九年間
瀬戸タカヒロ様。
この九年間を思い出していました。
長いようで短い、あなたと過ごした儚く穏かに流れていた日々を。
あなたには耐え難い仕打ちを受けました。神なんて都合の良いものなどこの世に存在するわけがないと改めて強く思いました。
あなたは最期まで私の気持ちを考えない自分勝手な人でしたね。
私はついにあなたに嫌気がさし、こうしてお別れを申し上げます。
でもその前にあなたに訊きたいことがたくさんあるのです。伝えたいことがたくさんあるのです。
話したこともなかったあなたにある日突然告白されて私たちのささやかな付き合いが始まり、その後九年間。恋人同士になっても一緒に帰ったり、話したりという恋人らしいことは何も出来ず、むしろクラスメイトよりも遠い関係に私たちはいましたよね。
あの頃の私は何度も何度もあなたに何故告白したのか訊こうと思っていましたが、中々タイミングがつかめないで途方にくれる毎日でした。
もしかするとこれは全部私の夢か幻想で、あなたに告白されたなんて事は実際にはなかったのかもしれないとさえ、思う日々でした。
あなたに告白されて三ヶ月が過ぎた頃、夢でも幻想でもないとあなたは私にハッキリ伝えましたね。私のことは好きでも何でもなく、ただ仲間内で行っていたゲームだと。
私は以前、学校一女子に人気の高い三年生に告白されたことがあり、それを断りました。あなたたちはそんな私に興味を持ち、私を落とせるかというゲームを始めたそうですね。
私はあなたのことが好きでした。
だから三年生の告白を断りました。
なのにこんな仕打ちはあんまりです。その夜私はひとりで泣きました。辛くて悲しくて惨めな気持ちが幼い恋心を抉るのです。
私の小さな初恋はこうして終わりを迎えるんだと漠然とそう思っていましたが、あなたはいつまで経っても私に別れを告げなかったので、私も何も言いませんでした。
また付き合っているのか付き合っていないのか分からない日々が続き、私もあなたが今でも好きなのか、よく分からなくなっていました。
でもあなたは離れて行こうとする私の心を繋ぎとめようとしたのか、ある日を境に急速に親しく接してくるようになりましたよね。最初は戸惑ったけれど、何よりあなたと話せることが嬉しくて私たちは初めてその日、一緒に帰りましたよね。右手に感じるあなたの体温が消えてしまわぬようにギュッとあなたの手を握りました。あなたの手は温かかった。この時、私は初めて幸せというのはこういう事かと少しだけ涙を流しました。それはあなたが私に告白して約一年が過ぎた頃でした。
それから私は嫌がらせを受けるようになりました。
私と同じようにあなたの事を想っている女の子たちが嫉妬にかられて、私の靴に画鋲を入れたり、教科書や体操着を隠したり、階段から突き落とそうと背中を押されたり、身も凍るような言葉を言われたり、陰湿な嫌がらせを受けていました。あなたはきっと気づいていなかったでしょう。
でも私はそんなの苦しくも辛くも何ともありませんでした。
私はあなたの恋人で、誰よりもあなたの隣に似合う女だと信じていましたから。あなたが言葉に出してゲームをした事は謝罪してくれませんでしたが、私はあなたのその姿勢が好きでした。私のことが無関心のようで無関心ではないあなたに小さな愛を貰うことに幸せを感じていました。
これを聞いて私の友人たちは私をおかしいと心配していました。早くあなたと別れるようにも言われました。友人たちはあなたのことを良く思っていませんでした。あなたはきっと気づいていたでしょう。
私たちは普通の恋人のように遊園地や水族館にデートしなかったけれど、私がお弁当をつくって公園で一緒に食べたり、あなたのサッカーの試合を応援しに行ったり、手を繋いで帰るだけでそれだけで良かった。
でもいつまでもそんな儚く穏かな日々は続きませんでしたよね。
受験生になり、あなたはサッカーで推薦され、私立高校に入学することが皆より一足早く決まりましたよね。本当は私、あなたと同じ学校に行きたかったけれど、親に経済的負担をかけるのはよくないような気がして、あなたと正反対の場所にある普通の公立高校に入学することにしました。
私、本当はあなたに「俺と同じ学校に来て欲しい」と言われたら親に頼んでそう言うつもりだったけれど、あなたは何も言いませんでしたよね。
それが少しだけ寂しかった。
そんな思いのまま高校生になり、私は心のどこかであなたとはもうすぐ終わりかも知れないと思っていました。今まで沸々と地底で煮やしていたマグマが噴火しそうでした。高校に入学し、友達も環境も勉強も丸きり変わって早く順応するように努力していたら、あなたの事を考える時間がいつのまにか少なくなっていました。少なくなっていることにさえ気づきませんでした。
高校に入学して一ヶ月が過ぎようとしていた時、忘れていたあなたから連絡がきました。私は画面に表示されるあなたの名前を見て辛くやるせない気持ちでした。二、三度は無視していましたがついにあなたからの連絡を受け、久しぶりにあなたと声を交わしました。電波で繋がるあなたの声は別の誰かのような気がして仕方ありませんでした。
あなたは連絡を無視していた私を責めるどころかそれに触れもしないで、これから週四回毎日決まった曜日に会おうという事でした。
最初は毎日週四回、私の高校の近くにある喫茶店であなたと逢瀬を重ねていましたが、少しずつ週三回、週二回、週一回とまでなりました。
酷い時なんて二週間に一回の時もありましたね。あなたと心が繋がっている気がしなくて私はいつも苛々しているか泣いていたような気がします。
情緒不安定だった時でした。彼と偶然に出会ったのは。
あなたも一度会ったことがある、あの八重歯を見せて無邪気に笑うオレンジ色の髪をした私と同じ高校に通う彼。
もし私に未来が見えていたならば、きっと喫茶店であなたを待つ私に声をかけてきた彼と話すことなく拒絶していたでしょう。
当たり前ながら未来の見えなかった私はただ単に私に似た彼に親近感を覚え、友達とまではいかないもの所謂茶のみ仲間みたいなものとなっていました。あなたにも幾度か彼の話をしたことがありましたよね。
彼の恋人は女子高に通うお嬢様で、彼もまた週に一度この喫茶店で恋人と待ち合わせをしていると言っていました。あなたは知っていましたか?
学校の外で彼と親しくても何故か学校では目も合わさない――。私と彼の間にはそんな暗黙のルールが存在していました。どちらが決めたわけでも、別に隠すようなやましいことは本当に何もなかったのですが、私も彼も絶対学校ではお互いに話しかけようとはしませんでした。
ある日彼が私に今度の日曜日、ダブルデートをしようという提案を持ちかけてきました。私とあなた、彼と彼の恋人で会う約束をしました。
後になって彼がどんなにその約束を後悔したでしょうか。もしもそんな約束をしなければ、きっと違った未来が待っていたと思うのです。
彼の恋人はとても可愛らしい人でしたね。目が大きくて長髪は艶々、背は小柄。私は初めて彼女を見た時から嫌な予感を感じていました。何故なら彼女はあなたの理想のタイプそのものだったから。私は敢えて言うなら目が大きいことしか彼の理想に当てはまっていませんでした。髪は脱色した所為で痛み、背は百六十はありました。誰より彼の隣に自身を持って立っていた私でしたが、彼女を見た瞬間鼻がへし折られたような不愉快な気分になりました。彼女は彼の恋人。間違えたことなんぞ、起きるわけないと言い聞かせていましたが実際あなたと彼女が仲良さげに会話するのは見ていられませんでした。あなたが彼女に笑顔を見せるたび、熱いものが胸に込み上げてくるのです。もう二度とあなたと彼女は会わせないと、そっと胸に誓いました。なのに。その仕打ちがこれですか。
あなたには非常に耐え難い仕打ちを受けました。
この世に神なんて都合の良いものは存在しないと思いました。
それともひっそりと行われるあなたと彼女の逢瀬に気づかなかった私が馬鹿なのでしょうか。
あなたと充分に会えないまま私は二十二になっていました。
大学生でした。
大学で友人たちとランチをとっているとあなたのお母さんから連絡がきていました。あなたのお母さんには実の娘のように可愛がってもらい、お正月には一緒に散らし寿司を作りました。
あなたのお母さんは泣いていて嗚咽で殆ど言葉の意味が理解できませんでしたが、あなたがドライブ中に事故に遭った事を知りました。
意識不明の重体だということも聞きました。目の前が真っ白になりました。
いつも私は心のどこかであなたとは終わりかもしれないと感じていましたが、こんな終わり方は考えもしていませんでした。
あなたのお母さんは何故か何度も私に「ごめんなさい、ごめんなさい」と嗚咽の混じる言葉で謝罪していましたが、私はそれがなんの意味をしているのか知る由もありませんでした。
病院に駆けつけた私が知ったのはあなたが機械に生かされているという事と、彼の恋人があなたの車に乗っていたという事でした。
彼の恋人もまた意識不明の重体で身体のあちこちに機械が繋がれていました。
あなた達はドライブ中、大型トラックに突っ込まれたそうですね。
私は悲しいやら悔しいやらで涙がポロポロ零れました。
今まで九年間あなただけを想ってきたのにこんな仕打ちはあんまりだと。
後から彼も駆けつけました。
高校を卒業し、彼とはもう会っていなかったのですが、彼はスーツを着てどうやら就職したようでした。泣きながら、眠った彼女を睨みつける私に彼は強く抱擁してくれました。
彼はもう全てを知っていました。
どういう経緯か二人が同じ車に乗っていたことさえ、私には充分裏切り行為であるのに、そんな私に追い討ちをかけるように彼女が妊娠していたことを知りました。
彼の子供ではありませんでした。あなたの子です。あなたは知っていましたか?彼さえも、彼女は自分の子を宿していると思っていました。
彼女のお腹は一目で妊婦だと分かりました。きっとお腹の子の母親なんですから、彼女はあなたの子だと知っていたのでしょう。そして、そのドライブ中に彼女は告白しようとしていたのでしょうか。
炎上した車に残された彼女は大火傷を負い、その美しい顔には醜い火傷が残っていました。ですが彼女はしっかりお腹を守っていたために胎児に影響なかったそうです。私は再び悔しくて涙が出てきました。
私はあなたの子を妊娠した事など一度もなかったのですから。
あなたが死んだ一週間後、ある日植物人間状態だった彼女が産気づきました。彼女は放っておいてももう生きられない身体だったので、帝王切開でお腹の子を産みました。
お腹の子を一度も抱くことなく彼女は死にました。この手紙は彼女が死んだ直後に書いているものです。
新たな命に私も彼も対面しました。彼は彼女の子だからと。私はあなたの子だからと。とても小さい。儚く穏やかな命。男の子でした。小さな命を抱いていると胸が熱くなって涙が出てきました。
あなたには耐え難い仕打ちを受けました。
私がいるのに別の女に子を孕ませるなんて私はあなたと彼女を一生憎んで生きていくでしょう。
私はあれからあなたと過ごした九年間を思い出していました。
今思えば私はあなたに一度も好きと言った事がありませんでした。
今思えば私はあなたに一度も好きと言った事がありませんでした。
今思えば私はいつも心の中であなたへの思いを溜めていくばかりで――…九年間一緒にいたのに喧嘩さえしたことがありませんでしたよね。
そう思うと本当はあなたが悪いのではなく私が全て悪いんだと……。
もっと早く思い返してあなたを大切にしていればよかった。ありがとう、というささやかな感謝さえあなたに言ったことがないのかもしれない。
私はいつも自分のことばかりだった。あなたの気持ちを知ろうともしなかった。
表面上は私が被害者なのかもしれない。だけれど、あなたは悪くない。
あなたはいつも私を想ってくれていたのに私はあなたに何も返すことができませんでした。
あなたは悪くない。ごめんなさい。本当にごめんなさい。
もう全て遅いのかもしれないけど、あなたをこのまま私に縛り付けるわけにはいきません。
お別れ申し上げます。優しいあなたの事だから、きっと私の事を思って切り出せなかったのでしょう。
この九年間に、あなたにお別れ申し上げます。
中学生の頃、繋いだあなたの温かい手を思い出します。私は全くあなたに耐え難い仕打ちを与えました。そう思うと私は彼女を憎む権利などありません。
あなたが私を許してくれたように私もあなたを許します。ごめんなさい。今まで本当にありがとう。
神様。どうかあなたの子に日用の糧を今日も与えてください。
あなたの子が今夜も安らかに眠れますように。
美帆