後輩 今田 結衣
あー、残業が憂鬱すぎる。年々、人員は減るのに業務は増えていく。何でこんな矛盾が平気で生じる社会になってしまっている。今月これで残業何時間だ。
もう、会社の時計の針は20時を指している。そしてまだまだ終われる気配はない。今日はもう色々とありすぎて1日が3日ぐらいに感じてしまう。
特に仕事を押し付けるだけ押し付けて自分はすぐに帰るハゲが本当にムカついて仕方ない。まあ、いられたらいられたで、それは嫌すぎるけど。
とりあえず、もう、珈琲を飲むのも面倒くさいレベルで疲れた。と言うか、こんなにカフェインをブラックで飲んで俺の身体逆におかしくなったりしていないのか? いや、それでも眠たくなるんだ。もう既におかしくなっているのかもしれない。
まあ、眠れなくなったら本当にやばいサインだと言うし、それを考えるとまだ大丈夫だとは信じたい。
と言うか、さっきから、ずっとその姿が俺の視界に入ってきて気になっていたのだが、普通に珍しいな。
今田さんが残っているなんて。
別に嫌味などではなく、彼女は優秀で要領もいい。むしろ、彼女の年齢からすれば十分すぎるほどに仕事はしてくれている。仕事が早い人は早く帰れる。それが本来の社会のあるべき姿だ。
でも、そういえば今日、彼女は別の部署の誰かから飯に誘われて、予定があるって断っていたよな。断られた方の男があんまり好きな奴ではなかったから心の中でざまあ見ろとほくそ笑んでいた記憶あるのだが、大丈夫なのだろうか?
そんなことを考えながら、俺は静かに席を立って彼女の席へ。
「えーっと、今田さん。お昼にちょっと聞こえてきたんだけど、今日用事あるんじゃなかったっけ。もし、あれだったらそれ。俺やっとくけど...」
チョコもくれたし。もちろん、別にそれをお返しだなんていうつもりはないから口にも出さないが、あれはそういうことだろ。よくよくあの後も俺は考えていたのだが、最近、ちょうど彼女はかなり重めの仕事を上から任されたことに気がついた。
つまり、そういうことだ。
あのチョコ分で可能な限り最後まで私の駒として働いてくださいね。と言う意味だということだろう。おそらく一番チョロそうな俺に白羽の矢が立てられた。
そんな感じがする。ようやく自分の中でも合点がいった。まあ、どっちにしろ実力は一旦置いておいて一応ポジション的には俺の方が上だから言われなくても手助けはするつもりなんだけど。って、そうか。こういうところがチョロイのか...。
あと、今の声のかけ方は我ながらちょっと気持ち悪いな。何かはっきりと盗み聞きしたことを主張したみたいで。普通に言葉を間違えた。
「え? 用事? ん? って、あー、全然です。ふふ、あれ嘘ですので。あの人しつこいんです」
「え、嘘?」
「はい。実際、以前まではああいうお誘いも奢ってくれるならありかなーなんて思って行ってたんですけど。そういうのも、もう止めよっかなーって。勘違いされても面倒なんで。あ、もちろん全部本当にご飯を奢ってもらってただけですので、そこは絶対に勘違いしないでくださいね」
「え、あぁ、もちろん」
嘘なのか。やっぱり色々とすごいな今田さん。
「あ、成宮さん、今私のこと尻軽とか思っていませんか。私、こう見えてガードは本当に硬いんですからね」
「え、あ、ハハ...」
「え、ちょっと何ですかその反応。ひどーい。成宮さんだけには私そんな風に思われたくないのに。私、本当に好きになった人には一途なんですからー」
「ハハ...」
「いや、絶対信じてくれてないじゃないですかぁ」
そして、そういって耳がとろけそうになるぐらいに甘ったるい声と共に、優しく俺のお腹をグーでポンポンと叩いてくる彼女。今田結衣。
いや、あざとい...。
「じゃあ、わかりました。私、もう興味のある男の人としか一緒にご飯には行きません。ふふ、それでいいですか?」
「いやいや、そんな。普通にご自由に」
「いえいえ、もう決定しましたので」
ま、まぁ、本当にそれはご自由に。俺には全く関係ないし...。
でも、あらためて凄いとどうしても思ってしまう。今田さん。
今もそうだが、何で常時そんなに周りに愛想を振りまいていられるのだろうか。今も、もう係内には俺と彼女しかいないと言うのに、それでも常に彼女は満面の笑顔で俺に対してずっと受け答えをしてくれ続けている。
このルックスでこの愛想、そして仕事も普通にできる。そして全員に欠かさずに公平な気配りができる。可愛いだけではなく、本当に完璧すぎてこわい女性だ。
その首元まで伸びるブラウン色のお洒落なショートボブの髪型も、まさに彼女のために生まれてきた髪型と言っていいほどに今田さんに似合っている。
本当に自己ブランディングが上手な女性だ。
今までは傍目で彼女に対して色々としてあげている男性に対しても下心満載のバカな奴らぐらいにしか思っていなかったのだが、最近ようやく俺も理解してしまった。
彼女をぜひとも手助けしたいと思ってしまう男どもの心を...。
正直、大げさであることはわかってるが、これは洗脳に近いかもしれない...。
「とりあえず、本当に大丈夫? もし、しんどかったら何でも言ってくれたらいいから。まあ、頼りになるかはわからないけども」
「はい。とりあえず今は大丈夫です。でも、嬉しいです。さっきも私の嘘のせいで心配させてしまってすみません。ほんと成宮さんって頼りになるし、優しいですよね」
「いや、別に...」
そしてまた何だ。その可愛いをまさに体現したような笑顔は...。
それに、さっきから、今田さんは座って、俺は立って話をしている状態だからどうもそんなことはないのだろうが、上目遣いを俺に向けられ続けている様な感じがしてちょっと...
ほんとヤバいな...。この前の高級なチョコといい。
別にどうこうなりたいなんて厚かましいことは全くもって思ってもいないが、俺が男としてチョロすぎることが本当にやばいことだということは、あらためてわかった...。
本当に、以前まではここまで変に色々考えることなんてなかったはずなのだが、何か色々やっぱりおかしくなってしまっているよな、俺。
「ちなみに今日は成宮さんは何時まで残られるんですか?」
「えーっと、いけるところまでとは思っていたけど、もう21時には帰ろうかな」
まあ、全然、終わってないけれども、後は明日の俺に何とかしてもらおうとしか思えない思考回路になってしまったから21時だ。今決定した。
「え、今田さんは?」
「あ、ちょうど私もそのぐらいに帰ろうと思ってたんです。ふふ、一緒ですね。頑張りましょう」
「あぁ、頑張ろう...」
頑張ろう...明日の俺。
でも、今日の俺が朝からもう色々とありすぎて限界なのだから仕方がない。
今も、もう頭ではなく本能で明日の会議の資料作りをしているところ。とにかく今日はこれさえ終わらせておけば何とかならないが何とかなる。そう信じている。
「あ、そうだ。成宮さん。もうご飯食べました?」
「え、いや、まだだけど」
正直、晩飯まで職場で食べるのは普通に嫌。
「すみません。じゃあ、もし良かったらなんですけど...。最近この辺りにできたラーメン屋知ってます?」
「あぁ、知ってる」
ちょうど、別の奴と昼にその話題で盛り上がってたところ。俺も近々行こうと思っていたら知っている。
「本当に成宮さんさえ、成宮さんさえ、良かったら何ですけど。この後一緒にどうでしょう...。ちょっと、一人ではやっぱりラーメン屋に女一人では入りずらくて...」
「え、あぁ全然いいよ」
「本当ですか。やった。ありがとうございます。あそこに行きたくて仕方がなかったんです。やった。あと1時間頑張ります!」
いや、さすがにラーメンぐらいは全然。それぐらいの金はさすがに俺にもある。昼のあいつみたいに高い寿司を奢ろうとするのは普通に躊躇してしまうだろうが、ラーメンは余裕だ。
まあ、結婚のために貯めていた金が普通にあるから寿司も完全に無理というわけではないが。
ただ、今田さん。さすがにラーメンぐらいでその嬉しいそうな表情はわざとらしすぎる。さすがの俺もその笑顔には騙されない。そこまで単純ではない。
騙されなんて...しない。
でも、ちょっと意外だ。ラーメンとか食べるタイプなんだな。今田さん。
まあ、でも、そうか。相手が俺だから気を使う必要ないからな...。
納得だ。
そういや、よくよく思い返したら、付き合いはそれなりに長いが意外にも地味に初めてかもしれないな。集団ではなく、こういう感じで俺が今田さんに奢るの。
まあ、とりあえず、俺もあと1時間頑張るか...。
ラーメンのために。