ある特別な冬の日の朝
気がつけば、俺が彼女と別れてもう、かれこれ一か月以上も経つのか。それに、さっき駅を降りてあらためて実感したが、そうか。今日は2月14日のバレンタインの日だ。
確かに、もう何日も前からどこのコンビニにもバレンタインのための宣伝ポスターや販売コーナー。今も、昼ご飯を買っておこうと入ったセブンのすぐ入り口には高そうなチョコが棚積みにされている光景だ。
久しぶりに一つももらえない年になるのかと思えば少し虚しくもなるが、別にだからと言ってそこまで落ち込む程のことでもない。俺はそそくさと安い菓子パンと飲み物をいつもの様に選んでレジを済ませる。
「ありがとうございましたー」
それにしても、外に出るとあらためて今日は寒いと感じてしまう。最近はそれなりに暖かい日も増えてきていたはずだったのだが、本日はまさかの雪。
まあ、今も少し雪が積もっている道路の向かいの歩道には、朝から楽しそうに手を繋いで大学生カップルたちの姿がちらほらと視界には入ってくるが、そうだよな。クリスマスやバレンタインみたいな特別な日は雪が降っていた方がテンションが上がる。少なくとも俺はそのタイプの人間だったから、彼ら彼女らの気持ちがわからなくもない。
ただ、10年後、彼らのうち一体、何人のカップルが今のまま付き合い続けているのだろうか...なんて野暮なことをこのままだと考えそうになってしまったから俺はまた視線をこちらの自分がいる方の歩道に戻して会社に向かって歩きだす。
そして、そのまま5分も歩けばもう俺が働く会社のビルだ。
今はもうエレベータも降りて、さっきとは打って変わって暖かい安全地帯のなか、自分のデスクの上で始業時間まで一人静かに珈琲をこじんまりと啜っているところ。
そして案の定、朝から今年も部署の皆に、会社の後輩である彼女が例年通りに市販の小さなチョコレートを眩しい笑顔や甘い声と共に配っている光景だ。
「ありがとう、今田ちゃん、10倍にして返すね」
「全然です。本当に皆さんにはいつもお世話になってますので。そんな、お返しなんていりませんよー」
そんなことを言っているが、彼女。今田 結衣の可愛らしい顔にはしっかりと100倍返しで返せよと書いているのがにじみ出ている。
「よし、これで全員に義理チョコは配り終わりました! 皆さん、本当にお返しは要りませんので。本当に要りませんからね!」
大きな声で二回言うあたり、何が何でもお返しは返せということだろう。
「えー、俺だけ実は本命なんてオチはない? てか、義理チョコはってことはやっぱり本命がいるってことー。誰? この会社? それとも取引先? それとも俺の全然知らない人!? 課長の俺にだけ教えて。絶対に言わない。誰にも言わないからさー」
「フフッ、いくら課長であってもそれは秘密です」
そして、ハゲ。ここはキャバクラじゃないぞ。ジジイの分際で朝からデレデレとしやがって。俺らにもその笑顔をほんの一欠片でもいいから向けて見ろ。
大体の話、彼女に彼氏がいないわけがないだろうが。今だってあからさまなお返し目当ての義理チョコだってわかっている癖に部署の男どもは全員が全員、既婚者や未婚者関係なく、鼻の下を伸ばしまくっていた。
どうせ、彼女には医者とかIT社長とか、俺らが想像もつかないような高学歴 高身長 高収入な彼氏がいるのだろうにだ。
まあ、ただ正直、俺もその気持ちがわからないわけではない。
去年、俺も彼女から同じ様にあからさまな小さな義理チョコをもらったが、誇張抜きでアイドル級の容姿をした彼女から、あの甘い声で上目遣いで見つめられながらチョコを渡されてみろ。誰だって鼻は伸びるし、顔も赤くはなる。
俺は必死に顔に出ない様にしたが、いくら彼女や妻がいるとはいえ生理現象レベルでおそらくほとんどのものはそうなることだろう。決して長身とは言えないが、そのスーツはもちろんのこと、どんな洋服でも似合ってしまう、男の下心を無条件にくすぐってしまう様なスタイルがそのことに拍車をかけていることは言うまでもない。
おそらく、彼女はセルフプロデュースがとてつもなく上手い。すべてわかって計算の上で行動をしている。
それをわかった上で、色んな男が手玉に取られるのだ。防御不可避。彼女に狙われた男はもうどうしようもないことだろう。
どこから知ったかはわからないが、彼女と別れたことを真っ先に励ましてくれた女性も実は彼女だった。正直、何とか踏みとどまったが、ちょっとその優しさから勘違いしてつい惚れてしまいそうになったまである。
とにもかくにもだ。俺のような男に対してもそういう気配りをするところが本当に抜かりないし、そこが彼女、今田 結衣が完璧な女性と数多の男たちから言われている所以であるのだろう。
まあ、少なくとも、そんないつも完璧な彼女が皆に配り終わったと言っている義理チョコを配り忘れられている俺が彼女に狙われることは、絶対にないのだがな...。
ちょっと、これは普通に悲しい...。今年に限って追い打ちをかけるようにそんなことってある?
何だかんだで例年通り、彼女からの義理チョコによって今年の獲得チョコ数が0になることはないと実際は思っていたのだが、まさかの俺だけ完全に忘れられている。
今日も普通にエントランスでは愛想よく挨拶もしてくれたし、何なら最近は会話することも増えたと勝手に思っていたのだが、所詮、俺は俺だったようだ。
まあ、俺は長年付き合った彼女にプロポーズ後に浮気されている様な男だからな...。そんなもんだ。彼女にとっては俺は本当に蟻みたいな矮小な存在でしかないのだろう。わかりきっていたことだ。
ゆえに初めから、彼女とどうこうなりたいなんて気持ちもないのだから、別にどうでもいいことだ。
そんなことを考えながら、俺はまだペットボトルの中に残っているブラック珈琲をちまちまと口に含む。
あぁ、気のせいだろうか。いつになく苦い。何でだろうな。
別に気にしていない。俺だけもらえなかったことに対して気にしているなんてことは絶対にない。
「成宮さん、おはようございます。あ、その珈琲。美味しいですよね。私もよく飲むんです」
「え? あ、戸田さん。おはようございます。美味しいですよね」
「はい。ほら、私もです。一緒ですね」
「はは、これ良かったらどうですか。さっき一本買ったらもう一本無料券もらったんです。どうぞ」
「え、いえいえそ...いや、ではお言葉にもらっていただいてもいいですか。あとでまた絶対にお返ししますね」
「いえいえそんな、珈琲一本ですのでそんなお返しなんて。いつもお世話になってますので逆に僕からのそのお礼です。どうぞ」
そして、今、目の前で笑顔を俺に向けてくれている美女の名前は派遣社員の戸田舞美さんだ。
これまでは本当に仕事の話しかしてこなかったが、最近は何か向こうからよく些細なことであるが、話をしてくれることが何故か増えた。
素直に美女から話しかけられるとテンションが上がってしまう自分がいる。クールそうに見える女性が、楽しそうに笑みを向けてくれるこの状況。ギャップで朝からもうやばい。
さっきまでのマイナスだったテンションが一瞬でにプラスに戻ってしまうぐらいには。
心なしか、苦いことに変わりはない珈琲もいつものちょうどいい苦さにもどるどころか、あり得ないが、ちょっと甘く感じたりもする。
いや、それはちょっと言いすぎか。
まあ、とにもかくにもだ。もう間もなく仕事も始まる始業の時間。
そう。俺は会社にチョコをもらいに来ているわけではない。働きにきているんだ。
とりあえず、まだちょっと時間あるし、ちょっとお手洗いでも行ってこようかな。
でも、そうか。心底どうでもいいけど、今年はやっぱり0か...。