頭脳明晰で気も利き非常に優秀、かつ性格もよく勘違いでなければ俺に惚れてくれている見目麗しい美少女なんだが
「敵、小鬼。その数は二。前方、距離およそ13メートル。
接敵までおよそ五秒。4,3,2,1」
「ゼロッ!」
裂帛の気合いと共に、俺は大剣を横凪に振るった。同時に茂みの中から飛び出してきた緑色の小人が、醜悪な顔に表情を浮かべる暇もなく二匹纏めて両断され、紫の血を飛び散らせながら四つになってごろりと転がる。
「敵、悪鬼。数は一。左方向8メートル。接敵まで三秒。2,1」
息つく暇もなく、冷静な声が敵の到来を告げる。左手で大剣を地面に突き刺し、右手を腰に回して引き抜くのは小さな手斧。それを迷わず茂みの中へと投げ放つと、ぎゃっと奇妙な悲鳴が上がった。
間髪を入れず突き立つ剣を引き抜き、その動作をそのまま振りかぶる動きへと転化させる。両手に渾身の力を込めて振り下ろすと、それは肩口に斧が食い込み、怒り狂う悪鬼の脳天へと吸い込まれた。
十分に勢いをつけた剣の一撃は止まらず、そのまま地面すれすれまで刃は走る。その通り道になった悪鬼は、頭蓋から股間までを綺麗に左右に二分割された。
「敵影、クリア。お疲れさまでした、マスター」
「ふー……ありがとよ、エイフェル。助かった」
剣を一振り血を払い、悪鬼の右肩から斧を引き抜いてきっちり左右対称にしてやりながら、俺は頼もしい相棒に礼を言った。
「いえいえ。
あの程度の相手でしたら、私が手伝わずともマスターなら苦労しないでしょう」
言いながら、エイフェルは血と脳漿と死骸が散乱するこの場に似つかわしくない、和やかな笑顔を浮かべて見せた。
似合わないのはそれだけじゃない。紫水晶を思わせる、透き通るようなその美しい長い髪。俺の胸ほどにしか届かぬ小さな体と、すらりとした細い手足。獣道を進んできたというのに乱れ一つない美しい衣服に包まれた身体は、若い少女特有の柔らかな曲線を帯びていた。
サファイアのような青い瞳と、ほんのりと桃色に染まった頬、すらりと通った鼻筋を辿れば、慎ましやかに、しかし艶やかに紅を主張する唇に行き着く。
美しい、という言葉が陳腐に感じるほどの美しさ。俺が今まで見た中で一番美しく、愛らしく……そして、その順位がこれからも一生変わらぬだろう、と確信する程の、美少女だった。
そんな彼女を取り巻くものは、何もかも似つかわしくない。この鬱蒼とした森も、地面に転がる妖魔共の死体も……彼女の父親のような年齢になった、みすぼらしい格好の『掃除屋』である俺も。そして、そんな俺を見上げる彼女の瞳に込められた、思慕の光も、だ。
「いや、奇襲の心配をしないでいいってのはそれだけで助かるもんさ。
ずっと気を張ってる必要がないし、進む速度だって上がる。
ありがとよ」
無造作に、腕を上げる。ちょうど撫でやすい位置にある頭をくしゃりと撫でようとするが、いつものように俺の手の平は彼女の髪の柔らかさを返すことなく、ただただ空を切るばかり。
「えへへ。どういたしまして、です」
しかしそんな俺の手を少しばかり頭にめり込ませながら、エイフェルは嬉しそうにはにかんだ。
……本当に。
「後はお前が幽霊じゃなく、人間だったら良かったんだけどなあ」
「だから幽霊じゃなくて、独立型汎用系支援プログラムですってば!」
いつもの俺のボヤキに、エイフェルはいつものように言葉を返した。
彼女と出会ったのは、まだ俺がケツに殻の付いた若造で、年齢だけはエイフェルに何とか釣り合う位の時だった。
独立型汎用系支援プログラム、エイフェル。一つたりとて理解できない名乗りを上げた彼女は、済し崩しに俺のものになった。俺の女に、という意味ではない。文字通り、俺の所有物に、だ。
彼女は人ではなかった。それどころか、厳密には生き物ですらないらしい。そのしなやかで躍動的な肢体も、くるくるとよく変わる表情も、現実のものではなく『ホログラム』とかいう幻術の一種なのだそうだ。
その本体は俺のふるう大剣の、柄にはまった宝石。それすらも『端末』にすぎず、大本の本体はどこか別の遠い場所にあるのだそうだが、如何せん彼女の説明は俺のような学のない男にとっては酷く難解で、その殆どは理解できなかった。
理解できたのは、彼女が非常に優秀な魔術師であることと、俺が一生、手すら握ることの出来ない純愛を貫かねばならないって事だけだ。
そう。俺は、彼女にずっと惚れていた。一目惚れという奴だったが、相棒として二十余年を共に過ごした今もなお、むしろその思いはいや増すばかり。
人にあらざる彼女が、俺なんかから想いを告げられたって困るだけだろう。そんなことを思い過ごす間に、時の波は彼女を置き去りにして俺だけを運んだ。
エイフェルの姿は初めて出会ったときと何ら変わらぬ美しい乙女のまま。
俺はそれなりに整った顔立ちの少年から、ヒネた中年親爺に成長した。共に歩けば、似てない親子だと揶揄される日々だ。
しかし、だんだんと腹が弛み突きだし、髪の生え際が日々心許なさを増し、顔に皺が随分と増えても。それでも、この想いだけは一行に色褪せることなく。
俺は彼女に、恋をしていた。
「では、いってきますね」
「ああ、気をつけてな」
お定まりの文句に、エイフェルは笑って応えた。気をつけるも何もない。実体を持たない彼女は何にも触れられず、干渉できないが、同時に何者も彼女に触れられない。干渉できない。
本当に彼女が亡霊であったなら、或いは危害を加える事も出来るだろう。優れた魔術師やちょいと気の利いた僧侶であれば、退魔の術の一つや二つは知ってるものだ。しかし彼女にはそう言ったものも一切通用しない。そう言った法則の埒外にいるのだ。
エイフェルは茂みをかき分けもせず、すり抜けるように道へと出ると、そのままとことこと洞窟の入り口へと歩を進めた。見張りなのだろう。そこに立つ小鬼二匹は、目を丸くしてエイフェルの姿を見つめた。
「こんにちは」
ぺこりと頭を下げ、挨拶するエイフェルに醜い小鬼共は怒声とも嬌声ともつかぬ声を上げながら、エイフェルに躍り掛かった。彼女の美しさは種族を問わない。小鬼共はその醜い欲求を満たすことで小さな頭を一杯にした。
「そして、さよならだ」
その頭を、死角に身を移動させた俺の剣が二匹同時にすっぱりと切り落とす。実体がないとは言え、俺のエイフェルにこんな薄汚い連中の手を触れさせるつもりはない。
「お見事です」
そんな俺の内心を知ってか知らずか、エイフェルはぱちぱちと小さく手を叩いて見せた。
「じゃあ、中にいくぞ」
俺は彼女に背を向け、洞窟を見やる。天然の洞窟を利用したらしいそこは、典型的な妖魔共の巣だった。そしてそこの大掃除が、今回の俺の仕事であり、飯の種だ。
「マスター。いつものことですが、洞窟内部では広域索敵が不可能になります。
超音波、赤外線での近距離探知は通常通り可能ですので、ご注意を」
「ああ、分かってる。しかし、この前知り合いの魔術師から聞いたんだが、
魔術ってのはむしろこういう深い洞窟の底の方が使いやすいんだってな」
何でも、瘴気だのなんだのの関係らしい。不思議に思って尋ねてみれば、
「私が使っているのは、魔術ではなく科学ですから。
森や家屋程度ならともかく、深い洞窟となると流石に
人工衛星からの走査が効かないんです」
また訳の分からぬ単語が飛び出した。
「正直違いが分からんが、その科学ってのを使う奴は皆お前さんみたいに優秀なのかい」
「とんでもありません! 私は最新鋭の独立型汎用系支援プログラムですから。
他のプログラムと比べられては困ります」
俺の横を歩きながら、少女はえへんと胸を張る。
「じゃあそんな『ぷろぐらむ』を相方に出来た俺は、幸運を感謝しなくちゃな」
俺よりも長い時を生きているはずの彼女のそんな愛らしい仕草に、思わず漏れる笑みをかみ殺すのに苦心する。
「……とは言いますものの、正直マスター達が使う魔術の方がよほどチートじみていると
私は思いますが……明らかに質量保存則に反して……マスター!」
「わかってる」
エイフェルに言われるより早く、俺は剣を振るう。暗闇の中から飛び出した矢を空中で切り落とし、そのまま矢の飛んできた方に跳躍。一瞬の宙を舞う感覚を楽しんだ後地面に降り立てば、小鬼のひきつった醜い顔が目の前にあった。
「マスターが一番のチーターであると、私は再認識しました」
そいつを切り捨てると、エイフェルがしみじみとそう口にする。
「たまに言ってるが、そのチーターとかチートとかってのは、
どういう意味合いなんだ?」
「……『すごい』くらいの意味合いにとらえてください。
赤外線センサーにも反応しない相手を察知したり、
無助走で十数メートル跳躍したり、そんな鉄の塊で生き物を両断したり……
未だに信じられません」
「まあ、鍛えてるしな。これでも」
掃除屋なんて仕事は長続きするもんじゃない。大抵の奴は、30を数える前に死ぬかやめるかしてしまう。40も過ぎてやってられるのには、もちろんエイフェルの助けがあるのも大きいが、それだけが理由ってわけでもなかった。
「そう言う問題ではないのですが……
いずれにせよ、素晴らしいマスターを持って、エイフェルは幸せ者です」
こっちもそう思ってるんだよ、馬鹿。
そんな言葉は、二十年前なら出たろうか。しかし、その頃の彼女はこんなに雄弁ではなく、今の俺はそんな青臭いことを言うには年をとりすぎていた。
「さて、無駄口叩いてないで進むぞ。引き続き、出来る限りの警戒を頼む」
「了解です、マスター」
しかし、その考えは十分伝わったのだろう。にこにこしながら、エイフェルはおどけた様子で敬礼するように額に手を掲げて見せた。
「ここで最後か?」
「はい。見落としはありません」
粗末な木製の扉を見据え、俺とエイフェルは小声で囁きあう。エイフェルの特技に、一度見聞きしたものをけして忘れない、というのがある。
二十数年前、彼女に出会ったときの俺の言動を、一言一句違わずどころか表情の一つ一つまでつぶさに解説できるほどの精度だ。死ぬ程恥ずかしかったので、二度とやめてもらいたい。
そんな彼女なので、地図を書かずに進んでも道を間違うことなどあるはずがなく、すでにこの洞窟の構造も完全に頭の中に入っているらしい。方向感覚にはちょっとばかり自信のない俺にとっては、実に頼りになる相棒といえる。
「じゃあ、いくぞ」
「……待ってください。反応が、変です」
扉を蹴破ろうと構える俺を、エイフェルが制止した。
「変って?」
「中にはおそらく悪鬼が二、食人鬼が三。しかしその奥に……
小さな反応が。小鬼にしては大きいし、悪鬼にしては小さい……」
「人間なんじゃないか?」
俺がそう言うと、エイフェルははっと息を飲んだ。
「それ、って……」
戸惑うエイフェルをよそに、俺は扉を蹴破った。妖魔共の巣に『まだ生きた』人間がいる理由何ざ、きまってる。今まで彼女にそう言う場面は極力見せないようにしてきたが、俺の勘では今回は間に合っているはずだ。
轟音をたてて吹き飛ぶ木製の扉に、怪物達がこちらを振り向く。その腰には見たくもない『剣』がそそり立ち、一番奥の悪鬼の手には半裸になった女が吊されていた。何をされるところだったのかは、言うまでもない。
幸運なことに、彼女はまだ陵辱にあう前のようだった。腕も折れてないし、足だってちゃんと生えてる。何よりその表情には、強い恐怖と悲壮感が溢れ出していた。あいつ等の『玩具』にされた女は、およそ人間らしさというものを保ってはいられない。身体にも、心にも。
お楽しみを邪魔されて怒り狂う食人鬼を蹴りつけ、剣を叩きつける。全身が筋肉で出来ているかのような巨大な鬼は流石に一刀両断とは行かない。しかし、行動を押し止めることくらいは朝飯前だ。
そしてこの狭い部屋では、それで十分だった。幾らなんでも、食人鬼数体を相手に真っ向から斬り合うのは得策じゃない。しかし、怒気に逸った鬼人どもは、互いに押し合いへし合いして互いに鋭利な爪で傷つけあう。
人間くらいなら鎧で身を包んでいようが一薙ぎで吹き飛ばしてしまうだろうその膂力は、当然同族に対しても十分な威力を発揮する。間抜けな食人鬼達が合い争っている間に、俺はさっさとその横をすり抜けて悪鬼達を撫で斬りにした。
「立てるか」
襲われていた女の腕を引っつかみ尋ねると、女は言葉を失いつつもこくこくと頷いて見せた。気丈な女だ。こんな目にあって答えられる奴は少ない。自分の足で立って見せるなど、尚更だ。
悪鬼の血を振るい、俺は食人鬼に相対する。同士討ちしてくれればありがたいんだが、当然そう上手くいくもんじゃない。傷を負いつつも、三匹ともしっかりとした足取りでこちらに怒気を向けていた。一匹くらい死んでてくれたら嬉しかったんだが。
「エイフェル、サポート頼むぜ」
「了解です、マスター」
相棒と、その写し身の剣を構え、俺は駆けた。
運命の出会い、と言うものを信じるか、と問われれば。
俺は迷う事無く、イエスと答えるだろう。エイフェルとの出会いは、俺にとってそう言ったものだった。
予め定められたもの、という意味合いではない。それによって、己の人生すべてが変わってしまう出会いと言う意味でだ。
厄介な事に、これは双方向ではない。例えば、今回俺が殺した小鬼どもにしてみれば、ある意味でそれは運命の出会いであっただろう。会わなければ、少なくともその日死ぬことはなかったのだから。
対して俺にしてみれば、そんなものは日々の飯の糧であり、多少の危険性は伴うものの、いつものルーチンワークに過ぎない。
「ねー旦那さん、旦那さんってば」
小鬼ならよかった。俺はつくづく、そう思った。あの小さな醜い妖魔であれば、切り捨てて終わりにしてしまえるからだ。
「ちょっと、もう、無視しないでよ!」
だがそれも、人間となると話は別だ。不用意にそんな事をすれば俺の手が後ろに回るし、何より折角助けた命を殺してしまうのも寝覚めが悪い。それが、見た目には可愛らしい若い女ならば尚更だ。しかし、今一番厄介なのも、そこだった。
「そんな大声出さなくたって、聞こえてる」
俺が悪鬼共から助けた女は、名をルビィと言った。名前の通りに紅玉のような真っ赤な髪をした、少女といっていい年齢の娘だ。女だてらに掃除屋家業をしているらしい。
「お願い! あたしを弟子にしてよ!」
「断る」
真摯な瞳を真っ直ぐに向け、剣の様に真っ直ぐに言葉を綴る。それを、俺は真っ向から打ち払った。
「なんでよ!」
「そんな義理はないし、お荷物を抱えて旅できる程裕福でもない。
ついでに言えば、人に物を教えられる程の腕も学もねえ」
助けてやったその翌日から、ずっとこの調子だ。毎回毎回断っていると言うのに、全く諦める調子もなく、俺が妖魔退治の報酬を受け取って旅に出た後もしつこく付きまとってくる。
「そんな事は、ないと思いますけど……
身内びいきではなく、マスターより優秀な掃除屋さんを私は知りません」
そして最大の問題が、エイフェルが彼女に対して好意的な立場をとっていることだった。
「だよね! 自分の食い扶持くらい自分で稼ぐし、お願い!
あたしを弟子にしてください!」
「……駄目だ。大体、あんな目にあってまだ傭兵を続けようって思う気が知れん。
さっさと田舎に帰って嫁にでもいけ。お前さんの器量なら、ちょいとばかし
性格に難があっても嫁ぎ先くらい幾らでもあるだろ」
耐えかねてそう言ってやると、ルビィは流石に傷付いた表情をした。少しばかり心が痛むが、仕方ない。
「……わかった」
ぽつり、とルビィは呟くようにそう言い。
「じゃあ、旦那さんの嫁にしてよ!」
そして、そんな爆弾を、落とした。
「嫁じゃ駄目なら、まず恋人からでも良いから」
「あのなあ……」
あんぐりと口と目を見開くエイフェルの様子を見て少し嬉しく思いながらも、俺はわしわしと自分の髪をつかんだ。
「なんで弟子からいきなりそこに話が飛ぶ。
大体、お前さんといくつ齢が離れてると思ってんだ」
「年齢なんてあたしは全然、気にしないよ」
あっさりと、ルビィはそう答える。
「恋人でも駄目なら、妾でも良いから」
「妾って、お前」
「正妻の座は、エイフェルさんに譲るから」
そして、とんでもない事を言い出した。
「馬鹿、何言ってやがる。エイフェルは……そんなんじゃねえよ」
「そうです、そんな、滅相もない!
私はただの、独立型汎用系支援プログラムですから」
「え、でも、お互いに好きなんでしょ?」
俺達が20年以上に渡って、ずっと、薄々気付いていながらも互いに黙っていた事を。あっさりと、ルビィは言ってのけた。
「マスター……遅くに、失礼します」
その晩のこと。何とか日が落ちる前に近場の町へと辿り付き、野宿を免れた俺の元に、エイフェルは姿を現した。それを半ば予測していた俺は、ベッドの上で上半身を起こし、彼女を迎えた。
「お前さんの夜這いなら、いつでも歓迎するよ」
俺の飛ばした冗談に、エイフェルはくすりともしない。冗談にならないことを、よく知っているからだ。
「……申し訳、ありません。マスター」
エイフェルは、深く、深く頭を下げる。
「よせ」
「私は……マスターの優しさに甘えて、マスターの幸せを、奪ってしまいました」
長年……俺の人生の、半分以上を共に過ごした相手だ。その言葉に続く台詞も、大体予想が出来た。
「私は……子を産むことも出来ません。
それどころか、あなたの腕に抱かれることも、触れることも……
共に歳を取っていくことさえ、かないません」
そうだ。その通りだ。だからこそ、俺は彼女に愛を告白しなかった。俺がつらいから、じゃない。俺が死んだ後、一人残される彼女の事が不憫だからだ。
「そんな私の為に、マスターの人生を棒に振るなんて。
最新鋭の独立型汎用系支援プログラムとして、許されざる事です」
エイフェルは、俺に腕を伸ばした。俺の、剣だこの出来た無骨な指とはまるで違う。細く繊細な、美しい指先が俺の頬の表面を撫で……そして、通り過ぎた。
「……それに……マスターのお子さんがいれば、その子を守護していくのも
悪いことではないと思います」
エイフェルは、壊れやすい宝物を扱うかのようにそっと、その手を俺の手に重ねた。
「愛してます、マスター。この異境の地で、あなただけが、私の拠り所でした。
……どうか、幸せになってください」
そう言うエイフェルの顔は、今まで見た中で、もっとも美しかった。惚れた女にそこまで言われたんじゃ、どうしようもない。俺はため息一つ付き、渋々と頷いた。
「……わかった」
エイフェルは、何とか笑顔を作ろうとする。
「俺の一生をくれてやる。だから、お前の一生を、俺にくれ」
それはあまりにも不公平な取引。
「それが、俺が幸せになる唯一の方法だ」
エイフェルは抱きつく勢いを余らせて、宿の壁を突き抜けた。
それからすぐに、俺は傭兵を廃業した。無闇に高性能な剣の精霊を側に置くのに、言い訳が必要なくなったからだ。幸い蓄えは十分にあったし、傭兵仲間の伝手もある。食事も衣服も必要としない妻と二人、生きていくのはさほど苦労はなかった。
ルビィは、俺がエイフェルと共に生きていくことを明言すると、それまであれほどしつこい食い下がっていたのにあっさりと諦めた。『フったのを後悔させてやる!』等と捨て台詞を残していったが、風の噂に聞く彼女の話は色事とはかけ離れた武勇伝ばかりだ。
傭兵として大成したのは結構なことだが、剣くらい教えておいてやれば良かったかもしれない、と言うと、エイフェルはくすくすとおかしそうに笑った。
時はゆっくりと、瞬く間に過ぎ去っていく。少しずつ歳を重ね老いていく俺の姿を、エイフェルは変わらぬ笑顔でずっと見つめてくれた。
たった一つ心残りなのは、思い出以外に何一つ、エイフェルに残してやれなかったことだ。他の女と子を作る気にはどうしてもなれなかったが、せめて養子でも取れば良かったかも知れない。
そんな風に思ったときには、すでに俺は歳を取りすぎていた。とても子供の面倒などみれないし、俺が死ねばエイフェルには何も出来ない。結局、俺達は最後まで二人きりで、過ごした。
でも、
それも、
もう、
「おやすみなさい、あなた」
最後に、その声だけが、聞こえた。
「ここは……あの世って奴か?」
発した言葉は音にならず、ただ意味として俺の頭に響いた。体はいやに軽く、長年悩まされてきた腰痛も、長年の友人のようにあった古傷のうずきも感じない。それで、俺は今いる場所を死後の世界だと確信した。出来れば天国であってほしいものだが。
「そうともいえるし、そうでないともいえます」
俺の言葉に応える声に、俺はここが天国だとわかった。聞き慣れた、耳に心地よい鈴の音のような声色は感じられない。しかし、それがもっとも愛する彼女の声であることはすぐにわかったからだ。
「エイフェル。お前さん、まさか俺の後を追って死んだりしたんじゃないだろうな」
そういいながら振り向けば、あった時から全く変わらぬ彼女の笑顔がそこにあった。
「優れた人工知能の開発は成功していました。それこそ、人と見分けが付かないほどの。
しかしそれには問題もあったんです。彼らは真の意味で人を理解できず、
人々もまた、彼らを理解できなかった」
すると、エイフェルはくすりと笑いながら、そんなことを言い出す。
相変わらず、彼女の言うことはよく分からない。
「その架け橋となるべく作られたのが、私たち独立型汎用系支援プログラム。
人の思考をベースに作られた、半人工知能です」
説明されるうちに、俺にもだんだん事態が飲み込めてきた。
「マスターの思考データを解析して、私はあなたを作りました。
あなたはいわば、マスターであると同時に、私とマスターの子ともいえます」
「つまり、俺も晴れて亡霊の仲間入りってわけだ」
「だから亡霊じゃなくて、独立型汎用系支援プログラムですってば」
何十年ぶりかの、そのやりとり。エイフェルは俺に近づくと、そっと手を取った。同種の存在となった俺達は、何十年もの時を経て、ようやく触れ合うことが出来る。
「あなたの一生を、確かに頂きました」
それはある意味、不公平な取引。
「私の一生を、もらっていただけますか?」
俺は喜んで、それに了承した。
「ところで」
俺は自分の身体を見下ろしながら、エイフェルに尋ねる。『姿』はただの便宜上の見た目だから、鏡などなくともそれを見ることが出来た。生前とは、すっかり様変わりしている。若返っているのはともかくとしても、若い頃の俺と比べても明らかにおかしい。
190センチはあった上背は150にも満たず、ごつごつとした逞しい腕はほっそりとして、ごわごわと太かった髪はさらりと背に流れる。
「俺の身体がどう見ても美少女なんだが」
というか、エイフェルにそっくりだった。
「すみません、思考データの解析で手一杯で、まだアバターデータが作れてなくて。
でも、その姿も可愛いですよ、マスター」
「自画自賛か」
まあ、可愛いと言うことに異論はないが。
「まあいい。
……これからもよろしく頼むよ、相棒」
いろんな意味で同じ目線に立ち、俺はエイフェルを抱き寄せる。そしてこれからの、長い長い二人の人生に想いを馳せた。