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静謐甘美抒情心中

作者: あやあき

「ねぇ、結城君」

楠木が小さな口で言葉を紡ぐ。

「私と心中しましょう?」



  ***



「――き、結城!」

 微睡みの中で己の名を呼ぶ声がしたと思ったら、頭部に強い衝撃を受けた。

「いったぁ」

 顔を上げれば、担任が丸めた教科書を持って立っていた。

「おはよう、結城」

「お、おはようございます……」

 勿論今は朝ではない。昼休みを挟んだ午後の授業中だ。教室内からクスクスと小さな笑い声が起こる。結城孝太郎は亀のように首をすくめた。

 こういった事は日常茶飯事である。孝太郎は中学生の時には優秀な生徒だった。きちんと勉強すれば学年一位だって取れた。しかし高校に入ってしまうとそういった事がなくなった。どれだけ勉強したって上位は取れない。どころか下から数えた方が早い。

 そんな一年を過ごした孝太郎はすっかり勉強する意欲を失っていた。勉強が出来ない上に明るくなくて冴えない奴。それが結城孝太郎へのクラスの評価だった。

 寝ていたため授業を聞いているはずがないのに、孝太郎に質問が投げかけられる。それに孝太郎は「わかりません」と返す。すると「ちゃんと聞けよー」と言われた。

 わかってる。

 そう思いながらもまたうつらうつらと睡魔に襲われるのだった。



 業後、孝太郎は図書室のカウンターで本を読んでいた。

 図書委員の当番も兼ねているのだ。同じ当番のはずの女の子はいつも通りサボって来ていない。

 この時間は皆部活に行っているため、利用者は皆無に近い。欠伸をかみ殺して、ちらと並べられた机を見遣る。

 皆無に近い利用者。今の時間に、一人だけ図書室で本を読んでいた。

 楠木華。華と書いてハルと読む。孝太郎と同じクラスの女子生徒であり、学年主席でもある。

 今日もいるな、楠木。

 今年の受付業務が始まってから、いつも楠木はそこで本を読んでいる。ある時は古典文学を、ある時は科学の専門書を、ある時は経済書を、ある時はケータイ小説を。その時の気紛れなのか多種多様な小説を読んでいる。読み切れなかった本は借りていって、翌週に返して、また違う本を読む。近代の文学ばかり読んでいる孝太郎は感服するばかりだった。

 手許の本を読みつつ、チラチラと楠木を盗み見る。

 雪のように白い腹と漆のように黒い髪、そして胡桃のように大きな眼。その容姿に見惚れる男は多い。

 僕もその一人。というか僕の初恋は楠木だ。

 自覚すると恥ずかしいばかりだが、孝太郎は既にこの恋を諦めている。

というのも、楠木は高嶺の花なのだ。何人もの男が玉砕したと噂で聞いている。テレビに映る女優のように手の届かない存在。クラスメイトなのだから話しかけるのは可能だけれども、楠木が自分の存在を知っているのかという事がそもそも問題に思われる。

毎週火曜日の業後に同じ空間を共にしているなど何の加点にもなりやしない。

 溜息を吐いて読書に集中する。細かく尖ったフォントが踊っていた。



 人の気配に顔を上げると、楠木が立っていた。

「貸し出し?」

「そう、お願い」

 楠木がカウンターに置いたのは太宰治の本と江戸川乱歩の本だった。孝太郎は反射的に楠木の顔を見る。楠木は涼しげな表情を浮かべている。

 ……偶然だよな。

 高鳴る鼓動を抑える。

 そう、偶然だ。この二冊が、僕が今月読んだ本というのは、偶然なんだ。

 バーコードをリーダーに通す。ピッと電子音が鳴る。パソコンの画面に書名や作家名が表示された。

「返却日は二週間後五月二十二日です。それまでに返却をお願いします」

「ありがとう」

 楠木はカウンターに置かれた本を手に取ると、トートバッグの中に仕舞った。いつもならばここで帰る。が、楠木は動かない。

 不思議に思っていると、楠木が小さな口を動かした。

「結城君、そろそろ上がる?」

「え?」

 今、僕の名前を呼んだか?

「あれ? まだ終わりの時間じゃなかった?」

 楠木も、孝太郎の間の抜けた返事に困惑しているようだった。

「あ、ああ、終わり、だけど」

「一緒に帰らない?」

「……楠木さんと?」

 すると楠木はクスッと笑った。

「楠木さん、だなんて」

「お、おかしい?」

「いや、結城君らしいなって思って」

 僕らしい……?

 なんだか親密な関係になったかのようで、孝太郎はどぎまぎしてしまう。

その反応にも楠木は笑う。嘲笑だったとしても、楠木に笑われるのであれば腹は立たない。

「それで? 一緒に帰ってくれる?」

「いいけど……」

「けど?」

「僕なんかと一緒でいいの?」

 すると楠木は破顔した。

「私が一緒に帰りたいの。……ずっと、結城君と話してみたかった。そう、本の話とかね」

 よどみない口調で、ほんのり頬を赤くして、楠木はそう言った。孝太郎は彼女よりもずっと赤い顔で、僕も、と小声で伝えた。

「結城君の家って、門限ある?」

 電車で揺られる中、楠木に尋ねられた。

「ない、よ」

「よかった。少し寄り道しない?」

「いいけど……何所へ?」

「**駅のカフェ。ケーキが美味しいんだって」

「……それは」

 友達と行けばいいんじゃない?

 その言葉は飲み込んだ。不躾な質問だと思ったのだ。

 しかし、「友達と行けばいいと思うよね」と、楠木には読まれていた。

「あの、別に、悪口じゃなくて」

 孝太郎が弁明するのに、楠木は「いいの」と制す。

「普通は友達と行くよ。わざわざ男の子を誘っては行かない」

「…………」

「男の子を誘うの、結城君が最初だからね」

「……どうして?」

「どうして? 女の子からそれを言わせるの?」

「あ、や、その」

 孝太郎が口ごもっていると、楠木が結城の肩に頭を乗せてきた。孝太郎は慌てて周りを見回すが、まばらな乗客は皆携帯電話を見ている。

「信じられなくっても聞いてね」

「……何?」

「私ね、ずっと結城君の事が好きだった」

 到着駅を案内するアナウンスが響く。電車は徐行していき、止まった。扉が開くが、誰も下車しない。そのまま扉は閉まり、また電車は動き出した。

 その間、孝太郎はだらだらと発汗していた。肩に頭を置いている楠木にそれがバレていないか心配だった。

 楠木が、僕の事を好きだといった。めちゃくちゃ嬉しい。天にも昇る心地とはこの事か。今にも返事をしてしまいたい。僕も好きだと。でも、でも、これは悪戯かもしれない。楠木さんを使ったドッキリ。僕が了承の返事をすれば、何処からともなくクラスメイトが出てきて、嘲笑するのかもしれない。

 返答出来ていないでいると、肩が軽くなった。楠木が頭を上げたのだ。

 孝太郎は反射的に楠木を見る。車窓から見える夕焼けよりも赤い顔。

 その顔に、孝太郎はただ綺麗だと感じた。

「結城君……貴方は?」

「僕は……」

 孝太郎は楠木の目をジッと見つめた。

 見つめるのが礼儀だと思った。ここで目を外してしまうのは失礼だと思った。

「……僕も、楠木さんの事が、好きです」

 絞り出すように、返事をした。喉はカラカラで、最後の語は消えかかっていたけれど。

 それでも、孝太郎の返事に楠木は喜色を満面に広げた。

「嬉しい!」

 そう言うと、楠木はまた孝太郎の肩に頭を預けた。

 孝太郎はまた周りを見回し、何所からも知り合いが出て来ないのを確認すると、「僕も、嬉しい」と小声で呟いた。



 その日はカフェで解散した。

 帰ってから、先程交換した楠木のアドレス宛にメッセージを送信しようとした。しかし、いい文面が思い浮かばない。

 それから一時間ほど唸っていると、待ちそびれたように楠木の方からメッセージが届いた。

 今日はありがとう。また明日学校でね。またデートしようね。

 そんな文言が可愛らしい絵文字とともに記されていた。「デート」というワードに、楠木の告白が嘘ではなかったのだと孝太郎に自覚させた。

 孝太郎はその返事にも半時間を使い、たどたどしい文面で返信をした。一分も経たないうちに、楠木からスタンプが送られた。

 そして翌日。

楠木は話しかけてこなかった。

 孝太郎は時間が経つごとに顔を蒼くしていく。

 やっぱり嘘だったんだ……ドッキリのネタばらしは昨日じゃない、今日だったんだ。今日、僕は晒し者となる。

 がくがくと震えながら一日を過ごしたが、特に何もなかった。

 孝太郎は疑心暗鬼になりながら帰りの支度をし、帰路へとつこうとした。

 自転車を引いて正門を出た時、誰かに肩を叩かれた。

「ひぁっ!?」

「そんなに驚かないでよ!」

 振り返れば、楠木がいた。

「く、楠木、さん」

「何? 幽霊を見たような顔をして」

「いや、その……」

「もしかして、私が今日話しかけなかったのを気にしてる?」

 孝太郎は小さく頷いた。すると楠木は申し訳なさそうに眉を下げた。

「ごめんなさい。付き合ってる、っていっても、急に馴れ馴れしく話しかけるのはどうかと思って……。でも、帰りは一緒に帰りたいし、たくさん話したい。……我が儘かな?」

「そ、そんな事ない!」

 孝太郎は珍しくはっきりを否定した。

「僕も楠木さんと話したい! それに、確かに教室で話してると、楠木さんに迷惑が掛かるだろうと思ったから……、ほら、僕なんかと付き合ってるって知られたら楠木さんの株は暴落しちゃうし……」

 どんどん孝太郎の声は小さくなっていく。

 しかし楠木に想いは伝わったようで、「ありがとう、結城君」とはにかんだ。

「それと結城君は自分に自信を持って! 結城君がマイナス要素だなんて考えちゃいないんだから!」

 言ってから、楠木は少し考えるような素振りを見せる。そして、今までよりもトーンを低くして、「でも、学校で喋らない方が、秘密、になってドキドキするかな」

「秘密……」

 その三文字は、子供らしくも甘美な響きを持ち合わせていた。

「そうしよう」

 孝太郎の口から言葉が衝いていた。

「秘密にしよう。僕達が付き合っている事は秘密」

「誰にも?」

「うん、誰にも」

 二人は思い思いに頷いた。

 こうして、二人の秘密の交際はスタートした。

 交際は順風満帆だった。

 許されない恋仲にある男女が逢引きをするように、二人はひっそりと愛を深めていった。

 そして事件は付き合って初めての定期テストの返却日に起こった。

 孝太郎の順位は少し落ちていた。今まで勉強に充てていた時間を楠木との時間に費やしたのだから当たり前の結果に思われる。

 問題は楠木華だった。

 どんな時でも学年トップにいた楠木は、どうやら学年順位五十位に転落したらしい。

 孝太郎は、どう声を掛けていいのかわからなかった。確実に僕のせいだろうという自信があった。自信を持つことが少ない孝太郎が、珍しく自信を持ったのだ。

 声を掛けようか否かで迷っているうちに一日は過ぎていった。楠木も話しかけてこなかった。



 三日経った日の事だった。

 楠木からメッセージが届いた。

[今日、一緒に帰ろう]

 今日は火曜日だった。

 図書当番でカウンターにいると、楠木が現れた。外国文学の棚からハードカバーの本を持ってくるとカウンターから最も遠い席に座った。

それが話しかけて欲しくないという意思表示に見え、孝太郎はただ目の前の本に没頭した。

 業務終了間際になって、楠木が動いた。

 読み終わらなかったらしい本をカウンターに持ってくる。孝太郎は受付作業に移る。楠木は何も言わずその作業を見つめている。手続きをした本を渡すと楠木は「ありがと」と小さく言った。そして続けて、「帰りましょ」

 孝太郎は頷いた。

 帰り道。二人は自転車を引いて歩いていた。

 人がまばらな交差点。そこを過ぎたあたりで、うつむきがちで歩いている楠木が口を開いた。

「成績が落ちた」

「……うん」

「親に怒られた。初めてこんな成績取ったから」

「……うん」

「それで、私、話しちゃった」

「話したって」

「結城君との事」

「……仕方ないよ」

 孝太郎は慰めようと言葉を吐いたが、楠木の曇った顔は晴れない。

「秘密だって言ったのに……、私、話しちゃった」

「……仕方ないよ」

「仕方なくないの!」

 楠木が突然足を止めた。孝太郎も立ち止まり楠木を見る。涙を浮かべている彼女に、孝太郎はたじろいだ。

「仕方なく、ないの。私と結城君の事はずっと秘密。死ぬまでずっと、秘密にしておきたかったの」

「……どうして、そこまで」

 孝太郎は思った疑問をすぐに口にしてしまった。しまったと思ったが、楠木は気にも留めないようだった。

「結城君の事が大好きだったから。誰にも結城君の事を意識して欲しくなかった。私だけのものにしたかった」

「……楠木さん」

「気持ち、悪い、かな?」

「そんな事ないっ!」

 孝太郎は腹の底から声を出した。あまりの声の大きさに、楠木が驚いた表情を浮かべたほどだ。

「そんな事、ないんだ」

 普段では考えられないほど、言葉が衝いてくる。

「僕はずっと楠木さんの事が好きだった。だから告白してもらえて凄く嬉しかったし、楠木さんに想ってもらえて僕は今死んだっていいくらいに幸せだ。だからお願いだから……、僕の事を信じて欲しい。それくらいの事で、僕は楠木さんを嫌いになんてならない。なれないんだよ」

 一気に言うと、はぁと吐息が漏れた。早口でまくし立てたため、肩で息をする。

 楠木は泣いていた。

「ありがとう……ありがとう、結城君」

「楠木さん」

「でもね、結城君」

 夕陽が沈みかけて、楠木を赤くしている。彼女は泣き笑いの表情を浮かべていた。

「こうなっちゃうと、このままではいられない」

「……と、いうと」

 孝太郎は瞬時に別れ話を想定した。

「ねぇ、結城君」

楠木が小さな口で言葉を紡ぐ。

「私と心中しましょう?」

「……心中?」

 突拍子な言葉に孝太郎は訊き返してしまう。

「心中って、一緒に死ぬ、心中?」

「そう」

 楠木は孝太郎の手を握った。

「私は結城君の事が好き。だから一緒に、死んで欲しい」

 そう頼み込んできた楠木の顔は、美しかった。

 ……僕が惚れ込んだ顔。

僕の好きな顔。



 この時、どういった選択肢が正解だったのだろう。

少なくとも、僕のこの選択肢は間違っていた。もし神様が現れて望む時に戻してやろうといってきたら、僕はきっとこの瞬間を選ぶ。

楠木からの心中の誘いを断るために。



 孝太郎が目覚めると、白い天井があった。

 母の声がして、顔を動かすと母が泣いていた。

「無事だったのね!」

 そう言うと母は孝太郎に抱き着いた。

 当の孝太郎は何が起きているのかが分からない。

「……ここは?」

「病院よ。貴方、海辺に倒れていたのよ。何で海なんかに……」

「楠木さんは?」

 楠木の事を話題に出すと、母の顔が凍りついた。

「やっぱり、何かあったのね」

「何かって何? もしかして」

 孝太郎は悲鳴のような声を出す。

「楠木さんだけが死んだなんて、言わないよね!?」

 母親は目を伏せた。それが答えだった。

 心中は失敗した。楠木だけが死んで、孝太郎だけが生き残った。

 そう、僕が楠木さんを殺してしまったんだ。

 感傷に浸っていると、警察が訪ねてきた。そこで改めて楠木の死を知らされた。

 警察の質問には洗いざらい答えた。

 楠木と付き合っていた事、孝太郎と付き合った事により楠木の成績が悪くなった事、楠木が秘密をバラしてしまったから心中しようと持ちかけてきた事、海で心中を図った事。

 訊くだけ訊いて、警察は帰っていった。

 それから母親に楠木に会えるか尋ねたが、楠木の両親がそれを許していないと告げられた。

 それを何ら不思議とは思わなかった。

 それはそうだろう。愛娘を誑かして自分だけ生き残ったんだから。

 押し黙っていると、母が孝太郎を一人にして病室を出た。

 一人になった孝太郎は、楠木のために泣いた。

 孝太郎の頭にこびりついているのは、楠木の笑顔だった。



 特に異常が見られなかったため、翌日に孝太郎は退院した。

 しかしすぐに学校に行く気にはなれず、入院していたため追試が免除になっていたのも手伝って一週間休んだ。

 さすがに授業についていけなくなるだろうと母にせっつかれて、孝太郎は一週間ぶりの高校に出向いた。

 そこで浴びせられる、視線、視線、視線。不気味なものを見る視線、好奇心による視線、そして詰るような視線。どれも孝太郎にとって好意的なものではなかった。

 元々友人も少なく、誰も孝太郎に話しかけてこない。ただ、楠木の話は伝わっているようで、孝太郎を遠巻きにしてひそひそと、孝太郎に聞こえるくらいの声で噂話をするのだ。

 孝太郎は授業が始まらない内に保健室に逃げ込んだ。

 喧騒から離れたのに、まだ頭の中で噂話をする声が響く。

 あいつが殺したんだ。あいつが楠木華を殺したんだ。あいつがいなければ。あいつがいなければ。楠木華は死ななかった!

 孝太郎は保健室のベッドの中で子犬のように震えていた。

 結局、その日は早退した。

 家に帰ると平日なのにもかかわらず父がいて、自分の事はお見通しなのだと感じた。

 母も家にいて、そのまま家族会議が開かれた。

 議題は孝太郎をこのまま同じ高校に通わせるかどうか。

 ただ、この議題の答えは既に決まっていた。

 今週中に違う高校に転校する、それまでにこの家から引っ越す。その事実を告げられた。

 孝太郎は何も文句を言わなかった。当たり前の結果だったからだった。



 そうして月日が流れた。

 誰も孝太郎の罪を知らない高校で、孝太郎は高校生活を過ごした。

 誰も孝太郎の事を責めやしない。どころか誰も何も知らないから友達も出来た。

 楠木のいない進級、楠木のいない学校行事、そして、楠木のいない卒業式。

 それなりには楽しかった。けれど、いつもここに楠木がいたらと夢想してしまう。

 誰かの言葉の端、何気ない一場面――いろいろな物事で、ふと楠木を思い出す。楠木の笑顔を、楠木の泣き顔を、楠木を最後に見た時のあの表情を。

 それが一番、孝太郎を苦しめた。

 一緒に死ねなかった。助けられなかった。

 時には眩暈も生じるほどに、後悔がふつふつと湧いて止まらない。

 高校を卒業してからの人生でもそうだった。

 何度かの恋愛を経た。しかし、それはことごとく失敗した。手を繋ぐ時、愛を囁かれる時、口づけをする時――楠木の顔が、声が思い出される。

 加えて、困った事に孝太郎は目の前の女の子よりも幻影の楠木を追ってしまう。幻は消え、ただ苦しみだけが残る。忘れさせてくれないのだ。

 ふとした瞬間に楠木は孝太郎に笑いかける。「大好きだったよ」と。

 気がつけば、孝太郎はあの海に来ていた。

 そう、この海に入っていって二人で死のうとしていた。

 トラウマからか、僕の中に入水をした時の記憶はない。けれど、やるしかない。僕は楠木の許に行くんだ。

「楠木さん、僕は今も貴方が好きです」

 足を踏み出すと、潮風が吹き抜ける。がらんどうの胸には何も沁みない。

 一歩一歩足を進める。楠木に近づくために。

 海に沈む間際、楠木が何か言った気がした。

 ただの潮の音だったかもしれない。



    ◆◆◆



 楠木華は結城孝太郎が思っているよりもずっと前に、彼の事が好きだった。

 単純に一目惚れだ。図書室のカウンターに座って、本を読んでいる横顔に、恋に落ちた。

 どうにかして結城と付き合いたかった。初めて恋した相手に、この身を全て捧げたかった。

 幸いか、結城はパッとしない男子生徒で、華以外の女子生徒からの評判はどちらかといえばマイナスだった。そのため、初めての恋で奥手になっているのも手伝って、なかなか結城に想いを伝える事が出来なかった。

 しかし、転機は唐突に訪れた。

 隣の席の女子生徒の世間話が耳に入ってきた。よくある恋バナ。サッカー部の先輩がカッコイイだとか、クラスメイトの級長が好きだとかという話題の中に、ぽんと結城の話題が持ち上がった。

 耳に神経を集中させていると、どうやら隣のクラスの女子生徒が結城の事が気になっているらしい。

 その時、華の身体に稲妻が落ちた。

 どうして私は結城君の事が好きという女がいる可能性を忘れていたのだろう!

 彼がマイノリティーだと高を括っていたせいである。

華は深く後悔をすると同時に、行動に移す動機を得た。

 でも、結城君と付き合う事が出来たとして、私のものになるの?

 男は浮気をする生き物だと歴史が語っているが、自分の身に降りかかると考えれば冗談じゃないと叫びたくなる。

 結城君には私だけ見て欲しい。

 華の欲望は恋する乙女には当たり前のものだろう。しかし、華のそれは常軌を逸していた。

 他の誰かと浮気をするなんて許さない。それどころか私以外の女に目を向けるのも許せない。……ううん、それだけじゃ足りない。私だけを見てもらわなくちゃ。けど、どうやって?

 まず軟禁を考えたが、平均的体力の女子が一般男子を軟禁させるのは無理がある。

 次には殺人を考えた。結城の好意が華ではない誰かに向かう前に殺してしまう。だが、これは成功したとしても虚無と罪が残るので却下。

 結城君を誰にも靡かせず、かつ自分の手を汚さない方法。

 華の考えはどんどん物騒な方向へと進んでいったが、本人は気に留めなかった。

 上手い考えは見つからず、華は火曜日を迎えた。

 図書室に入ると、初めから決めていた書架に向かう。前に結城が読んでいた本を読もうと決めていたのだ。日本文学の書架から本を取り出すと、席に座って読み始めた。

 太宰治の短編集の三作目を読み始めた時、アイディアが閃いた。

 これだ! これがあった!

 古典的かつ情熱的で、そして何処か哀愁を含んだ――心中。情死とも言う。

 心中はとても魅力的な上に、先に挙げた条件を満たしている。

 結城君と一緒なら死ぬ事なんて怖くもない。

 そう思って小説を読み進めると、舞い上がっていた華の思いつかなかった欠点が見つかった。

 心中の欠点。それは失敗した時のリスクが大きい事である。心中の失敗――つまり死ねなかった場合。最悪なのは、結城だけが死んで華だけが生き残った場合だ。これではただの殺人。華は同級生を殺した罪を一生背負って生きていかなくてはならない。

 ……やめよう。

 そう思ったが、頭のいい華は思いついてしまった。

 待てよ? これが逆ならどう?

 心中が失敗して、結城だけが生き残ったら。

 私だけをずっと見てくれるんじゃ……?

 華は文字を目だけで追い、頭では企てを組み立て始めた。

 その短編を読み終わった時に、計画が丁度出来上がった。

 まず結城君に想いを伝える。そして恋人同士になる。これは時間がかかっても構わない。結城君が頷くまでやる。その後、頃合いを見て心中を持ちかけて、約束させる。心中場所は海がいい。二人で手を繋いで海へ行く。しかし心中は失敗して結城君だけが生き残る。結城君は私を殺した罪を背負って生きていく――。

 華は自分の考えにゾクゾクと身を震わせた。

 私って天才では?

 零れそうな笑みをなんとかして仕舞う。

 心中を持ちかけたのが私だとバレても構わない。周りがどう思おうと関係ない。結城君自身がどう思うかが大事。

 考えながら、華はクスッと笑う。

 まるで、呪いね。



 告白の決行はその日の内と決めた。

 当たって砕けろ!

 そんな心持で挑んだ本番、あっさりと告白は受け入れられた。計画も忘れて、華は無邪気に喜びの声を上げてしまった。

 まさか結城君と両想いだったなんて! 信じられない!

 告白の後、そのままデートに流れ込んだ。

 結城は思っていた以上に優しくて、華の事が好きだった。それに華は天にも昇る心地だった。

 両想いってこんなにも嬉しいんだ……。世のカップルが幸せそうに見えるのも無理ないわ。

 浮かれながらも連絡先はきっちり交換し、お開きとした。

 家に帰るまでも頭がお花畑だった。頭の上を蝶々がひらひらと飛んでいた。

 これで両想いはクリア! 次は心中を申し入れないと。



 どうやったら自然に心中の申し入れが出来るか。

 それがこの計画の問題点だった。

 一週間考え、テスト期間に入った時、これだ! と思いついた。すなわち、ずっと主席だったにもかかわらず急に成績がガタ落ちする。

 こんなに楽で傍から心配されるシチュエーションはない。

 そうして華は一切勉強をせず、学年五十番に転落した。勉強をしなかったにもかかわらずその点数だったのは、華の実力がそれほどのものだったのだといえる。

 華の思惑通り、両親には心配された。生まれてこの方ずっと優等生を続けていた華は、初めて両親に不貞な娘を演じた。怒鳴る父を見ながら、これなら結城は追い込まれるだろうと確信した。

 学校に行けば、誰もが華に視線を投げかけてきた。テストの成績は非公表のはずだが、どうしてか真実が広がっていくのである。

 仲のいい女の子達が慰めの声を掛けてくれたが、自業自得の華は笑って受け流した。

 それよりも、と結城の様子を盗み見た。

 結城は華に声を掛けようとしつつも出来ないらしかった。目が合ってしまえば、見ていませんと言わんばかりに逸らされる。華は少々ショックだった。

 そして遂に、心中を持ちかける日がやってきた。

 さすがに断られるだろうか。重い女だと思われるだろうか。嫌われちゃうんだろうか。

 まず華は、結城に自分の想いを吐露した。ここも既に賭けだった。ここで否定されてはもう心中には挑めない。無理心中を図るしかなかった。

 涙を浮かべ、同情を引こうと演技をした。そんな華に返ってきたのは、純粋な情熱だった。寡黙な結城の熱情的な告白に、演技で浮かべていた涙がぽろぽろと自然に落ちていった。

 ああ、この人を好きでよかった。

 目頭が熱い。胸が熱い。嬉しさで体が熱くなり、震える。気をつけなければ嗚咽が漏れてしまいそうだった。

 華は考えてきていた台詞をすっ飛ばして、結城に言った。

「私と心中しましょう?」

 すると結城は躊躇った様子を見せたが、ジッと華の目を見つめると、こくんと頷いた。

 こうして、心中への地固めが終了した。



 そうして迎えた決行の日。

 波が訪れては去りとする浜辺で、結城は緊張した面持ちでいた。

 当たり前だ。今から心中をするのだから。緊張をするなというのが無理な話だ。

「怖い?」

 華が尋ねると、結城はゆっくりと首を振った。

「……いや、怖くはないんだ。ただ」

「ただ?」

 問い返すと、結城は薄く笑った。

「楠木さんと死ねるなんて、夢みたいだ」

 その瞬間、ずん、と後悔が押し寄せてきた。

 私は今から、結城君を裏切るんだ。その上、人殺しのレッテルを貼り付ける。

 いっそこのまま、二人で本当に心中が出来てしまえば――。

 甘美な誘惑に揺さぶられる。それを追い払うように、華は小さく頭を振った。

 携えていたポーチから薬を取り出すと、華はそれを含む。

「楠木さん、それは――」

 動く結城の口を、華は己の唇で塞いだ。突然の事に驚いたらしい結城はすぐに薬を飲み込んだ。

唇を離すとすぐ、結城は「楠木さん、今のは……?」

「睡眠薬。海に入った時、苦しまずに死ねるから」

「楠木さんの分は?」

「私はもう飲んだから」

 飲んではいない。最初から、自分の分は用意していなかった。

 華は精一杯笑って、結城に手を差し出す。

「さあ、行こう」

 もう戻れないから。

「うん」

 結城が出された手を握った。その手はカッと熱い。

 彼は生きている。そう切に思わされた。

 華と結城は自然に顔を合わせる。華の笑顔に応えるように、結城は弾けるような笑顔を見せて――華に倒れ込んできた。薬が効いたのだ。

「好きだよ、結城君。今もずっと。誰よりも好き。大好きなんだよ……孝太郎君」

 結城の顔にぽたぽたと雫が落ちる。丁度結城の目尻に落ちて、結城も一緒泣いてくれているようだった。

「普通に愛せなくて、ごめんね」

 大きく息を吐いて、結城を波打ち際に横たわらせた。波に打ち上げられた体を装うのだ。

 華は最後に、結城の頬にキスをした。

「さようなら、孝太郎君」

 髪を一梳きして、華は立ち上がった。そして海に向かって歩を進める。

 一歩一歩進むごとに身体が海に浸かっていく。身体がべたつく。口に海水が入るのが厭わしい。

 けれど、これは罰。

 頭のてっぺんまで波がかかる。足が砂に付かなくなって、跳ねるようにして歩く。

 と、不意に足を取られ、不安定な体勢で水中に潜ってしまった。反射的にもがくが、無意味に水を掴むだけだ。

 ああ、私、死ぬんだ。

 気を抜いた瞬間、海水が口の中に入ってきて――




〈終〉

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