サキの記憶−3
「死にたくなけりゃ、どきな」
突然、緩やかに眠りにつく意識を切り裂くような威勢のいい声が響いた。それと同時に強い衝撃がサキの背中にぶち当たる。あっと、転げそうになりながらサキは必死で体勢を戻そうとしていた。だが全身には全く力が入らない。
横向きで倒れていく自分の身体とは裏腹に、サキの目線は衝撃を感じた方向を捉えていた。
赤毛の女性が血を吹いて倒れていく。向こうの空間から数人が走ってくる姿を目尻に視野が反れ、天井が見えそうになった。
「おいお前、しっかりしろよ」
倒れこむ寸前で誰かがサキの腕を引っ張った。肩が一瞬外れそうになる。痛みを感じる間もなくサキの身体はドカリと乱暴に車いすに引き戻された。
「悪いが、ちょっとコイツを借りるよ」
現状を理解できないままサキは車椅子ごとその人物に連れさられた。彼もまた日本語を話す外国人のようだと知ったのは、一瞬の間に見た金色の髪と蒼に近い色の眼だ。
微睡みから衝撃を経たサキの思考回路は全く機能していなかった。遥か前方、迫り来る白い扉に視線が貼付けられたように目をそらすことができない。
「お前、スカイダイビングの経験は」
後から車椅子を走りながら押す男の声がした。サキは聞き返すように振り向こうとする。
「いいから、前向いてな」
ドンという、音のない空気が変わった気配。
ふわっと重力がなくなった。
「お前、スカイダイビングの経験は」
「え? い、ぎやああああああああ」
子供の頃、生意気な妹に無理矢理乗せられた大嫌いなジェットコスター。それに乗っている記憶がサキの脳裏に瞬時に蘇った。
右も左も判らないぐるぐるぐるぐる。
「その分だと、経験ナシだな」
瞬きするのも忘れてサキは悲鳴をあげていた。見たくない風景がそこにあるに違いない、それでも液体に歪んだ視野の中にハッキリと色が見えた。
青い。青い。青い。
それは空。
所々に白い雲がある。
そして、サキは空を時折回転しながら落ちていた。
どこまでもどこまでも、やがてゆっくりとした水平を見たような気がした。身体を襲う恐ろしい感覚はすでになく、空を優雅に飛ぶ飛行船にでも乗っているかのような感じがする。魔法にかかったのか、車椅子自体に浮遊能力があるのだろうか。事実、サキの身体は車椅子ごと空をゆっくり降りていた。
「ふん、安全装置なんてつけやがって。面倒な事だよ」
後ろで何かを毒づく男の事など、どうでもよかった。
真下に地面が見える。緑の茂った雄大な森と草原。
どこまでいくのだろう、サキ達の身体は確かに落ちているが、その速度は緩やかで、同時にどこか地平線の向こうに向かって進んでいる。
いつしか夕焼けがサキの後ろに広がっていた。
「さて、この乗り物ともいよいよお別れだ」
サキの身体を後ろから抱きつくように構え、彼はにっこりと微笑んだ。
「スカイダイビングの経験はないんだったな」
彼はもう一度サキに尋ねた。
「ない、ない、ない、ない」
何をしようとしているのかサキには理解できた。
こいつは自分ごとこの空飛ぶ車椅子を飛び降り、自殺でもする気なのだ。