何光年離れていても
息を吸う。冬のよく冷えた空気が鼻の奥をツンと刺す。寒いけれど、深夜から朝方にかけての澄んだ空気がクセになる。大衆に消費されてしまった昼とは全くの別物だ。だからいつも夜に外へ出る時は大きく息を吸い込むのだけど、ついやりすぎてしまう。
呼吸をするたびに鼻が痛む。気にするにはあまりにも小さな痛み。その小さな痛みで僕を取り戻す。誰もいない屋外。自分を見失ってしまいそうな暗闇。街灯の無い田舎道を少しだけ照らす星と月。その全てと一体になって消えてしまいそうになる。
この痛みを感じなくなれば僕はどうなってしまうのだろう。その頃にはきっと春が来て、無視や鳥の鳴き声が聞こえるようになる。やがて夏になって蒸した重い空気に苦しむ。煩いくらい懸命に叫ぶ蝉だっている。それが終わったかと思えば、それ以外の無視がやはり大声をあげる。そしてまた、居心地の良い冬が訪れる。変わらず訪れる季節は僕を手放さない。いつもと同じ結論に辿り着くことに安心する。僕自身の変化は未だ起こらない。
ゆっくりと息を吐く。口の外に離れた温かい空気が結露して、まっ白い梅雨に姿を変える。停電するそれは進んでいく僕にかき分けられて散っていく。どこまでも続く線路沿いの道を耳が冷え切るまで歩いた。瞬きをするたびに、まつ毛が張り付く。寒気もいよいよ本気を出し始めているらしい。それでも足どりは軽い。そこそこの重量があるはずの荷物も、その重さをまるで感じない。
沿線から外れた空き地。それが僕の目的地だ。所有者不明。用途不明。粗大ゴミの捨て場と化したこの場所は誰も寄り付かない穴場なのだ。担いでいた望遠鏡を下す。体に染み込ませた手つきはあっという間に望遠鏡を組み立てて、レジャーシートとキャンプ用の椅子を二つ準備した。
まだ望遠鏡は覗かずに椅子へ腰掛ける。気の向くまま雲のかかった星空を見上げる。天気予報は晴れ。観測日和だと思ったがそう簡単にはいかない。雨の様子が無いだけ助かった。十二月中旬、今日の目当てはふたご座流星群だ。今年は満月が近くて、空がやや明るい。予報外れの雲が月を隠してくれれば、くらい流星まで見えるのだが。
「ごめんなさい星野くん、遅れちゃった」
横から聞こえた声に釣られて、そちらを向く。申し訳なさそうに言う彼女は、肩で呼吸をする程焦って来たようだ。流星群が始まる時刻まではかなり余裕がある。それでもなお彼女は急いで来てくれた。誠意あるのその行動が嬉しかった。
天文学部、活動開始だ。今日のメンバーは二人。僕と彼女だけだ。部員が僕たちしかいない、という寂しい理由からではない。三年生は大学受験を控えた忙しい人たちだし、一、二年生はもとよりこの活動に参加していない。学校での活動には出ているから文句は言わない。この場所でする天体観測は三年間続いた、僕と彼女の趣味から始まったのだ。学校は一切関与しない、ただの星好きの集いだ。満足するまで星を見て、心ゆくまで語り明かす。一月に一度の集まりは、最早僕たちの生きがいになっていた。
冬の大三角にオリオン座、牡牛座、ペルセウス。観測したい星が山ほどある。空気が乾燥して不純物が少ない冬という季節は星がいつもより良く見える。心を躍らせながら望遠鏡のレンズに目を近づけた。方角、倍率は調整済みだ。遠く離れた宇宙を見るために開発された人類の叡智の結晶。傲慢にも深淵に今日を抱いたからこそ生まれた奇跡。一個のレンズを見るだけで何光年も先のの景色を望むことができる、神秘の筒。肉眼では考えられない程、星たちを身近に感じる。遠くから響く電車の音が聞こえなくなるまで熱中した。果てしなく広がる暗闇に、無数の小さな光が並ぶ。一見規則性など無い奔放な輝きだが、知識がある者には違って見えてくる。
「星野くん、そろそろ時間だよ」
肩を叩かれて、ようやくレンズから目を離す。ずっと同じ姿勢でいたから体のあちこちが痛い。上に伸びれば背筋が悲鳴をする。軽く屈めば膝の関節はリズムを奏でた。彼女に言われたように腕時計を見る。百円均一で売っているシリコン製のありふれたものだ。キツく締めすぎたのか、食い込んだ跡がついている。
時刻は二〇時四十五分。今日、一番多くの流星が見られる時間帯は二十一時を過ぎた頃。集合を1時間前にして正解だった。僕らにとって星を見ている時間は、無限にして一瞬で制御不能なのだ。
「ありがとう夜久さん、今片付けるよ」
流星群を見たら今日は解散。刹那の享楽を噛み締める。芝生の広がる空き地に広がる空き地に、広げられたレジャーシートと少しの荷物。僕と彼女。誰よりも贅沢な環境で空を眺める。寝転がった地面には上着を着ていても伝わる冷たさがあった。始まらない流星群に期待を寄せる。隣には僕と同じように、大地に背中を預けた彼女がいる。少しだけ、本当に少しだけ顔を傾ける。
スッと伸びた鼻の先が赤らんでいる。橙色のマフラーが髪の毛ごと彼女の口元を隠す。覆いきれなかった数多ばの髪は風に揺られている。彼女は茶色の手袋をつけた両手を顔の前に運んで合わせた手のひらに、息をかける。凍りついた空気が煌めいている。彼女は上へ上へと進む白を惜しむように見ていた。中々始まらない流星群に退屈さを感じたのか、彼女は不意にこちらを向いた。目線を逸らす暇も無い出来事に戸惑う。彼女は僕のそんな気持ちなんて知らずに柔らかく微笑んで、またすぐに元の体制に戻ってしまった。
「あっ! あそこに見えたよ、流れ星!」
嬉しそうに目を輝かせて笑う。先ほどのよりも無邪気で真っ直ぐな笑顔だ。燃え尽きていった星に感謝しながら、彼女が指し示した方角を見る。星たちは遅れを取り戻そうと懸命に降り注いだ。予定外の雲は風に煽られて移動を続けている。月の光を弱める工夫も、流星を見やすくする遠慮もない。おかげで満足のいく観測結果とは言えなかった。
すっかり動くのが億劫になった左腕を持ち上げる。時計の針は二十二時少し前を指す。そろそろ切り上げなくてはならない。お互い成人したとはいえど、まだ高校生という事実に変わりはない。親の心配も、世間の目だってある。だから面倒事になる前に帰宅するというのが僕たちの約束だった。
「夜久さん、残念だけど時間だよ」
起き上がって声をかけるけれど反応がない。彼女は稀に僕以上の集中力を発揮する。顔の前で数回手を振る。少し顔を顰めて邪魔だと言うように払い除けられた。きっと本人は無自覚なのだろう。声を張って名前を呼ぶ。反応なし。軽く体を揺する。どうしたものか。
「失礼するよ」
僕が選んだ最終手段は、彼女を無理矢理にでも起き上がらせる事だった。肩と背中に手を添えて、上半身を起こす。視界から夜空が無くなってようやく、彼女は我に返った。寒さとは別の理由で赤くなる頬を見て、僕は思わず背を向けてしまう。もう全部終わってしまっている片付けを再開して誤魔化そうとする。落ち着いたのか、彼女は畳んだレジャーシートを僕に差し出した。撤収だ。荷物が入ったリュックと望遠鏡を背負って歩き出す。
目指す先は自宅ではなく、近くの駅だ。自然な動作で彼女の隣に並び立つ。電車の音にかき消されながら、他愛のない会話が続く。今日の感想、最近あった面白い事、ぼんやりとした将来像なんて次々と話題は移り変わる。その全てに彼女は適切な相槌を入れて、楽しそうに聞いてくれる。話べたながらも、僕自身が楽しんで話せるのは彼女の細やかな気遣いからだろう。
この集いがある時、僕はずっと夢見心地だ。好きなことをして、それを共有する。そしてその場には大抵彼女がいる。楽しそうな彼女の表情はいつだって僕に元気をくれる。何も返せていないけれど、この関係に甘えていたい。駅までの道のりは驚くほど短く感じた。幸せを感じる時間はいつだってあっという間に去ってしまう。彼女を見送ってしまったら今度は長い長い帰り道を辿ることになる。だけどもっと一緒にいたいなんて我儘、言えるはずがない。特別な個性もなくて目立たない僕が、明るくて誰からも好かれる人気者とこうやって関われているだけで、満足するべきなのだ。
満点の星空の下。僕は彼女に別れを告げた。彼女が改札の奥に消えていなくなるまで、その背を目で追った。僕はついに独りになってしまった。攻撃的な寒さが寂しさを強調して演出した。荷物の重みが少し増す。
届きそうで届かない、彼方の星に想いを馳せる。それはもし星を掴めたらなんて、とんだ妄想の話。こんなにも沢山の星があるのに、目指す一等星には辿り着けない。あるいは、現状を変えたくなくて意図的に辿り着こうとしていないのか。この焦ったい感情に気づいているのに、見て見ぬフリをしているのか。
友達というには仲が良く、親友と呼ぶには僕らは互いのことを知らない。部員やクラスメイトほど薄い関係でもない。この曖昧な関係は少しの寂しさと心地よさを伴っていた。この名前の無い関係に浸っていたい。
いつも通りの思考だ。異常はない。この考えが変わってしまったら。僕は全くの別人に変わってしまうのではないか。そんな恐怖が僕を苦しいながらも踏み留まらせている。それも高校生活が終わってしまえば、解放だ。そうしたら僕はきっと変わったといえる。変えられてしまった、の方が正確だろうか。それとも、普段通りを装う僕はもうとっくに変わっているのかもしれない。歓迎するものではない、確かな変化。目を背けた感情は自分の中にそっとしまう。
偽りの普通に縋るように何年経っても回り続ける星空を望み、冬の空気が纏う寂しさに調和していった。




