雑音だらけの第九
最初、その話を聞いたのは駅のホームだった。
人身事故の影響により、いつも会社に向かう時に乗る電車が遅れていて、ホームでぼんやりしながら電車を待っていた時だ。後ろで話す二人の女子高生の会話がたまたま聞こえてきた。
「この話、割と近所らしいよ。怖くない?」
「聞いた聞いた。塾の先生がさ、そのおじさんっぽいのを見かけたって」
「え、マジで?」
怖い話でおじさんということは不審者だろうか。昨日見たニュースを思い出すけれど、心当たりがない。かなり小さいローカルな話で、学校や塾で注意喚起された不審者情報かもしれない。
子どもの頃、友だちの家で遊んだ帰りに、変な男に追いかけられたことがある。夕暮れ時、一人で帰っていると後ろから誰かにつけられている気がした。最初は気のせいかと思ったが、気になって振り返ると5メートルほど後ろに知らない男がいて、おれに向かって手を伸ばしてきていた。おれは男を見て大慌てで逃げ出すと、男は何かを叫びながら追いかけてきた。
血走った目で、涎を垂らしながら追いかけてくる上半身裸の白ブリーフ男。そのインパクトは強烈だった。幸いこっちは自転車だったのでなんとか逃げ切ることができた。
帰宅後すぐに母に言って警察に連絡してもらったが、不審者は捕まらなかった。事を重く見た大人たちにより一週間ほど集団登校が義務付けられ、下校時には保護者が迎えにくることになった。そのおかげか、二人目の被害者は出なかったが、おれは夜道が怖くなった。
夜道が怖くなってから、おれは放課後に友だちと遊びに行く頻度が減り、学校から帰ると家に引き篭もりがちになった。中学、高校でも部活に入らず、おれがトラウマを克服できたのは二十歳を過ぎてからだった。
嫌な過去を思い出して気分が沈んでいるうちに、女子高生たちの会話は進んでいた。
「でも、どうしてラジカセなんだろうね?」
不思議そうに話す声が聞こえたが、会話の前後を聞いていなかったので、おれには意味がわからなかった。いつの時代も不審者がやることなんて意味不明なんだな、おれはそう思って会話を聞くのをやめた。
次にその話を耳にしたのはテレビだった。
仕事から帰り、何気なくつけたテレビから流れてきたのはつまらなさそうな心霊番組だった。着替えながら見流していると、出演していた若い男性YouTuberが最近気になっているSNSの話題について話していた。
「なんだか不気味なんです。別にホームレスのおじさんがラジカセを持っててもおかしくないじゃないですか。でも、それをおじさんがわざわざ聞かせようとしてくる。しかも、それを聞いたら死ぬそうなんですよ。どう考えても荒唐無稽な話なのに、何故かそれが話題になってる。それが気になって気になって」
男性YouTuberの話を聞いて、二週間ほど前に駅のホームで聞いた女子高生の会話を思い出した。あれも確かおじさんとラジカセの話だったはずだ。でも、聞いたら死ぬってどういうことだろう。
気になったおれはテレビを少し真剣に見ようと思ったが、男性YouTuberの話は特に掘り下げられることもなく次の話題に話は流れていった。
その後しばらく心霊番組を眺めていたが、ヤラセ感満載のつまらない内容ばかりで、おれはチャンネルを変えた。
その次に不審者の話を耳にしたのは馴染みの居酒屋だった。
「知ってます? 最近この辺りに出る不審者の話」
カウンターで一人でビールを飲んでいると、三十半ばで歳の近い男性店主が話しかけてきた。狭い店内、いつもなら五、六人客がいるのだが今日は珍しくおれ一人だった。
「不審者? それってもしかしてラジカセを持ったおっさんの話?」
おれがそう聞くと「なんだ、もう知ってたんですね」と、店主は残念そうに言った。
「いやいや、ちょっと聞いただけでよく知らないんだ」
「あ、そうなんです? 大した話ではないんですけどね、ここ最近汚いおっさんがうろちょろしてるんですよ」
残っていたビールを飲み干し、おかわりを頼むと、店主は話しながらもすぐに空のジョッキを回収して冷えたビールを出してくれた。
「地面まで伸びたぼさぼさの髪に、汚れて灰色になったシミだらけの服。古くてでっかいラジカセを持ったおっさんを見たって話をよく聞くんですよ。ホームレスなんて珍しくもないけど、そのおっさんはあまりにも汚くて一度見たら忘れられないんですって」
店主の話を聞いて、おれはちょっとがっかりした。不審者と聞いて何か事件でもあったのかと野次馬根性が顔を覗かせたのに、正体がただの汚いおっさんだったので、つまらなく感じてしまった。
「ここに来るお客さんの何人かも見たって言ってましたよ。もう本当にめちゃくちゃ汚いんですって。あと、持ってるラジカセからはラジオが流れているみたいなんですが、雑音がひどいみたいです。それでおっさんは『聞こえない聞こえない』ってぶつぶつ言ってるんだとか」
近所に出没するおっさんの正体がしょぼい不審者だとわかってから、店主の話に対しておれの興味は完全に失せていた。その後も店主はおっさんの情報をいくつか話してくれたが、ちゃんと聞いていなかったのでよく覚えていない。
朧げながらも唯一覚えているのは、おっさんが雑音しか流れないラジカセに向かって「ダイク」と話しかけているのを見た人がいるという話だった。ラジカセに名前をつけるホームレス。汚い格好をした寂しい高齢者を想像して、おれは気分が下がりその日はそれ以上飲むのをやめて店を出た。
この話を思い出したのは、仕事帰り、真っ赤な夕日に照らされながら家に向かって歩いていた時だ。駅前の寂れた商店街を通り抜けて、小さな路地を出た所にある自動販売機の横に、黒くて大きな塊が置いてあった。
最初は夕日が眩しくてよく見えず、粗大ゴミかと思った。人通りの少ない道だ、誰かが捨てたのかもしれない。今も歩くのはおれだけだ。でも、何かひっかかる。おれは自動販売機の横の黒い塊から目が離せなかった。
近づくにつれて徐々に塊がはっきりと見え、黒い塊の正体が分かった時、おれは思わずぎょっとした。黒い塊は汚れて黒くなった服を着た、髪の長いおっさんだった。
おっさんは自動販売機の隣に座って、瞬きもせずにラジカセを眺めていた。肌も真っ黒に日焼けしていて、全身が黒々と見えたため遠目では人だと気が付かなかった。
汚い服と髪を見て、おれはすぐ数日前に居酒屋の店主が話していた不審者のおっさんだと気がついた。なんだ、やっぱり普通の人間じゃないか。普通ではないけれど、危害を加えてきそうな危ない奴ではない気がした。
「聞こえない、聞こえない」
おっさんの前を通り過ぎる時、ぶつぶつと呟く不気味な声が聞こえた。何もかも噂通りだ。何が聞きたいのかはわからないが、ラジカセからはノイズすら鳴っていなさそうだった。おっさんはきっと頭がおかしいのだろう。
自動販売機の前を通り過ぎて少し歩いた時、突然おっさんが大きな声で叫んだ。
「聞こえた! ダイクが聞こえた!」
大きな声に驚いて、おれは思わず立ち止まり振り向いた。すると、おっさんが嬉しそうにラジカセを持って飛び跳ねていた。着地する度に汚くて長い髪が地面に擦れている。そんなおっさんの姿を見てしばらく唖然としていると、おれは雑音混じりだが何か音楽が流れているのに気がついた。
音楽は少しずつ、少しずつ、雑音と共に大きくなる。音源はおそらくおっさんが持つラジカセ。雑音のせいで何の音楽かなかなか判断がつかなかったが、聞いたことがある部分が流れた時、おれの頭の中にタイトルが浮かんだ。
第九、正確には交響曲第9番だ。
ベートーヴェンの最高傑作の一つとして言われる第九、それが何故おっさんのラジカセから聞こえるんだ? そんな疑問が頭に浮かぶが、どんどん大きくなる音量に頭が痛くなりおれはそれどころではなくなった。
頭痛だけじゃない。第4楽章の合唱が聞こえ始めた時、一瞬にして全身に鳥肌が立った。決して合唱に感動したからじゃない。雑音と共にたくさんの声が四方八方から襲いかかってくるような、そんな気がしたのだ。
声と共に大きくなるプレッシャーのせいでおれはまともに立っていられなくなった。抵抗も虚しく、膝から崩れるようにその場にしゃがみ込むと、おれはその場から動けなくなった。
まるで何かに締め付けられているかのように、胸は痛く呼吸もままならない。鼓動は早くなり、自分の耳元に心臓があるんじゃないかと思うぐらい、ドクンドクンと大きな音がする。おれはたくさんの音に包まれ、朦朧とする意識の中おっさんを見た。そして、戦慄した。
おっさんはすぐ目の前でおれを見下ろし、ニタニタと笑っていた。
「聞こえたろう? お前も」
血走った目、口はだらしなく開いていて両端からはだらりと涎を垂らしている。何者なんだこいつは。そんな疑問が浮かぶと同時におれは子どもの頃の記憶を思い出していた。
子どもの頃、不審者に追いかけられた時、何が一番怖かったって、追いかけてきた男がずっと笑っていたことだった。血走った目をしているのに満面の笑みをしていた。そのアンバランスさが怖くておれは泣きながら自転車で逃げたんだ。
何故、今更そんなことを思い出したのか、理由は単純だった。目の前のおっさんが、小さな子どものように邪気のない笑顔をしていたからだ。おっさんの笑顔を見て、おれを追いかけてきた男も笑っていたなあと思った。
雑音を伴いながらも、頭が割れそうなぐらい大きくなった第九の合唱に、耳元で鳴る心臓音。視界はどんどん霞んでいき、音の海に溺れたおれは全く息ができなくなった。まるで深い海に沈められているみたいだ。
すぐ側で見下してくるおっさんの気配を感じながら、おれの視界は真っ暗になった。