無香料、無着色
からん、ころーん。ドアベルが出迎える。『珈琲館』という、なんの捻りもない名前をした喫茶店は、今日も閑散としていた。ましてや、私たちみたいな女子高生は一切寄り付かないから、オーナーはすっかり私たちの顔を覚えている。
「いらっしゃいませ」
「……どうも」
それっぽい蝶ネクタイをしたおじいちゃんオーナーの曖昧な会釈に、とりあえず返事をしつつ、店内を見渡した。
相変わらず、緑色をした汚れのこびりついた水槽を泳ぐ、おでぶな琉金。まばらに配置された観葉植物と、常連のサラリーマンがふかすタバコの煙。名前も知らないクラシック。
その中で、ゆるゆると手を振る彼女は目立っていた。
「ひぃちゃん、こっちこっちー」
緩くカールを巻いた髪と、えへら顔。ともすれば幼く見える彼女を、フェミニンなファッションが『ゆるふわ』とかいう印象に仕上げていて。私が一緒に考えた、彼女の勝負服だ。
あまりにキメキメの彼女に、一度自分の服装を見下ろしてしまう。着古したくたくたの黒パーカーは、もはや彼女の対局と言えるだろうが。
今更、気にしてもしょうがない。
パーカーのポケットから手を抜いて、しかし同じように手を振るのは小っ恥ずかしいから、短く手を上げるだけで応えた。彼女の対面に座る。
彼女は先に注文まで済ませていたようで、いつも通りの蜂蜜豆乳ラテ。私は普通のブレンドコーヒーを頼んだ。
「おまたせ、紬」
「ほんとにお待たせだね。いっつも遅刻なんてしないのに、めずらしぃ」
「はぁ。時計、見てないの?」
「とけい?」
出会って早々ご挨拶な紬に、私は自分の腕時計を指でコツコツ叩いて見せてやる。彼女は鏡みたいに私と同じ動きをして、それでようやく自分が腕時計をつけていたことに思い至ったようだ。
ファッションの邪魔をしない小ぶりな時計を、彼女は眉根を寄せて覗き込み。そしてはっと気づいた。
「まだ約束の時間じゃない……!」
「そ。だから私が遅いんじゃなくて」
「わたしが早いんだ!」
「そういうこと」
まるで世紀の大発見をした科学者か、あるいは初めて自分の名前を書けた幼稚園児か。ちょっとのことで大袈裟に驚く彼女を見ていると、同い年の幼馴染に抱く感情ではないと思っていても、微笑ましい。
そう、微笑ましいんだ。
今日は他でもない。彼女に最後の助言を送りに来たんだから。努力を重ねた結果、やっとこさ初デートにこぎつけた彼女を、送り出しに来たんだから。
「ほんと、浮かれすぎ。振られるよ?」
「えぇ、うそぉ? ひぃちゃんも言ってくれたでしょ、そういうところがわたしのイイトコだって」
こんなお気楽な彼女から恋愛相談を受けるなんて、実際に相談されるまで思ってもみなかったものの。
「限度」
「へ?」
「限度ってものがあるでしょ。世の中」
「……」
なかなかどうして、恋というのは人を変えてしまうらしい。
「ひぃちゃん、どうしよぉ! 急に不安になってきちゃったよー!」
がばっと、机越しに私の手に縋り付いてくる紬に、つい意地悪をしすぎてしまったと後悔する。例えば彼女は、ことあいつのことに関しては、くしゃみひとつで「はしたない女と思われたかも……」とぐちゃぐちゃ言い始めるのだ。
めそめそとする彼女を適当に宥めて、自分のコーヒーが運ばれてくるのを待つ。来た。そして善人面をして、彼女にその一杯を差し出す。ちょこんとした手でコーヒーカップを持ち上げて、すする紬。
「にがっ!」
すぐに、べっと舌を突き出した。
「これ、ブラックコーヒーぢゃん……」
「でも、落ち着いたでしょ」
「うん」
濡れた子犬のようにか細くなる彼女、情緒の乱高下にため息が漏れた。幼馴染というより、歳の離れた妹の相手をしている気分を、パーカーのポケットから手帳を取り出しながら感じて。その手帳を開きながら、それはそれでややこしい関係性になるな、とも思う。
「ほら、今日のデートの予習。今更だけど」
「うん。ごめんね、いつも」
「いいから」
ページを開けば、そこには私の書き綴った『彼』の情報が羅列されている。私がわざわざ調べ上げた、今は紬の彼氏である彼の。クラスメイトから聞いたり、あるいは彼がクラスで話しているのを立ち聞きしたりして知り得た、彼の好みや恋愛遍歴、趣味や誕生日。紬がめでたく彼と恋仲になれたのは、この手帳の力であるとは彼女の言葉。
この手帳にそこまでの力があったとは、とても信じられない。けれども彼女はそれを信じている。
何度も読み合わせてきたせいで毛羽立ち始めた手帳、私が読み上げて、彼女が真剣に頷く。目には段々と自信が戻る。
すでに内容を覚えてしまっていて、意味のある単語の一つ一つに意味を感じなくなっていた私は、なんだか魔法の呪文を唱えている気分になる。魔女がシンデレラにかけたような、素敵な魔法。
そして見事、お姫様が誕生する。
「うん、ありがと。行ける気がしてきた!」
「それはどうも」
小さくガッツポーズを作る彼女に、私はそっけなく手帳を閉じる。
「もう、ほんとに感謝してるんだよ? こんなに調べてくれるなんて、頼った私でも思わなかったんだから」
「偶然。なんか、あったの」
「そんなわけないじゃん。ねーえ、ほんとにありがとうって思ってるんだってぇ」
「わかった、わかったから」
紬は不満げにほおを膨らませた。その不満というのは、自分がせっかく感謝してあげたのにとか、そういうことではなくて、言葉にするのは難しいけれど、私を喜ばせられなかったことへの不満だ。
――別にこの子、飾らなくても可愛いのに。
そんな子があざとく振る舞ってしまうのはずるくて、ずるくした張本人が私。
「……もう、時間でしょ」
「え? あっ、ほんと!」
「嘘つくわけないでしょ」
時計を確認した紬は目を丸くして、ぱたぱたと慌ただしくなる。グロスをかけた爪先で、ちゃりちゃりと自分の分のコーヒー代を探しているから、後で返してくれればいいと伝える。
「何から何まで、ほんとにごめん!」
「いいから。行けば?」
「うん。いってきます!」
そして、木枯らしのようにひゅうっと駆け出していく。紬に一口飲ませて以来、ずっと彼女の手元で占領されていた私のコーヒーに口をつける。なんだか生暖かかった。冷めたブラックコーヒーは、苦みが味覚に直撃して苦手だから、代わりに彼女の飲み残した蜂蜜豆乳ラテに口をつける。ねっとりとした甘みが、無遠慮に口に残った苦みを流し去ってしまい。
「甘過ぎ」
やっぱりそれは、私の好きな味ではなかった。
うん、諦めよう。
携帯を取り出して、電話帳をスクロール。名前を一つ、手早く消した。この手帳も、彼女に譲ってしまった方がいい。私には必要ないんだから。
冷めたブラックコーヒーを啜る。比較してマシなその味にほっとする。
無着色、無香料。そんな、孤高の免罪符に。