2 小野匠人は出来高契約を交わしている
試合前、俺は先輩からメールを受け取った。
『頭から行くぞ』
これは則ち、計画実行の合図。死神召喚のための、魔法陣。
運が良いのか悪いのか、俺には死神を喚び出すような特殊な精神力は備わっていない。だが、運の悪いことに、俺自身が合法的に死神に化けることが出来るのだ。
本来なら、立ち向かっていくべきなのだろう。相手が好選手であればあるほど、それを乗り越えた時の喜びもまた格別なものであり、その状況で達成した出来高契約にこそ、始めて価値が出てくるというもの。
それが解っていてもなお、本柳照文は煙たい存在だったのだ。どうしても打ち取れる気がしないのである。 こんな相手は元沖縄シュバルツの剣持和俊以来だ。とはいえ、この二人は六年間も同じリーグでプレイしていたのだが。
練習を終えたマーベラスが守備に散っていく。1回表ノワールは三者凡退で攻撃終了。今度はノワールが1回裏の守備に向かう。
いよいよ仕事の時間だ。
どうせなら初回で決めたい。こういう汚れ仕事はとっとと片付けるに限る。
『ピッチャー、小野』
三塁側から大声援、一塁側から大ブーイングが巻き起こった。一塁側やライト側のスタンドから物が飛んで来ないのがせめてもの救いだ。俺のノワール移籍はそれ程後味の悪いものだったのだ。
俺としては、普通のFA移籍だ。それは、マーベラスにとってもノワールにとっても、全く同じことだろう。球団に7年在籍することにすることによって発生したフリーエージェント権(FA権)を普通に行使し、そして、ノワールが普通にそれに答えただけ。どこからどう見ても、ただのありふれたFA移籍なのである。
だが、とあるスポーツ紙が、これを普通ではないものに仕立て上げてしまったのだ。
正直、参ってしまった。誰が情報をリークしたのか、マーベラスの経営難や給料未払い騒ぎが突然紙面のトップに躍り、そして俺は【その経営方針に嫌気がさして球団と決別するためにFA権を行使したのだ。それは長年世話になってきた球団に対する裏切りに値する】とされてしまったのである。どうしてスポーツ新聞というのは、こうもいい加減な事ばかり書いてくれるのだろうか。
FA権行使によって自由契約選手(どの球団にも所属していない選手)扱いとなった俺に対し、古巣であるマーベラスが獲得の意志を示さなかったことが、疑惑を更に加速させてしまった。結果として、新聞に書き立てられた通りの評価を世間から下され、マーベラスファンから裏切り者のそしりを受ける羽目になってしまったのである。
悔しいことに、この評判の悪さが祟ってノワールから半ばお荷物扱いされてしまった俺は、
「世間からの信用を取り戻したいなら、結果を出すしかない」
との一言のもとに、最低保証年棒240万円に1アウト取るごとに+200万円、自責点(自分が出したランナーを帰されて、点を取られるごとに加算される。他人のマウンドを引き継いだとき、前のピッチャーが出したランナーを帰された失点、自分以外のエラーで出したランナーを帰された失点は加算されない)1ごとに−1千万円という無理難題に近い契約を取り交わすことになってしまったのだ。
人間である以上、誰にだって体調が優れないことや、どうしてもモチベーションが上がって来ない日というのが、年に数回有るだろう。それを考えると、こんな出来高契約はとても結べるものではない。
勿論こんな条件を飲むつもりは無かった。他の球団が獲得の意志を示してくれさえすれば、ほぼ無条件でそれに乗るつもりでいたのだ。だが、ノワールからしかオファーが来なかった。だから、こうなってしまったのである。
グダグダとスポーツ新聞を呪いながら、10球の投球練習を終える。
『1番、セカンド、爪蕗元廉。背番号0』
のアナウンスと共に、爪蕗二塁手が打席に入ってくる。そして、これから始まるのだ。死神召喚の儀式が。