊であった。

 連合艦隊は海峡の最も狭隘な部分に蓋をするように砲列を並べ、イギリス艦隊に集中砲火を浴びせた。

 世界の海戦史において、これほど理想的な丁字戦法に成功した例は数少ない。

 日本連合艦隊は台湾海峡海戦の反省から、速射砲を増備していた。装甲のない警備艦隊の巡察艦も、多数の速射砲を後付して火力のみは1線級としていた。

 さらに島影に潜んでいた岡田以蔵少将率いる水雷艇24隻が横合いから突入し、必殺の魚雷を放った。

 マラッカ海峡はイギリス海軍の屠殺場と化した。

 先行するイギリス艦隊が手もなく壊滅するのを見たフランス艦隊は反転して離脱を試みたが、これは最悪の選択であった。

 後ろから前進を続けるロシア艦隊はイギリス艦隊が壊滅していたことを認識しておらず、少しでも早く海戦に参加するべく全速前進をかけていたのである。

 結果、仏露艦隊は多重に衝突事故を起こして大混乱に陥った。

 なお、ロシア艦隊の装甲艦は船首に衝角を装備しており、衝突事故は死を意味している。

 極東戦争における衝角の挙げた唯一の戦果は、皮肉なことに事故による同士討ちだった。

 パニックを起こして逃げ惑う三カ国連合艦隊を追撃した日本連合艦隊は、殆どの艦艇を討ち取る大勝利を挙げた。

 アチェに逃げ込んだ分を除けば、来航した装甲艦44隻のうち40隻を撃沈し、対する連合艦隊は水雷艇3隻を失っただけだった。

 戦力劣勢からのパーフェクトゲームとしてマラッカ海峡海戦は神話となった。

 この大敗に驚いたビスマルクが講和仲介に乗り出したことで、極東戦争は終結に向かうことになる。

 ビスマルクはドイツ以外の列強国の弱体化を望んでいたが、この敗北はヨーロッパ全体の地盤沈下を招くものであり、看過できるものではなかった。

 ベルリン講和会議によって日本はマレー半島とスマトラ北部を取り戻すことになる。

 アヘン戦争の屈辱をようやく日本は晴らしたといえる。

 清は国境の変動はなかったもののロシアから3億両もの賠償金をせしめて、列強国に強要された不平等条約の解消に成功した。

 ロシア皇帝のアレクサンドル3世は賠償金の支払いを認めず、戦争を継続しようとしたがイギリス・フランスが手を引いため孤立し、ビスマルクの説得やドイツからの借款、イギリス・フランスが賠償金の一部を負担することで最終的に講和条約に調印した。

 清は3億両の賠償金を元手に近代化改革を進めて立憲君主国家「大中華帝国」への道を切り開いた。

 極東戦争によって、ヨーロッパ列強国はアジアへの足がかりを失って、帝国主義的な侵略は完全に阻止された。

 敗北したイギリス・フランス・ロシアは疲弊し、イギリスは悪夢の第二次ボーア戦争に引きずりこまれ、フランスでは政変が発生、ロシアでは革命騒ぎとなった。

 ヨーロッパとアジアの共倒れを期待してたアメリカ合衆国にとっては、期待はずれの展開であったが、中立を維持していたことで失うものは何もなかった。

 得るものも何もなかったが。

 この戦いで最も得をしたのはドイツと言われる。

 仲介、調停役を果たしたドイツは他の列強国に対して大きな貸しをつくった。

 特にロシアには戦時国債償却のための借款を持ちかけ、それをテコにドイツ資本によってシベリア鉄道建設やバクー油田開発を果した。

 他の列強国が戦争で疲弊する中、ドイツがヨーロッパ外交の中心に浮上していった。





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