山中
「あらまあ……あなた、本当に頭がつんつるてんなのね? もがれでもしたの」
小鳥がぴいぴい囀るような声だった。
その少女の身の丈は小柄で痩せっぽち。彫が深くて鼻も高い、およそ日系人からはかけはなれた顔立ちだった。先輩からおおせつかったフィールドワークにうんざりしていた綾瀬の目の前、腰に手を当てて平坦な胸をずいと張る少女には、およそ麓の道行く人間には見られぬ特異な特徴があった。
特異と言えば、鬱蒼と針葉樹の茂る山道のド真ん中というこの場において、お高そうなファーコートとワンピースという出で立ちもそうなのだが、綾瀬の関心を何より引いたのはその頭部から伸びる双角だった。ひょろ長い四肢、病的に色素の薄い肌、女児向けの人形の如く大きくまるい双眼から受ける華奢な印象を一目で覆すほどに雄々しく、荒々しく、そして繊細に見えた。
たっぷりした象牙色のくせっ毛から伸びる角は放射状に枝分かれし、頭上の宙を巨大な手のひらで包み込んでいるかのようだった。傾きかけた日光を受け、一対の角が琥珀色に淡く輝く様を見て、綾瀬は太陽に手をかざした時に浮かび上がる血管を連想した。
「驚いた。ずいぶん縫製がまともなものを着てるじゃない!」
かかとの高い編み上げ靴で器用にごつごつの足場を歩み、いとも簡単に綾瀬の前に躍り出た。
「あー、えっと……こんにちは」
「猿にしてはいい服よね……それに、見た感じ清潔そう。いいわ、いい感じよ」
巨大な双角を振り振り、少女は綾瀬を値踏みするように見やった。在籍している学校から電車で三駅程度の距離にある山だ、今回のフィールドワークも半ば放課後の散歩のような感覚で臨んだため、服装は普段から着用している学校指定の長袖ワイシャツとスラックスである。取り立てておかしな装飾品を身に着けているわけでもなければ、便臭を隠すきつい香水を振り撒いてもいない。
「僕の言ってる事、わかります?」
「ん……ああ、わかるわ。ずいぶん訛ってるみたいだけど、語学には自信があるのよ。トライリンガルだもの」
「ああ、よかった……」
綾瀬はほっと胸を撫で下ろした。
「僕は綾瀬。綾瀬慧一、七ヶ谷大学附属高校の一年で……何やってんだろ僕……ああいや、今日はちょっと用事が」
「あら!! 奇遇ね、私もなの。ちょっとばかり面倒な用件があってね」
「用件?」
「宿題よ、学校で課題を出されたの。生理咒式の講義でね、題材を問わずレポートを作成して提出しなきゃあならないの」
「はあ」
「でね、オークとかあの辺は正直くっさくてくさくてたまらないでしょう? よだれがバイキンだらけの火竜サラマンドラなんてもってのほか、かといって飛竜ワイバーンなんかじゃ誰もが一度は浮かべる魔物だし」
「へえ」
「わかるでしょ? ちょこっとだけ見栄張りたいようなツマンナイ子が、親の金で買ってもらったちょこっと良さげなペット相手のツマンナイレポート。数日後にはそんなのがクラスであふれかえる事になるけど、私はそんなのごめんなわけなのよ」
「というと?」
「もーっと見栄張ってオンリーワンになりたいのよ。私は」
こき下ろした有象無象と似たような思考ではあるが、動機として不純であっても学術に向きあう姿勢としては間違っていないのだろう。綾瀬は横やりを入れず相槌に徹した。
「種を問わず下等生物レッサーを捕獲して生態を観察する……だったらばと思って選んだのが、あなたたちよ」
「僕たち?」
「そうよ! 私たち人間とほど近い姿をしていながら、霊枝もなければ魔術の素養もない! あなたたちマレビト以外に相応しいものなんてないわ!」
「霊枝?」
「あー、えーっと……これ。これのことよ」
言って、少女は自身の頭部から伸びる双角を手で撫ぜた。
「私たち普通の人間は霊枝を通して魔術を行使するのに、あなた達にはこれがない。けど、あなたのその身なりを見る限りはマレビトが単なる下等生物だとは思えないの。そうよ、あなた達マレビトは理性が芽生えかけた……啓蒙を必要としている存在だと私は思うのよ!」
ばかでかいムースのごとき角をぶんぶん振り回しながら自分を普通の人間とのたまう少女の言動に、綾瀬は若干の混乱を覚えた。
「今度は魔術ときたか」
「ええ、そう。魔術。中世期の哲人たる錬金術師たちが遺した大いなる科学体系のひとつよ。土くれを金に転じさせるような奇跡は今のところ発見されてはいないけど、思考をダイレクトに目に見える現象として作用させる事のできる画期的な技術」
「君もその魔術を?」
「もちろんじゃない! 私を誰だと思っているの」
誰も何も、まだ綾瀬は少女の名を聞いてもいなかった。その事に気づくと、少女は若干赤面しながら微笑んだ。
「んもう、聞いてくれなくちゃ困るじゃない。わたしは」
「いやあ、ほんとそういうのいいんだよ。ぼくにとって大事なのは君の名前なんかじゃなくてさ、君たちがいつ寝ていつ起きたり、普段何食べたり普段どんな事してたりっていうのが重要なんだ」
「あなたちょっと失礼すぎじゃない?」
「そ、そうかな。これでも十分すぎるほどだと思うんだけど……ごめん、君たちみたいなのと会話のキャッチボールするの慣れてないんだ」
「おだまり、ずいぶん無礼なマレビトだこと! ふんだ、人間サマ相手にいい度胸してるじゃない」
「すいません」
「ヘクセ・ヴェールトロース!」
よほど名乗りに水を差されたのが気に食わなかったようで、双角少女ヘクセはぷりぷりしながら宣言した。
「あなたはね、もうわたしの教材なの。それと同時にね、愛玩動物なのよ」
にんまりと笑い、ヘクセは未だ眼前の少女の意向を汲み取れていない綾瀬の間近へと軽い足取りで歩み寄った。
「あなたは、わたしの下僕ってわけ」
綾瀬の顎のすぐ下でヘクセが小気味よくぱちりと指を弾くと、一瞬刺すような痛みがびりりと首筋の肌に奔った。うひゃあと飛び退き、痕にでもなっていまいかと喉の辺りを指で確かめると、そこには何やら首輪らしきものがいつの間にか巻かれていた。黒い金属製のチョーカーか、しかし表面にはダマスカス鋼を思わせる幾重にも綴られた彫刻が施されている。
「うわッ、なんだこれ」
「それがわたしの所有物である事を示す証。すてきな趣向でしょう?」
指の腹で表面を引き続き探ったところ、継ぎ目らしいものも感じられない。その感覚ときたら、冷たくもなく熱くもない。実際に手で支えてみると確かな重みを感じられるのに、首回りには負担らしい負担がかからない。実に魔術足りえる奇っ怪なしろものだった。
「もし、ここでぼくが帰るって言ったらどうなるの」
「帰さないわよ」
「たとえばだよ」
「死ぬわ。それはね、大戦時にトゥルクワーズ軍が捕虜に対しての尋問に用いた器具、そのノウハウを流用して作られてるの。もしわたしに逆らえば、材質のヴォーパル鋼が刃に変容してあなたの首を刈る。外すには……やっぱり首を落とすほかないわね」
「うそだろ!?」
死ぬまでこんなクソださいしろものをくっつけて往来を闊歩しなきゃならなくなるとは。綾瀬はつくづく、自身の交友関係を呪った。いかに仲の良い女性の先輩から与えられた課題だとはいえ、こんな屈辱は割に合わない。
「さ、行きましょう。帰ってマヌケどもにあなたを見せびらかさなきゃ」
やっぱりこのヘクセも大した自尊と虚栄欲の持ち主ではないか。ヘクセはくるりと踵を返すと、苦々しげな顔の綾瀬に目配せしつつ道から外れたけもの道へと進み始めた。
「勘弁しておくれよ、あんまり虫にくわれたりするのは好きじゃないんだ」
不意に首に負荷がかかり、綾瀬はつんのめった。前を歩くヘクセがくい、くいと手首のスナップを利かせる度、綾瀬の首輪に圧がかかる。なるほど、これも魔術かペテンか、不可視のリードで手綱を握られているというわけだ。
「わたしは本国のレイシストじゃないわ。差別はきらいよ。だから安心なさいな、やさしく飼ってあげるから」