13 稲葉晴信はスライダーを見失う
宇都宮ノワールの本拠地、宇都宮ベースボールパークにボール半分のマジックショーが炸裂する。かつて【ボール半分の魔術師】と呼ばれた男の絶好調の投球に、俺達はマジックショーのアシスタントと化し、いたずらに三振の山を築くのみ。ボールにバットを掠めたことすら、三番打者黒金がようやっとの思いで記録したキャッチャーへのファールチップ一つだけというていたらくだ。
おそらくは八回辺りに俺にぶつけて退場するのであろうが、さすがにこうも危険球退場を頻発させている匠人がマウンドにいるとなると、ノワールとしてももうリリーフの準備をしないということも無いだろう。今日のゲーム、場合によってはノーヒットノーラン負けの可能性も出てきてしまった。
『バッティングフォース、サードベースマン、ハルノブー、イナーバァ!』
時刻は七時二十三分。おそらくは今日の俺の最終打席となるだろう八回表のコールを受ける。
無意識のうちに手足が震え始める。本能的にこの先に待ち受けているであろう己の運命を身体が察知しているのだろうか、俺自身は少しも怯えていないというのに意に反して手足の震えは止まらない。
バッターボックスに入り、バットを構える。今日のゲームで本人最速となる152キロを記録したばかりの匠人が投げた初球は、真ん中やや外寄りの位置に飛んできた。このコースならおそらくはシュートかシンカーか、外側に逃げていく変化球なことは確かだろう。もし仮に向かってきたとしても、俺にぶつかる可能性は100%無い。
ボールについていけている訳ではないが、シュートに狙いを絞る。ついていけていようがいまいが、とにかくとっとと出塁するなり凡退するなりしなければぶつけられてしまうのだ。
《見えた!》
予めシュートに絞っていたからなのだろうか、ボールが気持ち程度沈みながら外側に逃げて行くのをしっかりと視野に捉えることが出来た。ここまで見えたのなら後は、振り出しのタイミングさえ誤らなければミート出来ない俺ではない。
曲がる変化球はギリギリまで引き付けてから振り出さなければならない。そうしないとたいていボテボテの内野ゴロとなってしまう。いわゆる【引っ掛けた】とか【当てただけ】というやつである。実況アナがこの表現を使う当たりが飛んだときは、九割方ボールを最後まで見ていなかったことが原因だ。
だが、本能的なところで焦っていたのだろうか、それが解っていてもなお、早めに手を出してしまった。その結果、当てただけというより、寧ろ【当てるのがやっと】というような当たりとなり、打球は三塁側のベンチを急襲した。
ファールボール。
たかだか当て損ねのファール一つで一塁側のスタンドからはどよめきが、三塁側のスタンドからは大歓声が巻き起こる。
勝負続行。
二球目は内側にやたらと速い球が来た。頭の中が真っ白になり、自然とバットを後方に投げ捨て頭を抱えて後ろにのけ反る。だが、球審のジャッジは「ットライ、ツー!」というものだった。駄目だ。どうしてもこの時間帯の内側の速球には過剰に反応してしまう。ストライクゾーンに来た球にすらこの有様だ。
三球目。ガクガクと笑う膝に強引に力を加えながら、ようやっとの思いでバットを回収してスタンスをとる。
今度は外側に速球が来た。ここに来て初回に小関が報告してくれた【やたら速え球来たからストレートのタイミングで振ったら、フォークかスプリットかなんかだった】という言葉を思い出す。
いったいどちらなのだろうか。
フォークは落ちてから掬い上げるより、落ち始め或いは落ちる前を叩くのが基本だ。取り敢えずストレート打ちの基本である球離れから【一、二、三】のタイミングから一歩遅らせた【一、二の、三】のタイミングで振ってみよう。今だいたい一辺りだから……、
《二の、三!》
フルスイング。
どうやらストレートだったらしく、タイミングを遅らせた分だけ振り遅れてしまった。やたらと大きな打球がレフト側のスタンドへと飛び、そのまま場外へと消える。
ファールボール。
振り遅れの打球に、三塁側やレフト側からのみならず、ノワールファンが陣取っている筈の一塁側やライト側のスタンドからも拍手喝采が巻き起こった。
この後十五球粘った後でそのボールはやって来た。
勝負に夢中になって、忘れてしまっていた球。
今までの試合で最も注意し、警戒していた球。
そう、飛んだりのけ反ったりしなければ避け切れない内各球、いわゆるブラッシュボールである。内側に速い球が来たのは解っていた。だがこの時はボールに対する恐怖感は全く感じず、逆にパーフェクトだけは阻止しなければという義務感のようなものが勝っていたため、この時間帯の内各球はほぼ間違いなくぶつかるという不文律が俺の頭の中からすっぽりと抜け落ちてしまっていたのだ。
先程のストレートとほぼ同じスピードで入ってきた球を、ストレートであると断定してスイングしようと右足を踏み出した瞬間、そのボールは視界から消えてしまう。
初回に爪蕗がもたらした【あいつのシュートとスライダーは消える】という報告を思い出す。シュートならばもっと外側に投げてくる筈。実際初球はもっと真ん中寄りだった。ということは……。
《スライダーか!》
気付いた時はもう既にボールがスライドして視界から完全に消え失せた後である。どう考えてもこの間違いなく俺にぶつかるだろうスライダーを避ける術は残されてはいなかった。
苦し紛れにバットを投げ捨て、後ろにのけ反る。だが、ボールは予想通りに惰性で前に出てきた俺の右手を直撃、指の骨をへし折ってしまった。
監督が臨時代走を告げ俺は近くの救急病院に搬送されることになる。