【習作】三人称 文語体 常体
お世辞を言ったら皮肉にしかならないような、そんな築四十年のアパートに彼はいた。丁寧に撫でつけられたオールバックには、少しの乱れもない。神経質、几帳面⋯⋯髪型ひとつとっても、彼の性格を垣間見るには充分だろう。
そんな彼が、接点のなさそうな建物を訪れたのには、理由がある。彼がアパートの一室で立ち止まる。 傾いた扉の奥からは、耳を塞ぎたくなる爆音が聞こえている。
彼は、通りすがった十人中八人が振り返るであろう整った顔を歪ませ、インターホンを押す。しかし来客を告げるチャイムは、その役割をまるで果たしていないようだ。一度、二度、三度。何度ベルを鳴らしても、部屋の主はギターを弾き続けている。
とめどなく滴る汗はシャツに染みをつくり、スーツにまで及ぼうとしていた。現在の気温は四十度。彼は、順調に干からびつつあった。
暑さにやられたのか、ふらついた彼の体躯が沈む。しかし不自然に硬直した身体は倒れない。むしろ力がみなぎっているようだ。そして、それは解放された。
ロケットもかくやという勢いで繰り出された右足が、黒い軌跡を描きながら扉と接触する。果たしてそれは、けたたましい音をまき散らしながら、室内へと吸いこまれていった。
彼はすました顔で、乱れ落ちてきた黒髪をクシで丁寧にすき、撫でつける。隣上下の住人は出払っているのか、それとも慣れているのか、苦情を言う者は現れない。
静かになった部屋の奥で、なにかが動く気配がした。素足なのか、フローリングの床を歩く音は、少しベタついている。
このような異常事態だというのに、臆することなく現れた部屋の主は、不機嫌そうな雰囲気を隠そうともしない。眉間にシワが寄っている理由は、火を見るより明らかだろう。
タンクトップにジーパンというラフな格好の青年は、スーツ姿の男性と比べても背が高い。上から睨みつける青年と、張りついたような笑みを浮かべる男性の視線が、静かに交錯する。
口火を切ったのは、訪問者だった。
「初めまして。沙悟浄さんですね?」
「やぁやぁ、初めましてドア・ケヤブルさん。過激な挨拶ありがとう。俺が沙悟浄だけど、アンタ誰?」
「失礼しました。私はこういう者です」
棒読みで対応する沙悟浄に、ドア・ケヤブルこと彼は一枚の名刺を差し出す。少し湿ったそれには、『職業斡旋所長安支部長・玄奘三蔵』とだけ書かれていた。
「沙悟浄さん。あなたをスカウトしに来ました。どうか私とともに牛魔王を討ち、世界を救って頂きたい」
「⋯⋯アンタだけでも、充分だと思うぜ?」
そう言い、不燃物と化した扉を見やる悟浄の態度は、とりつく島もない。
「私一人では、なにもできません。あなたが必要なのです。かつて奇跡の代行者と評されたミュージシャンの腕と、声が」
「⋯⋯アンタ、それをどこで」
鋭くなった眼光二たじろぐことなく、三蔵は話しを続ける。
「この仕事を完遂すれば、あなたは再び脚光を浴びることができる。過去のスキャンダルも帳消しになるでしょうね」
「ハローワークってのは、登録してないやつの情報も収集してるのかい?」
「これは政府より賜った情報です。私は、ただスカウトしに来ただけですよ」
「個人情報保護法は無視かよ」
「それだけ事態は逼迫しているとお考えください。力無き者は今この瞬間にも、奴隷のような扱いを受けているのです」
蝉たちのコーラスが最高潮を迎え、静寂が訪れる。悟浄は汗でへばりついた紫髪をかきあげ、鼻で笑った。
「だとしても、それは政府の仕事だろ? 俺には関係ないね」
「そうですね。ですが、私はあなたの実力を知っている。あなたが天界でどのような地位にあり、そして追放されるに至ったのかも」
「ハッタリもいい加減に」
「——捲簾大将。このことを週刊誌に暴露したら⋯⋯どうなるんでしょうねぇ?」
三蔵は、本当に楽しそうな笑みを浮かべる。対する悟浄は、百匹ほど苦虫を噛み潰したような顔をしていた。心理的優位性は、三蔵の方に分があったと見ていいだろう。もにょもにょと呟く悟浄は、やがて諦めたように片手で顔を覆う。
「あーー、くそっ。わかったよ。詳しいことは、中で聞いてやる」
「お邪魔します」
「ところで、この惨状⋯⋯費用はそっち持ちだろうな?」
「もちろん。修繕費だけでなく、精神的苦痛に対する賠償もお支払いいたします。代金は政府持ちなので、好きなだけふっかけてください」
「至れり尽くせりだな。ありがたくて涙が出てくるぜ」
小さなちゃぶ台に、注がれたばかりの麦茶が二つ置かれる。三蔵はそれを一息に飲み干すと、事の詳細を語り始めた。
【完】