砂時計と虹 #6
ハリスは従者に連れられて城に戻り、砂時計の棚を見つめた。
アルの名が彫られた砂時計は他と変わらず動いている。反転させれば、山になって輝く青色ジルコニアがサラサラとまた流れ始め、時を刻み続ける。命は終わっていない。
「なのに……」
ハリスはそれがアルの喜びには何ひとつとして寄与しないことに苛立ちを覚えた。
自分のせいで彼女は死ぬよりも辛い永遠の闇をさまようことになってしまった。
砂時計を引き抜いて床にたたきつけてやりたい。アルを時間の呪縛から解放するにはそれしかない。だが、そうしてしまえば彼女は今度こそ本当に死んでしまうだろう。命が終わり、もう二度と彼女の姿を見ることも、彼女の声を聴くこともできない。
ハリスは怖くてどうすることもできなかった。
「くそっ!」
砂時計を壊せない自分に腹が立った。いっそ自分の命が尽きてしまったほうがいいかもしれない。そう思うものの、アルからかけられた最後の言葉が鎖のようにハリスを現世に繋ぎ止める。
――生きて、また会おうね。
そう約束した。してしまった。一方的な約束を取り付けるなんて最後までアルらしい。その優しさがどれほどハリスを苦しめるかもしらないで。
ハリスはやるせなさをどこにもぶつけることができず、砂時計を睨み続けるしかなかった。心を殺し、人々の砂時計を機械的に回転させる。祈りとも呪いともつかぬ気持ちが心をむしばみ、砂時計を回す指先に力を与える。永遠を司る砂時計を無心で回し続ける。むしろ、そうやってアルのことを忘れようかとすら思った。こうして永遠を生きていれば、そのうちに忘れられる日が来るのかもしれないと。
しかし、当然そんなわけもなく、一日と経たずしてハリスはアルの砂時計を何度も何度も見つめ、その度に反転させた。
彼女の時が再び動き出さないだろうか。そんな淡い期待を胸に。
何度繰り返したか、城の外に薄明が差し込み始める。気づけば朝が来ていた。窓から差し込む朝日が砂時計の棚を照らし、青色ジルコニアがふわりと淡い光を放つ。鳥のさえずりが聞こえ、外からはいつもと変わりなく生活を始める人々の音や声が増えていく。その中にアルを探してもいない。せいぜいアルの不在を嘆く人の声が聞こえるくらいだ。
「もう、いないんだ……」
ハリスはアルのいない街を見下ろし、窓ガラスに指を滑らせた。
いつまでも永遠に続くと思っていた。この国は不老不死の力を神から授かり、人との別れを惜しむ必要などない。毎日が幸せで満ち足りていると。
「でも……、そこに、アルはいないんだ」
どれほど美しい朝が来ようと泉の水はもう湧かない。濁った水が綺麗になることもない。水は流れ続けるからこそ美しさを保つものだ。岩や砂や木々や、時に雨となって命を循環させている。
「アルは……」
気づけばハリスの頬に一筋涙が伝っていた。
喪失が実感を伴ってハリスのもとへと押し寄せる。いや、それは喪失なんかよりもずっと恐ろしかった。彼女が永遠に生き続けるということは、二度と彼女には会えないということだ。失えば、たとえ違う形であってもいつかどこかでめぐりあえるかもしれないと期待を抱くことができる。だが、手元にずっと壊れたままで残ったものは。消えることも死ぬことも叶わずにその姿かたちのままで生き続けているものは。違う形でも再会することはできない。だって、それはそこにすでに存在しているのだ。魂がなくとも器がある。
「……っ!」
――なんてことをしてしまったのだろう。
アルは死を願っていた。愛した人の願いを聞かず、独りよがりな思いを押し付けて彼女を傷つけた。アルに永遠の暗闇を与え、自分はのうのうと光を浴びて生きているなんて。アルを笑顔にすることもできず、自分だけが傷ついたような顔で悲しんでいる。
アルはそんなことを一度も望んでなどいなかった。
気づいて、ハリスは涙を拭い窓から身を離す。向かう先はひとつだ。
アルの命の砂時計がはまった棚の前で足を止め、ハリスは深呼吸を繰り返す。
「アル、すまなかった」
震える指先が彼女の命の砂時計に触れる。これを作り上げた時、ハリスは安堵にも幸福にも似た気持ちを覚えたはずなのに。今は過去の自分を憎んでいる。どうしてそんな酷いことをしたのだろう。
ハリスもまた、アルに似て純真無垢な少年のままだった。
父の死と母の死を前にして喪失を恐れ、二百年を生きてなお人の死を怖がる臆病者の少年のままだった。
「アル……」
すまない、と謝罪を飲み込んで、先ほどは振るえなかった腕を力いっぱいに振るった。
ガシャァァンッ!
激しい音が響き渡る。
一瞬のできごとだった。
ガラス片も、閉じ込められていた青色ジルコニアも命の輝きを放って床に瞬き、ハリスの足元をきらめかせる。小さな粒はしかし鋭利でハリスの足裏に突き刺さっては消えない痛みとなって足元を赤く染めていく。
この赤を辿っても、その先には誰もいない。
運命の糸とは違う。
あるのは最愛の人を失った悲しみと孤独だけだ。
「……アル」
ハリスは切り傷がついて血だらけになった足を動かし、城を飛び出した。
昨日、アルと抱き合った泉へ。
従者を置いて馬を走らせ、朝日の眩しい街を駆け、森の入り口に馬を乗り捨てて、小道を抜けた。
「アル!」
ハリスは声の限り叫ぶ。
これが最後の逢瀬だ。彼女との短くも愛おしい日々は今日で終わる。永遠などない。
ハリスはただの人の子で、アルは水の妖精なのだ。
息も絶え絶えに緑の草木生い茂る先、開けた道を突っ切って一瞬目が眩んだ。
まばゆいばかりの青が陽に煌めいて爆ぜる。
「アル!」
声が届いたのか、天へと立ち昇る一滴、泉の妖精の青い目が見慣れた形に細められる。
「ハリス、ありがとう!」
溌剌とした声はしかし風にかき消されていく。
声とともについ昨日までは潤っていたはずの大地は土と砂に戻っていく。
アルの青い瞳が静かに閉じられる。
「またね」
少女の声が空に吸い込まれると、晴天からぱたりと雨雫が国中に降り注いだ。突然の天気雨に、森の向こうから国民たちの戸惑いや驚きの声が聞こえる。
ハリスは空をひとしきり仰いで泉を後にする。彼の頬に流れていたそれが雨なのか涙なのか、森を抜けたころにはもうわからなくなっていた。
やがて雨があがると空に大きな虹がかかった。
みな、足を止めて七色の橋を仰ぎ見る。
誰もが、いつかアルが作りだした虹を思い出していた。




