Dが出た
俺はとにかく逃げなければとひたすら走っていたが、頭の中はパニック状態だった。
落下するがれきの向こうに垣間見えた双眸が、頭から離れない。
黒光りしてうねる体、牙を向く口元、すべての恐怖を象徴するようなその姿。
「Dが! Dが出た……!」
恐怖のあまり口にするのも耐えられない。
ロイドがここにいたら、「ドラゴンをGみたいに言う人初めて見ました」と冷静に突っ込んでくれただろうか。それとも聞かなかったことにして流されたか。
「いやだ、怖い、Dが、Dが気持ち悪い!」
「口を動かす余裕があるなら、もっと足を動かせ!」
近くを走るマークに極めて正論な注意をされる。
「喋ってないと死にそうなんだよ!」
俺は弁解をし、マークに呆れられる。
迫りくる恐怖に足がすくみそうになるのを、口に出して発散することでなんとか耐えているのだ。
前を走る人たちの中に、メルの姿もある。
小回りのきく子供の小柄さを活かして、すっと角をまがった様子に、若干安堵する。大丈夫そうだ。
というか問題は俺だな。
やっぱり小柄な女の子の姿だと、走るのも遅い。
足の歩幅が違う。
心臓が限界を訴えるようにきりきりと胸が痛む。
息が苦しいし、足ががくがくする。
でも生きるために、とにかく走るしかない。
ドラゴンは中層でがれきに阻まれているのだろうか。
振動と、空気を切り裂くような鳴き声は、少しずつ遠ざかっていく。
時間にすると数十分だったのだろうが、ダンジョン内部の景色は単調で、終わりがないと錯覚しそうになる。力を抜いて走るわけにはいかないが、全力では途中で力尽きてしまう。だがあとどれくらいで地上に出るのかわからず、ペース配分もできない。とにかく足を前に進めるしかなかった。
ようやく入り口の光が見えてきたころには、もはや走っているとも言い難く、かろうじて立ち止まってはいない、といった有様だった。
マークが自分のペースを落としてまで付き添ってくれたが、彼もかなり疲弊していた。
俺たちの姿を見た仲間が走ってきて、最後は肩を借りて地上へと脱出した。
メンバーたちは入り口前の広場の中央に集まっていた。俺は人の輪の中まで入り、そこで倒れこんだ。
仰向けになると、薄雲の向こうから紫とオレンジをまだらに混ぜた光がぼんやりと差し込んでいる。
夜明けが近いのだろう。
俺はぜえはあと呼吸をくりかえし、ようやく落ち着いてきたところで上半身を起こした。
「全員いるか?」
メンバーの一人が点呼係を買って出て、初期のパーティーごとに固まるよう指示を出す。
博士の姿を確認して、俺は立ち上がった。
「ロイドはどうした?」
近づいてきたマークが尋ねる。
「ちょっと野暮用で先にダンジョンを出てる」
「そうか」
マークはほっとした顔をする。
「メル! メルはどこだ!」
シトリン博士の声にハッとし、俺は周囲を見回す。
まさか……まだダンジョンの中に?
そんな、俺より先を走ってたじゃないか。
まさか道を間違えた?
でも、メルだぞ。ダンジョンに詳しいあいつが、そんな簡単に迷うわけ……
『――それと知りつつ、左を選ぶものは、神により死の道を選ばされたのだと』
メルが解説してくれた言葉が脳裏によぎる。
そんな、そんなはずはない!
大きく大地が揺れた。
「博士、一旦ここから避難しますか」
「だがメルがまだ来ていない」
「モンスターはダンジョンの外では生きられないはずだ。ここから逃げる必要はないだろう」
それぞれが考えを述べる中、シトリン博士は、グッと唇を噛みしめ、そして宣言した。
「全員、町まで避難してくれ」
「博士!」
「メルを見殺しにはできません!」
博士はゆっくりと首を振る。
「俺は、ここにいる全員の命を預かっている。メルのことは俺の過ちだ。俺だけが責任を取ればいい。おまえたちは自分の命を優先してくれ」
全員、ここから離れたくないと思っていた。
だけどそうするしかなかった。
これ以上、博士に重荷を背負わせるわけにはいかない。
俺たちは順に丘を降りて行った。俺は、最後に振り返り、ダンジョンの入り口を見る。
先ほどの揺れで、入り口の石に亀裂が入ったように見える。石の破片がからりと落ちるのが見えた。
そのとき、入り口の暗がりから何かが動くのが見えた。
「メル!」
気付いた瞬間、シトリン博士が止めるまもなく、俺は走り出していた。
息も絶え絶えに外に出、倒れこむメルの体を支える。
「メル! 無事で良かった、メル……!」
「ノエル、さ……」
かすれた声で俺を見上げるメル。
俺は水筒をぶら下げていたことを思い出し、メルの口に運んだ。
こくり、と水を飲み干す音に、俺は安心感を覚えて脱力する。
だが次の瞬間、俺は恐怖に凍り付いた。
入り口の暗闇から覗く、暗く、赤い双眸。
爆発のような大きな音を立ててダンジョンの入り口は崩れ去り、吹き飛ぶ石の中央から夜の闇のような黒の巨体が飛び出す。
長い胴はずるずると上昇していき、気が付くと巨体は空に浮かび静止していた。
「ドラゴン――!」
驚きと恐怖に震える声で、誰かが言う。
冒険物語の挿絵のどのドラゴンより禍々しい、恐怖そのもののような姿。
「早く逃げろ!」
誰かが叫ぶが、俺は指先ひとつ動かすことができなかった。
誰かが駆け寄ろうとして、引き止められているのが視界の端に映った。
そうか、俺はここで死ぬんだな。と思った。
ごめんなメル。必死で走って、やっと外に出て来たのに。
鋭利な牙が無数に並ぶ口元から、炎がパチパチと音を立てている。
ドラゴンは火を吹くって言うけど、空気まで燃やすほどの高温なのか。
あの炎の勢いなら、痛みも感じず一瞬で死ねるだろうか。
赤い瞳が俺たちをを見下ろす。
口内の光が眩しいほどに強くなり、ドラゴンの口が大きく開く。
長い首が前へ突き出され、炎を吐き出すかと思われた瞬間。
「全銃兵、一斉射撃!」
号令と共に無数の光の玉がドラゴンに当たる。
ドラゴンは苦しげに身を捩らせ、一瞬動きを止めたが、勢いはまだ止まらない。
そのまま前傾姿勢になり、炎を吐き出す。
俺は目を閉じたが、予想した衝撃はやって来なかった。
代わりに何かが跳ね返るような、ガン、という音が聞こえた。
恐る恐る目を開くと、周囲はドラゴンの放った炎で真昼のように明るいのに、俺たちの周囲だけを炎が避けているようだった。
俺たちを庇うように、背を向けて立っている長身の男の姿があった。
その手には、男の身の丈ほどもあるかという大振りの剣が構えられている。
「お待たせしました、殿下。もう大丈夫です」
安心させるような、柔らかな声音が降りてくる。
聞き覚えのない声だった。




