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本能寺は燃えているか?

 


 本能寺は燃えているか?



 織田信勝は、天下統一を成し遂げた織田信長の弟と知られ、戦国時代及び大阪時代を代表する大名の一人である。

 兄、信長の童名は吉法師として広く知られているが、信勝の童名は不詳であり、生年も定かではない。

 信勝は織田信秀の三男または四男として生まれた。母は信長と同じ信秀の正室(継室)土田御前で、生年は天文5年(1536年)であるともいう。

 幼少期から優れた才覚を発揮し、齢5才にして漢籍を読み、和歌を諳んじ、算学を操ったとされ、神童としてもてはやされた。

 それに対して兄、信長の評判はひどく悪かった。もっぱら「うつけ(馬鹿)」と呼ばれており、織田の家督を継ぐのは、弟の信勝であることは衆目一致するところであった。

 時は、戦国である。

 応仁の乱から数えても、日本国は既に100年に及ぶ内戦状態だった。

 下剋上は日常茶飯事、肉親同士でさえ信じられず、骨肉の争いを日本全国で繰り返していた時代だった。

 力こそが正義であり、力こそが絶対の価値基準だった。

 そんな時代において、兄より優れた弟がいたら、家督を簒奪するのは当然の道理である。

 むしろ家臣がそれを推奨した。

 権力者以上に、その下に傅く家臣団は生存に貪欲であった。

 家臣が権力者のために平気で命を投げ出すのは、権力者に恩を売り、家の存続を図るためであり、権力者が家の存続の益にならぬと判断すれば、平気で切り捨てる。

 それが戦国大名の家臣の作法だった。

 己の都合で主君を変えるのは、むしろ当然の行為であり、真の武士は5、6回主君を変えるものだとさえされていた。

 そんな時代に、信長が父親の葬式に抹香をぶちまけたというのは、もはや自棄に近い奇行であった。

 当然のことながら、織田家中は大荒れに荒れた。

 信長を廃して、信勝が家督を継ぐべきという声が尾張の朝野に広がったのである。

 ただし、その声が声以上の何かになるということはなかった。

 何しろ当の信勝が信長を兄以上の存在として心酔していたのである。

 おそらく現代であれば、織田信長ファンクラブ会員番号No1(終身名誉会長)あたりになっていただろうか。

 信勝は、兄信長に対しては下僕のごとく振舞った。

 兄信長が津島や清須で乱暴狼藉、奇行に走ればその後始末をして回るのはもっぱら信勝の役割であった。

 いじましいまでに兄を立てるその姿に多くの人々が同情を寄せたが、もっぱら本人は兄からのいじめや無理難題を喜んでいたことが資料研究によって判明している。

 兄信長は、うつけであり、婆娑羅の傾奇者であったが、弟信勝も別のベクトルで奇人変人の類であったと言えるかもしれない。

 ともかく、信勝は信長を兄として慕っていた。或いは、それ以上の感情を向けていたのは確かである。

 それがどれほどのものかといえば、兄信長の排除と家督継承の謀議を図った柴田勝家を信長に密告し、誅殺しようとするほどであった。

 柴田勝家は、信勝の家老職にあり、長年に渡って信勝に仕えた股肱の臣であった。

 信長排除についても、織田家と信勝を思ってのことだった。

 だが、それが逆に信勝の逆鱗に触れた。

 信勝は勝家を半殺しにして信長に引き渡し、謀反を企てた他の家臣たちも例外なく処分した。

 最終的に、勝家はその武才を惜しまれ赦されたが、信勝の家老職を解かれ、長く不遇の時代を送ることになる。

 忠誠を示した信勝は、信長から厚い信頼を向けられ、一門衆の筆頭として兄信長の覇業を補佐することになった。

 信長にとって最初の飛躍となる桶狭間の戦い(1560年6月12日)においても、信勝は信長の本隊と共に出撃し、今川義元の本陣を強襲している。

 信勝は、地道な諜報活動により今川義元の本陣が桶狭間にあることを掴み、信長の勝利に多大な貢献を成した。

 合戦後に作成された軍忠状においても、勲功第一と記述が残されている。

 その後の美濃攻め、北伊勢侵攻においても信勝は活躍し、信長から伊勢・長島の支配を任された。

 長島は一向宗の力が強く、独立独歩の自治領であったが、信勝は「四公六民」のような減税策を以て懐柔に成功している。

 信勝は武将というよりも、行政官、或いは経済テクノクラートとして才能を発揮した。

 特に殖産興業政策において大きな成功を収めている。

 伊勢・長島から日本全国に広まった特産品といえば椎茸が著名であるが、このきっかけを作ったのは織田信勝である。

 信勝は、おがくずを使用した椎茸の菌床栽培を日本初、或いは人類史上初めて成功させ、効率的な栽培法を確立した。

 伝承によれば、養老山地で鷹狩を行っていた信勝は、切り倒された椎の切り株に椎茸が自生していることに気が付き、さらに窪みに溜まったおが屑からも椎茸が生えていることに注目したとされる。

 椎茸が生えたおが屑を持ち帰り、大工がゴミとして捨てていたおが屑と練り合わせたところ、椎茸が大量に、安定して栽培できることが判明したのである。

 それまで椎茸は食材としては重要であるものの栽培法が確立されておらず、自生したものを採集するしかなかった。

 干し椎茸は香味がよく、食味に優れ、保存も容易であり、精進料理において出汁を取るためには無くてはならないものである。道元が南宋に渡った際に現地の僧から干し椎茸を持っていないかと問われた逸話があるほどだ。

 商品として価値のみならず、贈呈品としても有用なものであり、戦国時代には山国の大名家が領地で採取した椎茸を進物として朝廷に献上し、政治工作に使用した。

 北伊勢で生産された椎茸は干し椎茸に加工され、日本全国のみならず、堺や博多を経由して明にも輸出され、莫大な財貨を織田家に齎した。

 また、当時の仏教的価値観から農民が忌避していた牧畜にも、信勝は力を注いだ。

 今日において、「肉の芸術品」として世界的なブランド商品となった伊勢・松阪牛の源流を作ったのも信勝である。

 牛肉の調理法を確立したのも信勝で、たまり醤油と黒砂糖を使用する「すきやき」を日本で初めて作ったとされる。

 信勝は兄信長に「すきやき」を振舞ったが、食に関しては保守的な信長からは不評で、そのことを日記に書き残しているので、これは確定的な歴史的事実と思われる。

 信勝は牛以外にも山羊や羊、豚の飼育を奨励した。

 羊毛を利用した紡績も行っており、木曽川の水力を利用した水力紡績機や自動織機が現れるのも信勝による伊勢・長島支配の後のことである。

 戦国時代の日本における衣類の一般は麻であり、ようやく木綿が普及し始めたところであったから、手触りがよく耐寒性の高い伊勢の毛織物がまさに革命であった。

 

「汲めども汲めども尽きることなき織田の御金蔵」


 とは、まさに信勝のことであり、その財力は日明貿易を主催した全盛期の足利義満に比肩するほどであった。

 そうした財政的な裏付けがなければ、織田軍は10年にも及ぶ石山本願寺との果てしない死闘や、足利義昭による信長包囲網を戦い抜くことはできなかっただろう。

 近畿地方の各地で厳しい連戦を強いられた織田軍であったが、兵力において劣ることはただの一度もなく、装備に関しても不足することは全くなかった。

 それは当時の産業先進地である畿内を支配していたことも大きいが、財力において他の追随を許さなかったことも忘れてはならないだろう。

 なお、信勝の支配地である長島は一向宗の力が強かったが、信勝が善政を敷いていたので、石山本願寺により一揆扇動はことごとく失敗に終わっている。

 逆に本願寺から派遣された坊官を捕縛して織田軍に引き渡すほどであった。

 信長による天下布武は、1575年6月の長篠の戦いにおいて決定的となった。

 この戦いに信勝も参陣しており、大量の鉄砲隊を投入して、武田軍を迎え撃っている。

 織田軍の鉄砲装備率は他家に比べて群を抜いて高かったが、信勝軍は7割に達しており、特に鉄砲火力に偏った編成となっていた。

 これは信勝の領地で一般化していた硝石丘法による硝石自給に依るところが大きく、火薬についてはほぼ自給自足を達成していた。

 さらに大砲(大筒)も使用しており、長篠の戦いにおいても山県昌景率いる武田軍左翼軍を粉砕する原動力となっている。

 軍神と恐れられた上杉謙信も1578年3月13日急死し、上杉家は後継者争いの内乱に突入したことから日本国内に単独で織田家に対抗できる勢力はいなくなった。

 信長は安土に壮麗な巨城を築き、臣下にも自身を上様(天下人)と呼ぶように指示した。

 1580年8月、ついに石山本願寺も勅命講和により石山を退去。

 これにより織田家による畿内制覇が完成することになる。

 翌年には、京都で豪華絢爛な馬揃え(軍事パレード)を挙行し、織田の天下は誰の目にも明らかとなった。

 信長は天下一統を掲げて、各方面に大名並の所領を与えた家臣を派遣し、国家レベルの制圧戦を開始した。

 北陸方面は柴田勝家が、甲州・信濃は滝川一益、山陽方面は羽柴秀吉、山陰は明智光秀、四国は丹羽長秀がそれぞれ担当した。

 畿内を固めるのは一門衆筆頭の織田信勝だった。

 畿内を固めるということは、信長の最側近であることを意味しており、信長から信勝への信頼がいかに厚いものだったのか現している。

 1582年5月、信勝は信長と共に毛利攻めを行っていた羽柴軍を救援に向かった。

 この時、なぜか信勝は不必要なまでに大量の護衛を信長の周囲に配したため、逗留先の本能寺では人が溢れ、寺から苦情が出てたことから信長に叱責されてる。

 信勝の側近が書き残した日記には、


「念には念を入れる」


 などという意味不明な主君の独り言が残されているが、信勝が何を恐れていたのかは不明である。

 信長以上の経済的な合理主義者だった信勝の行動としては不可解である。

 ともかく、信長・信勝軍の備中高松到着は、1582年6月3日のことだった。

 6万の軍勢を率いて高松に到着した救援軍であったが、既に羽柴秀吉による備中高松水攻めは最終段階に入っており、城の陥落は時間の問題だった。

 秀吉の狙いはゴマすり(信長に華をもたせる)ことと6万の大軍の西進を背景とした和睦交渉であり、救援軍の到着と同時に毛利との和睦が成立した。

 信長が行ったのは、秀吉がお膳立てした和睦内容の確認と追認。さらに高松城城主、清水宗治の切腹を見届けることだけだった。

 同年同月には、信長三男の織田信孝を総大将(実質的な総指揮官は丹羽長秀)が四国へ侵攻、圧倒的な大兵力で長宗我部元親の抵抗を粉砕した。

 最終的に、長宗我部家は土佐一国を安堵され、織田家に臣従を誓った。

 同年10月には、安土城への正親町天皇の行幸が実現し、正親町天皇から正式に関白就任を打診された。

 信長の関白就任は、それ以前から朝廷と織田家との間で交渉があった。

 朝廷は信長に、征夷大将軍・太政大臣・関白(三職推任)の何れかに任官することを求めた。

 このうち、征夷大将軍を信長が早期に辞退したことはわかっている。

 最終的に関白就任打診を決定したのは朝廷側だった。

 これにより、信長は名実ともに天皇の代理人として日本国を統べる支配者となった。

 なお、武家の棟梁である征夷大将軍を信長が辞退した理由は定かではないが、自身が擁立した足利義昭がいまだ存命であったことが大きいとされる。

 一般的に室町幕府を滅ぼしたのは信長とされるが、信長が行ったのは義昭の追放のみであり、殺害には至っていない。多くの幕臣が義昭と共に京都から落ち延びたが、これを追討して幕府組織を壊滅させたわけでもない。

 義昭が病没するまで将軍職にあり、特にこれを返上することを求めていない。

 毛利征伐後に行き場をなくした義昭が食うに困らないように知行地1万石を用意するなど、義昭の死まで信長は足利将軍家に配慮している。

 将軍殺しの汚名を嫌ったとも、自身が擁立した義昭に最後まで義理立てたとも、考えられている。

 また、信長自身が坂東平氏の棟梁(上総介)を自称しており、源平交代思想から新たな平氏政権として征夷大将軍はふさわしくないという説も提唱されている。

 太政大臣が候補から漏れた理由としては、先例として平清盛の任官とその後の平家の滅亡から、縁起が良くないとする説が有力である。

 関白就任同時に、信長は天下に号令を発した。

 所謂、惣無事令である。

 この命令は、全国に大名に朝廷(関白である信長)への臣従を誓わせ、全ての戦闘を私戦として規定し、私戦の禁止と朝廷による裁定を仰ぐべしとするものだった。

 そして、これに違反するものを朝敵として厳しく罰するとした。

 惣無事令は信長が出した最初の全国的な法令であり、以後、織田家による全国支配の基本原理・基本方針として踏襲されることになる。

 戦国の覇王が発した天下の大号令としては異色としか言いようがない。

 しかし、後継者のための地固めとして、信長に残された時間を考えると大きな意味もある方針転換であると言える。

 なお、1583年1月の惣無事令は、九州を念頭においたものであり、東国には適用されなかった。

 関東を支配する北条家はかねてより織田家と誼を通じており、信長の関白就任にも祝辞の使者を送って臣従を誓っている。

 それよりも先にある奥州は、信長の視界にはなかった。

 また、関東一円を支配する北条家と同時に九州で戦うのは軍事的に困難であり、戦力集中の観点からも、東国は後回しにされた。

 1583年11月。惣無事令違反を名目に、信長は九州征伐を開始し、翌年2月までに島津軍を壊滅させ、降伏させた。

 九州征伐は、博多に上陸した信長の嫡男信忠を総大将として、毛利・羽柴連合軍6万の戦力と、四国から豊後、府内に上陸した丹羽長秀・長宗我部・織田信勝連合軍6万の合計12万の戦力で行われた。

 島津軍は雄々しく戦ったが、最後は圧倒的な物量に押しつぶされて壊滅し、薩摩1国を安堵され織田に臣従することになった。

 九州を平定した信長は、1584年4月に関白を辞職し、太閤となった

 太政大臣にも就任したがこれも名誉職であり3日ほどで辞職、返上している。代わりに子の織田信忠を征夷大将軍に推挙し、朝廷にこれを認めさせた。

 関白を継いだのは羽柴秀吉で、信長は羽柴家を公家化(豊臣姓下賜)して朝廷の抑えとした。

 再び無官となった信長は、石山本願寺跡地に、安土を超える巨城の築城を開始した。

 これが大阪城である。

 天下人の住む城として、戦闘能力のみならず、贅と雅の限りをつくした古今無双の城の完成には5年の歳月を要した。

 大阪城の完成は、1589年6月3日のことだった。

 織田信忠が安土から大阪城に移り住み、幕府を開いたことから以後を大阪時代と呼び表す。

 または、1588年6月7日に安土城で病没した信長の死を以て、戦国時代の終わりとし、以後を大阪時代とする歴史解釈もある。

 享年55歳。

 当時としては平均的な寿命であり、晩年は体調を崩しがちだった。

 若き日から、戦場から戦場へと渡り歩き、東西奔走してきた戦国の覇王としては長命だったとさえいえるかもしれない。

 最期の日々は、夏の草花を見ることを好み、その雷鳴のような人生に比して静かなものだったとされる。

 既に織田家の家督継承は済んでいたことから大きな混乱は起きなかった。補佐役として叔父の信勝が睨みを効かせており、織田家中は盤石であった。

 だが、信長という重しが外れたことの意味は小さなものではなく、戦国最後の大乱が吹き荒れることになった。

 震源地は上野国の沼田で、北条家は織田への臣従を誓う条件として、沼田の支配を認められていた。

 沼田領は交通の要衝であり、過去に上杉家、北条家、武田家がその支配権を巡って激突した因縁の地であった。

 沼田の支配を認められた北条であったが、半分は織田家家臣の滝川一益の領地として残された。

 沼田は甲州征伐後に一時期、報奨として滝川一益の領地となっていた。

 その後、臣従の交換条件として北条に引き渡されたという経緯がある。

 織田家としては滝川から沼田の全部を取り上げるのは憚られたため、半分を限度として領地を召し上げ、詫びとして珠光小茄子を贈っている。

 北条家としては、取引が半分反故にされた形であり、不満の残る決着ではあったが、中国、四国、九州を平定した織田の武力の前には同意するしかなかった。

 信長の死後、1年も経たず北条の不満は爆発し、沼田滝川領にあった城を北条軍が攻撃、これを占領する事件がおきた。

 所謂、名胡桃城事件である。

 北条家の認識としては、取引の完全な履行を求めただけのことであり、些細な現状変更に過ぎなかった。

 戦国時代の常識として、不満・不平は武力を以て解決するのは当然のことであり、北条家の現状認識は至って楽観的であった。

 北条家は三河、遠江、駿河の三国を支配する徳川家康と婚姻同盟を結んでおり、外交で補いがつくと軽く考えていた節がある。

 が、織田家は北条の軍事行動を織田の天下に対する挑戦と解釈した。

 信長の発した惣無事令は、大名の私戦を禁止しており、不満・不平があれば幕府の裁定を仰ぐことになっていた。

 名胡桃城を攻めた北条は惣無事令に違反しており、これを成敗するのは征夷大将軍の役目だと捉えたのである。

 戦国時代の続きで対応する北条家と治世の入り口にたった織田家の認識の不一致は埋めがたいものがあった。

 また、信長の死が北条氏直の強気を呼び込んだことも否定できないだろう。

 1590年3月、小田原征伐が始まる。

 16万の大軍によって小田原城は完全に包囲され、水上には織田水軍が展開し、如何なる兵糧の運び入れも不可能となった。

 なお、この戦いにおいて和製ガレオン船が初めて実戦で用いられた。

 ガレオン船を建造したのは織田信勝で、嫡男信澄が旗艦安土丸の船上において指揮を取り、小田原城に対する艦砲射撃を行った。

 大筒を使用した砲撃は陸上でも行われており、日本初の大口径臼砲による砲撃で小田原城の防御設備は次々と破壊されていった。

 織田軍は総攻撃を急がず、大筒陣地を漸次、前進させて北条軍の反撃を火力で粉砕しつつ小田原城の守りを突き崩し、橋頭堡を築いていった。

 最終的に徳川軍を先鋒にした総攻撃によって1590年3月28日、小田原城は落城。

 三代に渡って関東を支配した北条家はここに潰えることになる。

 後の資料研究によって、この戦いにおいて大量の大筒が使用されたことから、その大音響と破壊効果によって精神を病むものが続出し、大問題となっていたことが判明した。

 今日的な戦争神経症の始まりであり、鉄砲火器の火力が人間の精神の限界を超える最初の事例といえる。

 さらに信忠は北条家に兵糧を売却するなどした奥州の諸大名の仕置に取り掛かった。

 この奥州仕置により、奥州の大名家は大半が没落、改易処分となり、北条家と合わせて広大な領地が空国となった。

 これを埋めるために大規模な国替えが行われることになり、北条の消えた関東には信勝が下向することになる。

 武蔵国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の関八州に広がる広大な領土(250万石)を治められるのは、信勝以外に他ないと考えられた。

 また、三河、遠江、駿河に加えて軍功により伊豆を与えられた徳川家を東から監視する意味もあった。

 徳川家康に天下への野心があったかどうかは定かではないが、東西を織田領に挟まれた徳川にできることはもう何もなかった。

 なお、関東に下向した信勝だったが、在地は3年に満たず、領地の経営は嫡男信澄に任せて大阪に呼び戻された。

 二代目将軍信忠を補佐し、幕府の政治機構を整備するには、信勝の経験と政治手腕はなくてはならないものだったからである。

 大阪幕府の政治機構は、もっぱら信忠と信勝の手によって整備された。

 政治意思決定機関として五大老による合議制が採用されている。

 五大老とは、信長の天下布武を支えた柴田・丹羽・滝川・明智・羽柴の五家を指し、その下に政策の実行機関として奉行衆が置かれた。

 合議制は、将軍の権力を制限するものであり、五大老によって将軍が傀儡となる危険性があったため、親族による将軍輔弼機関として連枝処をおいた。

 連枝処には目付、大名目付、不忍処などの監査・情報機関が集められ、幕府の政治機構の全てに口出しができる権限がある反面、将軍を通してしか政治意思決定に関与できない仕組みになっており、五大老との均衡が保たれるように制度設計された。

 全国統治のための法令も整備され、武家諸法度、諸士法度、禁中法度、公家諸法度、宗門法度など、大阪時代の基本的な法体系が完成した。

 天才と評される父信長に対して、秀才とされる信忠であったが、二代目としては十分すぎるほどの能力と資質を備えており、20年に及ぶ在職期間中に小田原征伐を除けば、兵乱を起こすことなく平和な時代を作り出すことに成功した。

 天才によって創業された大阪幕府を見事に守成し、次代に引き継いだ信忠が没したのは1611年のことである。

 享年55歳、奇しくも父と同じ歳のことだった。

 なお、叔父の信勝は未だに存命であり、信長・信忠親子二代に渡ってその死を看取ったことになる。

 時代は、三代将軍織田秀信に移ったが、信勝は織田一族の長老として遇され、大阪城二の丸にて若い秀信を補佐した。

 信勝が公的な場から完全に引退したのは、1616年7月のことである。

 前月に徳川家康が駿府にて死去している。

 信勝は最後まで家康を天下を狙う野心家として警戒し、その死を見届けるまで現役で有り続けたと解釈することが通説となっている。

 徳川家は家康の三男徳川秀忠が継いだが、織田家の警戒は続き、次代の家光・忠長の時代に領土が分割相続され、忠長が早世して継嗣がいなかったため駿府・伊豆は改易となった。

 その後も徳川家は代を重ねるごとに領土を減らし続け、三河一国まで後退して幕末を迎えることになる。

 1617年4月7日、信勝は生前葬儀ともいえる大規模な茶会を北野天満宮で催した。

 所謂、北野大茶会である。

 織田家が所蔵する数々の名物が披露され、楢柴・初花・新田肩衝(天下三肩衝)や九十九髪茄子、曜変天目茶碗、白天目茶碗を一目見ようと数千人の野次馬が押し寄せたとされる。

 同月、信勝は海路にて大阪を発ち、関東織田家の首府である横浜に上陸した。

 横浜は、当初は何もない半農半漁の寒村だったが、三浦半島により外洋の荒波が遮られ、後背に山地があって風から停泊船を守るのに適し、港を開くには好適地だった。

 開府から二十余年、横浜は関東織田家の顔として繁栄と発展を続けていた。

 横浜や横須賀には造船所が軒を連ね、大量の和製ガレオン船が横浜港から日本全国のみならず世界各国へと向けて旅立っていった。

 防御に適した小田原や鎌倉を首府とする意見を退け、将来性以外に何もない横浜に首府をおいたのは信勝だったが、苦心の末に横浜を育て上げたのは子の信澄であった。

 その信澄も既に隠居していており、当主は信勝嫡孫の昌信の時代となっていた。

 親子の再会は十数年ぶりのことだった。

 信勝親子は殊の外、再会を喜び、夜更けまで酒を酌み交わしたとされる。

 信勝は隠居所として富士山の見える大磯に邸宅を構え、その後1620年1月12日にこの世を去った。

 生年は不明であるが、享年84歳とされている。





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