髭マトリョーシカ男爵
問題の町、インベックへ向かう道すがら、俺はロイドから追加の説明を聞いていた。
「立ち退き問題の解決が、なんで国家の威信につながるんだ?」
「それはもちろん、中央街道の全道開通が掛かっているからですよ」
街道の工事は国が主導で行うが、敷設される土地の買い取りや住民への説明などは、各地方の役人が管轄している。
インベックはもともと宿場町ということで、町の中心に街道が誘致されるのは大歓迎だったそうだ。
インベックから東の街道は、かなり古くからある道だ。
国の中心から東の関所までの最短ルートにあたり、昔から多くの旅人が利用してきたという。
だがこの東の街道は、沼地の続く一帯で、道も狭く馬車には向かない。
このため、これまで馬車で東に向かうには、ずっと北の山裾のルートまで迂回するしかなかった。
だがこの工事で、沼地の道は広げられて石畳が敷かれ、必要なところには橋が架けられた。
途中休憩にちょうど良い立地であるインベックは、街道が完成すれば多くの宿泊客でにぎわい、町は潤うことだろう。
工事は着々と進んでいったというが。
「ですが、最後の一件の店の立ち退きを巡って、当初歓迎していた街道沿いの住民の半数が反対に回ったそうです」
この町の小領主であるインベック男爵は、店主に対し何度も説得を試みたが、顔を合わせるほどに店主は頑なになり、やがては店主に味方する住民たちも敵対姿勢を見せ始めた。
「男爵としては、無理やり立ち退きをおこなって住民との間に禍根を残したくない。ですが、国家の大事業をひとりの住民のためにストップさせるわけにはいかない。そのジレンマに苦しんで、ウェリスター家に助けを求めてきたのです」
「話を聞く限り、住民思いの良い人そうだな」
「ええ、善良で実直、とても良い方ですよ」
ロイドが手放しに誉めるのも珍しい。
会うのが楽しみになってきた。
町の入口に到着すると、ひとりの男が立っていて、俺たちに声をかけた。
「男爵、お久しぶりです」
「ロイド様、ご無沙汰しております。こちらが……?」
ロイドが頷くと、男爵はうやうやしく首を垂れた。
「はじめまして、ノエル殿下。この町の自治を仰せつかっている、トーマス・インベックです」
「はじめまして、インベック卿。ノエルです」
気軽にトーマスとお呼びください。とにこやかに答える男爵の顔に、俺は大注目していた。
太めに美しく整えられた口ひげが、頬の上で四十五度に鋭く跳ね上がっている。威厳があってめちゃくちゃカッコいい。
邸への案内をする伯爵のあとを、俺はテンション上がり気味でついて行った。いいな、あの口ひげ。俺もやろうかな。あ、今ひげ生えないんだった。
邸の部屋に通された俺は、さらにテンションが爆上がりしてしまった。
「長男のトビアスと、次男のトレーシーです」
紹介された息子たちは、父親と並んできれいに階段状になる身長差で、三人ともカッコいい口ひげだった。
俺は他国の民芸品にある入れ子状の人形の置物を想像した。髭バージョンの置物があるなら、ぜひとも手に入れたい。
「殿下には大まかなところをご説明していますが、もう一度男爵の口から、詳細をご説明願えますか」
もちろんです。と男爵は大きく頷いた。
「立ち退きを拒んでいるのは、ひとりのお婆さんが営んでいる駄菓子店です」
町に一軒だけの駄菓子屋は、町に生まれ育った子供たちにとっては特別な場所なのだという。
「私も子供のころは、お婆さんの手製のヌガーが食べたくて、使用人の目を盗んで何度も店に通ったものです。この子たちだって、あの駄菓子屋にはお世話になっている」
男爵にとっても、店は大切な存在だった。
だけど、この町の将来を考えれば、店を移転するしかない。
男爵とその部下たちは、条件の良い土地の用意や、立ち退きの謝礼に加えて建て替え費用の全面負担など良い条件を提案していったが、譲歩するほどにお婆さんは頑なになっていった。
「あんたたちはお金のことしか頭にないのかい! あたしはどんなものより、この店が大切なんだ」
そう言ってけんもほろろに追い返される始末。
俺はちょっと涙が出そうになった。慕っていた駄菓子屋のお婆さんに金の亡者呼ばわりで追い返された男爵はどんな気持ちだっただろう。
「わたしの今の見てくれでは、どうあがいても無理やり庶民を従わせる権力者と思われてしまうのでしょう。ですが、お若く、物腰柔らかな殿下でしたらあるいはと思うのです」
……うん、わかった。威厳もなく庶民的な見た目の俺ならざっくばらんに話してくれるかもしれんと。
男爵はいい人だからそんな嫌な言い方はしないが、要はそういうことだな。いつか絶対口ひげを生やして威厳あふれる男に、俺はなる。
ところでさっきから気になっているんだが。
「あの、次男のトレーシーさんは、どこか具合が悪いとか?」
長男トビアスさんの肩口からそっとこちらを覗き込んで、なにやらモジモジとしている。
「ああ。困った子だな。トレーシー、ちゃんとご挨拶なさい。お伝えしたいことがあるんだろう」
「ひぇっ、あの、その……殿下におかれましては、たいへんお美しく……」
言いかけて、顔を真っ赤に染めて隠れてしまった。
男爵がため息を漏らす。
「実は殿下あてに、トレーシーとの縁談の申込をしていたのです」
「えっ」
あの釣書の山に彼の縁談も……?
どうせ権力の亡者か冷やかしかとしか思ってなかったから、ろくに見もしなかった。
しまったな、名前ぐらいは確認しておけばよかった。
「いや、その……いろいろと慌ただしかったもので……」
いいのです。と男爵は首を振る。
「我々のような下級貴族が釣り合うお方だとは毛頭思っておりません。ただ、これでトレーシーが納得するならと思ってお送りしたのですから」
男爵によると、俺は幼いころトレーシーに合ったことがあるらしい。
その時トレーシーは、俺のことを女の子と間違えて一目ぼれしたそうだ。
我ながら幼少のころは、花も恥じらう美少年だったからな。致し方のないことと言える。
成長した今がどうかって? 聞いてくれるな。
「当時は子供の言うことだからと微笑ましく思っておりましたが、数年経ってもどうしても殿下と結婚したいのだと言ってきかなくて。殿下は男性なのだと諭してようやく納得したものの、長いこと落ち込んでいたのです」
成長した今、トレーシーは初恋は実らないのだと納得しているが、俺が女性になったと聞いて最後に想いを伝えようと思ったのだそうだ。
「並みいる優れた男性たちと比べられ、断られるのなら納得がいくと。そんなつもりで縁談を申し込んだのです」
トレーシーは気の毒なほど顔を赤くしていた。
口ひげの威厳に誤魔化されていたが、よく見ると随分と若そうだ。
「ええと、トレーシー。きみ幾つなの」
俺ができるだけ気安い口調で聞くと、隠れるのをやめて答えた。
「今年、十六になりました」
二つ下か。やっぱり若い。
困ったやつだな。俺なんかに一目ぼれして貴重な青春を棒に振っちゃうとか。
俺も人のこと言えるほど青春時代を謳歌してないけど。
お互い困った野郎同士ってわけだ。
「あのさ、俺が女の子になりたがってたって聞いてると思うんだけど、誤解なんだ。これはちょっとした事故というか……そのうち、男に戻るつもりだ。だからさ、気持ちは嬉しいんだけど、君の気持ちには応えられない」
ごめんな、の思いを込めて、俺はトレーシーの手を握った。
トレーシーは、こくり、こくりと何度も頷いた。
「お待ちください!」
男爵の部下に案内されて駄菓子屋に向かうところ、後ろから呼び止められた。
「トレーシー、どうしたんだ」
走ってきたトレーシーは、息を整えると俺に黄色い花束を差し出した。
「お礼……がしたくて」
「お礼?」
トレーシーは頷く。
「あなたは、こんな僕にも真っ直ぐ向き合って、答えを返してくれた。……あなたは、僕が思い描いていた通りの、優しい方です」
おどおどした様子だったトレーシーの瞳が、今は真っ直ぐに向けられている。
俺は花束を手に取って眺めた。
「綺麗な花だな。俺、花には詳しくなくて……」
トレーシーは、首を振った。
「名もなき花で、いさせてください」
「……そっか」
俺は納得して頷いた。
恋にもなりきれなかった名前のない想い。そういうものがあっても良いのだろう。
「あなたを好きになって良かった」
おまえを振った奴に、そんなふうに言ってくれるなんて。
おまえのほうが優しい男だよ、トレーシー。
駄菓子屋の扉を叩くと、勢いよく扉が開け放たれた。
「お役人が、性懲りも無くまた来たのかい。これでも喰らいな!」
バケツから放たれた水を、正面にいた俺は景気良くかぶった。
俺は頭からつま先までびしょ濡れ。
手に持った花束は、茎の中ほどからバッキバキである。
――なんか……ごめんな、トレーシー。