青い缶のなかの海
この物語は、喪失を受け入れる物語ではありません。
亡くなった人の人生には、遺された者が知らない時間があります。
知らなかったことを悲しむのではなく、その人が確かに生きていた証として受け止められたとき、人は少しだけ前へ進めるのかもしれません。
静かな海の匂いとともに、お読みいただければ幸いです。
◆ 一 潮と埃
潮の匂いを嗅ぐたびに、千尋は姉の死を思い出した。
正確には、姉の死そのものではない。
死の三日前の夕方、縁側に並んで座って、姉が缶ビールを一口すすった後に「海って馬鹿みたいにきれいだよね」と言ったこと
——その言葉の輪郭を、潮の匂いが毎回きちんと撫でて通り過ぎていくのだ。
三月の終わりに千尋が実家へ戻ったのは、遺品の整理という建前があったからだ。
母は昨年の秋から足が悪く、二階の姉の部屋に上がれない。
だから千尋が戻るほかなかった。
それだけのことだ、と千尋は繰り返し自分に言い聞かせながら、在来線を乗り継いで六時間かけて南へ下った。
神田という駅で降りると、ホームに海が見えた。
見える、というのは語弊がある。
駅の外に続く国道の向こう、錆びたガードレールと松の木の隙間から、光が縞になって滲んでいるのが見えた。
光の集まり方が他の場所の空と違う、そういう意味で「海が見える」のだった。
バスに乗り、十分ほど揺られた。
終点で降りると、磯の匂いが体の側面から押してくるように広がった。
鼻腔の奥に、生き物の腐敗と塩と太陽の熱が混ざり合って積もっていくような感覚。
千尋は鞄の持ち手を両手で握り直した。
実家は港から徒歩五分の路地にある、二階建ての木造家屋だ。
外壁は千尋が子どもの頃から同じ色
——かつては白かったはずが、今は黄ばんで塩を吸い込み、くすんだ象牙色になっている。
表札の「坂本」という字は、父が死んだ十二年前から変わっていない。
「遅かったね」
玄関を開けると、母が廊下の奥から声だけを寄越した。
姿は見えない。台所にいるのだろう、鍋が揺れる音がした。
「電車が遅れた」
嘘だった。
千尋は駅で一時間、ベンチに座ったまま動けなかった。
海の光の縞を眺めながら、ここへ来ることの意味を何度も問い直していた。答えは出なかったが、バスは来たので乗った。
母は千尋の顔をまともに見なかった。
食卓に白飯と煮魚と味噌汁が並んでいて、二人は向かい合って座り、ほとんど黙って食べた。
アジの煮付けは濃い口に過ぎて、千尋は途中から白飯だけを口に運んだ。
「明日、二階を片付けていい?」
「好きにして」
母は箸を置いて、お茶を飲んだ。湯気が母の顔を一瞬ぼかした。
その夜、千尋は一階の自分の旧部屋で、天井の染みを数えながら眠れずにいた。
風が強く、雨戸が鳴った。波の音が、間欠的に、低く届いた。
波音というのは不思議なもので、静かなときほど遠くまで聞こえる。
姉の名前は芽依といった。
享年二十八歳。千尋より五つ上で、この町で小学校の教師をしていた。
三年前の夏、早朝に一人で海に入り、戻らなかった。遺体は翌日、隣の町の防波堤の近くで見つかった。
事故と判断された。
芽依は泳ぎが得意だったから、油断したのだろうと言われた。
千尋はその説明を受け入れた。受け入れた、というより、受け入れる以外にできることがなかった。
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◆ 二 青い缶
翌朝、千尋は姉の部屋に入った。
階段を上がるにつれて、空気が変わった。
下の階の生活臭——醤油と畳と母の使う安い洗剤の匂い——が薄れ、代わりにかすかな乾燥した木の匂いが混ざり込んできた。
三年間、窓を閉め切って放置された部屋の匂いだ。
扉を開けると、光が差し込んでいた。
東向きの窓から、朝の白い光が斜めに射し込んで、埃がゆっくりと宙を漂っているのが見えた。
本棚、机、狭いクローゼット。全てが三年前のまま止まっている。机の上に、教材らしきプリントが重なっている。
カレンダーは七月で止まっていた。
千尋は窓を少し開けた。潮の風が入ってきて、カーテンがゆっくり膨らんだ。
片付けを始めた。
衣類はゴミ袋へ。本は三冊に一冊の割合で取り出して確かめ、また戻した。文庫本が多かった。
川端、三島、大江、それに知らない作家の名前が並んでいた。
端っこの段に、絵本が数冊挟まっていた。職場で使っていたのかもしれない。
クローゼットの奥に、段ボール箱が一つあった。
開けると、中に古い缶が入っていた。
菓子の缶だろう。蓋に花の絵柄
——かつては鮮やかだったのだろうが今は色が褪せていた
が描かれていて、地の色は青だった。
深い青、というより暗い青、群青に近い色合い。千尋は缶を取り出して、膝の上に置いた。
重さがあった。空ではない。
蓋を開けた。
手紙が一枚と、写真が数枚と、小さな石が入っていた。
石は白く、丸く、海で拾ったものだろう。写真は、千尋の知らない風景
——どこかの港、夜の桟橋、光の反射した水面
が写っていた。そして手紙
千尋は手紙を取り出した。便箋一枚、裏表に書かれていた。姉の字だった。
宛名は「三浦 諒」とあった。
——だれ。
千尋は小声で言ったが、それは問いではなく、驚きの輪郭を声に乗せただけだった。手紙を読んだ。
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拝啓
あなたにこれを渡すべきかどうか、ずっと迷っていました。
渡さないまま終わるかもしれないと思っていたので、こうして缶に入れて仕舞ってあります。
でも書かずにはいられなかった。
海に入るとき、いつもあなたのことを考えます。
あなたが最初に連れていってくれた夜の桟橋。あの水が、私にとって一番きれいな青でした。
どこへ行ってもあの青より青いものには会えなかった。
もう会えないことはわかっています。
それでいい。ただ、あなたの知らないところで、私はあなたをずっと大切にしていたということを、どこかに残しておきたかった。
坂本芽依
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千尋は手紙を読み終えて、しばらくそのまま座っていた。膝の上の缶が、微妙に重かった。石のせいだ、と思った。
三浦諒
千尋は姉からその名前を聞いたことがない。
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◆ 三 夜の桟橋
その日の午後、千尋は港へ歩いた。
三月の海は光っていなかった。
曇天で、空と海の境界が曖昧になっていて、グレーと青と白が混ざり合ったような色が、水平線のあたりでぼんやり溶けていた。
風が強く、千尋のコートの裾を持ち上げた。
漁師の老人が二人、防波堤の端で何かを修繕していた。千尋が近づくと、一人が顔を上げた。
「坂本さんとこの?」
「はい」
「芽依ちゃんのことは……」老人は続けようとして、やめた。「うん」とだけ言った。
「三浦諒さん、という方をご存じですか」
老人は顔を見合わせた。
「三浦……諒か。あそこの三浦か?」
「わかりません。この辺りに住んでいる方ですか」
「住んでたな。五年くらい前まで。今は確か、隣町の大岬のほうに移ったと思うけど」
千尋はお礼を言って、防波堤から離れた。
翌朝、千尋はバスに乗って大岬へ向かった。
大岬は人口三千人ほどの小さな集落で、観光漁業で細々と生きているような場所だ。
バスを降りると、漁具の匂いがした。油と金属と、魚の鱗が乾いた匂い。
町の郵便局で「三浦諒」を尋ねると、局員は首を傾けた後、「岬の端の方の、民宿をやってる三浦さんならご存知ですが」と言った。
民宿「みうら」は、岬の先端近くに建っていた。古い二階建てで、外壁が白く塗り直してあった。
玄関先に干された魚が、風に揺れていた。
ドアを叩くと、男が出てきた。
四十代前半だろうか。
背が高く、日に焼けた顔をしていて、千尋をまっすぐ見た。
目の色が——これは錯覚だろうが——深い青に見えた。実際は黒かった。
ただ、光の入り方のせいで、あるいは千尋の心の状態のせいで、そう見えた。
「三浦諒さんですか」
「そうですが」
「坂本芽依の妹です。千尋と言います」
男は、一瞬だけ目を細めた。風が吹いて、干した魚がぶつかり合う乾いた音がした。
「……上がりますか」
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◆ 四 缶の中の海
三浦は千尋を居間に通し、お茶を淹れた。
緑茶の香りが、漁具の匂いと混ざった。千尋はテーブルに青い缶を置いた。三浦はそれを見て、一度目を伏せた。
「姉の部屋で見つけました。あなた宛の手紙が入っていました」
「……そうですか」
「読みました」
三浦は何も言わなかった。千尋はお茶を一口飲んだ。渋かった。
「姉のことを、教えていただけますか」
三浦はしばらく窓の外を見ていた。窓から海が見えた。今日は少し晴れていて、光が斜めに水面を走っていた。
「芽依さんとは、五年くらい前に知り合いました。私がまだあちらの町に住んでいた頃。彼女が一人で防波堤に来ていて——深夜に。私も眠れなくて出ていたんです。最初は挨拶だけで、それが何度か続いて、話すようになった」
「姉が深夜に防波堤へ?」
「よく来ていたみたいでした。海が見たいから、と言っていました」
千尋は知らなかった。
「付き合っていたんですか」
「付き合う、という言葉が当てはまるかわかりません。会っていました。一年くらい」
「姉は……あなたに手紙を渡さなかった」
「知りません。この缶のことも。手紙のことも」
千尋は缶を見た。群青の蓋。花の絵柄。
「なぜ別れたんですか」
「私が町を出ることになって。こちらへ来ることになって。芽依さんは——学校があるから、と。続けることはできないと、彼女が言いました」
「姉から?」
「ええ」
千尋の中で、何かがゆっくりとずれた。パズルのピースが一枚、ようやく正しい向きになったような感覚。
「姉が亡くなったことは」
「知っています。知り合いから聞きました」
「来なかったんですね、葬式に」
三浦は千尋を見た。責めているのか確かめるような視線だった。千尋はそれを受け止めた。
「……来ませんでした」
「なぜ」
「来る資格があるかどうかわからなかった。私は、芽依さんの人生の、ごく一部でしかなかった」
千尋は手紙のことを思い出した。
——あなたの知らないところで、私はあなたをずっと大切にしていたということを。
「でも」と千尋は言った。
「姉にとっては、違ったみたいです」
三浦の喉が一度動いた。男は窓の外を向いた。光が水面を走り続けていた。
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◆ 五 夜の青
その夜、千尋は民宿に泊まることになった。
三浦が勧めたのではなく、千尋が最終バスを逃したのだ。
三浦は素泊まりでいいならと言って、二階の部屋に案内した。畳の部屋で、窓から海が見えた。
夕食に三浦が出してきたのは、煮魚と汁物と飯だった。実家の母が作ったのと同じような食卓だったが、味は違った。薄く、丁寧だった。
「姉はここへ来たことがありましたか」と千尋は聞いた。
「一度だけ。越してきた最初の年に。それきりでした」
「手紙に、夜の桟橋のことが書いてありました。あなたが最初に連れていってくれた、と」
「あちらの町の桟橋です。今は老朽化して立ち入り禁止になっています」
「姉はあそこの青が、一番きれいな青だったと書いていました」
三浦は箸を置いた。
「夜に水面を見ると、光の入り方で青くなることがある。あのとき満月で、海が——」三浦は言葉を選んだ。「そう見えたんだと思います。私にはわかりません。彼女の目に映ったものは、彼女にしか見えなかった」
千尋は飯を一口食べた。
「姉は死ぬつもりだったと思いますか」
沈黙があった。
三浦は千尋を見た。まっすぐ、ためらいなく。
「わかりません」と彼は言った。
「ただ——彼女は、海を怖いと思っていなかった。だから油断したのか、あるいはそれ以外の理由があったのか、私には判断できません。判断すべきではないとも思っています」
「あなたは姉を好きでしたか」
今度の沈黙は、先ほどより長かった。
「好きでした」
「今も?」
「……あなたはなぜそれを聞きますか」
千尋は少し考えた。
「姉を知っている人間と、もう少し話したいからだと思います。私は姉のことを何も知らなかった。深夜に一人で海へ行っていたことも、あなたのことも。知っていたつもりで、何も見えていなかった」
「それはあなたのせいではありません」
「そうじゃなくて」千尋は言った。
「姉が私に見せなかった部分に、姉が本当に生きていた場所があった気がするんです。そこへ少しだけ近づきたい。それだけです」
三浦は窓の外を見た。夜の海は見えなかった。ガラスに室内の光が映って、二人の姿がぼんやり浮かんでいた。
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◆ 六 青、その先
翌朝、千尋は帰る前に岬の先端まで歩いた。
三浦が桟橋まで案内した。
大岬の桟橋は、漁船が数隻係留されていて、木の板が潮で黒ずんでいた。
朝の光が斜めから入ってきて、水面が光った。
青、と千尋は思った。
姉が手紙に書いた「青」は、こういう色ではなかったかもしれない。
もっと暗く、深く、夜の中にだけ現れる種類の青だったかもしれない。でも今、この朝の桟橋の水の色は、確かに青かった。
澄んでいた。底が少し透けて見えるような、緑を帯びた青。
「この缶、お渡しします」と千尋は言って、バッグから群青の缶を取り出した。
三浦は受け取らなかった。
「芽依さんが仕舞っていたものです。あなたが持っていてください」
「でも——」
「彼女は渡そうとして、渡せなかった。あなたに届ける役目を果たしたいと思います」
三浦は缶を受け取った。両手で、丁寧に。指が缶の縁に触れた瞬間、男の表情が——ほんの少しだけ——動いた。千尋はそれを見た。
千尋は何も言わなかった。
桟橋の木の上を、鳥が一羽横切った。
「姉のことで、何か覚えていることがあったら、いつか教えてください」と千尋は言った。
「連絡先を置いていきます」
「はい」
千尋はバスの時間を確かめてから、岬を後にした。
帰りのバスの中、千尋は窓に額を当てた。ガラスが冷たかった。車窓から海が見えた。この土地を離れるにつれて、海は少しずつ遠くなり、やがて木々に隠れた。
千尋は目を閉じた。
姉が最後に見た海は、どんな色だったのだろうと思った。夜明け前の灰色だったのか、それとも
——あの桟橋で見たような、底の透ける青だったのか。わからなかった。
おそらく永遠にわからない。
でも千尋は今、初めて芽依の笑う顔を思い出していた。
深夜に防波堤へ通い
海を眺め
誰にも話さず手紙を書いた人
それが芽依だった。
バスが揺れた。海の匂いが、まだ鼻の奥にあった。
千尋はそれを——今度は、ほんの少しだけ——悪くないものとして受け取った。
電車に乗り換えて、北へ向かう間、千尋は窓の外を見続けた。山が見え、田んぼが見え、トンネルがあって、また光が戻った。空の青が変わった。南の土地の濃い青から、都市に近づくにつれて薄く、白みがかった青へと。
姉は一番きれいな青を見つけたと手紙に書いていた。
千尋にはまだ、自分の「一番きれいな青」が何かわからなかった。
でも、探せる気がした。
それは三日前には感じなかった感覚だった。
東京に着いたのは夕方だった。
ホームに降りると、人の熱と排気の匂いがした。
潮の匂いはもうない。
千尋は人の波の中を歩きながら、群青の缶のことを考えた。
今頃あの民宿の棚の上に、あるいは三浦の手元に、缶はあるだろう。中に手紙と写真と石が入ったまま。
姉が残したものが、届くべき場所に届いた。
それだけで、十分だった。
改札を抜けると、西の空だけがまだ明るかった。
千尋は立ち止まり、少しだけ空を見上げる。
あの日の海とは違う色だった。
「海って馬鹿みたいにきれいだよね」
あの声が、不意によみがえった。
千尋は少しだけ笑う。
それから歩き出した。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語では、大きな事件も、劇的な真実も描きませんでした。
遺品の中から見つかった一通の手紙は、亡くなった人の秘密を暴くためではなく、その人にも誰にも見せなかった時間が確かにあったことを、残された者へ伝えるためにあります。
私たちは、大切な人のすべてを知ることはできません。
けれど、知らなかった時間まで含めて、その人の人生だったと受け止められたとき、悲しみの形は少しだけ変わるのではないかと思います。
潮の匂い、群青の缶、夜の桟橋。
読み終えたあと、そのどれか一つでも心に残っていたなら、この物語を書いた意味があったように思います。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




