泣き虫な私
私の妻は泣き虫だった。
だが、それを知っているのは、私だけだ。
私の妻を一言で言い表すなら「カッコつけ」の一言に尽きる。
妻は外では頼りになる姉御肌な人だった。
皆から慕われ、仕事もできて、気遣いも欠かさない、本当に頼りになる人だった。
しかし、家での妻はまるで違った。
妻はよく泣く人だった。
悲しい時、嬉しい時、苦しい時、楽しい時、辛い時、妻は感情が大きくなるとすぐに泣いてしまう人だった。
気になって、どうしてそんなに泣くのか聞いたこともあったが、その度に、
「あたしがこんなに泣くのは、君が泣かないからだよ」
「あたしは君の分も涙を流してあげてるからいっぱい泣いちゃうの」
「だから泣き虫なのはあたしじゃなくて君だよ」
こんな言い訳ばかり言っていたのをよく覚えている。
「じゃあ君がいなくなったら俺は泣き虫になっちゃうな」
「残念ながらあたしの方が長生きするからその機会は永遠に訪れないねー」
こんなことを2人で言い合ってよく笑いあっていた。
大好きな妻の、この言い訳を初めて聞いたのは、妻がまだ、妻でも彼女でもなく、ただの後輩の女の子だった時のことだ。
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後輩の様子がおかしい。
「それでは、第一高校演劇部、三年生お別れ会を始めます」
「みんな、かんぱーい!」
部長の掛け声とともに、席の近い人たちでグラスを合わせていき、カンっとガラスともプラスチックとも取れない音が鳴る。バイトをしまくっている学生なら、高価そうなグラスの出るお店で集まることもあるかもしれないが、生憎真面目に部活一筋で取り組んできた俺たちにとっての打ち上げの場所といえば、安くて長居ができるのが売りのファミレスと相場が決まっていた。
学生御用達のファミレスなだけあってある程度なら騒いでも問題ないので、皆そこまで声のボリュームを下げずに近場の人と話している。
その中で1人、冴えない面でポーッとしている女がいた。
いつものそいつは学級委員みたいに真面目で、後輩のくせに物怖じしないで先輩の俺にも意見を言えるような気の強い女なのに、今日は上の空でポーッとしている。話しかける奴もいて、その時は笑顔で話しているが話が終わるとすぐにまたポーッとした顔に戻って物思いに耽っているようだった。
だがそれは仕方のないことかもしれない。
彼女も、俺たち先輩の卒業に何か思うことがあるのかもしれない。
なんだかんだと先輩に一番突っかかっていた後輩だが、同時に先輩に相当可愛がられた後輩でもある。
意外と寂しかったりするのかもしれない。
まぁ俺が気にすることでもねぇかな。
そう思いながらも何故か胸がモヤモヤして、そのモヤモヤを晴らすように珍しくどうでもいいことをいつも以上にペラペラ話していた。
「また集まろうぜー」
演劇部という比較的真面目ちゃんの集まる部だったこともあり、10時ごろにはお開きとなって各々帰ることとなった。
俺と様子のおかしい後輩は家が近いこともあり、2人で一緒に帰ることとなった。
街灯が少ない道だが、今日は満月のということもあり思いの外、道は明るく、いつもの帰り道がまるで初めて通る道のように感じられた。
そんな中で後輩は下を向きながらトボトボと歩いていた。
いつもは肩で風を切るように堂々と歩いているのだが今はその面影もない。
何度か一緒に帰ったこともあったがここまで無口な後輩は見たことがなかった。いつもは本気で舌が3枚ぐらいあるんじゃないかと思うくらい話しているというか憎まれ口を叩いてくるので、いつもと違うこの雰囲気に俺の調子も狂ってきて、何か話さないといけないのかと柄でもなく考え始めていた。
「先輩は遠くの大学に行くんでしたよね、一人暮らしするんですよね」
ずっと黙っていた後輩がぽつりと呟いた。
その言い方は、ゆっくりと、知っていることを再確認するように、下げていた顔を上げ、俺の顔を覗き込むように見ながら聞いてきた。
いつもの俺ならここでからかうようなことを言っていたが、後輩の表情を見てそんな気が起きず、たまには本当の気持ちを伝えておこうと思った。
会うのも最後かもしれないと思ったからなのか、それとも後輩の雰囲気がそうさせたのか、いつもよりスムーズに言葉が出てきた。
「あぁ、まぁお前も俺みたいなうるさい先輩がいなくなって清々するんだろうな」
後輩が急いで何か言おうとするが見えたが、俺はそれを遮るように続けた。
「でも、俺は結構寂しいかもな」
「こんな仲のいい後輩と離れ離れになると思うとな」
顔を見ないように月を見上げながら言うと、彼女は立ち止まった。
「なんでこんな時にそんなこと言うんですか」
「どうした」
下を向いて何かを我慢するように、身体や拳がプルプルと震えていた。何か言ったような気がしたが小声すぎてほとんど聞こえなかった。
俺が様子を伺おうとすると、ガバッと顔を上げた。
「本当に清々しますよ」
「いつもサボってばっかで後先考えない先輩が…卒業するなんて…これほど嬉しいことはないです」
「本当に…最高の…気分で…す……」
後輩は泣きながらも、必死に笑顔を作ろうとして、それでも笑顔ができず嗚咽を漏らし、それでもまだ笑おうとしていた。
その姿を見て、俺の胸が締め付けられた。
彼女が泣くところは見たことあったが、こうやって必死に誤魔化そうとする姿は見たくない。
喧嘩しまくった、気心知れた、俺の前で見栄を張るな。
お前が泣き虫なのも、素直じゃないのも、別れが寂しくないようにいつものような憎まれ口を叩こうとしていることも、この別れが少しでも悲しいものにしないようにしてることも、全部わかってるから。
それでも泣きたいなら、俺の前でなら、我慢しないで自分のしたいように好きなだけ泣けよ。
俺の前ではありのままの、憎まれ口叩き合って、始めに突っかかってきたくせに強く言われると半泣きになっているような、嘘偽りのない姿でいてくれ。
俺は彼女をそっと抱き寄せた。
でも、お前が見せたくないもんを俺は見ないよ。
俺は彼女の泣き顔を見ないように月を見上げた。
「あー、月がめちゃくちゃ綺麗だなー、月見るのに夢中で何も聞こえないし、他のもん何も見えねぇなー」
だから泣いたままでいいよ、俺は見てないから。
俺の下手すぎるフォローがツボに入ったのか泣きながらも少し吹き出していた。
それから彼女は、我慢の糸が切れたかのように大声で泣き続け、俺はただ黙って真ん丸な月を眺めていた。
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「先輩は泣き虫です」
彼女が泣き止んで最初に言った言葉は言い訳だった。
「私は泣く予定なかったんですけど、先輩が泣きそうだったんで、先輩の分まで泣いて上げました」
「本当に先輩は泣き虫で困ります」
清々しいまでの意味不明で自分勝手な言い分に思わず笑ってしまった。
「月が綺麗で何も聞こえないんじゃないんですか〜」
こんなこと言って、いつもみたいに俺の揚げ足を取りに来る。
「俺が笑ったのはあまりにも月が綺麗だったからだ」
「やっぱり聞こえてるじゃないですか」
彼女はフッと微笑むと俺の背中に手を回してさらに強く抱きついてきた。今までは彼女を我慢させないことだけを考えて抱き寄せたが、少し落ち着いてくると、彼女がこんな近くにいて、体温すら感じることに心臓が破裂するんじゃないかと思うほどにドキドキしてた。
「さっきの月が綺麗って、あー言う意味で使ったんですか」
正直、まったく考えずに使っていたが、あとで同じような言葉を言うつもりだったし、抱きついている彼女がこんなに嬉しそうな顔をしているのに、違いますとは言えない。
俺は赤い顔を隠すようにそっぽを向きながら頷くと彼女はさらに強く抱きついてきた後に肩を震わせて笑い出した。
「現実世界で『月が綺麗ですね』って告白して来る人がいるなんて、もう少しいい告白の言葉はなかったんですか、そういう言葉は文豪が言うからかっこいいんですよ、もう本当に笑いが止まらないですよー」
少しムッとしたが、彼女がすごくいい笑顔で笑っていることと、俺に強く抱きついていることで溜飲を下げる。
「それで、返事はどうなんだよ」
「今の状況で言わなきゃダメですか」
確かにお互いの気持ちは痛いほど伝わっているだろう。
抱きしめてくる心地よい感覚でどれだけ想ってくれてるかもある程度把握できる。
彼女が言わなきゃダメかという理由もわかる。
「それでも、ちゃんと聞きたい」
「わかりましたよ、じゃあ最高の返事を返して上げますよ」
彼女はイタズラをしようとしている子供のような顔で
ニヤリと笑うと、かの文豪の言葉のパロディで答えた。
「私、笑い死んでもいいわ」
そして彼女は腹を抱えて笑い出した。
最初は黙っていていたが、先ほどと同じくらい涙を流して笑っている彼女を見て、笑いすぎだと、全力のデコピンをプレゼントする。
痛みに大袈裟なリアクションをする彼女を俺はまたしても抱きしめる。
「なるべくたくさん帰って来るから」
「別にどれだけ長く待たされたって待ってますよ」
「だって私は先輩のために笑い死んでもいい人なんですから」
ニヤついているが頬が赤いのを隠しきれていない姿が可愛くて、彼女の頬に手を添えると、そっと唇を重ねた。
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それからは色々なことがあった。
告白のセリフを言いふらされ、からかわれたり、彼女が私を追いかけて同じ大学に入学したり、旅行中に大ゲンカしたり、言葉では言い表せないほど色々なことがあった。
そして今、妻が私の前で横たわっている。
私は妻のシワシワになった手をそっと握る。
温かくて、手を握ると愛嬌のある笑顔を向けてくれる妻は、今では冷たくて、冷たくて、冷たくて。
俺の全部を奪っていいから、眼を開けてくれ。
何で先に行ってしまったんだ。
もっと色んな話をしたかった。
もっともっと色んな所に行きたかった。
もっともっともっと一緒にいたかった。
妻は嘘つきだ。
「自分の方が長生きするから」
「あたしがあなたを看取ってあげるから」
そんなことを言っていたのに、看取っていたのは俺の方だ。
何が「あたしの方が歳下だから長生きするに決まってる」だ。
ちゃんと言ったことは守れよ。
そう思うと恨み言で、頭をおおいつくされそうになる。
それでも、君のおかげで僕の人生は本当に大切なものになった。
私は君が大好きだ。
いつも笑顔の君が、イタズラをしてニヤついている君が、色んなものにチャレンジする君が、素直になれない君が、天真爛漫な君が、愛しくて、愛しくて、愛しくて。
君が涙すら流すことができなくなってしまったことが、もう2度と話しすらできないことが、もう大好きな笑顔が見れないことが、悲しくて、悲しくて、悲しくて、
だから、
「君が私の代わりに泣いてくれないからだぞ」
老人はただ1人で、長い間泣き続けた。